やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

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前原美影の視点

第六話:一番怖い賭け

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教室を出た瞬間、私の世界は水の中に沈んだように音がこもっていた。

コツ、コツ、コツ。 廊下を歩く自分の足音が、やけに大きく響く。 背筋を伸ばし、顎を上げて歩く。これは、私のプライドだ。 「私は大丈夫」「私は私の言いたいことを言った」という、自分自身への暗示。

けれど、階段を降りきり、昇降口で靴を履き替えている最中に、指先が震えていることに気づいてしまった。 冷たい。 指先だけじゃない。膝が、笑っている。 心臓が、肋骨を内側から叩き割るような勢いで暴れている。

(……言っちゃった)

『私、瞬のこと、めっちゃ好きだよ』 『妬いてるに決まってるじゃん』

あんなに大声で。あんなに必死な顔で。 瞬くんの、あの呆気にとられた顔がフラッシュバックする。 彼は今頃、どう思っているだろう。 「重い女だ」と引いているだろうか。 それとも、「やっぱり面倒くさい」と、決定的な拒絶を感じているだろうか。

「美影!」

背後から、結衣が駆け寄ってくる足音がした。 彼女の顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと緩んだ。

「……結衣」

「もう! 置いてかないでよ!」

結衣は息を切らしながら、私の腕をぎゅっと掴んだ。その体温が、冷え切った私の身体に染み渡る。 彼女の目は、怒っていた。私を傷つけた瞬くんに対して、そして、何も言い返さずに去ろうとした私に対して。

「行こう。ここじゃ、話しにくい」

私は結衣の手を引いて、駅へと急いだ。 この学校の近くにはいたくなかった。もし今、瞬くんが追いかけてきたりしたら、あるいは、追いかけてこない現実を突きつけられたら、私が壊れてしまいそうだったから。

電車に乗り、隣町の駅で降りた。 駅前の小さな公園。 雨上がりの湿ったベンチに二人で座ると、夜の帳が下り始め、自動販売機の明かりだけが私たちを照らした。

「……美影、あんたバカなの?」

結衣が、耐えきれないように口を開いた。

「あんな言われ方して、なんで怒らないの? 『お前』とか、『馬鹿にしてる』とか……聞いてて、私の方が腸が煮えくり返ったわよ!」

「うん……そうだよね」

私は、缶コーヒーの温かさを両手で包み込みながら、小さく頷いた。

「怖かったよ。すごく」

本音が、ポロリとこぼれた。

「瞬くんのあんな顔、初めて見た。私のこと、本当に嫌いになっちゃったんじゃないかって思ったら、息ができなくなりそうだった」

「だったら!」 結衣の声が大きくなる。 「もっと怒ればよかったじゃん! 泣き叫んで、彼を責めればよかったじゃん! 美影は悪くないのに!」

親友の言葉は、私の心の柔らかい部分を守ろうとする鎧のようだった。 でもね、結衣。鎧を着てしまったら、相手の体温を感じることはできないんだよ。

「そうすることも、できたと思う」

私は、踏切の警報音が鳴り響く中、自分の心の中にある「答え」を、一つ一つ確認するように言葉にした。

「でもね。私が傷ついたからって、同じだけのナイフで彼を刺し返したら、もうそこからは『どっちがより相手を傷つけられるか』の殺し合いになっちゃう」

ゴオオオッ、と電車が通過していく。 その轟音が、私の声をかき消さないように、私は言葉に力を込めた。

「誰かが、その連鎖を止めなきゃいけないんだよ。たとえ、自分が少し損をしたとしても」

結衣は納得いかない顔をしている。 「美影だけが我慢するなんて、不公平だよ」

「我慢じゃないよ。これは、私のプライドなの」

私は、結衣の目をまっすぐに見た。

「彼の機嫌や言葉一つで、私の幸せが左右されるなんて、嫌なんだ。誰かに『幸せにしてもらう』んじゃなくて、私は私の足で立っていたい。その上で、もし彼が隣にいてくれるなら、一緒に笑いたい」

「彼が怒っていても、私は巻き込まれない。彼が不安でも、私は動じない。そういう強さを持っていたいんだよ。それは、彼のためじゃなくて、私が私を好きでいるための選択なの」

結衣は、しばらく黙って私を見つめていたけれど、やがて「……敵わないなぁ」と大きくため息をついた。

「もし、瞬くんが、その美影の覚悟をわかってくれなかったら?」

最後に、結衣は一番恐ろしい可能性を口にした。

「……そしたら」

私は、夜空を見上げた。雨上がりの空に、星が一つ、瞬いていた。

「すごく悲しいけど、仕方ないよ。彼と私は、違う道を選んだってことだから」

そう言った私の声は、震えていなかったと思う。 これは、賭けだ。 私のすべてを晒け出した、最初で最後の、大博打。 カードはもう切ってしまった。あとは、彼がどう出るかを待つだけだ。

帰宅してから、夜は永遠のように長く感じられた。 部屋の電気もつけず、椅子に座って窓の外を眺めていた。 スマートフォンは机の上に置いたまま。 通知音は鳴らない。

(やっぱり、ダメだったかな)

ネガティブな思考が、夜の闇に紛れて忍び寄ってくる。 あんな「聖人君子」みたいなことを言ったけれど、本当は不安で押しつぶされそうだ。 「面倒くさい女だ」と、ブロックされているかもしれない。 明日、学校で「別れよう」と言われるかもしれない。

それでも、私は自分から連絡しなかった。 今、彼に必要なのは、私の言葉じゃない。彼自身が、自分の心と向き合う時間だ。 ここで私が「ごめんね」と追いすがれば、元の木阿弥になってしまう。

時間を信じよう。 彼の中にある、あの不器用な優しさを信じよう。

カチ、カチ、と時計の針が進む。 9時。10時。11時。 世界が静まり返っていく。

もう、寝ようか。 そう思って立ち上がろうとした時だった。

ブブッ。

机の上のスマートフォンが、短く震えた。 心臓が、喉から飛び出しそうになる。 恐る恐る画面を見る。 通知欄に表示された名前は、「垣原瞬」。

震える指で、ロックを解除する。 トーク画面を開く。

『話、聞かせてくれて、ありがとう。俺も、もっと、前原のこと、知りたい』

たった、二行。 謝罪の言葉でも、言い訳でもない。 ただ、まっすぐな、彼の意思表示。

「知りたい」。

その言葉を見た瞬間、目から、熱いものが溢れ出した。 涙が、頬を伝ってポタポタと落ちる。 止まらなかった。

彼は、逃げなかった。 私のあの、重たくて、面倒くさい本音から、逃げなかった。 それどころか、もっと近づきたいと、手を伸ばしてくれた。

張り詰めていた気が抜けて、私は椅子に座り込んだまま、声を殺して泣いた。 嬉しかった。 ただひたすらに、嬉しかった。

賭けは、私の勝ちだ。 いや、私たちの勝ちだ。

私は涙を拭うと、震える指で返信を打った。 たくさんの言葉はいらない。 彼と同じ温度で、彼と同じ歩幅で。

『うん。私も、瞬くんのこと、もっと知りたい。ありがとう。』

送信ボタンを押す。 画面の中の「既読」の文字が、温かい光のように見えた。

窓の外では、月が雲の切れ間から顔を出していた。 明日になれば、また会える。 今度は、仮面なんてつけずに、本当の私と、本当の彼で。

「おやすみ、瞬くん」

私はスマートフォンを胸に抱きしめた。 その夜は、久しぶりに、何の夢も見ずに深く眠ることができた。
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