やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

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第十話:過去からの刺客

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六月の最後の週。


日本列島は、まるで巨大な蒸し風呂になったかのように、重く、湿った空気に支配されていた。


梅雨前線が、気まぐれに上下を繰り返し、朝から晴れていたかと思えば、午後には、バケツをひっくり返したような激しい雨が、すべてを洗い流していく。



そんな、落ち着かない天気が続いていた。



垣原瞬の心は、しかし、その鬱陶しい空模様とは裏腹に、驚くほど、晴れやかだった。



風邪を引いたあの日以来、彼と美影の関係は、目に見えて変わった。



以前の、お互いの腹を探り合うような、チリチリとした緊張感は、もうどこにもない。


二人の間には、雨上がりの、澄んだ空気のような、穏やかで、そして、心地よい沈黙が流れるようになった。



「うわ、また降ってきた」



その日も、放課後、昇降口を出た途端に、大粒の雨が降り始めた。


瞬と美影は、顔を見合わせて苦笑すると、瞬が持っていた一本の折り畳み傘の中に、二人で肩を寄せ合って入った。



ビニールの傘を、ざあざあと雨粒が叩く。



その音は、まるで、二人だけの小さな世界を守る、結界のようだった。



「この時期の天気予報って、本当にあてにならないよね」



美影が、傘の縁から空を見上げながら、楽しそうに言う。



「まあな。でも、悪くねえかも。こうしてるのも」



瞬は、自分の肩と、美影の肩が、触れ合うか触れ合わないかの、絶妙な距離にあるのを感じていた。



彼女のシャンプーの、清潔な香りが、雨の匂いに混じって、ふわりと鼻先をくすぐる。



以前の彼なら、この状況を、どうにかして「恋愛ゲーム」のポイントにしようと、頭を巡らせていただろう。



だが、今の彼は、ただ、この瞬間が、どうしようもなく、愛おしいと感じていた。



濡れたアスファルトに、街のネオンが、絵の具を溶かしたように、滲んで反射している。



その、ぼんやりとした光の中を、二人は、一つの傘の下で、ゆっくりと歩いていく。



会話は、途切れがちだったが、その沈黙は、少しも、気まずくなかった。



彼らは、学び始めていた。



言葉を尽くさなくても、ただ、隣にいて、同じ雨の音を聞き、同じ風景を眺めるだけで、十分に、心は満たされるのだということを。



それは、瞬が今まで追い求めてきた、刹那的で、刺激的な「恋」とは、全く違うものだった。



それは、日々の暮らしの中に、静かに、そして、深く根を張っていく、「愛」という名の、温かい苗床だった。



その、翌々日の土曜日。



梅雨の中休みで、久しぶりに、空が、蒸し暑いほどの陽光を取り戻していた。



渋谷のスクランブル交差点は、まるで、巨大な蟻の巣のように、無数の人々でごった返している。



大型ビジョンからは、やかましいほどのJ-POPが流れ、様々な店の呼び込みの声、人々の笑い声、そして、絶え間なく行き交う車の騒音が、一つの巨大な混沌となって、空気に渦巻いていた。



早乙女里奈は、その混沌の中心で、少しだけ、うんざりしていた。



「ねえ、里奈!こっちの服、超可愛くない?」



「さっきのカフェも良かったけど、次はあそこのパンケーキ屋さん行かない?」



友人たちの、甲高い声が、熱気の中で、少しだけ、遠くに聞こえる。



里奈は、笑っていた。


友人たちに合わせて、流行りの服を眺め、タピオカドリンクを飲み、他愛のない噂話に、相槌を打っていた。


彼女は、必死で、「普通の女の子」を演じていたのだ。



瞬と別れて、もう、二ヶ月以上が経つ。



いつまでも、引きずっているわけにはいかない。



新しい恋を探すべきなのかもしれない。



友人たちは、そう言って、彼女を励ましてくれた。



だが、彼女の心の奥底には、まだ、あの日の痛みが、棘のように、深く突き刺さったままだった。



(忘れなきゃ。もう、終わったことなんだから)



自分に、そう、言い聞かせる。



友人たちが、向かいのファッションビルに入っていくのを、彼女は、ぼんやりと目で追っていた。



その時だった。



雑踏の中に、見慣れた、そして、二度と見たくなかったはずの、後ろ姿を見つけた。



すらりとした、長身。


少しだけ、猫背気味の歩き方。



間違いない。垣原瞬だ。



心臓が、どきり、と、嫌な音を立てた。



血の気が、さっと引いていく。


身体が、固まった。


彼の隣には、一人の女の子がいた。


里奈の知らない、しかし、遠目にも、太陽のように明るい雰囲気をまとった、可愛らしい女の子。



前原美影。


瞬が、自分と別れて、すぐに付き合い始めたという、噂の彼女。



(……まだ、続いてたんだ)



里奈は、息を呑んだ。



彼女の友人たちが、囁き合っている。



「あれ、瞬先輩じゃない?」


「隣の子、彼女かな」


「なんか、お似合いじゃん」



その、何気ない言葉の一つ一つが、鋭いナイフとなって、里奈の心を切り刻んでいく。


彼女は、見たくないのに、目を逸らすことができなかった。



瞬と、美影。



二人は、楽しそうに、何かを話している。


瞬が、何か冗談を言ったのだろう。



美影が、大きな口を開けて笑った。



その笑顔を見て、瞬は、ひどく、優しい顔で、笑い返した。



そして、彼は、ごく自然な仕草で、美影の頬に触れ、風で乱れた一筋の髪を、そっと、耳にかけてやったのだ。


その瞬間、里奈の世界から、音が消えた。



渋谷の喧騒も、友人たちの声も、すべてが、遠ざかっていく。



目の前の光景だけが、スローモーションのように、彼女の網膜に焼き付いて離れない。



(……なんで)



喉の奥から、声にならない声が、こみ上げてくる。



あの、優しい仕草。



あの、慈しむような、眼差し。



それは、里奈が、喉から手が出るほど欲しくて、けれど、ついに、一度も、与えてもらえなかったものだった。



――突然、記憶の扉が、乱暴に蹴破られた。



フラッシュバックする。



あの日の、放課後の教室。



冷たい、夕暮れの光。


埃っぽい、空気の匂い。



『なんで…?なんでなの、瞬くん…?』



泣きじゃくりながら、問い詰める自分。



『私のことなんて、どうでもいいんでしょ!』



その、必死の叫びに対して、彼は、ただ、気まずそうに、目を逸らすだけだった。



その瞳には、憐れみと、そして、はっきりとした、面倒くさそうな色が浮かんでいた。



彼は、最後まで、彼女が納得できるような、たった一言の理由すら、与えてはくれなかったのだ。



まるで、道端に落ちている石ころを、ただ、跨いで通り過ぎていくかのように。



彼女との関係は、彼にとって、その程度の価値しか、なかったのだ。



――はっ、と我に返る。



里奈は、渋谷の雑踏の真ん中に、一人、立ち尽くしていた。



友人たちが、「里奈?どうしたの?」と、心配そうに顔を覗き込んでいる。



「……ううん、なんでもない。ちょっと、人混みに酔っただけ」



彼女は、無理やり、笑顔を作った。



目の前では、瞬と美影が、仲睦まじく、横断歩道を渡っていく。


その背中は、誰が見ても、幸せな恋人、そのものだった。



熱い何かが、胸の奥から、せり上がってきた。



それは、悲しみではなかった。



もっと、黒くて、どろりとしていて、そして、焼けるように熱い感情。



『不公平だ』



なぜ、私では、ダメだったのか。



なぜ、あの女は、彼の、あの、優しい笑顔を引き出すことができるのか。



私が、あれほどまでに求めて、手に入れられなかったものを、なぜ、いとも容易く、手に入れているのか。



「ごめん、私、先に帰る」



里奈は、友人たちの制止も聞かず、その場から逃げるように走り出した。



人波をかき分け、駅へと向かう。



ショーウィンドウに映る、自分の顔は、涙と、嫉妬と、惨めさで、醜く歪んでいた。



周りの、幸せそうなカップルたちの笑い声が、すべて、自分への当てつけのように聞こえる。



彼女は、自分の部屋にたどり着くと、鍵をかけ、ベッドの中に潜り込んだ。



もう、何も考えたくなかった。



だが、脳裏には、先ほどの光景が、何度も、何度も、繰り返し再生される。



瞬の、優しい笑顔。



美影の、幸せそうな横顔。



そして、それに比べて、なんと、自分は、惨めなのだろう。



違う。



悪いのは、私じゃない。


私を、あんな風に、冷たく捨てた、あの男が悪いんだ。



そして、そんな男と、何も知らずに、ヘラヘラ笑っている、あの女が、憎い。



暗い部屋の中、里奈は、スマートフォンの明かりを頼りに、ある人物の連絡先を探し出した。



前原美影。



共通の友人を通して、その名前は、知っていた。



彼女は、震える指で、メッセージアプリの、その名前を、じっと、見つめていた。



心の奥で、黒い嵐が、確実に、その勢力を増していく。



あの二人が、ただ、幸せでいることなんて、絶対に、許さない。



許せるはずが、ない。



その瞳は、もう、悲劇のヒロインのものではなかった。



それは、静かな復讐を誓う、傷ついた獣の、暗い光を宿していた。



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