やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

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第十二話:僕が選んだ人

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垣原瞬の問いかけは、夕暮れの、静まり返った昇降口に、吸い込まれていった。

『何を、言われたんだ?』

その声は、自分でも驚くほど、静かで、そして、重かった。

彼の目の前で、前原美影の背中が、ほんのわずかに、震えた。

彼女は、ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、こちらに振り返った。

その顔に浮かんでいたのは、瞬が予想していたような、悲しみや、怒りの表情ではなかった。

それは、いつもと、ほとんど変わらない、穏やかな微笑みだった。

だが、その笑顔は、まるで、薄いガラス一枚を隔てて見ているかのように、どこか、現実感がない。

その瞳の奥には、瞬だけがわかる、ほんの僅かな、色の揺らぎがあった。

「早乙女さん?ううん、なんでもないよ。ちょっと、世間話してただけ」

美影は、そう言って、ことさらに明るい声で笑った。

「それより、忘れ物、見つかった?もう、暗くなっちゃうから、早く帰ろ!」

彼女は、瞬の腕を、軽く、ぽん、と叩いて、話題を変えようとする。

その仕草は、あまりにも、自然で、そして、あまりにも、不自然だった。

かつての瞬なら、その言葉に、安堵していただろう。

「面倒なこと」に巻き込まれずに済んだ、と。

そして、彼女の嘘に、気づかないふりをして、この場をやり過ごしたに違いない。

だが、今の彼は、違う。

彼は、見てしまったのだ。

里奈が去っていく時の、憎悪に満ちた表情を。

そして、その後に残された、美影の、一瞬の、しかし、確かな、心の揺らぎを。

彼女は、嘘をついている。

俺に、心配をかけないために。

俺たちの、この、ようやく手に入れた穏やかな関係に、波風を立てないために。

彼女は、一人で、何かを、抱え込もうとしている。

「……そっか」

瞬は、それだけを言うと、黙って、彼女の隣に並んで歩き始めた。

美影は、ほっとしたように、学校とは全く関係のない、テレビドラマの話や、新しく出たお菓子の話を、楽しそうにし始めた。

瞬は、それに、短い相槌を打ちながら、ただ、黙って、アスファルトを踏みしめていた。

帰り道の風景は、いつもと同じはずなのに、全く違って見えた。

夕焼けは、その最後の光を振り絞るかのように、空を、燃えるようなオレンジ色と、深い紫色に染め上げている。

電線に止まった数羽の烏が、シルエットになって、その劇的な空を背景に、静かに佇んでいた。

道端の家の窓からは、夕食の支度をする匂いが漂ってくる。

味噌汁の、香ばしい匂い。

魚を焼く、匂い。

その、ありふれた、平和な日常の風景が、今の瞬の心には、どこか、遠い世界の出来事のように感じられた。

美影は、喋り続けている。

その声は、いつもと同じように、明るく、弾んでいる。

だが、瞬には、わかった。

彼女は、沈黙が怖いのだ。

もし、会話が途切れてしまったら、自分が、さっきの出来事について、再び問い詰めてくるのを、恐れているのだ。

その、健気なまでの、気遣い。

それが、瞬の胸を、ナイフのように、鋭く、そして、甘く、切り裂いた。

駅の改札で、二人は、いつものように、別れた。

「じゃあ、また明日ね!」

美影は、最後まで、完璧な笑顔を、瞬に向けた。

瞬は、その笑顔に、ただ、黙って、頷き返すことしかできなかった。

一人、自宅への道を歩きながら、瞬の頭の中は、先ほどの光景で、いっぱいだった。

里奈の、あの、憎しみに満ちた目。

美影の、あの、ガラス細工のような、儚い笑顔。

里奈が、美影に、何を言ったのか。

想像するのは、たやすい。

自分のことだ。

自分が、過去に、どれだけ、里奈を、無神経に、そして、残酷に、傷つけたか。その、すべてを、里奈は、美影に、ぶつけたに違いない。

(俺の、せいだ)

自分の過去の過ちが、時を経て、今、巡り巡って、一番、大切にしたいと思っている人間を、傷つけている。

その事実が、重い、鉛の塊となって、瞬の胃の腑に、沈み込んでいく。

自宅にたどり着き、鍵を開け、静まり返った部屋に入る。

瞬は、鞄を床に放り出すと、そのまま、窓辺に立ち尽くした。

外では、もう、すっかり、夜の帳が下りている。

遠くのビル群の明かりが、まるで、地上にばらまかれた、無数の星のように、きらめいていた。

美影は、なぜ、本当のことを言わなかったのか。

彼女の哲学を、瞬は、思い出していた。

『私が傷ついたからって、そのナイフで、瞬くんを傷つけ返したら、もう、そこからは、ただの殺し合いだよ』

『誰かが、その連鎖を、断ち切らなくちゃいけない』

そうだ。

彼女は、それを、実践したのだ。

里奈から向けられた、悪意という名のナイフを、ただ、その身に、黙って、受け止めた。

そして、その痛みを、俺には、見せまいとした。

この、穏やかな関係を、守るために。

(……なんて、馬鹿な奴だ)

瞬は、心の中で、そう、呟いた。

そして、すぐに、思い直す。

違う。

馬鹿なのは、俺の方だ。

彼女の哲学は、彼女が、どう、世界と向き合うか、という話だ。

俺が、その優しさに、ただ、甘えて、何もしないでいることとは、違う。

原因は、俺にある。

俺が、里奈との関係に、誠実に向き合わず、彼女を、深く傷つけたまま、逃げ出したこと。

その、俺の「過去」が、今、亡霊となって、美影を苦しめている。

だとしたら。

この、亡霊を、葬り去るべきなのは、他の誰でもない。

俺自身だ。

彼女の哲学を、本当に尊重するというのなら。

俺は、彼女が、一人で、その痛みを抱え込むのを、ただ、黙って見ているべきではない。

俺が、盾になるべきだ。

俺が、過去の自分と、対峙し、そして、すべての責任を、引き受けるべきなのだ。

それは、もはや、恋の駆け引きでも、ゲームでもない。

一人の人間としての、そして、前原美影という、かけがえのないパートナーとしての、自分の、果たすべき「責任」だった。

瞬の心の中で、何かが、カチリ、と音を立てて、定位置に収まったような気がした。

翌日。

学校に着くと、瞬は、大輝を捕まえて、単刀直入に聞いた。

「里奈のクラス、どこだ?」

「は?早乙女?どうしたんだよ、急に」

「いいから、教えろ」

その、静かだが、有無を言わせぬ迫力に、大輝は、一瞬、たじろいだ。

「……二年の、C組だけど。おい、瞬、まさか、お前……」

「これは、俺の問題なんだ。俺が、ケリをつける」

大輝の、心配そうな視線を背中に受けながら、瞬は、二年生の校舎へと向かった。

C組の教室を、廊下から、そっと、覗き込む。

里奈は、いた。

友人たちと、楽しそうに、笑っている。

その笑顔を見た瞬間、瞬の胸に、ちくり、と痛みが走った。

あの笑顔を、俺は、奪ってしまったのだ。

昼休み。

瞬は、C組の教室の前で、里奈が出てくるのを、待った。

やがて、友人たちと連れ立って出てきた里奈は、瞬の姿を認めると、さっと、顔をこわばらせた。

「……何よ」

吐き捨てるような、低い声。

「ちょっと、話がある」

「話なんかないわよ。あんたとなんか」

「頼む」

瞬は、深く、頭を下げた。

その、予想外の行動に、里奈と、彼女の友人たちが、息を呑む。

場所は、校舎裏の、あまり、人が来ない場所を選んだ。

古い体育倉庫の壁に、もたれかかるようにして、里奈は、腕を組み、敵意に満ちた目で、瞬を睨みつけている。

「で?何の用?彼女に、何か言われたわけ?私が、あんたの悪口言ってた、って、泣きつかれた?」

その言葉は、棘だらけだった。

だが、瞬は、もう、揺らがなかった。

「……里奈」

彼は、まっすぐに、彼女の目を見た。

「昨日、前原に、何か言ったみたいだな」

「だから、何よ。事実を教えてあげただけじゃない」

「そのことについて、文句を言いに来たんじゃない」

「……は?」

「俺が、今日、ここに来たのは、お前に、謝るためだ」

その言葉に、里奈の瞳が、わずかに、揺れた。

「俺は、お前に対して、最低なことをした。お前が、本気で俺を好きでいてくれたのに、その気持ちから、ただ、逃げた。面倒くさいって、そう思った。向き合うことから、逃げたんだ。お前が、泣いて、理由を聞いてきた時も、俺は、何も答えなかった。……いや、答えられなかった。自分が、どれだけ、身勝手で、子供だったか、それを、認めるのが、怖かったんだ」

一言、一言、確かめるように、彼は、言葉を紡いでいく。

「お前が、俺に、怒りを感じるのは、当たり前だ。お前は、悪くない。悪いのは、全面的に、俺だ。本当に、ごめん」

彼は、再び、深く、深く、頭を下げた。

里奈は、何も言えなかった。

ただ、呆然と、目の前で頭を下げる、かつての恋人を見つめていた。

彼女が、ずっと、ずっと、欲しかった言葉。

謝罪。

そして、彼が、自分の非を認めるという、その事実。

それが、今、彼女の目の前に、差し出されている。

その事実に、彼女の心は、激しく、揺さぶられていた。

「だから、頼む」

瞬は、顔を上げた。その目には、真摯な、光が宿っていた。

「お前のその怒りは、全部、俺にぶつけてくれ。いくらでも、受ける。でも、前原は……彼女は、関係ないんだ。俺が、勝手に、過去から、逃げ続けてきたせいだ。だから、彼女を、巻き込まないでやってくれ。頼む」

それは、恋人としての、独占欲からくる言葉ではなかった。

それは、一人の人間が、自分の過ちの責任を取り、そして、大切な人の、心の平穏を、守ろうとする、決意の言葉だった。

里奈は、唇を、きつく、噛み締めていた。

彼女の瞳が、みるみるうちに、潤んでいく。

だが、それは、もはや、憎しみの涙では、なかった。

瞬は、自分が、ようやく、一歩、前に、進めたような気がした。

過去の亡霊と、対峙し、そして、愛する人を、守るための、最初の一歩を。

その一歩が、これから、どんな未来に繋がっていくのか、彼には、まだ、わからなかった。
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