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第十四話:解ける糸、繋がる手
しおりを挟む垣原瞬が、夕闇に沈む河川敷を後にしてから、数日が過ぎた。
あの夜、彼が自分の部屋のベッドで見た夢は、不思議と、何の音もない、静かな夢だった。
ただ、どこまでも続く、穏やかな川の流れを、岸辺から、ずっと眺めている。そんな、夢だった。
翌朝、彼が目覚めた時、心の中にあった、長年、澱のように溜まっていた重たい何かが、綺麗に洗い流されているのを感じた。
それは、悲しみでも、喜びでもない。
ただ、ひたすらに、静かで、澄み切った、湖面のような、心の平穏だった。
美影に、里奈との出来事を、すぐに話すことはできなかった。
何を、どう、伝えればいいのか、わからなかったからだ。
それは、自慢げに報告するようなことでは、決してない。
ただ、自分の、あまりにも身勝手な過去の清算を、ようやく、終えることができた、というだけの話だ。
美影もまた、何も、聞いてはこなかった。
彼女は、瞬の心の中で、大きな何かが、終わり、そして、始まったのを、その、聡明な瞳で、静かに、見抜いているかのようだった。
二人の間には、言葉にならない、しかし、確かな信頼が、流れていた。瞬が、自分の口から、話してくれるのを、彼女は、ただ、待っている。
その、無言の信頼が、瞬には、何よりも、ありがたかった。
季節は、七月の中旬へと、歩を進めていた。
長く、鬱陶しかった梅雨は、ようやく、その終わりを告げた。
空は、まるで、今まで溜め込んでいた青を、一気に解放するかのように、どこまでも、高く、そして、鮮やかに、晴れ渡った。
世界は、音と、光と、生命力に、満ち溢れていた。
朝、窓を開ければ、ジリジリ、ジリジリ、と、蝉の大合唱が、鼓膜を揺らす。校庭の木々の葉は、真夏の強い日差しを浴びて、その緑を、燃えるような、深い色合いに変えていた。
教室の窓から見える、遠くのグラウンドでは、陽炎が、蜃気楼のように、ゆらゆらと、揺らめいている。
瞬と美影の日常もまた、その、夏の風景のように、輝きを増していた。
昼休みには、屋上の日陰で、二人で、ぬるくなったお茶を飲む。
放課後には、駅前の店で、安っぽいアイスを分け合って食べる。他愛のない会話。
意味のない、笑い声。
その、一つ一つが、以前とは、全く、違う意味を持っていた。
それは、もはや、「恋の駆け引き」ではなかった。
それは、ただ、二人の人間が、同じ時間を、共有し、そして、その、何でもない一瞬一瞬を、心から、慈しむ、という行為だった。
瞬は、その、穏やかな幸福に、深く、深く、満たされていた。
変化は、別の場所にも、訪れていた。
その日、瞬は、昼休みに、大輝と、中庭のベンチで、だらだらと、時間を潰していた。
じりじりと、肌を焼くような日差し。むわり、とした、草いきれの匂い。
その時、ふと、視線の先に、見慣れた人影を見つけた。
早乙女里奈だった。
彼女は、友人たちと、木陰で、弁当を広げていた。
瞬は、思わず、息を呑んだ。
彼女は、笑っていた。
以前のような、プライドの高い、どこか、人を寄せ付けないような笑顔ではない。
肩の力が抜けた、自然で、そして、とても、柔らかな笑顔だった。
長く伸ばしていた髪を、ばっさりと、ショートカットにしている。
そのせいか、彼女の横顔は、以前よりも、ずっと、大人びて、そして、すっきりとして見えた。
「……なんか、吹っ切れたみたいだな」
隣で、大輝が、ぽつり、と呟いた。
「ああ……」
瞬は、頷いた。
胸の奥に、温かい、何かが、じんわりと、広がっていく。
それは、安堵であり、そして、彼女の、新しい一歩に対する、心からの、祝福の気持ちだった。
かつての自分なら、決して、抱くことのなかったであろう、その、清々しい感情に、瞬は、自分自身の、小さな、しかし、確かな、変化を感じていた。
その日の放課後。
瞬は、美影と、二人で、図書室の、一番奥の席に座っていた。
夏の、強い西日が、高い窓から、光の帯となって、床に落ちている。
その光の中で、古い紙の匂いをさせた、埃が、静かに、きらきらと、舞っていた。
しん、と静まり返った、図書室。
時折、誰かが、ページをめくる、乾いた音だけが、響いている。
「美影」
瞬は、意を決して、切り出した。
「ん?」
美影は、読んでいた文庫本から、顔を上げた。
「この間、里奈と、会って、話した」
その言葉に、美影の瞳が、わずかに、見開かれた。
彼女は、何も言わずに、ただ、静かに、瞬の次の言葉を待っている。
瞬は、あの日の、夕暮れの河川敷での出来事を、一から、すべて、話した。
自分の、過去の、未熟さ。里奈の、涙。
そして、自分が、彼女に、何を語ったのか。
それは、自分の、最も、醜い部分を、さらけ出す、告白だった。
だが、もう、彼に、恐れはなかった。
この、目の前の、信頼するパートナーに、自分の、すべてを、知っておいて、ほしかったのだ。
長い、長い、話が終わった時。
美影は、しばらく、何も言わずに、瞬の目を、じっと、見つめていた。
その瞳は、夕暮れの光を吸い込んで、どこまでも、深く、そして、優しかった。
やがて、彼女は、そっと、瞬の手の上に、自分の手を、重ねた。
「……すごいね、瞬くん」
その声は、震えていた。
喜びと、そして、感動で。
「自分の、過去の、一番、痛いところと、向き合うのって、世界で、一番、勇気がいることだよ。あなたは、逃げなかった。ちゃんと、自分の足で、立って、自分の問題に、ケリをつけた。私……本当に、すごいって、思う。……尊敬、するよ」
尊敬。
その言葉が、瞬の心の、一番、柔らかい場所に、温かく、そして、深く、染み渡っていった。
それは、彼が、人生で、誰かから、受け取った、最高の、賛辞だった。
「俺が、変われたのは、美影が、いたからだ」
「ううん」
美影は、首を、横に振った。
「変わったのは、瞬くん自身の、力だよ。私は、ただ、隣にいただけ。信じて、見ていただけだよ」
その、どこまでも、謙虚な言葉。
瞬は、もう、たまらなくなって、彼女の、その、重ねられた手を、強く、握りしめた。
「なあ、美影」
「うん」
「夏休み、もうすぐだな」
「そうだね」
「どっか、行くか」
「うん、行きたい」
「……どこでもいい」
瞬は、言った。
「お前と一緒なら、どこでもいい。ただ、こうして、隣に、座ってるだけでも、俺は、今、すげえ、幸せだ」
その言葉に、美影は、もう、何も言わなかった。
ただ、今までで、一番、美しい、花が咲くような笑顔で、こくり、と、頷いた。
図書室の、高い窓の外では、空が、燃えるような、オレンジ色に染まり始めている。
遠くから、練習を終えた、運動部の、賑やかな声が、聞こえてくる。
蝉の声が、まるで、この、世界の、終わりと、始まりを、祝福するかのように、高らかに、鳴り響いていた。
二人は、もう、何も話さなかった。
ただ、繋いだ手の、温もりだけを、確かめるように、そこに、座っていた。
彼らの、本当の物語は、今、まさに、この、夏の日の、夕暮れの中から、静かに、始まろうとしていた。
それは、激しい恋の物語ではない。
穏やかで、そして、どこまでも、続いていく、愛の物語だ。
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