「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第二部:陰謀の影と覚醒の兆し

第19話:色欲の王、アスモデウスの誘惑

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パイモンが古書のページをめくり、呪文の最後の一節を詠唱し終えた、その瞬間。
駄菓子屋の四畳半の風景が、まるで水面に落としたインクのように滲み、歪んだ。次の瞬間、むせ返るような熱気と、けたたましい電子音、そして無数の人々の欲望が発するむわっとした匂いが、一行の五感を乱暴に殴りつけた。

彼らが降り立ったのは、真夜中の砂漠の 한복판 に、蜃気楼のように浮かび上がる巨大な不夜城だった。地平線の果てまで続く闇を背景に、けばけばしいネオンサインが天を焦がさんばかりに明滅し、その光はまるで、この世の全ての蛾を集めて燃やし尽くそうとしているかのようだった。

「ケッ、悪趣味なこった。こんなギラギラした場所は、どうも性に合わねぇ」

珠は、老婆の姿で長いキセルをふかしながら、心底うんざりしたように悪態をついた。彼女の妖怪としての鋭敏な感覚が、この場所に渦巻く、剥き出しの欲望の濁流に不快感を示している。

「同感だね。欲望の表現があまりに直接的で、美学のカケラもない。まるで成金の宝石箱をひっくり返したような、品性のない光景だ」

パイモンも、シルクハットのつばを指で弾きながら、その眉をひそめた。
そんな二人とは対照的に、海斗とマナは、その圧倒的な光景にただただ口を開けて立ち尽くしていた。アニメや映画でしか見たことのない、現実離れした光の洪水。それは、恐怖を通り越して、もはや一種の荘厳ささえ感じさせた。

都市の中心には、天を突くように、歪んだガラスと悪趣味な黄金の装飾で覆われた、巨大なタワーが聳え立っている。その頂上には、悪魔の尻尾が生えた巨大なハートマークのネオンが、心臓のようにどくどくと明滅していた。

あれこそが、七つの大罪が一柱、『色欲』を司る悪魔王アスモデウスの本拠地、「ホテル・インフェルノ」。

「さて、と。正面から『グリゴリの遺産を寄越しなさい』と乗り込んでも、あの悪食な王が素直に応じるとは思えない。ここは客を装って、スマートに潜入するとしようじゃないか」

パイモンはそう言うと、一行を人気のない裏路地へと導いた。そして、何もない壁に向かってステッキを振るうと、そこに豪奢な装飾の扉が出現する。

「まずは、この俗悪な場所にふさわしい装いへと、ドレスアップと行こう」

***

扉の先は、高級ブランドのブティックを思わせる、静かで洗練された空間だった。どうやらパイモンが幻術で作り出した、仮初めの更衣室らしい。

「僕はこれでいいとして……」と、パイモンは自分の完璧な仕立てのスーツの埃を払うだけ。「あたしは、この婆さんの姿の方が、かえって怪しまれないだろうさ」と、珠は壁際で煙草をふかし始める。結果として、着替えが必要なのは、海斗とマナだけだった。

海斗は、パイモンが差し出したタキシードを前に、悪戦苦闘していた。慣れないカマーバンドの巻き方に戸惑い、蝶ネクタイは何度結んでも曲がってしまう。

「やれやれ、これだから人間の雄は。衣服一つまともに着られないとは。そんなことでは、いざという時に愛する雌のドレスの紐も解いてやれないぞ?」

「う、うるさい! ほっといてくれ!」

パイモンのからかいに顔を真っ赤にしながら、海斗がなんとか鏡の前に立った時、更衣室のカーテンが、そっと開いた。

「……海斗。これで、大丈夫かな?」

そこに立っていたのは、マナだった。
彼女が身に纏っていたのは、夜の海の色をそのまま写し取ったかのような、深い青色のシルクのドレス。装飾はほとんどなく、ただ彼女のしなやかな体の線を美しく見せる、シンプルなデザイン。だが、その上質な生地は、彼女が動くたびに、まるで月明かりを反射する水面のように、柔らかな光を放った。いつもの純白のワンピースとは違う、少し大人びたその姿に、海斗は言葉を失った。

「すげえ……」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「似合ってる。すごく……綺麗だ」

そのストレートな言葉に、マナの頬が、ぽっと赤く染まる。

「海斗も……すごく、かっこいいよ」

タキシード姿で、髪を少しだけ整えた海斗は、いつもの冴えない大学生の雰囲気とは別人のように見えた。鏡に映る、少しだけ不釣り合いな二人の姿。海斗とマナは、お互いの顔を見合わせると、照れくさそうに笑った。

「なんだか、おとぎ話に出てくる、舞踏会みたいだね」

マナが、嬉しそうに呟いた。
その束の間の、甘く穏やかな時間は、しかし、これから始まる悪魔との危険な駆け引きの、ほんの序曲に過ぎなかった。

***

「ホテル・インフェルノ」の内部は、外観の悪趣味さをさらに煮詰めたような、狂乱の空間だった。
カジノフロアには、金貨が吐き出される甲高いスロットマシンの音、ルーレット盤の上を玉が駆け巡る乾いた音、そして人々の歓声と悲鳴が、巨大な不協和音となって渦巻いている。空気には、高級な香水と、安物のアルコールと、そして人々の汗と欲望が発する、むせ返るような匂いが満ちていた。

一行は、その喧騒を抜けて、従業員専用のエレベーターを使い、ホテルの最上階にある完全会員制のVIPラウンジ「エデン」へとたどり着いた。

フロアの狂乱が嘘のような、静かで、退廃的な空気がそこには流れていた。厚い絨毯が全ての音を吸い込み、壁には堕落をテーマにした、官能的で、どこか冒涜的な絵画が飾られている。

そして、その部屋の最も奥。街の夜景を一望できる巨大な窓を背に、彼はいた。
玉座のような深紅のソファに、気だるげに身を預ける一人の青年。その姿は、海斗が想像していたような、筋骨隆々の恐ろしい怪物などではなかった。滑らかなシルクのシャツを、胸元を大きくはだけさせて着こなし、その白い肌は月光のように妖しく輝いている。長く、しなやかな指が、琥珀色の液体が入ったグラスを弄んでいる。

中性的で、この世のものとは思えぬほどに整った顔立ち。だが、その切れ長の瞳の奥には、全てを見透かし、全てを嘲笑うかのような、底知れない愉悦の色が浮かんでいた。彼こそが、色欲の王、アスモデウス。

「やあ、いらっしゃい」

彼の声は、蜂蜜のように甘く、しかし、聴く者の背筋をぞくりと震わせるような、不思議な響きを持っていた。

「噂の女神様と、そのお供の皆さん。君たちが来ることは、人間の欲望の匂いで、とうの昔に分かっていたよ」

パイモンが一歩前に出て、単刀直入に用件を切り出した。

「話は早い。グリゴリの遺産を渡してもらおうか、アスモデウス。我々は、君の遊戯に付き合っている暇はない」

その言葉に、アスモデウスは、心底楽しそうに喉を鳴らして笑った。その笑い声だけで、部屋の空気が蠱惑的に震える。

「ああ、あの綺麗な石のことかい? もちろん、いいとも。だが、タダじゃつまらないだろう? こうしよう」

彼は、その妖しい視線を、パイモンからマナへと移した。まるで、極上の獲物を品定めするかのように、頭のてっぺんから爪先まで、じろりと舐め回す。

「そこの美しい女神様が、僕と一夜を共に過ごしてくれるなら、ただであげてしまってもいい」

その言葉が発せられた瞬間、海斗の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。

「――ふざけるなッ!」

理性が吹き飛ぶ。海斗は、我を忘れてアスモデウスに掴みかかろうとした。しかし、その身体は、パイモンが素早く差し出したステッキによって、ぴたりと制止させられる。

アスモデウスは、そんな海斗の剥き出しの怒りを見て、さらに愉しげに目を細めた。

「いいねぇ、その嫉妬に燃える瞳。最高にそそるよ。若い雄の、独占欲という名の純粋な欲望。僕の大好物だ」

***

「そんなに言うなら、ゲームにするかい?」

アスモデウスは、まるで子供に言い聞かせるように、その唇に妖艶な笑みを浮かべた。

「僕と君たちで、ポーカーだ。君たちが勝てば、あの綺麗な石はくれてやる。だが、僕が勝ったら……そうだね。女神様の、その瑞々しい唇を、いただくことにしよう。どうだい? 公平な賭けだろう?」

それは、悪魔の提示する、あまりにも不利な取引だった。しかし、他に遺産を手に入れる手段はない。海斗は、隣に立つマナを見た。彼女の瞳には、恐怖の色はなかった。ただ、静かに、そして強く、海斗を見つめ返し、小さく頷いた。その瞳が「大丈夫。あなたを信じてる」と語っていた。

「……分かった。その勝負、受けてやる」

海斗は、覚悟を決めた。

「結構。話が早くて助かるよ」

アスモデウスが指を鳴らすと、ラウンジの中央に、黒檀でできた豪奢なポーカーテーブルが出現した。一行が席に着くと、アスモデウスは、テーブルの隅に置かれていた、古めかしい銀の香炉に、そっと火を灯した。

そこから、ふわりと、甘く、それでいてどこか心をざわつかせるような、不思議な香りが立ち上り始めた。それは、熟しきった果実の匂いと、雨の後の土の匂いが混じったような、抗いがたいほどに官能的な香りだった。

「さあ、始めようか。魂を賭けた、愛のゲームを」

アスモデウスが、悪魔の笑みを浮かべる。
ディーラーが、滑らかな手つきでカードを配り始めた。海斗が、配られた二枚のカードをそっと手にした、その瞬間。

視界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前のポーカーテーブルも、妖しく微笑むアスモデウスの顔も、心配そうにこちらを見る仲間たちの姿も、まるで陽炎のように揺らぎ、消えていく。

代わりに、目の前には、全く別の光景が広がり始めていた。
これは、ただのカードゲームではない。
アスモデウスが焚いた魔香は、吸い込んだ者の精神の奥底に眠る、最も強い欲望を幻覚として見せる、魂そのものを試すための罠だったのだ。
悪魔の試練が、静かに、しかし確実に、始まっていた。
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