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第15話(最終話):ゴースト、時々、恋
しおりを挟むサキをあの海辺の町で見送ってから、季節は、まるで駆け足で過ぎ去っていった。空を燃えるような色に染めた秋は、いつしか冷たい木枯らしにその座を譲り、そして今、長く、厳しかった冬もまた、その終わりの気配を漂わせ始めていた。
二月の、よく晴れた朝。事務所の窓から差し込む日差しは、まだ力弱く、部屋の空気を温めるには至らない。だが、その光は、真冬のそれとは違い、どこか柔らかく、春の訪れを予感させる優しさに満ちていた。窓ガラスには、夜の間の冷気でできた結露が、朝日を浴びて、無数の小さな虹を作っている。俺がストーブの上で沸かしたヤカンの湯気が、白い息のように、しゅんしゅんと音を立てていた。。
「師匠、はい、コーヒー。今日はちょっといい豆、奮発しちゃいました」
ミソラが、マグカップを二つ、ローテーブルに置きながら言った。その手際は、もうすっかり板についている。彼女の淹れるコーヒーは、今や俺が淹れるものより、数段美味い。
「おう、サンキュ」
俺は、礼を言って、その温かいマグカップを受け取った。立ち上る湯気と共に、香ばしく、そして少しだけフルーティーな香りが、鼻腔をくすぐる。
俺たちは、あの旅の後、少しだけ変わった。
いや、変わったというよりは、本来あるべき形に、ようやく収まった、と言うべきなのかもしれない。
俺の心の中から、長年こびりついていた棘のような刺々しさが、綺麗に抜け落ちた。そして、ミソラの、太陽のような明るさの中にも、相手を深く思いやる、思慮深い落ち着きが備わった。
俺たちは、恋人同士という、甘ったるい関係に収まったわけじゃない。それよりも、もっと深く、もっと強く、お互いの魂を預け合えるような、最高の「パートナー」になっていた。
事務所の片隅には、小さな棚が設けてある。そこには、二つの写真立てが、仲良く並んで置かれていた。一つは、はにかむように笑う、俺の妹、ナギの写真。もう一つは、あの海辺の町で、朝日を浴びて、幸せそうに手を振るサキの写真。
ミソラは、毎朝、その写真立ての前に、小さなグラスに差した季節の花を供えるのが日課になっていた。今日は、散歩の途中で見つけたという、黄色い蝋梅(ろうばい)が、甘く、優しい香りを漂わせている。
彼女たちは、もうここにはいない。だが、その存在は、決して悲しい過去の記憶ではなく、俺たちを未来へと押し出してくれる、温かい光となって、この事務所に、そして俺たちの心の中に、確かに生き続けていた。
◇
その日の午後、俺たちは、古い木造アパートの一室にいた。
今回の依頼主は、この部屋に一人で暮らす、若いウェブデザイナーの男性からだった。夜な夜な、誰もいないはずのキッチンから、コトコトと何かを煮込むような音がしたり、散らかした部屋が、朝になると綺麗に片付いていたりするという。悪さはしないが、気味が悪い、と。
「あらまあ、男の子の一人暮らしだっていうから、心配して見てみれば……。部屋は散らかし放題だし、ご飯もろくに食べてないじゃないの。これじゃ、体を壊しちまうよ」
部屋の隅に、半透明のおばあさんの霊が、腰に手を当てて、呆れたようにため息をついていた。彼女は、かつてこの部屋で、大往生を遂げた、スズキさんというおばあさんだった。お節介焼きで、世話好きで、近所の子供たちからも慕われていたという。
「おばあちゃん、心配なのは分かるけどさ。いきなり人の部屋、片付けたりしたら、誰だってビビるだろ」
俺がそう言うと、スズキさんは、ぷいっとそっぽを向いた。
「だって、見てられないんだもの。野菜が足りないよ、あんたは」
どうやら、この部屋に越してきた若者の、乱れた食生活と生活習慣が、心配で心配で、成仏もできずにいるらしい。ある意味、最も厄介なタイプの善意の塊だった。
俺が、どうやってこのお節介な魂を説得したものか、と頭を悩ませていると、ミソラが、にこやかに一歩前に出た。
「スズキさん、初めまして。私、神山さんのパートナーの、ミソラと申します」
彼女は、丁寧にお辞儀をすると、自分のタブレット端末を取り出した。
「見てください、スズキさん。この部屋の彼、ちゃんと、こういう自炊アプリを使って、栄養管理してるんですよ。昨日の夕食も、ほら、ちゃんと野菜炒め、作ってます」
画面には、依頼主の青年が律儀につけていた食事記録が表示されている。
「それに、お掃除だって、週末には、ちゃんとお掃除代行サービスを頼んでるんです。今日は、たまたま、締め切り前で忙しくて、散らかってるだけで」
ミソラの、現代的なツールを駆使した、理路整然とした説得。それは、俺には到底できない芸当だった。
「まあ……!そうなのかい」
スズキさんは、意外そうな顔で、画面を覗き込んでいる。
「ええ。だから、大丈夫ですよ。彼は、彼なりに、ちゃんと、自分の生活を頑張っています。スズキさんの、その優しいお気持ちだけで、彼はもう十分に守られています。だから、もう、安心して、旦那さんの待つ場所へ、還ってあげてください」
ミソラの、温かく、そして、凛とした言葉。
それは、スズキさんの、最後の執着を、優しく、優しく、解きほぐしていった。
「……そうかい。そうなのかい。なら、安心したよ」
スズキさんは、満足そうに頷くと、俺たちに深々と頭を下げた。そして、その体は、陽だまりのホコリのように、きらきらと光りながら、ふわりと、穏やかに消えていった。
見事な連携プレーだった。俺が霊の本質的な悩みを聞き出し、ミソラが、彼女ならではの視点で、その解決策を提示する。俺一人では、きっと、もっと時間がかかっただろう。
これが、俺たちの、新しい形だった。
◇
仕事を終え、夕暮れの道を、俺たちは車で事務所へと帰っていた。
空は、冬の澄み切った夕焼けに染まっている。電線の上で、数羽の鳥が、その景色を眺めているようだった。遠くには、雪を頂いた富士山のシルエットが、影絵のように、くっきりと浮かび上がっていた。
「今日の俺たち、なかなかいいコンビだったろ」
俺が、少しだけ得意げに言うと、助手席のミソラは、ふふん、と胸を張った。
「当たり前じゃないですか。最高の『パートナー』ですからね!」
その言葉の響きが、くすぐったくて、そして、どうしようもなく嬉しかった。
俺たちは、車の中で、この一年近くの出来事を、ぽつり、ぽつりと話していた。
「思えば、色々なことがありましたね」
「ああ。嵐みたいなお前が押しかけてきて、生意気な幽霊が居候して……。俺の人生で、一番、騒がしくて、面倒くさい一年だったな」
「もう、師匠ったら!でも……」
ミソラは、窓の外の夕焼けに、目を細めた。
「でも、楽しかったですよね。三人でいた、あの日々」
「……ああ。全くだ」
俺は、黒崎のことを、ふと思い出していた。
『その感傷は、いつか必ず、君自身を滅ぼすことになるぞ』
あの言葉は、今でも、時々、頭をよぎる。だが、もう、俺は迷わない。
俺の、このどうしようもないほどの「感傷」は、決して俺を滅ぼしたりはしない。むしろ、こいつが、俺を、人でいさせてくれるのだ。大切な誰かを失った悲しみも、救えなかった後悔も、そして、誰かと共に笑い合った喜びも。その、ぐちゃぐちゃで、不器用で、でも温かい感情のすべてが、今の俺を、作っているのだから。
◇
事務所に戻ると、部屋はすっかり、夜の闇に包まれていた。
ドアを開けると、机の上の留守番電話の赤いランプが、チカチカと、俺たちの帰りを待っていたかのように点滅している。
俺が再生ボタンを押すと、少し焦ったような、若い女性の声が流れ出した。
『あ、あの!神山さんの事務所でしょうか!?例の、廃墟になった遊園地なんですけど、やっぱり、出るみたいで……!』
やれやれ。また、厄介そうな案件だ。
だが、俺の心は、不思議と、晴れやかだった。むしろ、新しい冒険の始まりに、少しだけ、ワクワクしている自分さえいた。
俺は、留守電のメッセージを聞き終えると、悪戯っぽく笑って、隣に立つ、かけがえのないパートナーの顔を見た。
「さて、と。悪いが、残業決定だな」
俺は、車のキーを、再び手に取った。
「行くか!パートナー!」
俺のその言葉に、ミソラは、満面の、これ以上ないほどの、太陽みたいな笑顔で、力強く、答えた。
「はいっ!師匠!」
俺は、呆れたように、でも、どうしようもなく愛おしそうな顔で、彼女の頭を、くしゃりと撫でた。
「だから、師匠って言うな!」
二人の笑い声が、冬の夜の、静かな事務所に響き渡った。
俺たちは、軽やかな足取りで、再び、事務所のドアを開ける。そして、冷たく、しかし、どこまでも澄み切った、星空の下へと、歩き出した。
俺たちの物語は、決して、特別なヒーローの物語なんかじゃないのかもしれない。
でも、それでいい。
この、広くて、複雑で、そして、少しだけ寂しい世界の片隅で。
俺たちは、これからも、傷つき、迷い、それでも、誰かの心に、そっと寄り添いながら、生きていく。
ゴーストと、そして、時々、恋をしながら。
俺たちの、新しい日常が、また、ここから始まる。
(完)
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