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第14話:空っぽの部屋と、二人のパートナー
しおりを挟む北陸の海辺の町でサキを見送ってから三日後。俺とミソラは、長い旅路の果てに、ようやく川越の事務所へと帰ってきた。電車の乗り継ぎと、高速道路の渋滞で、体は鉛のように重い。だが、それ以上に、俺たちの心は、やり遂げたという不思議な達成感と、そして、どうしようもないほどの、静かな空虚感で満たされていた。
九月も半ばを過ぎ、東京の空気は、あの旅立ちの日とは比べ物にならないくらい、乾いて澄み切っていた。鍵を開け、事務所のドアを押し開ける。ひんやりとした、誰もいない部屋の空気が、俺たちを迎えた。旅立つ前と、物理的には何も変わっていないはずだった。机も、ソファも、資料の山も、すべてが俺たちが出て行った時のままだ。
なのに、違う。何かが、決定的に違っていた。
広すぎるのだ。この、六畳一間の事務所が、がらんどうの体育館のように、やけに広く、そして静かに感じられる。
ああ、そうか。
俺は、気づいてしまった。
サキの気配が、もう、どこにもないのだ。
いつも、部屋の隅で、拗ねたり、笑ったり、ただ静かに佇んでいた、あの、ひんやりとして、でもどこか温かい気配。ポルターガイストで雑誌を落とす、あの悪戯っぽいエネルギー。俺の脳内にだけ響いていた、か細いけれど、芯の強い声。そのすべてが、完全に、消え失せていた。
彼女がいつもいた部屋の隅は、ただの、埃っぽい「隅」に戻ってしまっていた。
その、埋めようのない「不在」が、サキという存在が、俺たちの日常の中でどれほど大きな場所を占めていたかを、痛いほどに、俺たちに突きつけてきた。
窓から差し込む秋の午後の光が、空気中を舞う細かなホコリを、きらきらと照らし出している。その光景は、ひどく美しくて、そして、ひどく、もの悲しかった。
◇
それから数日間、俺たちは、まるで燃え尽きたかのように、静かな時間を過ごした。鳴り響く電話も、切迫した依頼もない。ただ、穏やかで、そして少しだけ感傷的な秋の日々が、ゆっくりと流れていくだけだった。
ミソラは、以前のように、努めて明るく振る舞おうとしていた。甲斐甲斐しく事務所の掃除をしたり、俺のために栄養バランスの考えられた食事を作ってくれたり。だが、ふとした瞬間に、彼女の心の空白が、垣間見えた。
「師匠、おやつの時間ですよ!プリン買ってきましたから、サキちゃんの分も……あ……」
冷蔵庫を開けながら、彼女は、そう言いかけて、はっと口をつぐんだ。そして、寂しそうに微笑んで、二つだけプリンを取り出す。
テレビの歌番組を見ている時も、無意識に「このアイドル、サキちゃんが好きそう……」と呟いては、自分で自分の言葉に、胸を痛めているようだった。
俺もまた、同じだった。
仕事の資料を探して、ふと、部屋の隅に視線を送っては、そこに何もないことに気づき、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。かつては、厄介で、面倒で、頭痛の種でしかなかったはずの、あの幽霊助手の存在。プリン事件の時の、本気の呆れ。チャンネル争いの時の、うんざりした気持ち。その、他愛もないドタバタのすべてが、今となっては、二度と戻らない、どうしようもなく愛おしい思い出になっていた。
ある日の夕暮れ。俺は一人、事務所の窓辺に立って、茜色に染まる空を眺めていた。空には、うろこ雲が広がり、夕日に照らされて、まるで燃える龍の鱗のように、赤く、金色に輝いている。風が、どこからか金木犀の甘い香りを運んできた。その香りは、どうしようもなく、サキの最後の、穏やかな笑顔を思い出させた。
喪失感とは、こういう、静かで、じわじわと心を蝕んでいくものなのだろうか。妹のナギを失った時の、世界が反転するような激しい絶望とは違う。これは、温かい記憶と共に在る、優しい痛みだった。
◇
そんな、穏やかで、少しだけ停滞していた空気を破ったのは、やはり、ミソラだった。
ある晴れた秋の日の朝。彼女は、両手にゴム手袋をはめ、頭に手ぬぐいを巻いて、俺の前に仁王立ちになった。
「師匠!今日はお休み、終わりです!大掃除しますよ!」
「……大掃除?」
「そうです!いつまでも、メソメソしてられませんからね!私たちがこんな顔してたら、きっと、サキちゃんに『しっかりしなさい!』って、笑われちゃいますよ!」
彼女は、無理にでも、前を向こうとしていた。過去を、思い出を、ただ悲しむのではなく、それを力に変えて、未来へと進もうとしていた。その強さが、眩しかった。
「……分かったよ」
俺は、小さく笑って、ソファから立ち上がった。
二人で始めた大掃除は、自然と、サキとの思い出を振り返る、一つの儀式のようになった。
「うわ、見てください師匠!こんなところに、お菓子の空き箱が!」
ミソラが、本棚の裏から、埃まみれのクッキーの箱を見つけ出した。間違いなく、サキがポルターガイストで隠したまま、忘れていたものだろう。俺たちは、顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。
俺は、サキがポルターガイストで倒したままになっていた、資料の山を整理する。その一冊一冊に、彼女の、目には見えない指紋が残っているような気がした。
掃除の途中、俺は、自分の机の、一番奥の引き出しを開けた。そこには、俺がずっと、意識的に避けてきたものがしまってある。
一枚の、古い写真。
色褪せた写真の中には、まだ小学生の俺と、その隣で、はにかむように笑う、俺の妹、ナギが写っていた。
以前は、これを見るのが、たまらなく辛かった。ナギの笑顔を見るたびに、彼女を守れなかった、どうしようもない罪悪感と、後悔が、胸を締め付けた。
だが、今は、違った。
俺は、その写真を、穏やかな気持ちで、見つめることができた。
可愛い妹。俺が、世界で一番、大切だった存在。
サキを救い、彼女の、数十年にわたる長い苦しみを解放し、その最後の旅立ちを見送った、あの経験。それが、俺の中に長年凍りついていた、ナギを失ったことへの後悔とトラウマを、本当の意味で、溶かしてくれたのだ。
俺はもう、復讐心に囚われた、過去の亡霊じゃない。
ただ、大切な人を想い、そして、今、目の前にいる人間を守りたいと願う、一人の、ただの男になっていた。
◇
夕方。大掃除は終わり、事務所は、隅々まで磨き上げられ、秋の西日が差し込む中、清々しい空気に満たされていた。
俺とミソラは、事務所の小さなベランダに出て、並んで、沈みゆく夕日を眺めていた。空は、息を呑むほど美しい、茜色に染まっていた。
清々しい達成感と、少しの寂しさと、そして、これから始まる何かへの、静かな予感が、二人の間に、穏やかに流れていた。
俺は、ポケットから、あのナギの写真を、取り出した。
そして、それを、ミソラに見せた。
「……妹さん、ですか?」
ミソラが、優しく尋ねる。
「ああ。ナギっていうんだ」
俺は、初めて、彼女に、妹の名前を教えた。
「俺が、この仕事を始めた理由だよ。こいつを守れなかった後悔と、霊への憎しみ。それが、俺の原動力だった。……いや、そう思い込んでた」
俺は、ミソラに向き直った。
「でも、違ったんだ。俺は、ただ、もう一度、ナギにしてやれなかったことを、やり直したかっただけなのかもしれない。誰かを、救いたかった。……サキを救えたのは、お前がいてくれたからだ。サキが、俺に、たくさんのことを教えてくれたからだ。お前たちが、俺の、歪んだ心を、溶かしてくれたんだ」
俺は、素直に、感謝の気持ちを伝えた。それは、俺にとって、とても勇気のいることだった。
そして、俺は、意を決した。
彼女の、真っ直ぐな瞳を見つめ返す。
「ミソラ」
俺は、彼女の名前を、呼んだ。
「お前は、もう、単なる押しかけ助手じゃない」
「俺の、たった一人の、かけがえのない、『パートナー』だ」
その言葉は、仕事の相棒、という意味だけではなかった。嬉しいことも、辛いことも、これから先の人生を、共に歩んでいってほしい。そんな、不器用な俺の、精一杯の告白だった。
俺の言葉を聞いた瞬間、ミソラの大きな瞳から、ぽろ、ぽろ、と、真珠のような涙が、こぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
長年の、一途な想いが、ようやく、報われた、どうしようもないほどの、嬉し涙だった。
彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも、これまでで最高の、まるで真夏の太陽のような、まぶしい笑顔で、力強く、何度も、何度も、頷いた。
「……はいっ!」
その一言だけで、十分だった。俺たちの心は、確かに、一つになったのだ。
◇
夜。月明かりが、綺麗になった事務所を、静かに、優しく、照らし出している。
俺とミソラの間には、もう、ぎこちなさも、遠慮もなかった。ただ、深く、穏やかな、信頼に満ちた空気が流れている。
部屋の隅に、俺は、新しく、小さな写真立てを置いた。
中には、あの海辺の町で、朝日を浴びながら、笑顔で手を振るサキの、幻のような姿が写っている。あれは、結城さんの記憶の中にあった、一番幸せだった頃のサキの姿を、俺がイメージして、具現化させたものだ。
その写真のサキが、月明かりの中で、まるで俺たちを祝福するかのように、優しく、微笑んでいるように、見えた。
俺は、この空っぽになったはずの部屋が、決して、空っぽではないことを、知っていた。
ここには、ナギの思い出も、サキの記憶も、そして、俺の隣で、幸せそうに微笑む、かけがえのないパートナーとの、未来も、すべてが、確かに、詰まっているのだから。
新しい関係の始まりを、静かに、しかし、確かに感じながら、俺は、ミソラの手を、そっと、固く、握りしめた。
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