14 / 23
第14話:空っぽの部屋と、二人のパートナー
しおりを挟む北陸の海辺の町でサキを見送ってから三日後。俺とミソラは、長い旅路の果てに、ようやく川越の事務所へと帰ってきた。電車の乗り継ぎと、高速道路の渋滞で、体は鉛のように重い。だが、それ以上に、俺たちの心は、やり遂げたという不思議な達成感と、そして、どうしようもないほどの、静かな空虚感で満たされていた。
九月も半ばを過ぎ、東京の空気は、あの旅立ちの日とは比べ物にならないくらい、乾いて澄み切っていた。鍵を開け、事務所のドアを押し開ける。ひんやりとした、誰もいない部屋の空気が、俺たちを迎えた。旅立つ前と、物理的には何も変わっていないはずだった。机も、ソファも、資料の山も、すべてが俺たちが出て行った時のままだ。
なのに、違う。何かが、決定的に違っていた。
広すぎるのだ。この、六畳一間の事務所が、がらんどうの体育館のように、やけに広く、そして静かに感じられる。
ああ、そうか。
俺は、気づいてしまった。
サキの気配が、もう、どこにもないのだ。
いつも、部屋の隅で、拗ねたり、笑ったり、ただ静かに佇んでいた、あの、ひんやりとして、でもどこか温かい気配。ポルターガイストで雑誌を落とす、あの悪戯っぽいエネルギー。俺の脳内にだけ響いていた、か細いけれど、芯の強い声。そのすべてが、完全に、消え失せていた。
彼女がいつもいた部屋の隅は、ただの、埃っぽい「隅」に戻ってしまっていた。
その、埋めようのない「不在」が、サキという存在が、俺たちの日常の中でどれほど大きな場所を占めていたかを、痛いほどに、俺たちに突きつけてきた。
窓から差し込む秋の午後の光が、空気中を舞う細かなホコリを、きらきらと照らし出している。その光景は、ひどく美しくて、そして、ひどく、もの悲しかった。
◇
それから数日間、俺たちは、まるで燃え尽きたかのように、静かな時間を過ごした。鳴り響く電話も、切迫した依頼もない。ただ、穏やかで、そして少しだけ感傷的な秋の日々が、ゆっくりと流れていくだけだった。
ミソラは、以前のように、努めて明るく振る舞おうとしていた。甲斐甲斐しく事務所の掃除をしたり、俺のために栄養バランスの考えられた食事を作ってくれたり。だが、ふとした瞬間に、彼女の心の空白が、垣間見えた。
「師匠、おやつの時間ですよ!プリン買ってきましたから、サキちゃんの分も……あ……」
冷蔵庫を開けながら、彼女は、そう言いかけて、はっと口をつぐんだ。そして、寂しそうに微笑んで、二つだけプリンを取り出す。
テレビの歌番組を見ている時も、無意識に「このアイドル、サキちゃんが好きそう……」と呟いては、自分で自分の言葉に、胸を痛めているようだった。
俺もまた、同じだった。
仕事の資料を探して、ふと、部屋の隅に視線を送っては、そこに何もないことに気づき、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。かつては、厄介で、面倒で、頭痛の種でしかなかったはずの、あの幽霊助手の存在。プリン事件の時の、本気の呆れ。チャンネル争いの時の、うんざりした気持ち。その、他愛もないドタバタのすべてが、今となっては、二度と戻らない、どうしようもなく愛おしい思い出になっていた。
ある日の夕暮れ。俺は一人、事務所の窓辺に立って、茜色に染まる空を眺めていた。空には、うろこ雲が広がり、夕日に照らされて、まるで燃える龍の鱗のように、赤く、金色に輝いている。風が、どこからか金木犀の甘い香りを運んできた。その香りは、どうしようもなく、サキの最後の、穏やかな笑顔を思い出させた。
喪失感とは、こういう、静かで、じわじわと心を蝕んでいくものなのだろうか。妹のナギを失った時の、世界が反転するような激しい絶望とは違う。これは、温かい記憶と共に在る、優しい痛みだった。
◇
そんな、穏やかで、少しだけ停滞していた空気を破ったのは、やはり、ミソラだった。
ある晴れた秋の日の朝。彼女は、両手にゴム手袋をはめ、頭に手ぬぐいを巻いて、俺の前に仁王立ちになった。
「師匠!今日はお休み、終わりです!大掃除しますよ!」
「……大掃除?」
「そうです!いつまでも、メソメソしてられませんからね!私たちがこんな顔してたら、きっと、サキちゃんに『しっかりしなさい!』って、笑われちゃいますよ!」
彼女は、無理にでも、前を向こうとしていた。過去を、思い出を、ただ悲しむのではなく、それを力に変えて、未来へと進もうとしていた。その強さが、眩しかった。
「……分かったよ」
俺は、小さく笑って、ソファから立ち上がった。
二人で始めた大掃除は、自然と、サキとの思い出を振り返る、一つの儀式のようになった。
「うわ、見てください師匠!こんなところに、お菓子の空き箱が!」
ミソラが、本棚の裏から、埃まみれのクッキーの箱を見つけ出した。間違いなく、サキがポルターガイストで隠したまま、忘れていたものだろう。俺たちは、顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。
俺は、サキがポルターガイストで倒したままになっていた、資料の山を整理する。その一冊一冊に、彼女の、目には見えない指紋が残っているような気がした。
掃除の途中、俺は、自分の机の、一番奥の引き出しを開けた。そこには、俺がずっと、意識的に避けてきたものがしまってある。
一枚の、古い写真。
色褪せた写真の中には、まだ小学生の俺と、その隣で、はにかむように笑う、俺の妹、ナギが写っていた。
以前は、これを見るのが、たまらなく辛かった。ナギの笑顔を見るたびに、彼女を守れなかった、どうしようもない罪悪感と、後悔が、胸を締め付けた。
だが、今は、違った。
俺は、その写真を、穏やかな気持ちで、見つめることができた。
可愛い妹。俺が、世界で一番、大切だった存在。
サキを救い、彼女の、数十年にわたる長い苦しみを解放し、その最後の旅立ちを見送った、あの経験。それが、俺の中に長年凍りついていた、ナギを失ったことへの後悔とトラウマを、本当の意味で、溶かしてくれたのだ。
俺はもう、復讐心に囚われた、過去の亡霊じゃない。
ただ、大切な人を想い、そして、今、目の前にいる人間を守りたいと願う、一人の、ただの男になっていた。
◇
夕方。大掃除は終わり、事務所は、隅々まで磨き上げられ、秋の西日が差し込む中、清々しい空気に満たされていた。
俺とミソラは、事務所の小さなベランダに出て、並んで、沈みゆく夕日を眺めていた。空は、息を呑むほど美しい、茜色に染まっていた。
清々しい達成感と、少しの寂しさと、そして、これから始まる何かへの、静かな予感が、二人の間に、穏やかに流れていた。
俺は、ポケットから、あのナギの写真を、取り出した。
そして、それを、ミソラに見せた。
「……妹さん、ですか?」
ミソラが、優しく尋ねる。
「ああ。ナギっていうんだ」
俺は、初めて、彼女に、妹の名前を教えた。
「俺が、この仕事を始めた理由だよ。こいつを守れなかった後悔と、霊への憎しみ。それが、俺の原動力だった。……いや、そう思い込んでた」
俺は、ミソラに向き直った。
「でも、違ったんだ。俺は、ただ、もう一度、ナギにしてやれなかったことを、やり直したかっただけなのかもしれない。誰かを、救いたかった。……サキを救えたのは、お前がいてくれたからだ。サキが、俺に、たくさんのことを教えてくれたからだ。お前たちが、俺の、歪んだ心を、溶かしてくれたんだ」
俺は、素直に、感謝の気持ちを伝えた。それは、俺にとって、とても勇気のいることだった。
そして、俺は、意を決した。
彼女の、真っ直ぐな瞳を見つめ返す。
「ミソラ」
俺は、彼女の名前を、呼んだ。
「お前は、もう、単なる押しかけ助手じゃない」
「俺の、たった一人の、かけがえのない、『パートナー』だ」
その言葉は、仕事の相棒、という意味だけではなかった。嬉しいことも、辛いことも、これから先の人生を、共に歩んでいってほしい。そんな、不器用な俺の、精一杯の告白だった。
俺の言葉を聞いた瞬間、ミソラの大きな瞳から、ぽろ、ぽろ、と、真珠のような涙が、こぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
長年の、一途な想いが、ようやく、報われた、どうしようもないほどの、嬉し涙だった。
彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも、これまでで最高の、まるで真夏の太陽のような、まぶしい笑顔で、力強く、何度も、何度も、頷いた。
「……はいっ!」
その一言だけで、十分だった。俺たちの心は、確かに、一つになったのだ。
◇
夜。月明かりが、綺麗になった事務所を、静かに、優しく、照らし出している。
俺とミソラの間には、もう、ぎこちなさも、遠慮もなかった。ただ、深く、穏やかな、信頼に満ちた空気が流れている。
部屋の隅に、俺は、新しく、小さな写真立てを置いた。
中には、あの海辺の町で、朝日を浴びながら、笑顔で手を振るサキの、幻のような姿が写っている。あれは、結城さんの記憶の中にあった、一番幸せだった頃のサキの姿を、俺がイメージして、具現化させたものだ。
その写真のサキが、月明かりの中で、まるで俺たちを祝福するかのように、優しく、微笑んでいるように、見えた。
俺は、この空っぽになったはずの部屋が、決して、空っぽではないことを、知っていた。
ここには、ナギの思い出も、サキの記憶も、そして、俺の隣で、幸せそうに微笑む、かけがえのないパートナーとの、未来も、すべてが、確かに、詰まっているのだから。
新しい関係の始まりを、静かに、しかし、確かに感じながら、俺は、ミソラの手を、そっと、固く、握りしめた。
0
あなたにおすすめの小説
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
イケボすぎる兄が、『義妹の中の人』をやったらバズった件について
のびすけ。
恋愛
春から一人暮らしを始めた大学一年生、天城コウは――ただの一般人だった。
だが、再会した義妹・ひよりのひと言で、そんな日常は吹き飛ぶ。
「お兄ちゃんにしか頼めないの、私の“中の人”になって!」
ひよりはフォロワー20万人超えの人気Vtuber《ひよこまる♪》。
だが突然の喉の不調で、配信ができなくなったらしい。
その代役に選ばれたのが、イケボだけが取り柄のコウ――つまり俺!?
仕方なく始めた“妹の中の人”としての活動だったが、
「え、ひよこまるの声、なんか色っぽくない!?」
「中の人、彼氏か?」
視聴者の反応は想定外。まさかのバズり現象が発生!?
しかも、ひよりはそのまま「兄妹ユニット結成♡」を言い出して――
同居、配信、秘密の関係……って、これほぼ恋人同棲じゃん!?
「お兄ちゃんの声、独り占めしたいのに……他の女と絡まないでよっ!」
代役から始まる、妹と秘密の“中の人”Vライフ×甘々ハーレムラブコメ、ここに開幕!
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
マンションのオーナーは十六歳の不思議な青年 〜マンションの特別室は何故か女性で埋まってしまう〜
美鈴
ファンタジー
ホットランキング上位ありがとうございます😊
ストーカーの被害に遭うアイドル歌羽根天音。彼女は警察に真っ先に相談する事にしたのだが…結果を言えば解決には至っていない。途方にくれる天音。久しぶりに会った親友の美樹子に「──なんかあった?」と、聞かれてその件を伝える事に…。すると彼女から「なんでもっと早く言ってくれなかったの!?」と、そんな言葉とともに彼女は誰かに電話を掛け始め…
※カクヨム様にも投稿しています
※イラストはAIイラストを使用しています
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる