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第六話:甘くないキッシュと、炎の契約書
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七月が終わりに近づくと、日本の夏は、その最も獰猛な牙を剥き出しにする。
空気は、熱せられたガラスのように、まとわりついて肌を刺す。健人が住むアパートの窓を開ければ、まるでドライヤーの温風を浴びているかのようだ。朝の八時にはすでに、アスファルトから陽炎が立ち上り、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませる。蝉の声は、もはや風物詩ではなく、鼓膜を直接揺さぶる、途切れることのない暴力的なノイズとなっていた。
しかし、そんな灼熱地獄の中にも、夏の気配は宿っている。夕暮れ時になると、どこからともなく、近所の神社で行われている夏祭りの、太鼓の音が響いてくる。どん、どん、という、腹の底に響くような低い音。それは、人々の心を浮き立たせる、古からのリズムだった。夜風に乗って、イカを焼く香ばしい匂いや、りんご飴の甘ったるい香りが、健人の小さなキッチンの窓から流れ込んでくることもあった。
前回の配信で、環境という巨大な敵と戦い抜いた健人の心には、かすかな、しかし確かな自信が芽生え始めていた。それは、レシピを完璧に再現するだけの自信ではない。予期せぬ事態に、自分の知識と技術で立ち向かい、道を切り拓くことができるという、問題解決者としての自信だった。
そんなある日、里奈から「祝!初スポンサー獲得!緊急会議!」という、やけに景気のいいメッセージが届いた。
「バズチャンネル」の、少しだけ片付いたオフィス。里奈は、まるで凱旋将軍のように、胸を張って健人を迎えた。
「健人さん!やりました!私たちの番組に、ついにスポンサーがつきました!」
彼女が誇らしげにテーブルに置いたのは、新鮮な夏野菜が詰められた段ボール箱だった。艶やかな赤色のトマト、みずみずしい玉ねぎ、そして、今日の主役であるキッシュ・ロレーヌのために健人がリクエストした、厚切りのベーコンと、見るからに濃厚そうなチーズ。
「『火の玉農場』さんです!有機野菜にこだわっている、地元では有名な農家さんなんですよ!」
健人は、質の良さそうな食材を見て、素直に感心した。これなら、最高のキッシュが作れる。
しかし、里奈が箱の奥から、小さなビニール袋を取り出した瞬間、健人の胸に、黒い雲がよぎった。袋の中には、小指の先ほどの、しかし、警告するかのように鮮やかな赤色をした、小さな唐辛子が、大量に入っていた。
「そして!こちらが、火の玉農場さんイチオシのスター商品!『レッド・インフェルノ』です!今回のスポンサー契約の条件は、この唐辛子を、番組で大々的にフィーチャーすることなんです!」
「……唐辛子、ですか。キッシュ・ロレーヌに?」
健人の声は、自分でも驚くほど、低く、冷たくなっていた。
キッシュ・ロレーヌ。それは、生クリームと卵で作る、クリーミーで、繊細なアパレイユ(カスタード液)の風味を味わう、甘くないタルトの女王だ。その、完成された調和の世界に、暴力的な辛味を加えるなど、冒涜に等しい。
健人の心の葛藤を、いつものように「創作意欲の表れ」と勘違いした里奈は、満面の笑みで言った。
「そう!スパイシーで、刺激的な、革命的なキッシュです!絶対、新しい伝説が生まれますよ!」
健人は、無言で、窓の外に広がる、どこまでも青い、残酷なまでの夏空を見つめた。
配信当日。
地下スタジオには、いつもの機材に加え、テーブルの隅に『有機野菜の火の玉農場』と書かれた、手作り感あふれる小さな看板が置かれていた。そして、今日のゲストは、その火の玉農場の主、鈴木さんだった。日に焼けた肌、丸太のように太い腕、そして、太陽のような屈託のない笑顔が印象的な、エネルギッシュな男性だ。
「うちのレッド・インフェルノは、ただ辛いだけじゃねえんだ!辛さの奥に、フルーティーな香りがある!まあ、スコヴィル値で言やあ、ハバネロのちょい上くらいかな!」
鈴木さんは、悪びれもせずにそう言って、がはは、と笑った。
コメント欄は、新たなカオスの予感に沸き立っていた。
『ハバネロ超えは、もはや兵器』
『ムッシュの目が、前回よりさらに死んでる…』
健人は、覚悟を決めていた。暴君(スポンサー)の要求と、芸術(伝統的なレシピ)の尊厳。その両方を守る。彼が導き出した答えは、「分離政策」だった。
まず、寸分の狂いもない、完璧な『キッシュ・ロレーヌ』を作る。そして、それとは別に、鈴木さんと里奈が試食するための、ごく小さな『炎のミニキッシュ』を、お情け程度に作る。それが、健人の示す、最大限の誠意であり、抵抗だった。
「…今日は、甘くないお菓子、キッシュ・ロレーヌを作ります。まず、土台となるパート・ブリゼ。これは、甘くない、塩味のパイ生地です」
健人は、冷たいバターと粉を、指先ですり合わせる「サブラージュ」という技法で、生地を仕込んでいく。
「バターの粒を残すように、混ぜすぎないことが重要です。このバターの層が、焼くことで溶け、生地の間に隙間を作り、サクサクとした、軽やかな食感を生み出します」
その手つきは、まるで砂の城を築く子供のように、繊細で、優しい。
生地を型に敷き込み、ピケ(フォークで穴を開けること)をし、オーブンシートを敷いて、その上に重石を乗せる。
「このまま、一度、空焼きします。こうすることで、後でアパレイユを流し込んでも、底が生焼けにならず、サクサクのまま仕上がります」
健人が、淡々と、しかし完璧な理論と共に解説を進める横で、鈴木さんは、まな板の上で、楽しそうにレッド・インフェルノを刻んでいた。トントントン、というリズミカルな音。しかし、その瞬間から、スタジオの空気に、刺激的な、危険な香りが混じり始めた。
次に、アパレイユ作り。
厚切りのベーコンをじっくりと炒め、旨味のある脂を引き出す。その脂で、玉ねぎを、甘さが出るまで、じっくりと、飴色になる手前まで炒める。
ボウルに、全卵と卵黄、そしてたっぷりの生クリームを入れ、混ぜ合わせる。
「キッシュのフィリングは、茶碗蒸しと同じです。決して、泡立ててはいけません。優しく、コシを切るように混ぜるだけ。そして、低い温度のオーブンで、じっくりと火を通すことで、ふるふるとした、なめらかな食感に仕上がります」
空焼きしたタルト生地の中に、炒めた具材と、たっぷりのグリュイエールチーズを敷き詰め、そこに、静かにアパレイユを流し込む。
オーブンの扉が閉まる。あとは、神に祈るだけだ。
メインのキッシュが焼かれていく、穏やかな時間。その間、スタジオでは、サイドストーリーが進行していた。
「さあ、お待ちかね!炎のミニキッシュ作りだ!」
鈴木さんが、自分の刻んだ唐辛子を、小さなココット皿に入ったアパレイユの中に、これでもかと投入していく。もはや、赤い液体だ。
「里奈ちゃんも、ほら、一つ、生で味見してみるかい?」
「い、いえいえ!私は、完成してからのお楽しみということで…!」
顔を引きつらせる里奈。そのやり取りが、視聴者の笑いを誘う。
やがて、オーブンから、天国のような香りが漂い始めた。バターと小麦粉の焼ける香ばしい匂い、ベーコンの燻製の香り、チーズの濃厚な香り。それらが混じり合い、スタジオを満たす。
焼き上がりを告げる音が鳴り、健人が、オーブンから、完璧なキッシュ・ロレーヌを取り出した。
表面は、均一な美しい黄金色。中央は、フルートの音色のように、かすかに、ふるふると震えている。完璧な火入れの証拠だ。
まず、試食するのは、『炎のミニキッシュ』の方だ。
鈴木さんは、平然とした顔で、それを一口で平らげ、「うむ!辛くてうまい!」と満足げに頷いている。
問題は、里奈だ。
彼女は、意を決して、小さなキッシュを、ほんの少しだけ、口に運んだ。
数秒の沈黙。
次の瞬間、彼女の顔が、みるみるうちに、スポンサーのトマトのように真っ赤に染まっていく。
「か、から…っ!み、水…!牛乳をください…!」
瞳には涙を浮かべ、手で口元を必死に扇ぐ。その、あまりにも分かりやすいリアクションに、コメント欄は、この日一番の盛り上がりを見せた。
『リアクション芸人、田中里奈w』
『牛乳!誰か牛乳を!』
健人は、予測していたかのように、冷静に、キンキンに冷えた牛乳の入ったグラスを差し出した。
唐辛子の嵐が過ぎ去った後。
健人は、静かに、本来の主役である、キッシュ・ロレーヌを一切れ、切り分けた。そして、まだ涙目の里奈の前に、そっと置いた。
里奈は、恐る恐る、それを口に運ぶ。
サクッ、という、軽やかなパイ生地の音。
次の瞬間、彼女の口の中に、優しさが、洪水のように押し寄せた。
ベーコンの塩気と旨味、玉ねぎの甘さ、チーズのコク、そして、それらすべてを包み込む、卵と生クリームの、どこまでもクリーミーで、ふるふるとした食感。辛さで麻痺した舌を、その優しさが、ゆっくりと解きほぐしていく。
「……おいしい…」
彼女の口から漏れたのは、安堵と、幸福感に満ちた、心の底からの呟きだった。
「辛さの後に、こんな優しいのが来たら…もう、恋に落ちるしか、ないじゃないですか…」
その言葉に、スタジオは、温かい笑いに包まれた。
スポンサーの鈴木さんも、本家のキッシュを食べ、
「うまい!こりゃあ、うめえや!うちの野菜たちが、フランスのドレスを着て、すましているみてえだ!参った!」
と、手放しで絶賛した。
健人は、その言葉を聞いて、初めて、小さく、そして確かに、微笑んだ。伝統を守り抜き、そして、新たな挑戦も乗り越えた。それは、パティシエとしての、そして一人の表現者としての、確かな勝利の味だった。
---
**《ムッシュ・シュクル流:女王のキッシュ・ロレーヌ完璧レシピ》**
**【材料:パート・ブリゼ(直径18cmタルト型一台分)】**
* 薄力粉:125g
* 無塩バター:60g ※1cm角に切り、よく冷やしておく
* 卵黄:1個分
* 冷水:大さじ2
* 塩:ひとつまみ
**【材料:アパレイユ(フィリング)】**
* 厚切りベーコン:100g
* 玉ねぎ:1/2個
* グリュイエールチーズ(またはピザ用チーズ):80g
* 全卵:2個
* 卵黄:1個分
* 生クリーム(乳脂肪分35%前後):200cc
* ナツメグ、塩、こしょう:各少々
**【作り方:パート・ブリゼ】**
1. フードプロセッサー(またはボウル)に薄力粉、塩、冷たいバターを入れ、バターが小豆大のそぼろ状になるまで混ぜる。
2. 卵黄と冷水を加え、生地がひとまとまりになるまで混ぜる。練りすぎないこと。
3. 生地をラップに包み、冷蔵庫で最低1時間休ませる。
4. 打ち粉をした台の上で、生地を型より一回り大きく、3mm厚に伸ばす。型に敷き込み、余分な生地を切り落とす。フォークで底に数カ所穴を開ける(ピケ)。
5. 再び冷蔵庫で30分休ませる。
6. 生地の上にオーブンシートを敷き、タルトストーン(重石)を乗せる。180℃に予熱したオーブンで15分空焼きする。
7. 重石とシートを外し、さらに5分焼いて、底を乾燥させる。
**【作り方:アパレイユと焼成】**
1. ベーコンは1cm幅に切り、フライパンでカリカリになるまで炒める。玉ねぎは薄切りにし、ベーコンの脂でしんなりするまで炒める。
2. ボウルに全卵と卵黄を溶きほぐし、生クリームを加えて混ぜる。塩、こしょう、ナツメグで味を調える。
3. 空焼きしたタルト台に、炒めたベーコンと玉ねぎ、チーズを均等に散らす。
4. 3の上に、2のアパレイユを静かに流し込む。
5. 180℃のオーブンで30~40分、表面に美味しそうな焼き色がつき、中央を軽く揺すって、液体がフルフルと震えるくらいまで焼く。
6. 焼きあがったら、粗熱を取り、型から外す。熱々でも、冷ましても美味しくいただける。
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空気は、熱せられたガラスのように、まとわりついて肌を刺す。健人が住むアパートの窓を開ければ、まるでドライヤーの温風を浴びているかのようだ。朝の八時にはすでに、アスファルトから陽炎が立ち上り、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませる。蝉の声は、もはや風物詩ではなく、鼓膜を直接揺さぶる、途切れることのない暴力的なノイズとなっていた。
しかし、そんな灼熱地獄の中にも、夏の気配は宿っている。夕暮れ時になると、どこからともなく、近所の神社で行われている夏祭りの、太鼓の音が響いてくる。どん、どん、という、腹の底に響くような低い音。それは、人々の心を浮き立たせる、古からのリズムだった。夜風に乗って、イカを焼く香ばしい匂いや、りんご飴の甘ったるい香りが、健人の小さなキッチンの窓から流れ込んでくることもあった。
前回の配信で、環境という巨大な敵と戦い抜いた健人の心には、かすかな、しかし確かな自信が芽生え始めていた。それは、レシピを完璧に再現するだけの自信ではない。予期せぬ事態に、自分の知識と技術で立ち向かい、道を切り拓くことができるという、問題解決者としての自信だった。
そんなある日、里奈から「祝!初スポンサー獲得!緊急会議!」という、やけに景気のいいメッセージが届いた。
「バズチャンネル」の、少しだけ片付いたオフィス。里奈は、まるで凱旋将軍のように、胸を張って健人を迎えた。
「健人さん!やりました!私たちの番組に、ついにスポンサーがつきました!」
彼女が誇らしげにテーブルに置いたのは、新鮮な夏野菜が詰められた段ボール箱だった。艶やかな赤色のトマト、みずみずしい玉ねぎ、そして、今日の主役であるキッシュ・ロレーヌのために健人がリクエストした、厚切りのベーコンと、見るからに濃厚そうなチーズ。
「『火の玉農場』さんです!有機野菜にこだわっている、地元では有名な農家さんなんですよ!」
健人は、質の良さそうな食材を見て、素直に感心した。これなら、最高のキッシュが作れる。
しかし、里奈が箱の奥から、小さなビニール袋を取り出した瞬間、健人の胸に、黒い雲がよぎった。袋の中には、小指の先ほどの、しかし、警告するかのように鮮やかな赤色をした、小さな唐辛子が、大量に入っていた。
「そして!こちらが、火の玉農場さんイチオシのスター商品!『レッド・インフェルノ』です!今回のスポンサー契約の条件は、この唐辛子を、番組で大々的にフィーチャーすることなんです!」
「……唐辛子、ですか。キッシュ・ロレーヌに?」
健人の声は、自分でも驚くほど、低く、冷たくなっていた。
キッシュ・ロレーヌ。それは、生クリームと卵で作る、クリーミーで、繊細なアパレイユ(カスタード液)の風味を味わう、甘くないタルトの女王だ。その、完成された調和の世界に、暴力的な辛味を加えるなど、冒涜に等しい。
健人の心の葛藤を、いつものように「創作意欲の表れ」と勘違いした里奈は、満面の笑みで言った。
「そう!スパイシーで、刺激的な、革命的なキッシュです!絶対、新しい伝説が生まれますよ!」
健人は、無言で、窓の外に広がる、どこまでも青い、残酷なまでの夏空を見つめた。
配信当日。
地下スタジオには、いつもの機材に加え、テーブルの隅に『有機野菜の火の玉農場』と書かれた、手作り感あふれる小さな看板が置かれていた。そして、今日のゲストは、その火の玉農場の主、鈴木さんだった。日に焼けた肌、丸太のように太い腕、そして、太陽のような屈託のない笑顔が印象的な、エネルギッシュな男性だ。
「うちのレッド・インフェルノは、ただ辛いだけじゃねえんだ!辛さの奥に、フルーティーな香りがある!まあ、スコヴィル値で言やあ、ハバネロのちょい上くらいかな!」
鈴木さんは、悪びれもせずにそう言って、がはは、と笑った。
コメント欄は、新たなカオスの予感に沸き立っていた。
『ハバネロ超えは、もはや兵器』
『ムッシュの目が、前回よりさらに死んでる…』
健人は、覚悟を決めていた。暴君(スポンサー)の要求と、芸術(伝統的なレシピ)の尊厳。その両方を守る。彼が導き出した答えは、「分離政策」だった。
まず、寸分の狂いもない、完璧な『キッシュ・ロレーヌ』を作る。そして、それとは別に、鈴木さんと里奈が試食するための、ごく小さな『炎のミニキッシュ』を、お情け程度に作る。それが、健人の示す、最大限の誠意であり、抵抗だった。
「…今日は、甘くないお菓子、キッシュ・ロレーヌを作ります。まず、土台となるパート・ブリゼ。これは、甘くない、塩味のパイ生地です」
健人は、冷たいバターと粉を、指先ですり合わせる「サブラージュ」という技法で、生地を仕込んでいく。
「バターの粒を残すように、混ぜすぎないことが重要です。このバターの層が、焼くことで溶け、生地の間に隙間を作り、サクサクとした、軽やかな食感を生み出します」
その手つきは、まるで砂の城を築く子供のように、繊細で、優しい。
生地を型に敷き込み、ピケ(フォークで穴を開けること)をし、オーブンシートを敷いて、その上に重石を乗せる。
「このまま、一度、空焼きします。こうすることで、後でアパレイユを流し込んでも、底が生焼けにならず、サクサクのまま仕上がります」
健人が、淡々と、しかし完璧な理論と共に解説を進める横で、鈴木さんは、まな板の上で、楽しそうにレッド・インフェルノを刻んでいた。トントントン、というリズミカルな音。しかし、その瞬間から、スタジオの空気に、刺激的な、危険な香りが混じり始めた。
次に、アパレイユ作り。
厚切りのベーコンをじっくりと炒め、旨味のある脂を引き出す。その脂で、玉ねぎを、甘さが出るまで、じっくりと、飴色になる手前まで炒める。
ボウルに、全卵と卵黄、そしてたっぷりの生クリームを入れ、混ぜ合わせる。
「キッシュのフィリングは、茶碗蒸しと同じです。決して、泡立ててはいけません。優しく、コシを切るように混ぜるだけ。そして、低い温度のオーブンで、じっくりと火を通すことで、ふるふるとした、なめらかな食感に仕上がります」
空焼きしたタルト生地の中に、炒めた具材と、たっぷりのグリュイエールチーズを敷き詰め、そこに、静かにアパレイユを流し込む。
オーブンの扉が閉まる。あとは、神に祈るだけだ。
メインのキッシュが焼かれていく、穏やかな時間。その間、スタジオでは、サイドストーリーが進行していた。
「さあ、お待ちかね!炎のミニキッシュ作りだ!」
鈴木さんが、自分の刻んだ唐辛子を、小さなココット皿に入ったアパレイユの中に、これでもかと投入していく。もはや、赤い液体だ。
「里奈ちゃんも、ほら、一つ、生で味見してみるかい?」
「い、いえいえ!私は、完成してからのお楽しみということで…!」
顔を引きつらせる里奈。そのやり取りが、視聴者の笑いを誘う。
やがて、オーブンから、天国のような香りが漂い始めた。バターと小麦粉の焼ける香ばしい匂い、ベーコンの燻製の香り、チーズの濃厚な香り。それらが混じり合い、スタジオを満たす。
焼き上がりを告げる音が鳴り、健人が、オーブンから、完璧なキッシュ・ロレーヌを取り出した。
表面は、均一な美しい黄金色。中央は、フルートの音色のように、かすかに、ふるふると震えている。完璧な火入れの証拠だ。
まず、試食するのは、『炎のミニキッシュ』の方だ。
鈴木さんは、平然とした顔で、それを一口で平らげ、「うむ!辛くてうまい!」と満足げに頷いている。
問題は、里奈だ。
彼女は、意を決して、小さなキッシュを、ほんの少しだけ、口に運んだ。
数秒の沈黙。
次の瞬間、彼女の顔が、みるみるうちに、スポンサーのトマトのように真っ赤に染まっていく。
「か、から…っ!み、水…!牛乳をください…!」
瞳には涙を浮かべ、手で口元を必死に扇ぐ。その、あまりにも分かりやすいリアクションに、コメント欄は、この日一番の盛り上がりを見せた。
『リアクション芸人、田中里奈w』
『牛乳!誰か牛乳を!』
健人は、予測していたかのように、冷静に、キンキンに冷えた牛乳の入ったグラスを差し出した。
唐辛子の嵐が過ぎ去った後。
健人は、静かに、本来の主役である、キッシュ・ロレーヌを一切れ、切り分けた。そして、まだ涙目の里奈の前に、そっと置いた。
里奈は、恐る恐る、それを口に運ぶ。
サクッ、という、軽やかなパイ生地の音。
次の瞬間、彼女の口の中に、優しさが、洪水のように押し寄せた。
ベーコンの塩気と旨味、玉ねぎの甘さ、チーズのコク、そして、それらすべてを包み込む、卵と生クリームの、どこまでもクリーミーで、ふるふるとした食感。辛さで麻痺した舌を、その優しさが、ゆっくりと解きほぐしていく。
「……おいしい…」
彼女の口から漏れたのは、安堵と、幸福感に満ちた、心の底からの呟きだった。
「辛さの後に、こんな優しいのが来たら…もう、恋に落ちるしか、ないじゃないですか…」
その言葉に、スタジオは、温かい笑いに包まれた。
スポンサーの鈴木さんも、本家のキッシュを食べ、
「うまい!こりゃあ、うめえや!うちの野菜たちが、フランスのドレスを着て、すましているみてえだ!参った!」
と、手放しで絶賛した。
健人は、その言葉を聞いて、初めて、小さく、そして確かに、微笑んだ。伝統を守り抜き、そして、新たな挑戦も乗り越えた。それは、パティシエとしての、そして一人の表現者としての、確かな勝利の味だった。
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**《ムッシュ・シュクル流:女王のキッシュ・ロレーヌ完璧レシピ》**
**【材料:パート・ブリゼ(直径18cmタルト型一台分)】**
* 薄力粉:125g
* 無塩バター:60g ※1cm角に切り、よく冷やしておく
* 卵黄:1個分
* 冷水:大さじ2
* 塩:ひとつまみ
**【材料:アパレイユ(フィリング)】**
* 厚切りベーコン:100g
* 玉ねぎ:1/2個
* グリュイエールチーズ(またはピザ用チーズ):80g
* 全卵:2個
* 卵黄:1個分
* 生クリーム(乳脂肪分35%前後):200cc
* ナツメグ、塩、こしょう:各少々
**【作り方:パート・ブリゼ】**
1. フードプロセッサー(またはボウル)に薄力粉、塩、冷たいバターを入れ、バターが小豆大のそぼろ状になるまで混ぜる。
2. 卵黄と冷水を加え、生地がひとまとまりになるまで混ぜる。練りすぎないこと。
3. 生地をラップに包み、冷蔵庫で最低1時間休ませる。
4. 打ち粉をした台の上で、生地を型より一回り大きく、3mm厚に伸ばす。型に敷き込み、余分な生地を切り落とす。フォークで底に数カ所穴を開ける(ピケ)。
5. 再び冷蔵庫で30分休ませる。
6. 生地の上にオーブンシートを敷き、タルトストーン(重石)を乗せる。180℃に予熱したオーブンで15分空焼きする。
7. 重石とシートを外し、さらに5分焼いて、底を乾燥させる。
**【作り方:アパレイユと焼成】**
1. ベーコンは1cm幅に切り、フライパンでカリカリになるまで炒める。玉ねぎは薄切りにし、ベーコンの脂でしんなりするまで炒める。
2. ボウルに全卵と卵黄を溶きほぐし、生クリームを加えて混ぜる。塩、こしょう、ナツメグで味を調える。
3. 空焼きしたタルト台に、炒めたベーコンと玉ねぎ、チーズを均等に散らす。
4. 3の上に、2のアパレイユを静かに流し込む。
5. 180℃のオーブンで30~40分、表面に美味しそうな焼き色がつき、中央を軽く揺すって、液体がフルフルと震えるくらいまで焼く。
6. 焼きあがったら、粗熱を取り、型から外す。熱々でも、冷ましても美味しくいただける。
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