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第九話:決戦のオペラと、金木犀の香る道
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九月が終わりに近づくと、世界は、まるで薄いヴェールを一枚ずつ剥がしていくように、その表情を変え始めた。
あれほど空を支配していた入道雲は姿を消し、高く、澄み渡った空に、刷毛で描いたような筋雲がたなびいている。太陽の光は、夏のそれとは違い、鋭さを潜めて、どこか柔らかく、金色を帯びていた。その光が、長い影をアスファルトの上に落とし、世界の輪郭を、穏やかに、くっきりとさせていた。
健人の通勤路では、道の脇から、金木犀の、甘く、それでいて少し切ない香りが漂ってくる。蝉の狂騒的な鳴き声は、いつしか、草むらから聞こえる、りん、りん、という涼やかな鈴虫の音色に変わっていた。季節は、着実に、その歩みを進めている。
健人の日常もまた、新しい季節を迎えていた。
あの雨上がりの虹の日から、一ヶ月。彼と里奈の関係は、すっかり様変わりしていた。そこにはもう、無茶振りを繰り返すディレクターと、それに怯える気弱な演者、という構図はない。あるのは、互いの領域を尊重し、一つの目標に向かって進む、対等なパートナーとしての信頼関係だった。
休止していた「バズチャンネル」は、正式な謝罪動画を公開した後、沈黙を保っていた。しかし、その水面下で、二人は、何度も、何度も、話し合いを重ねていた。次に作るべきお菓子について。そして、次に目指すべき、番組の形について。
健人は、もう、自分の意見を押し殺すことはなかった。里奈もまた、彼の言葉に、真摯に耳を傾けた。それは、健人にとって、驚くほど、心地の良い共同作業だった。
そんなある日のことだった。
里奈が、興奮した様子で、健人の元へ駆け込んできた。
「健人さん!大変です!見てください!」
彼女が見せたスマートフォンの画面には、ある動画が映し出されていた。それは、爽やかイケメンパティシエとして名高い、海藤海(かいとう かい)の、人気料理番組の切り抜きだった。
海藤は、番組の最後で、カメラに向かって、真摯な表情で語りかけていた。
『近頃、ネットで話題のパティシエ、「ムッシュ・シュクル」さんの配信を、僕も拝見しました。その技術、そして何より、どんな逆境にも負けない、お菓子作りへの誠実な姿勢に、同じ職人として、深く感銘を受けました』
彼は、あの第七回の配信についても触れ、心を痛めていると語った。
『だから、提案があります。ムッシュ・シュクルさん。もし、よろしければ、僕と、ライブで、お菓子作り対決をしませんか?勝敗を決めるためじゃありません。お互いの技術と情熱をぶつけ合って、最高の作品を作り上げる。その過程を、視聴者の皆さんに見届けてもらう。それこそが、僕たちパティシエができる、最高のエンターテイメントだと思うんです。共に、お菓子作りの素晴らしさを、世界に示しましょう』
それは、宣戦布告などではなかった。一人の職人から、もう一人の職人へ送る、最大限の敬意と、挑戦状だった。
「…どうしますか?」
里奈が、固唾をのんで尋ねる。
数ヶ月前の健人ならば、間違いなく、その場で固まり、逃げ出していただろう。
しかし、今の彼は違った。
彼は、海藤の、まっすぐな瞳を見つめ返すと、静かに、しかし、はっきりと頷いた。
「…やります」
そして、運命の配信の日がやってきた。
舞台は、もはや、あの薄暗い地下室ではなかった。「バズチャンネル」は、けして大きくはないが、プロ仕様の調理器具が揃った、清潔なキッチンスタジオを借り切っていた。磨き上げられたステンレスの調理台が、天井のLEDライトを、静かに反射している。複数のカメラが、それぞれ違う角度から、健人の手元を狙っていた。
そこへ、海藤海が、爽やかな笑顔と共に現れた。
「はじめまして、ムッシュ・シュクルさん。いや、佐藤健人さん。お会いできて、光栄です」
テレビで見るそのままの、気さくで、嫌味のない立ち振る舞い。彼は、健人の前に立つと、すっと右手を差し出した。
「あなたの作るお菓子、本当に素晴らしい。今日は、楽しみにしています」
「…こちらこそ」
健人は、その手を、力強く握り返した。言葉は少なくとも、二人の間には、職人同士にしか分からない、静かで、熱い火花が散っていた。
午後八時。伝説となるであろう、世紀のライブ配信が始まった。
画面は、左右に二分割されている。左には、最新鋭の機材が並ぶ、海藤の華やかなスタジオ。右には、プロ仕様ではあるが、どこか手作り感の残る、「バズチャンネル」のスタジオ。
里奈は、今回は、カメラの前にいない。ディレクターとして、インカムをつけ、コントロールブースから、健人に指示を送っている。
『健人さん、聞こえますか?リラックスして。いつもの、あなたのままで』
その声は、健人の心を、不思議と落ち着かせた。
対決のテーマは、『クラシック・フレンチ・パティスリー』。
海藤が選んだのは、秋の味覚の王様、栗を使った『モンブラン』。
そして、健人が選んだのは。
「…オペラを作ります」
健人の、静かな宣言が、スタジオに響いた。
オペラ。コーヒーシロップを染み込ませたアーモンド生地、コーヒー風味のバタークリーム、チョコレートガナッシュ。何層にも重なる、複雑な工程と、寸分の狂いも許されない、精密な技術を要求される、フランス菓子の至宝。それは、健人の、再起をかけた、決意表明だった。
配信が始まる。まず、生地作りからだ。
「オペラの生地は、ビスキュイ・ジョコンド。アーモンドプードルを主体とした、しっとりとしたスポンジです」
健人の声は、もう、震えていなかった。マイクを通して、彼の、落ち着いた、明瞭な声が、視聴者の耳に届く。その手元を、カメラが、的確に捉えていく。
『健人さん、最高です。その手元、今、アップで抜いてます』
里奈の、的確な指示が、インカムから飛ぶ。
左の画面では、海藤が、流れるような手つきでマロンクリームを作りながら、栗にまつわる軽快なトークで、視聴者を魅了している。
右の画面では、健人が、バタークリームの乳化について、科学的な見地から、淡々と、しかし、分かりやすく解説している。
エンターテイナーと、エデュケーター。対照的な二人のスタイルが、画面の中で、見事なコントラストを描いていた。
生地が焼きあがり、クリームの準備も整った。いよいよ、組み立ての工程だ。
コーヒーシロップを、刷毛で、丁寧に、生地に染み込ませていく。その上に、バタークリームを、パレットナイフで、ミリ単位の均一さで塗り広げる。チョコレートガナッシュを重ね、また生地を乗せる。その、幾何学的なまでの、精密な作業。それは、もはや、職人の手仕事というより、精密機械の組み立て作業を見ているかのようだった。
そして、最後の仕上げ。
『グラサージュ・ミロワール』。鏡のように輝く、チョコレートの上掛け。
健人は、一度、大きく息を吸い込むと、完璧な温度に調整されたグラサージュを、冷やし固めたケーキの上に、一気呵成に、流しかけた。
一瞬の、静寂。
チョコレートは、ケーキの表面を、まるで生き物のように滑らかに覆い尽くし、やがて、その動きを止めた。
そこにあったのは、スタジオの天井のライトを、完璧に反射する、深く、艶やかな、漆黒の鏡だった。
コメント欄に、感嘆のため息が溢れた。
ほぼ、同時に、海藤のモンブランも完成した。芸術的に絞られたマロンクリームの頂に、金箔が飾られている。華やかで、誰もが心惹かれる、スターの風格。
一方、健人のオペラは、ただ、静かに、そこにあった。派手さはない。しかし、その完璧な長方形、非の打ちどころのない水平な層、そして、鏡面の輝きは、見る者を圧倒する、静謐なオーラを放っていた。
健人は、ナイフを温め、そのオペラの、最初の一切れを、切り出した。
現れた、美しい断面。コーヒー、バタークリーム、ガナッシュ、そして生地が織りなす、完璧な縞模様。それは、もはや、お菓子ではなく、一つの建築物のように、荘厳ですらあった。
勝敗は、つけられなかった。否、つける必要がなかった。
海藤が、画面越しに、健人に語りかける。
「…参りました。その、一分の隙もない、完璧な技術。これこそが、本物の『オペラ』だ」
健人もまた、里奈の『さあ、今!』というインカムからの声に背中を押され、口を開いた。
「…あなたのモンブランこそ、華やかで、夢がある。僕には、作れないお菓子です。素晴らしかった」
お互いを、称え合う、二人の天才。
それは、バズチャンネル史上、最も再生回数が伸び、そして、最も炎上しなかった、最高の神回として、視聴者の記憶に、深く、刻まれた。
配信が終わり、機材の撤収が始まったスタジオで、健人は、海藤と、改めて、固い握手を交わした。
健人が、インカムを外すと、コントロールブースから、里奈が駆け寄ってきた。その顔は、涙と、そして、これまでにない、誇らかな笑顔で、くしゃくしゃになっていた。
健人は、そんな彼女を見て、自然に、笑みがこぼれた。
それは、諦めでも、愛想笑いでもない。心の底からの、本物の笑顔だった。
嵐は過ぎ去り、空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
---
**《ムッシュ・シュクル流:至高のオペラ完璧レシピ》**
※工程が多いため、数日に分けて作ることをお勧めします。
**【材料:(約20cm×20cmの角型一台分)】**
**■ビスキュイ・ジョコンド**
* 卵白:120g(約4個分)
* グラニュー糖:30g
* アーモンドプードル:100g
* 粉糖:100g
* 全卵:3個
* 薄力粉:30g
* 溶かし無塩バター:30g
**■コーヒーシロップ**
* 水:100cc
* グラニュー糖:80g
* インスタントコーヒー:大さじ1
**■コーヒーバタークリーム**
* 卵黄:2個分
* グラニュー糖:80g
* 水:30cc
* 無塩バター:150g ※ポマード状に戻しておく
* インスタントコーヒー:大さじ1/2をお湯大さじ1で溶く
**■ガナッシュ**
* 生クリーム:100cc
* スイートチョコレート:100g
* 無塩バター:10g
**■グラサージュ・ミロワール**
* 水:60cc
* グラニュー糖:120g
* ココアパウダー:40g
* 生クリーム:80cc
* 板ゼラチン:5g ※水でふやかしておく
**【作り方】**
1. **ビスキュイ・ジョコンドを焼く。**
卵白にグラニュー糖を加え、固いメレンゲを作る。別のボウルでアーモンドプードル、粉糖、全卵を白っぽくなるまで混ぜ、薄力粉を加えて混ぜる。メレンゲの1/3を加えてなじませ、残りのメレンゲと溶かしバターを加え、さっくりと混ぜる。
天板に生地を平らに伸ばし、200℃のオーブンで10~12分焼く。冷めたら同じ大きさに3枚切り分ける。
2. **コーヒーシロップを作る。**
水とグラニュー糖を火にかけ、溶けたらコーヒーを加えて混ぜ、冷ます。
3. **コーヒーバタークリームを作る。**
鍋に水とグラニュー糖を入れ118℃まで煮詰める。泡立てた卵黄に、このシロップを少しずつ加えながら、白くもったりするまで混ぜ続ける(パータ・ボンブ)。
ポマード状のバターを少しずつ加えながら混ぜ、最後にコーヒー液を加えて混ぜ合わせる。
4. **ガナッシュを作る。**
生クリームを火にかけ、沸騰直前で火から下ろし、刻んだチョコレートに加えて溶かす。バターも加えて混ぜ、なめらかにする。
5. **組み立てる。**
1枚目の生地にコーヒーシロップを打ち、バタークリームの半量を塗る。2枚目の生地を乗せ、シロップを打ち、ガナッシュを全て塗る。3枚目の生地を乗せ、シロップを打ち、残りのバタークリームを塗り、表面を平らにならす。冷凍庫でしっかりと冷やし固める。
6. **グラサージュを作り、仕上げる。**
水、グラニュー糖、ココア、生クリームを火にかけ、混ぜながら沸騰させる。火から下ろし、ふやかしたゼラチンを加えて溶かす。人肌程度に冷ます。
冷やし固めたケーキの上に、一気に流しかけ、パレットナイフで一度だけならす。冷蔵庫で冷やし固める。
縁を温めたナイフで切り落とし、形を整え、金箔などを飾れば完成。
---
あれほど空を支配していた入道雲は姿を消し、高く、澄み渡った空に、刷毛で描いたような筋雲がたなびいている。太陽の光は、夏のそれとは違い、鋭さを潜めて、どこか柔らかく、金色を帯びていた。その光が、長い影をアスファルトの上に落とし、世界の輪郭を、穏やかに、くっきりとさせていた。
健人の通勤路では、道の脇から、金木犀の、甘く、それでいて少し切ない香りが漂ってくる。蝉の狂騒的な鳴き声は、いつしか、草むらから聞こえる、りん、りん、という涼やかな鈴虫の音色に変わっていた。季節は、着実に、その歩みを進めている。
健人の日常もまた、新しい季節を迎えていた。
あの雨上がりの虹の日から、一ヶ月。彼と里奈の関係は、すっかり様変わりしていた。そこにはもう、無茶振りを繰り返すディレクターと、それに怯える気弱な演者、という構図はない。あるのは、互いの領域を尊重し、一つの目標に向かって進む、対等なパートナーとしての信頼関係だった。
休止していた「バズチャンネル」は、正式な謝罪動画を公開した後、沈黙を保っていた。しかし、その水面下で、二人は、何度も、何度も、話し合いを重ねていた。次に作るべきお菓子について。そして、次に目指すべき、番組の形について。
健人は、もう、自分の意見を押し殺すことはなかった。里奈もまた、彼の言葉に、真摯に耳を傾けた。それは、健人にとって、驚くほど、心地の良い共同作業だった。
そんなある日のことだった。
里奈が、興奮した様子で、健人の元へ駆け込んできた。
「健人さん!大変です!見てください!」
彼女が見せたスマートフォンの画面には、ある動画が映し出されていた。それは、爽やかイケメンパティシエとして名高い、海藤海(かいとう かい)の、人気料理番組の切り抜きだった。
海藤は、番組の最後で、カメラに向かって、真摯な表情で語りかけていた。
『近頃、ネットで話題のパティシエ、「ムッシュ・シュクル」さんの配信を、僕も拝見しました。その技術、そして何より、どんな逆境にも負けない、お菓子作りへの誠実な姿勢に、同じ職人として、深く感銘を受けました』
彼は、あの第七回の配信についても触れ、心を痛めていると語った。
『だから、提案があります。ムッシュ・シュクルさん。もし、よろしければ、僕と、ライブで、お菓子作り対決をしませんか?勝敗を決めるためじゃありません。お互いの技術と情熱をぶつけ合って、最高の作品を作り上げる。その過程を、視聴者の皆さんに見届けてもらう。それこそが、僕たちパティシエができる、最高のエンターテイメントだと思うんです。共に、お菓子作りの素晴らしさを、世界に示しましょう』
それは、宣戦布告などではなかった。一人の職人から、もう一人の職人へ送る、最大限の敬意と、挑戦状だった。
「…どうしますか?」
里奈が、固唾をのんで尋ねる。
数ヶ月前の健人ならば、間違いなく、その場で固まり、逃げ出していただろう。
しかし、今の彼は違った。
彼は、海藤の、まっすぐな瞳を見つめ返すと、静かに、しかし、はっきりと頷いた。
「…やります」
そして、運命の配信の日がやってきた。
舞台は、もはや、あの薄暗い地下室ではなかった。「バズチャンネル」は、けして大きくはないが、プロ仕様の調理器具が揃った、清潔なキッチンスタジオを借り切っていた。磨き上げられたステンレスの調理台が、天井のLEDライトを、静かに反射している。複数のカメラが、それぞれ違う角度から、健人の手元を狙っていた。
そこへ、海藤海が、爽やかな笑顔と共に現れた。
「はじめまして、ムッシュ・シュクルさん。いや、佐藤健人さん。お会いできて、光栄です」
テレビで見るそのままの、気さくで、嫌味のない立ち振る舞い。彼は、健人の前に立つと、すっと右手を差し出した。
「あなたの作るお菓子、本当に素晴らしい。今日は、楽しみにしています」
「…こちらこそ」
健人は、その手を、力強く握り返した。言葉は少なくとも、二人の間には、職人同士にしか分からない、静かで、熱い火花が散っていた。
午後八時。伝説となるであろう、世紀のライブ配信が始まった。
画面は、左右に二分割されている。左には、最新鋭の機材が並ぶ、海藤の華やかなスタジオ。右には、プロ仕様ではあるが、どこか手作り感の残る、「バズチャンネル」のスタジオ。
里奈は、今回は、カメラの前にいない。ディレクターとして、インカムをつけ、コントロールブースから、健人に指示を送っている。
『健人さん、聞こえますか?リラックスして。いつもの、あなたのままで』
その声は、健人の心を、不思議と落ち着かせた。
対決のテーマは、『クラシック・フレンチ・パティスリー』。
海藤が選んだのは、秋の味覚の王様、栗を使った『モンブラン』。
そして、健人が選んだのは。
「…オペラを作ります」
健人の、静かな宣言が、スタジオに響いた。
オペラ。コーヒーシロップを染み込ませたアーモンド生地、コーヒー風味のバタークリーム、チョコレートガナッシュ。何層にも重なる、複雑な工程と、寸分の狂いも許されない、精密な技術を要求される、フランス菓子の至宝。それは、健人の、再起をかけた、決意表明だった。
配信が始まる。まず、生地作りからだ。
「オペラの生地は、ビスキュイ・ジョコンド。アーモンドプードルを主体とした、しっとりとしたスポンジです」
健人の声は、もう、震えていなかった。マイクを通して、彼の、落ち着いた、明瞭な声が、視聴者の耳に届く。その手元を、カメラが、的確に捉えていく。
『健人さん、最高です。その手元、今、アップで抜いてます』
里奈の、的確な指示が、インカムから飛ぶ。
左の画面では、海藤が、流れるような手つきでマロンクリームを作りながら、栗にまつわる軽快なトークで、視聴者を魅了している。
右の画面では、健人が、バタークリームの乳化について、科学的な見地から、淡々と、しかし、分かりやすく解説している。
エンターテイナーと、エデュケーター。対照的な二人のスタイルが、画面の中で、見事なコントラストを描いていた。
生地が焼きあがり、クリームの準備も整った。いよいよ、組み立ての工程だ。
コーヒーシロップを、刷毛で、丁寧に、生地に染み込ませていく。その上に、バタークリームを、パレットナイフで、ミリ単位の均一さで塗り広げる。チョコレートガナッシュを重ね、また生地を乗せる。その、幾何学的なまでの、精密な作業。それは、もはや、職人の手仕事というより、精密機械の組み立て作業を見ているかのようだった。
そして、最後の仕上げ。
『グラサージュ・ミロワール』。鏡のように輝く、チョコレートの上掛け。
健人は、一度、大きく息を吸い込むと、完璧な温度に調整されたグラサージュを、冷やし固めたケーキの上に、一気呵成に、流しかけた。
一瞬の、静寂。
チョコレートは、ケーキの表面を、まるで生き物のように滑らかに覆い尽くし、やがて、その動きを止めた。
そこにあったのは、スタジオの天井のライトを、完璧に反射する、深く、艶やかな、漆黒の鏡だった。
コメント欄に、感嘆のため息が溢れた。
ほぼ、同時に、海藤のモンブランも完成した。芸術的に絞られたマロンクリームの頂に、金箔が飾られている。華やかで、誰もが心惹かれる、スターの風格。
一方、健人のオペラは、ただ、静かに、そこにあった。派手さはない。しかし、その完璧な長方形、非の打ちどころのない水平な層、そして、鏡面の輝きは、見る者を圧倒する、静謐なオーラを放っていた。
健人は、ナイフを温め、そのオペラの、最初の一切れを、切り出した。
現れた、美しい断面。コーヒー、バタークリーム、ガナッシュ、そして生地が織りなす、完璧な縞模様。それは、もはや、お菓子ではなく、一つの建築物のように、荘厳ですらあった。
勝敗は、つけられなかった。否、つける必要がなかった。
海藤が、画面越しに、健人に語りかける。
「…参りました。その、一分の隙もない、完璧な技術。これこそが、本物の『オペラ』だ」
健人もまた、里奈の『さあ、今!』というインカムからの声に背中を押され、口を開いた。
「…あなたのモンブランこそ、華やかで、夢がある。僕には、作れないお菓子です。素晴らしかった」
お互いを、称え合う、二人の天才。
それは、バズチャンネル史上、最も再生回数が伸び、そして、最も炎上しなかった、最高の神回として、視聴者の記憶に、深く、刻まれた。
配信が終わり、機材の撤収が始まったスタジオで、健人は、海藤と、改めて、固い握手を交わした。
健人が、インカムを外すと、コントロールブースから、里奈が駆け寄ってきた。その顔は、涙と、そして、これまでにない、誇らかな笑顔で、くしゃくしゃになっていた。
健人は、そんな彼女を見て、自然に、笑みがこぼれた。
それは、諦めでも、愛想笑いでもない。心の底からの、本物の笑顔だった。
嵐は過ぎ去り、空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
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**《ムッシュ・シュクル流:至高のオペラ完璧レシピ》**
※工程が多いため、数日に分けて作ることをお勧めします。
**【材料:(約20cm×20cmの角型一台分)】**
**■ビスキュイ・ジョコンド**
* 卵白:120g(約4個分)
* グラニュー糖:30g
* アーモンドプードル:100g
* 粉糖:100g
* 全卵:3個
* 薄力粉:30g
* 溶かし無塩バター:30g
**■コーヒーシロップ**
* 水:100cc
* グラニュー糖:80g
* インスタントコーヒー:大さじ1
**■コーヒーバタークリーム**
* 卵黄:2個分
* グラニュー糖:80g
* 水:30cc
* 無塩バター:150g ※ポマード状に戻しておく
* インスタントコーヒー:大さじ1/2をお湯大さじ1で溶く
**■ガナッシュ**
* 生クリーム:100cc
* スイートチョコレート:100g
* 無塩バター:10g
**■グラサージュ・ミロワール**
* 水:60cc
* グラニュー糖:120g
* ココアパウダー:40g
* 生クリーム:80cc
* 板ゼラチン:5g ※水でふやかしておく
**【作り方】**
1. **ビスキュイ・ジョコンドを焼く。**
卵白にグラニュー糖を加え、固いメレンゲを作る。別のボウルでアーモンドプードル、粉糖、全卵を白っぽくなるまで混ぜ、薄力粉を加えて混ぜる。メレンゲの1/3を加えてなじませ、残りのメレンゲと溶かしバターを加え、さっくりと混ぜる。
天板に生地を平らに伸ばし、200℃のオーブンで10~12分焼く。冷めたら同じ大きさに3枚切り分ける。
2. **コーヒーシロップを作る。**
水とグラニュー糖を火にかけ、溶けたらコーヒーを加えて混ぜ、冷ます。
3. **コーヒーバタークリームを作る。**
鍋に水とグラニュー糖を入れ118℃まで煮詰める。泡立てた卵黄に、このシロップを少しずつ加えながら、白くもったりするまで混ぜ続ける(パータ・ボンブ)。
ポマード状のバターを少しずつ加えながら混ぜ、最後にコーヒー液を加えて混ぜ合わせる。
4. **ガナッシュを作る。**
生クリームを火にかけ、沸騰直前で火から下ろし、刻んだチョコレートに加えて溶かす。バターも加えて混ぜ、なめらかにする。
5. **組み立てる。**
1枚目の生地にコーヒーシロップを打ち、バタークリームの半量を塗る。2枚目の生地を乗せ、シロップを打ち、ガナッシュを全て塗る。3枚目の生地を乗せ、シロップを打ち、残りのバタークリームを塗り、表面を平らにならす。冷凍庫でしっかりと冷やし固める。
6. **グラサージュを作り、仕上げる。**
水、グラニュー糖、ココア、生クリームを火にかけ、混ぜながら沸騰させる。火から下ろし、ふやかしたゼラチンを加えて溶かす。人肌程度に冷ます。
冷やし固めたケーキの上に、一気に流しかけ、パレットナイフで一度だけならす。冷蔵庫で冷やし固める。
縁を温めたナイフで切り落とし、形を整え、金箔などを飾れば完成。
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