【神スキル】人見知り天才パティシエの俺、ポンコツ美人ディレクターに無理やりやらされたお菓子作り配信が、なぜか”放送事故”るたびに伝説になって

Gaku

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第八話:追憶のアップルパイと、雨上がりの虹

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あの、悪夢のような配信が中断されてから、一週間が過ぎた。
八月も終わりに近づき、あれほど猛威を振るった太陽の力も、心なしか和らいで見える。朝晩の風には、秋の気配を運ぶ、かすかな涼やかさが混じり始めた。空は高く、雲は薄く引き伸ばされ、まるで巨大な刷毛で描かれたかのようだ。健人の住むアパートの近くにある小さな公園では、夕暮れ時になると、「カナカナカナ…」という、ヒグラシの鳴き声が響き渡る。それは、狂騒的だった蝉の大合唱とは違う、過ぎゆく夏を惜しむような、物悲しい旋律だった。

健人は、会社を休んでいた。
『体調不良』。それが、彼が会社に伝えた理由だった。しかし、体が悪いわけではない。心が、動かなかった。あの配信の後、彼は、自分の聖域だったはずのキッチンに、一度も立つことができずにいた。磨き上げられたステンレスの調理台は、ただ冷たく、静まり返っている。整然と並べられた調理器具たちは、まるで主を失った兵士のように、沈黙していた。
彼の心は、あの日の地下スタジオに、砕け散ったまま置き去りにされていた。プロとして、絶対に守らなければならない一線。それを、守れなかった。視聴者の前で、無様に、感情的に、全てを投げ出してしまった。その自己嫌悪が、鉛のように、彼の体をベッドに縫い付けていた。

一方、里奈もまた、抜け殻のようになっていた。
「バズチャンネル」のオフィスは、彼女の不在によって、まるで火が消えたように静かだった。デスクの上には、飲みかけでぬるくなったペットボトルと、手つかずの企画書が散乱している。彼女は、あの日以来、健人に連絡を取ることができずにいた。どんな言葉をかければいいのか、分からない。謝罪?励まし?そのどれもが、空々しく、彼の心をさらに傷つけるだけのような気がした。
彼女は、自分の犯した過ちの大きさを、噛み締めていた。視聴率や、話題性、スポンサー。そんな目先の成功に目がくらみ、一番大切にしなければならない、一人のクリエイターの、繊細で、尊い心を、土足で踏みにじってしまった。ディレクター失格だ。いや、人として、失格だ。
彼女は、アーカイブに残された、過去の配信を、何度も、何度も見返した。
事故に動じず、完璧なシュークリームを完成させた、第一回。
無茶苦茶なトッピングを、苦し紛れの哲学で芸術に昇華させた、第二回。
化学者の暴走を横目に、至高のフィナンシェを焼き上げた、第三回。
灼熱地獄の中、二人で協力して、奇跡のレアチーズを固めた、第五回。
そこに映っていたのは、いつも困ったような、諦めたような顔をしながらも、最後には、必ず、その圧倒的な技術と誠実さで、すべてを乗り越えてきた、一人の天才の姿だった。そして、その隣で、無邪気に、しかし最高の笑顔で、彼のお菓子を頬張る、自分の姿。
里奈の目から、涙がこぼれた。私は、この人の才能を、笑顔を、守らなければならなかったのに。

配信が中断された第七回のコメント欄は、炎上していた。しかし、その炎の矛先は、健人ではなく、里奈と、キッズタレントの事務所、そして「バズチャンネル」そのものに向けられていた。
『ムッシュは何も悪くない』
『プロの仕事を邪魔する環境を用意したディレクターが全部悪い』
『あんなの見せられたら、もう笑えない。ただただ、ムッシュが可哀想だった』
同情と、擁護。そして、運営に対する、厳しい批判。里奈は、その一つ一つを、胸に突き刺さるような痛みと共に、受け止めていた。

一週間が過ぎた、金曜日の午後。
空を覆っていた灰色の雲が切れ、久しぶりに、夕立が降った。地面を叩きつけるような激しい雨が、夏の間に積もった埃や、淀んだ空気を、すべて洗い流していく。
雨が上がると、空には、見たこともないほど、大きく、鮮やかな虹が架かった。
その虹を、健人は、自室の窓から、ぼんやりと眺めていた。
その時、アパートのチャイムが鳴った。
健人は、無視しようとした。しかし、チャイムは、諦めることなく、何度も、何度も鳴り続けた。彼は、重い体をなんとか起こすと、玄関のドアを開けた。
そこに立っていたのは、田中里奈だった。
彼女は、雨に濡れたのか、髪は少し乱れ、その手には、スーパーのビニール袋を提げていた。その顔は、憔悴しきっていたが、瞳には、強い決意の色が宿っていた。
「……」
「……」
長い、沈黙。
先に口を開いたのは、里奈だった。
「ごめんなさい」
彼女は、深く、深く、頭を下げた。
「あなたの才能を、あなたの心を、私は、自分の都合で、めちゃくちゃにしてしまいました。どんなに謝っても、許されないことをしたと思っています。ディレクターとして、人として、私は、失格です」
健人は、何も言わなかった。
「もう、番組のことは、考えなくていいです。スポンサーにも、事務所にも、私が全部、頭を下げて、話をつけます。だから…」
里奈は、顔を上げた。その目には、涙が溢れていた。
「だから、お願い。お菓子作りを、嫌いにならないで」
その、震える声。それは、健人の心の、固く閉ざされた扉を、静かに、ノックした。

里奈は、持っていたビニール袋を、健人に差し出した。
「…これ」
中には、少し不揃いな、真っ赤なりんごと、バター、そして、シナモンの小瓶が入っていた。
「あなたが、前に、好きだって言っていたから。おばあちゃんの、思い出の味だって…」
アップルパイ。
健人が、菓子作りの世界に足を踏み入れる、きっかけとなった、原点の味。
健人は、その袋を、無言で受け取った。
「じゃあ、私…」
里奈が、帰ろうと、背を向けた、その時。
「…あの」
健人が、一週間ぶりに、まともな声を発した。
「もし、よかったら…見て、いきませんか」
「え…」
里奈が、驚いて振り返る。
「虹が、消えるまで」
健人は、そう言って、自分の城であり、聖域である、キッチンへと、ゆっくりと歩いていった。

久しぶりに立つ、キッチン。
健人は、まず、手を洗い、エプロンを締めた。その、いつもの儀式が、強張っていた彼の心を、少しずつ、解きほぐしていく。
里奈は、部屋の隅で、息を殺すように、その様子を見守っていた。
健人は、りんごの皮を、薄く、途切れることなく、剥いていく。しゃり、しゃり、という、心地よい音。
「祖母のアップルパイは、少し、変わっていました」
健人は、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
「パイ生地は、市販の冷凍パイシート。フィリングも、ただ、りんごを砂糖とシナモンで煮るだけ。でも、一つだけ、違うところがあった」
彼は、りんごを薄切りにすると、鍋に入れ、砂糖とバター、シナモンを加えて、火にかけた。甘く、懐かしい香りが、部屋に立ち込める。
「祖母は、必ず、隠し味に、ほんの少しだけ、醤油を入れました」
「醤油…?」
「はい。甘さを、引き締めるためだって。子供の頃の僕には、それが、魔法のように思えたんです」
りんごが、くたくたと、美しい飴色に煮詰まっていく。
健人は、冷凍パイシートを伸ばし、型に敷き、その上に、フィリングを乗せていく。
彼の動きには、もう、迷いはなかった。それは、配信で見せるような、プロのパティシエの動きではなく、ただ、大切な思い出を、慈しむような、穏やかで、優しい手つきだった。

オーブンが、静かに、稼働を始める。
待っている間、二人の間に、会話はなかった。ただ、窓の外の、少しずつ薄れていく虹と、オーブンの中から漂ってくる、甘い香りが、その空間を満たしていた。
やがて、焼き上がりを告げる音が鳴る。
オーブンから取り出されたアップルパイは、少し不格好で、家庭的な、しかし、最高に美味しそうな焼き色をしていた。
健人は、その一切れを、里奈の前に、そっと置いた。
里奈は、それを、ゆっくりと口に運んだ。
サクサクのパイ生地。熱々の、とろりとしたりんご。シナモンの香り。そして、後から、ほんのかすかに感じる、醤油の香ばしさと、塩味。
それは、ただ甘いだけではない。どこか、懐かしくて、切なくて、そして、どうしようもなく、優しい味だった。
「…おいしい」
里奈の目から、また、涙がこぼれた。しかし、それは、後悔の涙ではなかった。
健人は、その顔を見て、ほんの少しだけ、笑った。
「ありがとうございます」

窓の外を見ると、虹は、もう、消えていた。
しかし、二人の心の中には、雨上がりの空にかかる、新しい虹が、確かに、見えていた。

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**《おばあちゃんの思い出アップルパイ・ムッシュシュクルアレンジ》**

**【材料:(直径18cmパイ皿一台分)】**

* 冷凍パイシート:2枚
* りんご(紅玉やふじなど、酸味のあるものがおすすめ):2個
* グラニュー糖:60g
* 無塩バター:20g
* シナモンパウダー:小さじ1/2
* レモン汁:大さじ1
* 醤油:小さじ1/4(隠し味)
* 卵黄(塗り卵用):1個分

**【作り方】**
1.  **フィリングを作る。**
    りんごは皮をむき、芯を取って、8等分のくし切りにし、さらに5mm厚のいちょう切りにする。
    鍋にりんご、グラニュー糖、バター、シナモンパウダー、レモン汁を入れ、中火にかける。
    木べらで時々混ぜながら、りんごがしんなりとし、水分が飛んで、全体が飴色になるまで煮詰める。
    火から下ろす直前に、隠し味の醤油を加え、さっと混ぜ合わせる。バットなどに広げ、完全に冷ましておく。
2.  **パイ生地を準備する。**
    冷凍パイシートを、常温に5~10分ほど置き、少し柔らかくする。
    一枚を、打ち粉をした台の上で、型より一回り大きく伸ばし、パイ皿に敷き込む。フォークで底に数カ所穴を開ける。
    もう一枚のパイシートは、1cm幅の帯状に切り分けておく。
3.  **組み立てと焼成。**
    オーブンは200℃に予熱しておく。
    敷き込んだパイ生地の上に、冷ましたフィリングを、平らになるように詰める。
    帯状に切ったパイシートを、フィリングの上に、格子状に編み込むように乗せていく。縁の余分な生地は、切り落とす。
    表面に、刷毛で、溶いた卵黄を塗る。
4.  200℃のオーブンで20分焼き、その後180℃に温度を下げて、さらに20~25分、全体に美味しそうな焼き色がつくまで焼く。
5.  焼きあがったら、粗熱を取る。温かいまま、バニラアイスを添えて食べるのがおすすめ。

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