夏空の鎮魂歌(レクイエム)は、君の的外れな推理から始まった

Gaku

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第一話:噂と西日と彼女の哲学

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6月。

梅雨入り前の、束の間の晴れ間。


空はまるで、誰かがアクリル絵の具を限界まで水で薄めて塗りたくったような、淡く、それでいて暴力的な青色をしていた。


湿り気をたっぷりと含んだ南風が、グラウンドの砂埃と、刈られたばかりの芝の匂いを教室まで運んでくる。

窓際の席に座る俺、天野陽介の額には、じっとりとした汗が玉のように浮かんでいた。


開け放たれた窓の外では、生命力の権化のような夏の木々が、風に煽られてざわめいている。


葉の一枚一枚が太陽の光を貪欲に反射し、きらきらと、ちかちかと、落ち着きなく明滅を繰り返す。

その光の粒子が、埃っぽくもどこか懐かしい教室の空気の中を、無数に舞っていた。まるで、目に見える形を持った「時間」そのものみたいだった。



「――で、陽介。期末の古典、赤点だったらジュース奢りな」


隣の席で、大林健太がニヤニヤしながら言った。

机に頬杖をつき、その巨体を持て余している。

バスケ部の次期エースで、俺の親友で、そして古典の成績に関しては万年最下位を争う戦友だ。


「はっ、お前にだけは言われたくねーよ。前回のテスト、お前が俺に勝てたの、体育だけじゃねえか」


「うるせえ。古典はな、ロマンなんだよ。作者の気持ちを考えろとか言うけどな、千年も前の人間の気持ちなんて、わかるわけねえだろ。それより、今この瞬間の俺の喉の渇きをだな」


「知るか」


くだらない応酬。

昼下がりの気だるい空気。

チョークが黒板を叩く乾いた音。

女子生徒たちの、ころころと鈴が転がるような笑い声。

全てが当たり前で、永遠に続くかのように思える、ありふれた高校二年生の日常。


この、退屈で、最高に平和な日常が、あんな奇妙な形で崩れ始めるなんて、この時の俺は、まだ知る由もなかった。


全ての始まりは、健太との、もう一つのくだらない賭けだった。


その日の放課後、俺たちは体育館の倉庫でバスケットボールの空気圧を調整していた。

むわりと立ち込めるゴムと汗の匂い。

西日が倉庫の小さな窓から差し込み、空気中を舞う白い埃を一本の光の筋として浮かび上がらせている。


「陽介、3P勝負な。負けた方が、"アレ"な」


「アレ?」


「決まってんだろ。ウチの学校の七不思議、一個調べてレポート提出。もちろん、俺に」


健太が悪魔のように笑う。

私立霧ヶ峰高校。

創立百二十年を誇るこの伝統校には、まあ、ありがちなことに、古くさい伝説や噂話が飽和状態になるほど存在していた。


「またそれかよ。お前、ほんと好きだな、そういうの」


「ロマンだろ? ほら、やるのかやらないのか?」


挑発的な目。

乗らない手はない。

「いいぜ。ただし、俺が勝ったら、次の練習試合のスタメン、俺に譲れよ」

「望むところだ!」

結果から言えば、俺は負けた。

5本勝負の3本先取。

2対2で迎えた最後の1本。

俺が放ったシュートは、まるで何かに嫌われたかのようにリングに弾かれ、健太のシュートは、面白いようにネットを揺らした。

「っしゃあ!」

体育館に響き渡る健太の雄叫び。

俺は床にへたり込んだ。

床板は、長年のワックスがけでテカテカと黒光りし、俺の情けない顔をぼんやりと映し出していた。


「というわけで、陽介君。レポート、楽しみにしてるぜ。テーマは、そうだな……最近、一部で噂になってるやつ、あったよな?」

「噂?」

「ほら、なんだっけな……"知識を喰らうマンドラゴラ"、だ」

健太が思い出したように言った。

「なんだそりゃ。ドラクエのモンスターかよ」

「知らねえけど、なんか、植物園の奥にあって、見た奴は頭が空っぽになる、みたいな話だぜ。最近、テストの成績が良かったやつが、急にバカになったとか、なってないとか」

「……アホくさ」

俺は立ち上がりながら、ため息をついた。

七不思議、というより、ただのゴシップじゃないか。

だが、約束は約束だ。

俺は、そのふざけた名前の伝説を調べるため、練習後の気だるい体を引きずって、図書館へと向かうことになった。

図書館棟は、本館から渡り廊下で繋がった別館にある。

古い煉瓦造りの、学内でも一際古風な建物だ。

ぎい、と重い音を立てて樫の扉を開ける。

途端に、古い紙とインク、そして微かなカビの匂いが鼻腔をくすぐった。

シーンと静まり返った空間。

高い天井。

床に届きそうなほど大きな縦長の窓からは、オレンジ色を通り越して、血のような赤色に染まった西日が差し込んでいる。

その光が、図書館の床に敷かれた深紅の絨毯の毛足をくっきりと浮かび上がらせ、まるで血の川の上を歩いているような錯覚に陥らせた。

俺の運動靴が、しん、とした床の上で、きゅ、きゅ、と間抜けな音を立てる。

一歩進むごとに、自分の足音がやけに大きく響いて、なんだか悪いことをしているような気分になった。

郷土史や、学校の歴史に関する資料がまとめられた書架は、一番奥にあった。

背の高い書架が迷路のように入り組んでいて、その影は西日のせいでどす黒く、どこまでも伸びている。


『霧ヶ峰高校百年史』という、鈍器になりそうなほど分厚い本を探し出す。

表紙は色褪せ、角は擦り切れていた。

ぱらぱらとページをめくる。

古い写真、歴代校長の挨拶、改築の記録。

退屈な情報の羅列だ。

「マンドラゴラ、ねえ……」

どこにも、そんな記述は見当たらない。

当たり前か。

諦めて本を棚に戻そうとした、その時だった。

「――あなたも、"マンドラゴラの呪い"に興味があるのね?」

鈴が鳴るような、しかしどこか体温の低い、透き通った声だった。

驚いて振り返ると、書架の影から、一人の女子生徒が、ぬ、と姿を現した。

月読恋。

2年A組。

俺と同じ学年だが、クラスは違う。

彼女のことは、もちろん知っていた。

知らない人間は、この学校にはいないだろう。

腰まで届きそうな、濡れたような黒髪。

陶器のように白い肌。

長いまつ毛に縁取られた、大きな瞳。

その造形は、美術室にある石膏像のように完璧で、人間味がないほど整っていた。

成績は常に学年トップ。

教師からの信頼も厚い。

まさに才色兼備。

完璧超人。

だが、彼女には、その完璧さを補って余りある、一つの大きな欠点があった。

彼女は、重度のオカルトマニアなのだ。

そして、そのことは、学内ではあまりにも有名だった。

可愛いのにモテないのは、男子が勇気を出してラブレターを渡しても、「ありがとう。ところで、あなたの守護霊はイノシシに似ているわね」などと真顔で返すからだ、という伝説まである。

今、彼女がその白い手にしている本も、表紙に禍々しい山羊の絵が描かれた、分厚い洋書だった。

どう見ても黒魔術の専門書だ。

「いや、俺は別に、呪いとかじゃなくて……」

「隠さなくてもいいわ。わかるもの。あなたのような"陽"の気に満ちた人間が、わざわざこんな陰鬱な場所に来るなんて、よほどの理由がない限りありえない」

月読は、感情の読めない瞳で俺をじっと見つめながら言った。

彼女の周りだけ、空気が数度低いような気がする。

「陽の気、とか言われてもな……」

「"知識を喰らうマンドラゴラ"。それは、ただの伝説ではないわ。既に、最初の犠牲者が出ている」


彼女は声を潜めた。

その仕草には、妙な真実味があった。

「犠牲者?」

「ええ。3年の、確か……高橋先輩。期末テストの総合成績で、学年一位だった人よ。彼が、テストが終わった直後から、奇妙な記憶障害を訴えているという話、あなたの耳にも入っているでしょう?」

言われてみれば、そんな噂を小耳に挟んだ気もする。

3年生のトップだった人が、急に簡単な英単語も思い出せなくなった、とか。

よくあるテスト後の燃え尽き症候群か、プレッシャーによる心因性のものだと思っていたが。


「彼、言っているらしいわ。『植物園で、光る植物を見た』って」

月読の目が、微かに細められる。

その瞳の奥が、好奇心なのか、あるいは別の何かなのか、爛々と光っているように見えた。


「マンドラゴラは、元々、強力な幻覚作用を持つ薬草。根が人の形に似ていることから、引き抜くと悲鳴を上げ、聞いた者は死ぬ、という伝説が生まれた。そして、その実は"知恵の実"とも呼ばれ、錬金術師たちはそれを賢者の石の材料にしようとしたの」


彼女は、まるで暗記した詩を朗読するかのように、淀みなく語りだした。

「今回の事件は、その亜流。霧ヶ峰高校の植物園に根付いたマンドラゴラは、人間の"知識"そのものを糧に成長する特殊な変異体なのよ。だから、知識が豊富な人間、つまり成績優秀者を狙う。高橋先輩は、その最初の生贄に選ばれたのよ!」


キラキラした目で、とんでもないことを断言する。

長い黒髪が、西日を吸い込んで鈍い光を放っていた。


やっぱりヤバい奴だ。


俺は心の中で確信した。

健太のやつ、とんでもない罰ゲームをさせやがって。


「……そうか。じゃあ、犯人はマンドラゴラなんだな。わかった。助かったよ」

俺は適当に相槌を打って、その場を去ろうとした。

これ以上関わったら、俺の"陽の気"とやらも吸い取られそうだ。


「待って」

しかし、月読は俺の腕を掴んだ。

華奢な見た目に反して、その力は意外に強かった。

ひんやりとした彼女の指先の感触が、やけにリアルだった。

「この事件、不可解な点が一つだけあるの」
「……まだあんのかよ」

「ええ。高橋先輩が倒れる直前、植物園で、彼と一緒にいた人物がいるらしいのよ」

その言葉だけは、彼女のオカルトな持論とは違い、妙にざらりとした手触りを持っていた。

「一緒にいた人物?」

「ええ。……一条君よ」

一条雅。

その名前を聞いて、俺は思わず眉をひそめた。

2年C組。

演劇部の部長。

少女漫画から抜け出してきたような、王子様系のイケメン。

その人当たりの良さと、誰にでも優しい立ち居振る舞いで、女子生徒からの人気は絶大。

もちろん、男子からの評判も悪くない。

俺とは違うタイプの、学園のもう一人の「太陽」のような男だ。

そんな奴が、なぜ。

「一条君が、高橋先輩と? あいつら、特に接点なんてなかったはずだぞ」

「ええ、だから不可解なの。一条君は、高橋先輩が倒れた時も、付き添って保健室まで運んだらしいわ。とても、心配しているように見えた、って」

月読は、俺の腕を掴んだまま、じっと俺の目を見る。

その瞳の奥で、何かが揺らめいていた。

それは、単なる好奇心だけではない、もっと複雑で、熱を帯びた感情のように思えた。

「なあ、あんた、なんでそんなことまで知ってるんだ?」

俺が尋ねると、彼女はふっと表情を緩め、掴んでいた手を離した。

「私は、私自身の哲学のために、この事件の真相を解き明かさなければならないの」


「哲学?」

「そう。……ねえ、天野君。あなた、"恋"と"愛"の違いについて、考えたことはある?」

唐突な質問だった。

あまりの脈絡のなさに、俺は言葉を失う。

マンドラゴラの話から、なぜ急に恋愛哲学になるんだ。

俺が戸惑っていると、彼女は構わずに続けた。

「恋というのは、生物の生存本能に根差した、麻薬的な欲求に過ぎないわ。異性に興味を持つための、いわば起爆装置。だから、目的のためなら手段を選ばないし、手に入れた途端に熱が冷めることもある。対象の価値ではなく、"欲しい"という欲求そのものが本質なのだから」

彼女は、図書館の窓から見える、燃えるような夕焼けに目を細める。

「でも、愛は違う。愛は、なくなることがないもの。例えば、親が子を思う気持ちのようにね。どんなに裏切られても、憎み合っても、その根底にあるものは決して消えない。それこそが、本物の感情」

彼女は再び俺に向き直った。

「学園で起きる事件のほとんどはね、このくだらない"恋"という感情が引き起こすのよ。嫉妬、独占欲、劣等感……。でも、ごく稀に、本物の"愛"が原因で起こる事件がある。私は、それを見極めたいの。今回の事件が、どちら側なのかをね」

長い独白だった。

俺は、ただ呆然と彼女の話を聞いていた。

この女は、本物だ。

本物の、変人だ。

だが、同時に、目が離せなかった。

彼女の語る言葉には、人を惹きつける奇妙な引力があった。

彼女の周りだけ、世界の法則が違うような、そんな感覚。


「……わかったよ」

俺は、気づけば口を開いていた。

「その、あんたの哲学とやらがどういうもんか知らねえけど。俺も、少しだけ、その事件に興味が湧いてきた」

罰ゲームのため、という言い訳は、もうどうでもよくなっていた。

ただ、この女が、この訳のわからない事件の果てに、一体何を見つけようとしているのか。

それを証明したくなったのだ。

俺の言葉を聞いて、月読恋は、初めて、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。

それは、夕闇に咲く月下美人のような、儚く、美しい微笑みだった。

こうして、俺の退屈だった日常は終わりを告げた。

太陽のように明るい人気者の俺と、月のようにミステリアスなオカルト美少女。

住む世界が違うはずの俺たちが、学園の深い闇に潜む「謎」を追う、奇妙な共同戦線が結ばれた瞬間だった。

この先に、腹を抱えて笑うようなドタバタと、ティッシュ箱が必須になるような涙と、そして、想像を絶する真相が待ち受けているとも知らずに。

図書館の窓の外では、最後の西日が、校舎を黒いシルエットに変えて沈んでいこうとしていた。

どこか遠くで、カラスが甲高い声で鳴いている。

それはまるで、これから始まる奇妙な物語の、開幕を告げるファンファーレのようだった。


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