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第十話:残響と日常と掌の上の真実
しおりを挟む遠くから聞こえ始めたサイレンの音は、まるで悪夢の終わりを告げる目覚まし時計のように、しかし残酷なほどゆっくりと、確実に、こちらへと近づいてきていた。
東の空は、もうすっかり白んでいた。夜の闇を溶かした朝焼けの光が、コンクリートの屋上を、そこに立つ俺たちを、平等に照らし出していく。その光は、あまりに清浄で、神々しくて、昨夜の間にこの場所で起きた、人間のどす黒い感情のぶつかり合いや、流された涙の跡を、全て洗い流してくれるかのようだった。
だが、洗い流されはしない。
朝の冷たい空気が、肌を刺す。風が、乱闘で火照った俺たちの頬を、優しく、しかしどこか醒めたように撫でていく。屋上の惨状――疲れ果てて座り込む仲間たち、恐怖で未だに虚ろな表情の高橋先輩、そして、昨夜の激しい感情の残響が、朝の光の下に、くっきりと白日の下に晒されていた。
やがて、数人の警察官が、慌ただしい足音と共に屋上へとなだれ込んできた。
彼らは、まず、一条正臣から事前に連絡を受けていたのだろう、座り込んでいる高橋先輩へと駆け寄り、その安否を確認する。そして、俺たち一人一人の顔を、値踏みするように、怪訝そうな目で見回した。
「君たちが、夜間に学校に不法侵入した生徒たちだね」
年配の、疲れた顔をした刑事が、事務的な口調で言った。その目には、面倒なことに巻き込まれた、という色がありありと浮かんでいる。
「事情を聞かせてもらおうか。一体、ここで何をしていた?」
俺たちは、顔を見合わせた。どこから、何を、話せばいい? 五年前の事件のことか、監視者のことか、それとも、一条正臣が全てを操っていたことか。
口火を切ったのは、氷川凛だった。
彼女は、震えながらも、刑事の前に進み出た。その瞳には、もう迷いはなかった。
「……私が、全部、お話しします。五年前、この場所で、私の友人、結城翔君が亡くなった時のこと。全て、私が知っていることを」
彼女の、その悲痛なまでの決意の告白に、しかし、刑事は、あからさまに億劫そうな顔で、小さくため息をついた。
「ああ、その話は、理事の一条先生から、ある程度は聞いているよ。『若者たちの、痴話喧DQNかのもつれと、少しばかりの思い込み』だってね。高橋君が、精神的に不安定になって、夜中に徘徊していたところを、君たちが保護した。そういうことで、いいんだろ?」
大人の権力。
それは、俺たちが想像していたよりも、ずっと巧妙で、そして分厚い壁だった。俺たちが、命がけでたどり着いたはずの真実は、たった一人の権力者の、その一言で、「若者たちの思い込み」という、ちっぽけで滑稽な物語に、いとも簡単にすり替えられてしまっていたのだ。
俺たちが、愕然として声も出せずにいる中、氷川だけは、それでも食い下がった。
「違います! あれは……!」
「はいはい、わかったから。詳しい話は、署でゆっくり聞かせてもらうよ。保護者の方にも、連絡させてもらうからね」
刑事は、彼女の言葉を、まるで聞く気がないかのように遮った。
世界は、何も変わらない。俺たちが、どんなに叫んでも、この分厚い壁の前では、無力なのかもしれない。
朝焼けの光が、皮肉なほどに、美しかった。
あれから、数日が過ぎた。
梅雨の晴れ間が続き、まるで世界が、あの夜のことなどすっかり忘れてしまったかのように、ただ、夏へと向かって突き進んでいる。
教室の窓から見える木々の緑は、日に日にその生命力を増し、むせ返るような匂いを風に乗せて運んでくる。気だるい午後の授業。黒板を叩くチョークの乾いた音。友人たちの、屈託のない笑い声。
全てが、あの夜の前と、何も変わらない日常。
だが、俺の目に映る世界は、もう、以前とはまるで違って見えていた。
廊下のワックスが反射する、午後の光の眩しさ。階段を上る、誰かの規則正しい足音。休み時間に、校庭から聞こえてくる、楽しげな喧騒。その、当たり前だったはずの全てが、今は、奇跡のように、かけがえのないものに感じられた。失いかけて、初めて、その価値に気づいたのだ。
もちろん、変わってしまったこともある。
一条雅と、氷川凛は、あの日以来、学校を休んでいる。警察の事情聴取が続いているのか、あるいは、ただ、学校に来られるような精神状態ではないのか。彼らが座っていた席は、ぽっかりと、大きな穴が空いたように、空虚だった。
高橋先輩は、再び病院に戻ったと聞いた。記憶は、戻らないままだという。
そして、結城隼人の行方も、俺たちにはわからなかった。
変わったのは、俺たちの関係もだ。
俺と、月読と、健太と、そして、学校には来ていないが、毎日メッセージをやり取りしている晶。
俺たち四人は、自然と、いつも一緒に過ごすようになっていた。
昼休み。俺たちは、あの屋上に、弁当を持って集まっていた。あの日、あれだけのことがあった場所なのに、今は、なぜか、この学校で一番、心が落ち着く場所に感じられた。
「それにしても、一条の親父、マジでむかつくな!」
健太が、唐揚げを大きな口に放り込みながら、憤慨したように言った。
「警察のデータベースにも、既に圧力がかかった形跡があるわ。関連ファイルのアクセス権限が、不自然なレベルまで引き上げられてる。手強い相手よ」
晶から送られてきたメッセージを読み上げながら、月読が、静かに付け加える。
「巨大な悪意の影は、まだ、私たちの頭上に、不気味に漂っているわ。……でも」
彼女は、自分の弁当箱から、綺麗に焼かれた卵焼きを箸でつまむと、俺の口元に、すっと差し出した。
「今は、この卵焼きという、ささやかで、しかし確かな"愛"を、噛みしめましょう。はい、天野君、あーん」
「いや、自分で食えるから!」
俺が慌てて身を引くと、彼女は、くすくすと、悪戯っぽく笑った。その笑顔は、これまでの彼女からは想像もできないほど、自然で、温かいものだった。
健太が、それを見て、ニヤニヤと俺たちを交互に見る。
周りの生徒たちからは、俺たちは、きっと、バスケ部のエースと、学年トップのオカルト美人と、ガリ勉の巨漢という、なんとも不思議で、ちぐはぐなグループに見えていることだろう。
だが、俺は、この、ちぐはぐな仲間たちが、今は、何よりも大切で、誇らしかった。
その日の放課後。俺たち四人は、再び、晶の部屋に集まっていた。
もう、ここが俺たちの作戦司令室だった。
「残された謎は、三つね」
月読が、ホワイトボードに書き出していく。
「一つ、一条正臣と、彼が手を組むかもしれない"音楽プロデューサー"という、本当の黒幕に、どう立ち向かうか」
「二つ、結城隼人君の、今後の動向。彼は、復讐を諦めたのかしら」
「そして、三つめ」
彼女は、きゅ、とペンを走らせた。
「この、マイクロSDカードの、パスワード」
ローテーブルの上に置かれた、黒く変色したロケットペンダント。この小さな金属片の中に、全ての真実が眠っている。
「健太君の鼻歌と、一条君が音楽室に残したスマホの音源。その二つを、AIで音響解析して、メロディの候補をいくつかまで絞り込んだわ」
晶が、いつになく、自信ありげな顔で言った。
「そのメロディを、楽譜のデータに変換し、さらに、それを特定の数列に置き換えるプログラムを組んだ。いくつか、パターンを試してみる」
晶の指が、キーボードの上を踊る。
モニターに、パスワード入力画面が表示され、そこに、自動で高速な文字列が打ち込まれては、エラーを返す。
一度、二度、三度。
俺たちは、固唾を飲んで、その光景を見守っていた。
そして、十数回目の試行。
『PASSWORD ACCEPTED』
緑色の、無機質な文字が、モニターに表示された。
「……開いた」
晶が、震える声で言った。
俺たちは、歓声を上げるのも忘れ、ただ、画面に釘付けになった。
フォルダが開かれ、その中に、たった一つだけ存在する、音声ファイル。
晶が、再生ボタンをクリックする。
スピーカーから、ノイズ混じりの、音声が流れ始めた。
それは、五年前の、結城翔の声だった。そして、彼の才能に目をつけた、あの音楽プロデューサーの、ねっとりとした、不快な声だった。
プロデューサーが、いかに巧みに、翔を唆し、一条を裏切るように仕向け、そして、彼を精神的に追い詰めていったか。その、生々しいやり取りの全てが、そこには記録されていた。
俺たちは、息をすることも忘れ、その声に聴き入っていた。
やがて、プロデューサーとの会話が終わり、長い、沈黙が訪れる。
もう、終わりか。
そう思った、その時。
再び、翔の声が、スピーカーから聞こえてきた。今度は、さっきまでとは違う、穏やかで、少しだけ、照れたような声だった。
『……雅へ』
それは、一条雅に向けられた、彼の、最後のメッセージだった。
『ごめんな。俺、弱いから、お前のいないところで、逃げ出しそうになってた。でも、やっぱり、お前と二人で作る音楽が、俺にとっては、一番大事なんだって、よくわかったんだ。……このデータは、俺が、ちゃんと戦うためのお守りだ。もし、俺に、何かあったら、これを使って、俺たちの音楽を、未来を、守ってくれ。……約束の場所で、また、一緒にピアノ、弾こうぜ。待ってるから』
音声は、そこで、終わっていた。
部屋には、沈黙が落ちた。
誰からともなく、静かに、涙がこぼれた。
彼の死は、決して、逃げではなかった。彼は、たった一人で、見えない敵と戦おうとしていたのだ。そして、親友との未来の「約束」を、守ろうとしていたのだ。
このデータは、復讐のための道具なんかじゃない。
未来へ繋ぐための、希望のバトンだった。
「……翔君の魂は、ずっと、ここにいたのね」
月読が、涙を拭いながら、静かに言った。
「私たちを、この真実へと、導くために。……これが、彼の"愛"の形よ」
俺は、掌の上にある、ロゲットペンダントを、強く、強く、握りしめた。
この、掌の上の、小さな真実。
これを、武器として、俺たちは、巨大な権力に立ち向かうべきなのか。
それとも。
俺は、仲間たちの顔を見回した。健太も、晶も、月読も、みんな、泣きながらも、まっすぐに、俺の目を見ていた。
俺は、窓の外に目をやった。
美しい、夕焼けが、街を、世界を、燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。
俺たちの戦いは、まだ、終わっていない。
いや、あるいは、今、ここから、本当に始まるのかもしれない。
俺は、静かに、しかし、強く、決意した。
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