15 / 15
第2部:王都への道
第15話『近道はだいたい近道ではなく、不良少女は時として幽霊と会話する』
しおりを挟む
人生における「近道」という言葉には、二種類の意味がある。 一つは、時間と労力を節約する賢い選択。 もう一つは、「急がば回れ」という先人の教訓を無視した結果、地獄のような泥沼にはまり込む罠である。 そして残念ながら、冒険において提示される近道は、九割九分が後者であるという法則がある。
砦を出発しようとした矢先、兵士からもたらされた情報は、まさにその「罠」への招待状だった。
「英雄殿、申し訳ない。街道が……魔獣の大群によって封鎖されました」
兵士は顔面蒼白で告げた。 王都へ続く正規の街道は、魔族の先遣隊によって完全に塞がれているという。正面突破を試みれば、数千の魔獣と正面衝突することになる。
「ならば、道は一つしかないな」 ヴァレリウスが、砦の壁に貼られた古地図を指差した。 正規ルートの脇に広がる、広大な森林地帯。 「『嘆きの森』。ここを抜ければ、魔獣の包囲網を回避して、王都の裏手に出られる」
その名前を聞いた瞬間、周囲の兵士たちが一斉にざわめき、数人が十字を切るような仕草をした。
「お、お待ちください! あそこは絶対の禁足地、『魔の森』です!」 兵士長が震える声で止める。 「かつての大戦で数万の兵士が命を落とした古戦場……。濃霧が晴れることはなく、生きて戻った者はいないと言われる、呪われた土地です。亡霊たちの怨嗟(えんさ)の声が、旅人の精神を狂わせるとか……」
(はい、決定。絶対に行かない)
ルーシャン・アークライトは心の中で即決した。 幽霊? 呪い? 精神汚染? お断りだ。物理的な熊や狼でさえ勘弁願いたいのに、実体のないホラー系は専門外もいいところだ。 彼はすかさず手を挙げた。
「じゃあ、ここで待ちましょう」 ルーシャンは満面の笑み(ひきつっている)で提案した。 「無理に進むことはない。魔獣がいなくなるまで、この砦で安全にお茶でも飲んで……」
「いいや、行けるぜ」 その提案を一蹴したのは、セラフィーナだった。 彼女は窓の外、鬱蒼(うっそう)と広がる黒い森を、獲物を狙う猫のような目で見つめていた。 「魔獣の大群と正面衝突するより、幽霊の相手をする方がまだマシだ。それに……」 彼女は鼻をくんくんと鳴らした。 「あの森、臭うんだよ。ただの腐敗臭じゃねぇ。もっとヤバいもんが隠れてる気配がする」
「え、臭うの? 僕は何も感じないけど……」 アルフォンスが不思議そうにする。
「アタシの鼻は特別製なんでね。行くぞ、英雄サマ。アンタなら幽霊の一匹や二匹、デコピンで除霊できるんだろ?」
できません。塩撒いて逃げるだけです。
だが、アウレリアも決意の表情で頷いてしまった。 「急ぎましょう。井戸に毒が撒かれた以上、王都の猶予はないわ」
多数決の原理(民主主義という名の暴力)により、ルーシャンの意見は黙殺された。 ロバのポテトだけが、「またかよ」と深いため息をつき、ルーシャンの袖を甘噛みして同情を示した。
* * *
「嘆きの森」は、物理的に「濡れて」いた。 足を踏み入れた瞬間から、空気が変わった。肌にまとわりつくような濃密な湿気。視界を遮る乳白色の霧は、まるで生き物のようにゆらゆらと蠢(うごめ)き、方向感覚を狂わせる。 上空は高い木々に覆われ、昼間だというのに薄暗い。 そして何より、静かすぎた。 鳥の声も、虫の声もしない。ただ、自分たちの足音と、ポテトの蹄の音だけが、水底のように響いている。
「……寒い」 クロエが身を震わせて、神官服の襟を合わせた。 気温が低いわけではない。体の芯が冷えるような、生理的な寒気だ。
ルーシャンは、ポテトの尻尾を握りしめて歩いていた。 怖い。 何が怖いって、何も起きないのが怖い。 お化け屋敷で、お化けが出てくる前の静けさが一番怖いのと同じ理屈だ。 この世界は「苦(ドゥッカ)」でできている。つまり、この静けさは、次に訪れるドデカい不幸への「タメ」に過ぎないのだ。
その時だった。
『…………ぇ……』
耳元で、何かが聞こえた。 風の音? いや、違う。 誰かの話し声のような、掠(かす)れた音。
「……ねえ、今、何か言わなかった?」 ルーシャンはビクリとして周囲を見回した。 仲間たちは怪訝(けげん)な顔をしている。
「いいえ? 風の音だけですけど」とアウレリア。 「君、疲れてるんじゃないかい?」とヴァレリウス。
気のせいか。 ルーシャンは安堵の息を吐こうとした。
『……かえ……せ……』 『……うらぎ……り……もの……』 『……いたい……さむい……』
いや、聞こえる。 今度はもっとはっきりと。一人や二人じゃない。 数百、いや数千の人々が、耳元でブツブツと恨み言を呟いているような、不快極まりないノイズ。
「うっ……!」 ルーシャンは両手で耳を塞いだ。 うるさい。なんだこれ。 頭の中に直接響いてくる。まるで、調子の悪いラジオの周波数を合わせようとして、ザーザーという雑音(ノイズ)を大音量で聞かされているようだ。
「……聞こえてんのか、アンタ」
隣を歩いていたセラフィーナが、鋭い視線を投げてきた。 彼女の顔色は悪い。いつもは不敵な彼女が、額に脂汗を浮かべ、虚空のあちこちを睨みつけている。
「セ、セラフィーナ? 君も聞こえるの?」
「聞こえるどころか、見えてるよ」 彼女は吐き捨てるように言った。 「うじゃうじゃいんのさ。そこにも、あそこにも。昔死んだ兵士の成れの果てが、行列作ってアタシらを見てやがる」
ヒィッ!! ルーシャンは飛び上がった。 見えない。僕には見えない。でも、音だけが聞こえる。 これは「行苦(ぎょうく)」――存在の底に流れる、不安なBGMのような苦しみだ。 姿が見えない分、想像力が恐怖を増幅させる。
『……こっちへ……おいで……』 『……お前も……こっちへ……』
霧が濃くなる。 仲間たちの姿が霞んでいく。 アウレリアたちが「ルーシャン? どこ?」と呼ぶ声が遠くなる。 代わりに、冷たい手が首筋に触れたような感覚。
「や、やめろ……来るな……」 ルーシャンは後ずさった。 精神力が削られていく。 六歳児のメンタル(中身は老人だが、老人も孤独や不安には弱い)には限界だった。
「チッ、囲まれたか」 セラフィーナがナイフを構え、ルーシャンの背中を護るように立った。 「おい英雄、しっかりしろ! 取り憑かれたら戻ってこれなくなるぞ!」
「む、無理だ……。怖い……帰りたい……静かにしてくれ……」
ルーシャンの願いは、英雄的な勝利ではない。 ただ、この不快なノイズを消してほしい。 静かな部屋で、温かいお茶を飲んで、古本を読んでいたい。 そのささやかな「平穏(涅槃)」を乱すものは、なんであれ許せない。
ノイズは大きくなる。 頭が割れそうだ。 『恨めしい』『悔しい』『痛い』 他人のネガティブな感情が、ゴミ箱から溢れたゴミのように雪崩れ込んでくる。
(もう、限界だ)
ルーシャンの中で、何かがプツンと切れた。 恐怖が一周回って、キレたのだ。 近所の工事現場の騒音に耐えかねた頑固ジジイのように、彼は爆発した。
「――うるさァァァァァいッ!!!!」
ルーシャンは叫んだ。 魔力など込めていない。ただの、心からの絶叫。 「黙れ!」「静かにしろ!」「僕を一人にしてくれ!」 その、純粋培養された「静寂への渇望(=滅諦への執着)」が、言葉という形をとって放出された。
瞬間。
キィィィィィィィン……。
空気が凍りついたような高い音が鳴り、森全体が震えた。 霧が、まるで巨大な換気扇に吸い込まれるように、一瞬で晴れた。
そして、耳障りなノイズが、プツリと消えた。 静寂。 本当の、完全な静寂が訪れた。
「……え?」
ルーシャンは、ハァハァと息を切らしながら目を開けた。 目の前には、ただの静かな森が広がっていた。 幽霊の気配も、寒気も、湿った空気さえも消え失せ、木漏れ日が優しく差し込んでいる。
「……あ?」 セラフィーナが、ポカンと口を開けていた。 彼女の目には見えていたのだ。 ルーシャンの叫びが波紋となって広がり、無数に群がっていた亡霊たちが、その波に触れた瞬間、「あ、はい。すみません」といった感じで、驚きと共に成仏(消滅)していく様が。
それは、高位の聖職者が行う「浄化」や「説得」ではない。 「有無を言わせぬ強制排除」だった。 「私の平穏を邪魔するな」というルーシャンのエゴが強すぎて、死者の怨念(エゴ)すらも上書きしてねじ伏せたのだ。 最強の自己中は、幽霊すらビビらせる。
「……消え……た……?」 セラフィーナが震える手でナイフを収めた。 「おい、アンタ……今、何やったんだ?」
「え? いや、うるさかったから……大声出しただけだけど」 ルーシャンは涙目で鼻をすすった。 「喉が痛い……」
セラフィーナは戦慄した。 この少年は、魔力ゼロの落ちこぼれなどではない。 霊的な存在に対して、物理的な叫び声(言霊)だけで「存在の否定」を叩きつける、規格外の「祓魔師(エクソシスト)」だ。 彼女の勘違い(色眼鏡)は、ここで決定的なものとなった。
「……マジかよ。幽霊どもが『すんませんしたァ!』って逃げてったぞ」 「えっ、本当に? やった! 助かった!」 ルーシャンは無邪気に喜んだ。偶然だ。たまたま幽霊たちが帰る時間だったに違いない。
霧が晴れた森の奥から、遅れてアウレリアたちが駆け寄ってきた。 「ルーシャン! セラフィーナ! 大丈夫!?」 「急に霧が晴れて……何があったの?」
「いや、なんでもねぇよ」 セラフィーナは、どこか畏敬の念を含んだ目でルーシャンを見つめ、ニヤリと笑った。 「ただ、こいつの『一喝』が、森の空気を入れ替えただけさ。……とんでもねぇ掃除機だぜ」
誤解が深まる中、セラフィーナはふと、真顔に戻って呟いた。 「でもな、消える直前、奴ら変なことを言ってやがった」
「変なこと?」
「ああ。『障壁が……裏切り者が……』ってな」 彼女は、王都の方角を睨んだ。 「この森で死んだ兵士たちは、ただ戦死したんじゃねぇ。味方に背中から撃たれたんだ。王都の『障壁』を守ろうとして、何者かに裏切られて死んだ……そんな悔しさが残ってた」
ルーシャンは、背筋が寒くなった。 幽霊は消えても、現実は消えない。 王都で何が起きているのか。井戸の毒、トロールの地図、そして亡霊の遺言。 全てのピースが、一つの巨大な悪意(システム)を指し示している。
「……セラフィーナさん、詳しいんだね」 アウレリアが尋ねる。「幽霊の言葉が分かるの?」
「……まあな」 セラフィーナは少しバツが悪そうにそっぽを向いた。 **「アタシの実家、代々こういう場所の『墓守』やってたんだよ。**ガキの頃から、生きた人間より死人と話す方が多かったからな」
彼女の不良っぽい態度の裏にある、孤独な生い立ち(生苦)が垣間見えた瞬間だった。 ルーシャンは、少しだけ彼女に親近感を覚えた。 彼女もまた、「見えすぎてしまう」という苦しみを背負って生きているのだ。
「ま、今はこいつ(ルーシャン)がいるなら安心だ」 セラフィーナはルーシャンの頭を乱暴に撫でた。 「頼りにしてるぜ、最強のエクソシスト!」
「やめて! 髪がボサボサになる!」 ルーシャンは抗議したが、その抵抗も虚しく、彼は「対霊戦闘の切り札」という新たなレッテル(想)を貼られてしまったのだった。
一行は、浄化された森を抜けていく。 木々の間から差し込む光は美しいが、その先には、亡霊たちが警告した「裏切り者の巣窟(王都)」が待っている。 ルーシャンの「帰りたい」という願いが叶う日は、まだ当分来そうにない。
砦を出発しようとした矢先、兵士からもたらされた情報は、まさにその「罠」への招待状だった。
「英雄殿、申し訳ない。街道が……魔獣の大群によって封鎖されました」
兵士は顔面蒼白で告げた。 王都へ続く正規の街道は、魔族の先遣隊によって完全に塞がれているという。正面突破を試みれば、数千の魔獣と正面衝突することになる。
「ならば、道は一つしかないな」 ヴァレリウスが、砦の壁に貼られた古地図を指差した。 正規ルートの脇に広がる、広大な森林地帯。 「『嘆きの森』。ここを抜ければ、魔獣の包囲網を回避して、王都の裏手に出られる」
その名前を聞いた瞬間、周囲の兵士たちが一斉にざわめき、数人が十字を切るような仕草をした。
「お、お待ちください! あそこは絶対の禁足地、『魔の森』です!」 兵士長が震える声で止める。 「かつての大戦で数万の兵士が命を落とした古戦場……。濃霧が晴れることはなく、生きて戻った者はいないと言われる、呪われた土地です。亡霊たちの怨嗟(えんさ)の声が、旅人の精神を狂わせるとか……」
(はい、決定。絶対に行かない)
ルーシャン・アークライトは心の中で即決した。 幽霊? 呪い? 精神汚染? お断りだ。物理的な熊や狼でさえ勘弁願いたいのに、実体のないホラー系は専門外もいいところだ。 彼はすかさず手を挙げた。
「じゃあ、ここで待ちましょう」 ルーシャンは満面の笑み(ひきつっている)で提案した。 「無理に進むことはない。魔獣がいなくなるまで、この砦で安全にお茶でも飲んで……」
「いいや、行けるぜ」 その提案を一蹴したのは、セラフィーナだった。 彼女は窓の外、鬱蒼(うっそう)と広がる黒い森を、獲物を狙う猫のような目で見つめていた。 「魔獣の大群と正面衝突するより、幽霊の相手をする方がまだマシだ。それに……」 彼女は鼻をくんくんと鳴らした。 「あの森、臭うんだよ。ただの腐敗臭じゃねぇ。もっとヤバいもんが隠れてる気配がする」
「え、臭うの? 僕は何も感じないけど……」 アルフォンスが不思議そうにする。
「アタシの鼻は特別製なんでね。行くぞ、英雄サマ。アンタなら幽霊の一匹や二匹、デコピンで除霊できるんだろ?」
できません。塩撒いて逃げるだけです。
だが、アウレリアも決意の表情で頷いてしまった。 「急ぎましょう。井戸に毒が撒かれた以上、王都の猶予はないわ」
多数決の原理(民主主義という名の暴力)により、ルーシャンの意見は黙殺された。 ロバのポテトだけが、「またかよ」と深いため息をつき、ルーシャンの袖を甘噛みして同情を示した。
* * *
「嘆きの森」は、物理的に「濡れて」いた。 足を踏み入れた瞬間から、空気が変わった。肌にまとわりつくような濃密な湿気。視界を遮る乳白色の霧は、まるで生き物のようにゆらゆらと蠢(うごめ)き、方向感覚を狂わせる。 上空は高い木々に覆われ、昼間だというのに薄暗い。 そして何より、静かすぎた。 鳥の声も、虫の声もしない。ただ、自分たちの足音と、ポテトの蹄の音だけが、水底のように響いている。
「……寒い」 クロエが身を震わせて、神官服の襟を合わせた。 気温が低いわけではない。体の芯が冷えるような、生理的な寒気だ。
ルーシャンは、ポテトの尻尾を握りしめて歩いていた。 怖い。 何が怖いって、何も起きないのが怖い。 お化け屋敷で、お化けが出てくる前の静けさが一番怖いのと同じ理屈だ。 この世界は「苦(ドゥッカ)」でできている。つまり、この静けさは、次に訪れるドデカい不幸への「タメ」に過ぎないのだ。
その時だった。
『…………ぇ……』
耳元で、何かが聞こえた。 風の音? いや、違う。 誰かの話し声のような、掠(かす)れた音。
「……ねえ、今、何か言わなかった?」 ルーシャンはビクリとして周囲を見回した。 仲間たちは怪訝(けげん)な顔をしている。
「いいえ? 風の音だけですけど」とアウレリア。 「君、疲れてるんじゃないかい?」とヴァレリウス。
気のせいか。 ルーシャンは安堵の息を吐こうとした。
『……かえ……せ……』 『……うらぎ……り……もの……』 『……いたい……さむい……』
いや、聞こえる。 今度はもっとはっきりと。一人や二人じゃない。 数百、いや数千の人々が、耳元でブツブツと恨み言を呟いているような、不快極まりないノイズ。
「うっ……!」 ルーシャンは両手で耳を塞いだ。 うるさい。なんだこれ。 頭の中に直接響いてくる。まるで、調子の悪いラジオの周波数を合わせようとして、ザーザーという雑音(ノイズ)を大音量で聞かされているようだ。
「……聞こえてんのか、アンタ」
隣を歩いていたセラフィーナが、鋭い視線を投げてきた。 彼女の顔色は悪い。いつもは不敵な彼女が、額に脂汗を浮かべ、虚空のあちこちを睨みつけている。
「セ、セラフィーナ? 君も聞こえるの?」
「聞こえるどころか、見えてるよ」 彼女は吐き捨てるように言った。 「うじゃうじゃいんのさ。そこにも、あそこにも。昔死んだ兵士の成れの果てが、行列作ってアタシらを見てやがる」
ヒィッ!! ルーシャンは飛び上がった。 見えない。僕には見えない。でも、音だけが聞こえる。 これは「行苦(ぎょうく)」――存在の底に流れる、不安なBGMのような苦しみだ。 姿が見えない分、想像力が恐怖を増幅させる。
『……こっちへ……おいで……』 『……お前も……こっちへ……』
霧が濃くなる。 仲間たちの姿が霞んでいく。 アウレリアたちが「ルーシャン? どこ?」と呼ぶ声が遠くなる。 代わりに、冷たい手が首筋に触れたような感覚。
「や、やめろ……来るな……」 ルーシャンは後ずさった。 精神力が削られていく。 六歳児のメンタル(中身は老人だが、老人も孤独や不安には弱い)には限界だった。
「チッ、囲まれたか」 セラフィーナがナイフを構え、ルーシャンの背中を護るように立った。 「おい英雄、しっかりしろ! 取り憑かれたら戻ってこれなくなるぞ!」
「む、無理だ……。怖い……帰りたい……静かにしてくれ……」
ルーシャンの願いは、英雄的な勝利ではない。 ただ、この不快なノイズを消してほしい。 静かな部屋で、温かいお茶を飲んで、古本を読んでいたい。 そのささやかな「平穏(涅槃)」を乱すものは、なんであれ許せない。
ノイズは大きくなる。 頭が割れそうだ。 『恨めしい』『悔しい』『痛い』 他人のネガティブな感情が、ゴミ箱から溢れたゴミのように雪崩れ込んでくる。
(もう、限界だ)
ルーシャンの中で、何かがプツンと切れた。 恐怖が一周回って、キレたのだ。 近所の工事現場の騒音に耐えかねた頑固ジジイのように、彼は爆発した。
「――うるさァァァァァいッ!!!!」
ルーシャンは叫んだ。 魔力など込めていない。ただの、心からの絶叫。 「黙れ!」「静かにしろ!」「僕を一人にしてくれ!」 その、純粋培養された「静寂への渇望(=滅諦への執着)」が、言葉という形をとって放出された。
瞬間。
キィィィィィィィン……。
空気が凍りついたような高い音が鳴り、森全体が震えた。 霧が、まるで巨大な換気扇に吸い込まれるように、一瞬で晴れた。
そして、耳障りなノイズが、プツリと消えた。 静寂。 本当の、完全な静寂が訪れた。
「……え?」
ルーシャンは、ハァハァと息を切らしながら目を開けた。 目の前には、ただの静かな森が広がっていた。 幽霊の気配も、寒気も、湿った空気さえも消え失せ、木漏れ日が優しく差し込んでいる。
「……あ?」 セラフィーナが、ポカンと口を開けていた。 彼女の目には見えていたのだ。 ルーシャンの叫びが波紋となって広がり、無数に群がっていた亡霊たちが、その波に触れた瞬間、「あ、はい。すみません」といった感じで、驚きと共に成仏(消滅)していく様が。
それは、高位の聖職者が行う「浄化」や「説得」ではない。 「有無を言わせぬ強制排除」だった。 「私の平穏を邪魔するな」というルーシャンのエゴが強すぎて、死者の怨念(エゴ)すらも上書きしてねじ伏せたのだ。 最強の自己中は、幽霊すらビビらせる。
「……消え……た……?」 セラフィーナが震える手でナイフを収めた。 「おい、アンタ……今、何やったんだ?」
「え? いや、うるさかったから……大声出しただけだけど」 ルーシャンは涙目で鼻をすすった。 「喉が痛い……」
セラフィーナは戦慄した。 この少年は、魔力ゼロの落ちこぼれなどではない。 霊的な存在に対して、物理的な叫び声(言霊)だけで「存在の否定」を叩きつける、規格外の「祓魔師(エクソシスト)」だ。 彼女の勘違い(色眼鏡)は、ここで決定的なものとなった。
「……マジかよ。幽霊どもが『すんませんしたァ!』って逃げてったぞ」 「えっ、本当に? やった! 助かった!」 ルーシャンは無邪気に喜んだ。偶然だ。たまたま幽霊たちが帰る時間だったに違いない。
霧が晴れた森の奥から、遅れてアウレリアたちが駆け寄ってきた。 「ルーシャン! セラフィーナ! 大丈夫!?」 「急に霧が晴れて……何があったの?」
「いや、なんでもねぇよ」 セラフィーナは、どこか畏敬の念を含んだ目でルーシャンを見つめ、ニヤリと笑った。 「ただ、こいつの『一喝』が、森の空気を入れ替えただけさ。……とんでもねぇ掃除機だぜ」
誤解が深まる中、セラフィーナはふと、真顔に戻って呟いた。 「でもな、消える直前、奴ら変なことを言ってやがった」
「変なこと?」
「ああ。『障壁が……裏切り者が……』ってな」 彼女は、王都の方角を睨んだ。 「この森で死んだ兵士たちは、ただ戦死したんじゃねぇ。味方に背中から撃たれたんだ。王都の『障壁』を守ろうとして、何者かに裏切られて死んだ……そんな悔しさが残ってた」
ルーシャンは、背筋が寒くなった。 幽霊は消えても、現実は消えない。 王都で何が起きているのか。井戸の毒、トロールの地図、そして亡霊の遺言。 全てのピースが、一つの巨大な悪意(システム)を指し示している。
「……セラフィーナさん、詳しいんだね」 アウレリアが尋ねる。「幽霊の言葉が分かるの?」
「……まあな」 セラフィーナは少しバツが悪そうにそっぽを向いた。 **「アタシの実家、代々こういう場所の『墓守』やってたんだよ。**ガキの頃から、生きた人間より死人と話す方が多かったからな」
彼女の不良っぽい態度の裏にある、孤独な生い立ち(生苦)が垣間見えた瞬間だった。 ルーシャンは、少しだけ彼女に親近感を覚えた。 彼女もまた、「見えすぎてしまう」という苦しみを背負って生きているのだ。
「ま、今はこいつ(ルーシャン)がいるなら安心だ」 セラフィーナはルーシャンの頭を乱暴に撫でた。 「頼りにしてるぜ、最強のエクソシスト!」
「やめて! 髪がボサボサになる!」 ルーシャンは抗議したが、その抵抗も虚しく、彼は「対霊戦闘の切り札」という新たなレッテル(想)を貼られてしまったのだった。
一行は、浄化された森を抜けていく。 木々の間から差し込む光は美しいが、その先には、亡霊たちが警告した「裏切り者の巣窟(王都)」が待っている。 ルーシャンの「帰りたい」という願いが叶う日は、まだ当分来そうにない。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~勘違い貴族の規格外魔法譚~
Gaku
ファンタジー
「次の人生は、自由に走り回れる丈夫な体が欲しい」
病室で短い生涯を終えた僕、ガクの切実な願いは、神様のちょっとした(?)サービスで、とんでもなく盛大な形で叶えられた。
気がつけば、そこは剣と魔法が息づく異世界。貴族の三男として、念願の健康な体と、ついでに規格外の魔力を手に入れていた!
これでようやく、平和で自堕落なスローライフが送れる――はずだった。
だが、僕には一つ、致命的な欠点があった。それは、この世界の魔法に関する常識が、綺麗さっぱりゼロだったこと。
皆が必死に唱える「詠唱」を、僕は「気合を入れるためのおまじない」だと勘違い。僕の魔法理論は、いつだって「体内のエネルギーを、ぐわーっと集めて、どーん!」。
その結果、
うっかり放った火の玉で、屋敷の壁に風穴を開けてしまう。
慌てて土魔法で修復すれば、なぜか元の壁より遥かに豪華絢爛な『匠の壁』が爆誕し、屋敷の新たな観光名所に。
「友達が欲しいな」と軽い気持ちで召喚魔法を使えば、天変地異の末に伝説の魔獣フェンリル(ただし、手のひらサイズの超絶可愛い子犬)を呼び出してしまう始末。
僕はただ、健康な体でのんびり暮らしたいだけなのに!
行く先々で無自覚に「やりすぎ」てしまい、気づけば周囲からは「無詠唱の暴君」「歩く災害」など、実に不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた……。
そんな僕が、ついに魔法学園へ入学!
当然のように入学試験では的を“消滅”させて試験官を絶句させ、「関わってはいけないヤバい奴」として輝かしい孤立生活をスタート!
しかし、そんな規格外な僕に興味を持つ、二人の変わり者が現れた。
魔法の真理を探求する理論オタクの「レオ」と、強者との戦いを求める猪突猛進な武闘派女子の「アンナ」。
この二人との出会いが、モノクロだった僕の世界を、一気に鮮やかな色に変えていく――!
勘違いと無自覚チートで、知らず知らずのうちに世界を震撼させる!
腹筋崩壊のドタバタコメディを軸に、個性的な仲間たちとの友情、そして、世界の謎に迫る大冒険が、今、始まる!
距離を置きたい女子たちを助けてしまった結果、正体バレして迫られる
歩く魚
恋愛
かつて、命を懸けて誰かを助けた日があった。
だがその記憶は、頭を打った衝撃とともに、綺麗さっぱり失われていた。
それは気にしてない。俺は深入りする気はない。
人間は好きだ。けれど、近づきすぎると嫌いになる。
だがそんな俺に、思いもよらぬ刺客が現れる。
――あの日、俺が助けたのは、できれば関わりたくなかった――距離を置きたい女子たちだったらしい。
異世界から元の世界に派遣された僕は他の勇者たちとは別にのんびり暮らします【DNAの改修者ー外伝】
kujibiki
ファンタジー
異世界で第二の人生の大往生を迎えた僕は再びあの場所へ飛ばされていた。
※これは『DNAの改修者』のアフターストーリーとなります。
『DNAの改修者』を読まなくても大丈夫だとは思いますが、気になる方はご覧ください。
※表紙は生成AIで作ってみたイメージです。(シャルルが難しい…)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
主人公に殺されるゲームの中ボスに転生した僕は主人公とは関わらず、自身の闇落ちフラグは叩き折って平穏に勝ち組貴族ライフを満喫したいと思います
リヒト
ファンタジー
不幸な事故の結果、死んでしまった少年、秋谷和人が転生したのは闇落ちし、ゲームの中ボスとして主人公の前に立ちふさがる貴族の子であるアレス・フォーエンス!?
「いや、本来あるべき未来のために死ぬとかごめんだから」
ゲームの中ボスであり、最終的には主人公によって殺されてしまうキャラに生まれ変わった彼であるが、ゲームのストーリーにおける闇落ちの運命を受け入れず、たとえ本来あるべき未来を捻じ曲げてても自身の未来を変えることを決意する。
何の対策もしなければ闇落ちし、主人公に殺されるという未来が待ち受けているようなキャラではあるが、それさえなければ生まれながらの勝ち組たる権力者にして金持ちたる貴族の子である。
生まれながらにして自分の人生が苦労なく楽しく暮らせることが確定している転生先である。なんとしてでも自身の闇落ちをフラグを折るしかないだろう。
果たしてアレスは自身の闇落ちフラグを折り、自身の未来を変えることが出来るのか!?
「欲張らず、謙虚に……だが、平穏で楽しい最高の暮らしを!」
そして、アレスは自身の望む平穏ライフを手にすることが出来るのか!?
自身の未来を変えようと奮起する少年の異世界転生譚が今始まる!
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
Gランク冒険者のレベル無双〜好き勝手に生きていたら各方面から敵認定されました〜
2nd kanta
ファンタジー
愛する可愛い奥様達の為、俺は理不尽と戦います。
人違いで刺された俺は死ぬ間際に、得体の知れない何者かに異世界に飛ばされた。
そこは、テンプレの勇者召喚の場だった。
しかし召喚された俺の腹にはドスが刺さったままだった。
異世界転移から始まるハーレム生活〜チートスキルを貰った俺は、妹と共に無双する〜
昼寝部
ファンタジー
2XXX年、X月。
俺、水瀬アキトは戦争の絶えない地球で『戦場の悪魔』と呼ばれ、数多の戦で活躍していた。
そんな日々を過ごしていた俺は、ひょんなことから妹と一緒に異世界へ転移することになった。
その世界にはダンジョンが存在しており、ライトノベルなどで登場する世界観と類似していた。
俺たちはその世界で過ごすため女神様からチートスキルを貰い、冒険者となって異世界での生活を満喫することにした。
これは主人公の水瀬アキトと妹のカナデが異世界へ転移し、美少女たちに囲まれながら異世界で無双するお話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる