崖から飛び降りたら、魔族に襲われる絶世の美少女(王女)がいたので助けた。俺のワンパン、どうやら世界を救うらしい。

Gaku

文字の大きさ
6 / 43
一部

第6話:盗賊団の姉御

しおりを挟む
太陽が、その一日の長きにわたる役目を終えようとしていた。

西の空、どこまでも連なる雄大な山脈の稜線に、燃え盛る巨大な火の玉がゆっくりとその姿を沈めていく。地平線の向こう側へと吸い込まれていくその最後の輝きは、眼前に広がる空全体を、言葉では言い尽くせぬほど壮大なキャンバスへと変貌させていた。燃えるような灼熱のオレンジ色から、心を和ませる柔らかなバラ色へ。そして、熟練の絵師が巨大な刷毛で一息に掃いたかのような、淡く繊細な薄紫色へと、天空のパレットは刻一刻とその色彩を幻想的に変化させてゆく。遥か空高くに浮かぶ雲の輪郭は、まるで神々の工房で溶かされた黄金のようにきらびやかに縁取られ、やがてその眩い輝きも、全てを飲み込む深い藍色の闇の中へと静かに吸収されていった。

佐藤健太は、昨日と全く同じ崖の上に、投げ出すように腰を下ろしていた。そして、目の前で繰り広げられる神々しいまでの光景を、ただぼんやりと、何の感慨もなく眺めていた。

昼間のうだるような熱気は、いつの間にかすっかりと収まっていた。今、彼の肌を優しく撫でていく風は、すぐそこまで迫っている夜の冷たさを、わずかながらその内に含み始めている。まるで、森そのものが一つの巨大な生命体として、深呼吸をしているかのようだ。昼の喧騒に満ちた活動を終えた木々が、一日の終わりに安らぎのため息をつくように、無数の葉を静かに揺らしている。さわさわ、と奏でられる葉擦れの音は、生命力に満ち溢れた昼間の活気あるそれとは明らかに異なり、どこか落ち着いた、まるで幼子を眠りへと誘う子守唄のような、穏やかな響きを持っていた。

「……はぁ……」

しかし、健太の口から漏れたのは、この絶景に対する感動のため息ではなかった。その成分を分析するならば、九割方が、どうしようもない空腹感によるものだった。

「腹、減った……」

切実な呟きが、静寂の中に溶けて消える。この世界に来てから手に入れた、この規格外に頑丈な身体は、疲労も痛みも一切感じることがない。だが、生命活動を維持するための根源的なエネルギー消費、すなわち新陳代謝は、どうやらごく普通に存在するらしかった。彼の胃袋が、きゅう、と寂しげな抗議の音を立てて、一刻も早い固形物の投入を切実に要求してくる。

結局のところ、あの森の中に突如として放り出されてから丸一日、ひたすらに歩き回ってみても、人の営みが感じられる村はおろか、かつて人が往来したであろう街道らしき道さえ、何一つ見つけることはできなかった。視界に映るのは、ただ、どこまでも果てしなく続く、雄大で、しかし同時に人の存在を根源から拒絶するかのような、荒々しい手つかずの自然だけだ。

陽が完全に地平線の向こうへと沈みきると、森は全く別の、妖しい顔を見せ始めた。漆黒の闇が、世界の全てを支配する。月がまだ東の空にその姿を現していないため、唯一の光源は、遥か遠い天空で瞬く星々の、あまりにも頼りない光だけだった。だが、この世界の星空は、健太が生まれ育った日本の、光害に霞んだそれとは比較にすらならないほど鮮明だった。まるで、上質な黒いベルベットの上に、数えきれないほどのダイヤモンドを惜しげもなく撒き散らしたかのように、凄まじい数の星々が、それぞれの光を競い合うように激しく輝いている。天の川に至っては、もはや霞のような淡い光の帯ではなく、夜空を力強く横断する、巨大な光の河川そのものだった。

闇に目が慣れてくるにつれて、森の奥深くにも、ささやかな光が存在していることに健太は気づいた。地面に自生するキノコや、木の幹を覆う苔の一部が、まるで自らの内に確固たる意志を宿しているかのように、ぼんやりとした青白い光を放っているのだ。その光景は、息をのむほど幻想的であると同時に、どこかこの世ならざるものの気配を感じさせ、不気味ですらあった。

昼間は鳥のさえずりや虫の羽音で賑やかだった森は、今や完全な静寂に包まれている。いや、その認識は正確ではない。正確に言うならば、昼間とは全く質の異なる、夜の音に満ちていた。遠くの闇の中から、ホー、ホー、とフクロウによく似た夜行性の鳥が鳴く、低く響く声。すぐ近くの草むらで、正体不明の虫が立てる、キリキリ、キリリ、という金属を擦り合わせたような鋭い音。そして、木々の間を吹き抜ける風が奏でる、ヒュー、という物悲しい口笛のような音。それら全ての音が、この暗闇の底知れぬ深さと、健太自身の絶対的な孤独を、より一層際立たせていた。

「なんか、美味いもん食いてえなぁ…。カツ丼とか、ラーメンとか、焼肉とか…」

健太は、昼間に偶然見つけた、食べても毒にも薬にもならない、ただそれだけの木の実を、ぼりぼりと音を立てて齧りながら呟いた。脳裏に浮かぶのは、揚げたての豚カツに、甘辛い割り下とふわふわの卵が絡みついた、あの至高のカツ丼。豚骨と魚介の旨味が凝縮された、濃厚なスープのラーメン。そして、熱い鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる、霜降りのカルビ。想像すればするほど、胃袋の抗議は激しくなるばかりだ。

目の前の木の実は、何の味もしなかった。食感は、まるで湿気を吸ってふやけた段ボールのようで、お世辞にも美味しいとは到底言えない代物だ。空腹が満たされないどころか、こんなものを食事と呼ばなければならない現状への虚しさが、ただただ募るばかりだった。

「せめて火でもあれば、もうちょっと雰囲気出るんだけどな…」

彼は、かつて映画で見たサバイバルの知識を必死に思い出し、木の枝を両手で擦り合わせる、原始的な火起こしに挑戦してみた。手のひらが痛くなるほど、一心不乱に、高速でキリモミする。しかし、何度、何分間やり続けても、木の枝はわずかに温かくなる気配すらない。しまいには、この単純作業が途方もなく面倒くさくなり、健太は全ての努力を放棄した。

「だーっ!もういい!知るか!寝る!」

苛立ち紛れに、持っていた枝を近くの岩に思い切り叩きつけると、それは乾いた音を立てて粉々に砕け散った。結局、彼は文明の利器の偉大さと、自身の不器用さを改めて痛感しながら、適当な大木の、盛り上がった根元にごろんと横になった。そして、不貞腐れた子供のように、固く目を閉じた。

どれくらいの時間が経っただろうか。健太が、浅い眠りと覚醒の狭間を、ゆらゆらと漂っていた、まさにその時だった。

微かに、しかし、彼の研ぎ澄まされた聴覚は、確かに異常を捉えた。

風が運んでくる音の中に、この森の自然界には決して存在しないはずの音が混じっている。甲高く、鋭い、金属と金属が激しくぶつかり合う音。誰かの、怒りに満ちた怒声。そして――人のものとは思えない、耳を劈くような甲高い悲鳴とも雄叫びともつかない、不快な叫び声。

「……ん?」

健太は、むくりと上半身を起こした。全身の産毛が逆立つような、嫌な予感が背筋を駆け抜ける。

面倒くさいことになっている。

それが、彼の抱いた第一の感想だった。関わらないのが一番だ。面倒はごめんだ。そう、彼の理性は強く警告している。だが、彼の心の中に巣食う、どうしようもなく俗な部分が、悪魔のように囁きかけてきた。

『――おい、健太。もしかしたら、絶世の美女が、あるいは、とんでもなく可愛い女の子が、悪党に襲われて困ってるかもしれないぞ?』

その可能性は、彼の理性を吹き飛ばし、重い腰を上げさせるのに十分すぎるほどの、抗いがたい動機だった。

「……まあ、ちょっと様子を見るだけなら、別にいいよな」

誰に聞かせるでもなく、そんな言い訳を小さく呟くと、彼は闇に紛れ、音のする方角へと、猫のように慎重な足取りで歩き出した。

音源は、健太が想像していたよりも、ずっと近かった。森の中を数百メートルも進んだだろうか。鬱蒼と茂る木々の切れ間から、不自然に明るく揺らめく空間が、彼の視界に飛び込んできた。焚き火の光だ。どうやら、誰かがこの森の中で野営をしている最中に、何者かの襲撃を受けているらしい。

健太は、身を隠すのに都合のいい巨大な木の幹に背を預け、そっとその光景を覗き見た。

そこは、森の中では比較的珍しい、木々が切り払われた開けた広場のようになっていた。その中央でパチパチと音を立てて燃え盛る焚き火を囲むようにして、十数人の人間たちが、文字通り必死の形相で戦っていた。

彼らの敵は、健太もかつて熱中したゲームの知識で知っている、ファンタジー世界においては最もポピュラーで、そして最も忌み嫌われるモンスターの一つだった。

ゴブリンだ。

病的な緑色の醜い肌、猛禽類を思わせる鉤鼻、そして、ぎらぎらと貪欲で卑しい光を放つ、小さな黄色い目。身長は人間の子供ほどしかない小柄な体躯だが、その数は圧倒的だった。ざっと見ただけでも、三十匹は優に超えているだろう。錆びつき、刃こぼれした粗末な剣や、ただの枝に石を括り付けただけの棍棒を振り回し、「キィー!」「キシャァァ!」と甲高い奇声を発しながら、人間たちに波状攻撃を仕掛けていた。

対する人間側は、数では圧倒的に劣っていたが、その動きは見事なものだった。着ているのは、使い古されてぼろぼろになった革鎧。手にしているのも、お世辞にも上等とは言えない、ありふれた鉄製の剣や槍だ。しかし、彼らの連携は、戦闘の素人である健太の目から見ても、驚くほどに統率が取れているのが分かった。一人が盾でゴブリンの攻撃を受け止め、その隙に左右に控えた別の二人が、即座に槍で急所を突く。その一連の動きには、一切の無駄がない。彼らが、ただの野盗や寄せ集めの傭兵の類ではないことを、その洗練された動きが雄弁に物語っていた。

しかし、いかんせん、多勢に無勢という状況は覆し難い。一人、また一人と、ゴブリンの尽きることのない数の暴力に押し切られ、じりじりと後退し、浅くない傷を負っていく。彼らの呼吸は激しく乱れ、額には脂汗が光っていた。時折、苦しげに咳き込む者もいる。疲労の色は、誰の目にも明らかだった。このままでは、全滅は時間の問題だろう。

その、絶望が色濃く漂う戦況の中心で。

健太の目は、ただ一人の人物に、磁石のように強く引きつけられていた。

女性だった。

長く、燃えるような鮮やかな赤い髪を、戦いの邪魔にならないよう、無造作なポニーテールにまとめている。他の男たちと同じように旧式の革鎧を身に着けているが、その引き締まった身体のラインは、しなやかで力強い、女性的な曲線を隠しきれていなかった。

彼女は、二本の短い剣(ショートソード)を逆手に握り、まるで激しい嵐のように、あるいは、見る者を魅了する舞踏のように、ゴブリンの群れの中で縦横無尽に暴れまわっていた。

彼女の動きは、その場にいる他の誰よりも速く、そして鋭利だった。右手の剣で眼前のゴブリンの喉を鮮やかに掻き切ったかと思えば、その勢いのまま身体を独楽のように回転させ、左手の剣で背後から迫っていた別のゴブリンの心臓を一突きにする。返り血を浴び、汗で頬に張り付いた髪を煩わしげに振り払いながら、彼女は休むことなく戦い続けていた。その美しい顔立ちは、燃え盛る闘志と、そして仲間たちを鼓舞するリーダーとしての強い意志に満ちている。

時折、彼女の口から、荒々しいが、不思議と耳に心地よく響く声が飛んだ。

「隊列を崩すんじゃないよ! 盾役はもっと前に出な!」
「三番隊、右翼が薄い! カバーしな!」
「この程度の数に、ビビってんじゃないわよ!それでも騎士の端くれかい!」

男勝りな、しかし紛れもなく女性のものである、凛としたアルトの声。健太は、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。

(……当たり、だ)

黒髪の清楚な大和撫子も素晴らしいが、ああいう気の強そうな、情熱を体現したかのような赤毛の美女もまた、彼のストライクゾーンのど真ん中を正確に射抜いていた。彼女が、この集団のリーダーなのだろう。

しかし、その彼女の超人的な動きにも、徐々にではあるが、隠しきれない疲労による鈍りが見え始めていた。肩で激しく息をし、その呼吸は見るからに乱れている。それでもなお、彼女は仲間たちを守る盾となるべく、獅子奮迅の戦いを続けていた。

健太は、決意した。彼の心は、完全に定まった。

『――よし、助けよう』

その動機は、言うまでもなく不純極まりないものだった。あの燃えるような赤毛の美女に、良いところを見せたい。格好つけたい。ただ、それだけである。

彼は、身を隠していた木の陰からすっと出ると、凄惨な戦闘が繰り広げられている広場のど真ん中へと、まるで近所のコンビニにでも散歩に行くかのような、のんびりとした、場違いな足取りで歩き始めた。

「どーもー」

健太の、あまりにも間の抜けた声に、最初に気づいたのはゴブリンたちだった。彼らは、新たな獲物――しかも、武器さえ持たず、全くの無防備に見える、これ以上ないほどのカモ――の登場に、歓喜の奇声を上げた。最も近くにいた数匹が、それまで戦っていた人間たちへの攻撃を中断し、口の端から汚らしい涎を垂らしながら、健太へと殺到する。

「キーッ!」「ニク!ニク! クウ!」

錆びた剣が、健太の頭上目掛けて無慈悲に振り下ろされる。石の棍棒が、彼の脇腹を抉り、内臓を叩き潰そうと唸りを上げた。

その異常な光景に、戦っていた人間たちもようやく気づいた。

「馬鹿! なんでこっちに来るんだ! 死にたいのか!」
「素人か!? 早く逃げろ!」

赤毛の女リーダー――ヴァレリアも、信じられないものを見る目で、驚愕に目を見開いている。

「どこのどいつだい、アンタ! 場をかき乱すんじゃないよ! 死にたいのかい!?」

だが、次の瞬間。その場にいた全ての者(健太本人を除く)が、我が目を疑う信じがたい光景を目の当たりにすることになる。

ゴブリンたちの凶器が、健太の身体に到達した。しかし、誰もが予想した、肉を断ち、骨を砕く、生々しい音は一切響かなかった。代わりに響き渡ったのは、パリン、パキン、という、まるで乾いたガラスや薄い氷が砕けるような、奇妙に軽やかな音だった。

ゴブリンたちが力任せに振るった剣も、棍棒も、健太の皮膚に触れたか触れないかのその瞬間に、まるで脆い砂糖菓子のように、あまりにもいともたやすく粉々に砕け散り、キラキラとした砂となって地面に落ちていったのだ。

「「「「キ……?」」」」

ゴブリンたちは、手元に残った武器の柄と、一切の傷なく、ぽかんとした表情で立っている健太の顔を、理解不能といった様子で交互に見比べた。何が起きたのか、その貧弱な脳では到底処理が追いつかない。

健太は、そんなゴブリンたちを心底から汚いものを見るような目で見下ろし、面倒くさそうに大きな溜息をついた。

「うわ、汚ったねえな、お前ら。それに臭い」

そして、自分の肩や服についた、武器が砕けたことによる砂埃を、手でぱっぱと払いながら、迷惑そうに言った。

「悪いけどさ、邪魔なんだよね」

健太が、軽く、本当に億劫そうに、腕をだるそうに横に振るう。それは戦闘と呼べるような動作ですらなかった。ただ、目の前を飛ぶ鬱陶しいハエでも払うかのような、気だるさに満ちた仕草。

しかし、それだけで、彼の周囲にいた数匹のゴブリンたちが、まるで巨大な透明の壁にでも全力で叩きつけられたかのように、一斉に真横へと吹き飛んだ。

「ギッ!?」
「ギャッ!?」

まともな悲鳴を上げる間もなく、ゴブリンたちは数メートル先の木の幹や無骨な岩に激突し、ぐにゃりとした湿った嫌な音を立てて、二度と動くことのない肉塊へと変わった。

広場に、水を打ったような、一瞬の静寂が訪れた。残ったゴブリンたちも、必死に戦っていた人間たちも、全ての動きを止め、その信じがたい、現実離れした光景を、ただ呆然と見つめていた。

「……は?」

ヴァレリアの口から、間の抜けた声が漏れた。

健太は、そんな彼らの反応を全く気にも留めず、再びのんびりとした足取りで歩き出した。今度は、恐怖で硬直するゴブリンの群れのど真ん中を、まっすぐに突っ切っていく。

我に返ったゴブリンたちが、恐慌状態に陥り、やけくそになって彼に襲いかかる。剣が、槍が、石斧が、まるで嵐のように、彼の身体に降り注いだ。だが、結果は先ほどと全く同じだった。全ての武器は、彼の身体に触れることすらできずに、虚しく砕け散っていく。傷一つ、つけることすらできない。

健太は、大きなあくびを一つすると、今度は軽く足踏みをしてみせた。

トン、と。本当に、軽く。

それだけで、地面に目に見えない衝撃波のようなものが走り、彼の半径五メートル以内にいたゴブリンたちが、全てまとめて真上に高く跳ね上げられ、重力に従って無様に地面に落下し、動かなくなった。

それは、もはや戦闘ではなかった。一方的な蹂躙。あるいは、ゴミ掃除と呼ぶべきものだった。

わずか数十秒。あれほど人間たちを苦しめていた三十匹以上のゴブリンの群れは、そのほとんどが、この突如現れた謎の男によって、戦闘不能の状態に陥っていた。生き残った数匹のゴブリンは、目の前の男が、自分たちのちっぽけな理解を遥かに超越した、神か悪魔のごとき恐るべき存在であることをようやく悟り、金切り声を上げながら、蜘蛛の子を散らすように我先にと森の闇の中へと逃げ去っていった。

後に残されたのは、完全な静寂と、ゴブリンたちの無残な死体の山、そして呆然自失の人間たち。ただ一人、まるで何もなかったかのように、場違いなほどリラックスした表情で立つ、健太の姿だけだった。

***

激しい戦いが嘘のように終わった後の静寂は、遠くで鳴く虫の声と、風が木々の葉を揺らす音を、やけに大きく響かせた。ヴァレリアと彼女の部下たちは、まだ目の前で起きた出来事が信じられないという顔で、そこかしこに転がるゴブリンたちの死体と、けろりとした顔で鼻をほじりそうにさえしている健太の姿を、何度も何度も見比べていた。

健太は、そんな彼らの戸惑いに満ちた視線などお構いなしに、まっすぐ赤毛の美女――ヴァレリアの元へと歩み寄った。そして、我ながら完璧だと思える満面の笑みを浮かべて、親指をぐっと立ててみせた。

「やあ、お怪我はなかったかな? 俺、ケンタ。見ての通り、ただの通りすがりの親切な旅人さ」

その、戦場の後とは思えない、あまりにも緊張感のない軽薄な口調に、ヴァレリアは、はっと我に返った。彼女は、半ば反射的に、血に濡れた二本の剣を構え直し、鋭い警戒心に満ちた目で健太を睨みつける。その美しい翠色の瞳は、獲物を前にした、しなやかな猫科の肉食獣を思わせた。

「……アンタ、一体何者だい?」

その声は、わずかに震えていた。それは純粋な恐怖からか、あるいは、目の前で起きた信じがたい現象に対する、武人としての興奮からか。

「アタシはヴァレリア。見ての通り、こいつらのリーダーさ。……まずは、礼を言うよ。アンタがいなけりゃ、今頃アタシたちは、あいつらの晩飯になってたところだ」

彼女は、顎でゴブリンの死体をしゃくってみせた。男勝りでぶっきらぼうな口調だが、その言葉には率直な感謝の念が滲んでいる。

「どういたしまして。いやー、君みたいなとびっきりの美人が困ってるのを見たら、助けないわけにはいかないだろ? 男として」

健太が、下心を一切隠そうとしないセリフを口にすると、ヴァレリアは心底呆れたように片眉をくいと上げた。

「……ふん。口だけは達者なようだね。で、そのお礼が欲しいのかい? アタシらは見ての通りの貧乏暮らしでね、大したもんは持ってないよ。金かい? それとも、まさかとは思うが、このアタシの身体かい?」

彼女は、健太を試すように、挑発するように、豊満な胸をぐっと張ってみせた。使い古された革鎧が、その豊かな膨らみの形をいやらしく強調している。その大胆な挑発に、周囲の部下たちが息を呑むのが分かった。

しかし、健太はにやにやと下品な笑みを浮かべながらも、ゆっくりと首を横に振った。

「いやいや、そんな大それたことは言わないよ。たださ、俺、見ての通り、腹が減って死にそうなんだ。悪いけど、一晩でいいからさ、どこかに泊めてくれて、何か温かいものでも食わせてくれないかな?」

健太の、あまりにも俗で、あまりにも拍子抜けするような要求に、ヴァレリアはきょとんとした顔になった。彼女の後ろに控える部下たちも、顔を見合わせ、ざわめいている。あれほどの、神か悪魔かと思うような、人知を超えた力を見せつけた男の望みが、ただの「一宿一飯」だとは、この場にいる誰一人として想像していなかったのだ。

やがて、ヴァレリアの口から、堪えきれないといった風に、ぷっ、と小さな笑いが漏れた。そして、それはすぐに、腹の底から湧き上がってくるような、実に快活な大笑いへと変わった。

「あっはっはっはっは! なんだいアンタ! 最高に面白いじゃないか!」

彼女は、目尻に浮かんだ涙を乱暴に手の甲で拭いながら、構えていた剣をカチャリと鞘に収めた。

「だが、アンタ、一つ勘違いしてるようだね。アタシらは、ただの旅の一行じゃない。このみすぼらしい恰好を見れば分かるだろう? アタシらは、とある国を追われ、騎士としての誇りも名誉も捨てて、生きるために人を襲い、奪うこともある…しがない『盗賊団』さ」

彼女は、試すような、鋭い目で健太を見た。自分たちの薄汚れた正体を明かせば、この得体のしれない男も態度を変えるだろう、と。そう踏んだのだ。

しかし、健太の反応は、またしても彼女の予想の斜め上を行くものだった。

「へぇ、盗賊団か。なんか、カッケーじゃん」

彼は、全く動じることなく、むしろ心の底から感心したかのように言った。

「で、結局、泊めてくれんの? くれないの? どっち?」

その、どこまでもマイペースで、物事に動じず、こちらの威嚇も挑発も全く意に介さない態度に、ヴァレリアは完全に毒気を抜かれてしまったようだった。彼女は、やれやれ、といった風に軽く首を振り、諦めと面白さが混じったような、不敵な笑みを浮かべた。

「…アンタ、本当に面白い奴だね。気に入ったよ。いいだろう、アタシらのアジトへ案内してやる。腹いっぱいの飯と、固くて寝心地は悪いけど、雨風をしのげる寝床くらいは提供してやるよ」

そう言うと、彼女は健太に背を向け、部下たちにテキパキと指示を飛ばし始めた。

「おい、お前ら! いつまで突っ立ってるんだい! 怪我人の手当てを急ぎな! それが終わったら、戦利品(ゴブリンのみみ)をさっさと回収して、とっととアジトに帰るよ!」

「はっ、団長!」

部下たちの、先程までの絶望感が嘘のような、活気に満ちた返事が夜の森に響いた。

ヴァレリアは、再びちらりと健太を振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ただし、言っておくがね、ケンタ。アタシらのアジトで変な真似(・・・・・)でもしてみろ。その時は、今度こそアタシが、アンタのその頑丈そうな喉笛を、意地でも掻き切ってやるからね。……まあ、今のアンタ相手に、そんなことができるとは到底思っちゃいないがね」

軽口を叩きながらも、その美しい瞳の奥では、健太という規格外の存在への、強い興味と警戒心、そしてほんの少しの期待が、複雑に渦巻いているのを隠そうとはしていなかった。

こうして、無敵の力を持つ男は、全く意図しない形で、国を追われた元騎士で構成された、燃える赤毛の美女が率いる盗賊団と、奇妙な共同生活を始めることになった。

彼らのアジトへと向かう夜の森の中、健太の隣を歩くヴァレリアは、その後も何度も、この得体のしれない男の横顔を、値踏みするように、あるいは、誰も知らない新しいオモチャを見つけてしまった子供のような、好奇心に満ちた目で、じっと見つめ続けていた。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

異世界に移住することになったので、異世界のルールについて学ぶことになりました!

心太黒蜜きな粉味
ファンタジー
※完結しました。感想をいただけると、今後の励みになります。よろしくお願いします。 これは、今まで暮らしていた世界とはかなり異なる世界に移住することになった僕の話である。 ようやく再就職できた会社をクビになった僕は、不気味な影に取り憑かれ、異世界へと運ばれる。 気がつくと、空を飛んで、口から火を吐いていた! これは?ドラゴン? 僕はドラゴンだったのか?! 自分がドラゴンの先祖返りであると知った僕は、超絶美少女の王様に「もうヒトではないからな!異世界に移住するしかない!」と告げられる。 しかも、この世界では衣食住が保障されていて、お金や結婚、戦争も無いというのだ。なんて良い世界なんだ!と思ったのに、大いなる呪いがあるって? この世界のちょっと特殊なルールを学びながら、僕は呪いを解くため7つの国を巡ることになる。 ※派手なバトルやグロい表現はありません。 ※25話から1話2000文字程度で基本毎日更新しています。 ※なろうでも公開しています。

備蓄スキルで異世界転移もナンノソノ

ちかず
ファンタジー
久しぶりの早帰りの金曜日の夜(但し、矢作基準)ラッキーの連続に浮かれた矢作の行った先は。 見た事のない空き地に1人。異世界だと気づかない矢作のした事は? 異世界アニメも見た事のない矢作が、自分のスキルに気づく日はいつ来るのだろうか。スキル【備蓄】で異世界に騒動を起こすもちょっぴりズレた矢作はそれに気づかずマイペースに頑張るお話。 鈍感な主人公が降り注ぐ困難もナンノソノとクリアしながら仲間を増やして居場所を作るまで。

最初から最強ぼっちの俺は英雄になります

総長ヒューガ
ファンタジー
いつも通りに一人ぼっちでゲームをしていた、そして疲れて寝ていたら、人々の驚きの声が聞こえた、目を開けてみるとそこにはゲームの世界だった、これから待ち受ける敵にも勝たないといけない、予想外の敵にも勝たないといけないぼっちはゲーム内の英雄になれるのか!

スティールスキルが進化したら魔物の天敵になりました

東束末木
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞、いただきました!! スティールスキル。 皆さん、どんなイメージを持ってますか? 使うのが敵であっても主人公であっても、あまりいい印象は持たれない……そんなスキル。 でもこの物語のスティールスキルはちょっと違います。 スティールスキルが一人の少年の人生を救い、やがて世界を変えてゆく。 楽しくも心温まるそんなスティールの物語をお楽しみください。 それでは「スティールスキルが進化したら魔物の天敵になりました」、開幕です。 2025/12/7 一話あたりの文字数が多くなってしまったため、第31話から1回2~3千文字となるよう分割掲載となっています。

真祖竜に転生したけど、怠け者の世界最強種とか性に合わないんで、人間のふりして旅に出ます

難波一
ファンタジー
"『第18回ファンタジー小説大賞【奨励賞】受賞!』" ブラック企業勤めのサラリーマン、橘隆也(たちばな・りゅうや)、28歳。 社畜生活に疲れ果て、ある日ついに階段から足を滑らせてあっさりゲームオーバー…… ……と思いきや、目覚めたらなんと、伝説の存在・“真祖竜”として異世界に転生していた!? ところがその竜社会、価値観がヤバすぎた。 「努力は未熟の証、夢は竜の尊厳を損なう」 「強者たるもの怠惰であれ」がスローガンの“七大怠惰戒律”を掲げる、まさかのぐうたら最強種族! 「何それ意味わかんない。強く生まれたからこそ、努力してもっと強くなるのが楽しいんじゃん。」 かくして、生まれながらにして世界最強クラスのポテンシャルを持つ幼竜・アルドラクスは、 竜社会の常識をぶっちぎりで踏み倒し、独学で魔法と技術を学び、人間の姿へと変身。 「世界を見たい。自分の力がどこまで通じるか、試してみたい——」 人間のふりをして旅に出た彼は、貴族の令嬢や竜の少女、巨大な犬といった仲間たちと出会い、 やがて“魔王”と呼ばれる世界級の脅威や、世界の秘密に巻き込まれていくことになる。 ——これは、“怠惰が美徳”な最強種族に生まれてしまった元社畜が、 「自分らしく、全力で生きる」ことを選んだ物語。 世界を知り、仲間と出会い、規格外の強さで冒険と成長を繰り広げる、 最強幼竜の“成り上がり×異端×ほのぼの冒険ファンタジー”開幕! ※小説家になろう様にも掲載しています。

バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します

namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。 マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。 その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。 「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。 しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。 「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」 公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。 前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。 これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。

スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~

深田くれと
ファンタジー
【文庫版2が4月8日に発売されます! ありがとうございます!】 異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!

処理中です...