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第8話:赤獅子の牙
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夜の森は、まるで音という音をすべて吸い尽くしたかのように、冷たく深い沈黙を纏っていた。月明かりすら届かぬ分厚い梢の下、闇は濃密な液体のように淀み、方向感覚を曖昧にさせる。時折、風が木々の間を吹き抜ける音が、まるで森そのものの嘆息のように聞こえ、得体の知れない不安を掻き立てた。
その漆黒の中を、フィーナは、屈強な男たちの背中に守られるようにして、懸命に歩みを進めていた。一歩踏み出すごとに、ぬかるんだ土が足を取られそうになる。枯れ葉や小枝を踏む乾いた音が、静寂の中ではやけに大きく響いた。
ほんの数時間前まで、彼女の全身を苛んでいた、いつ背後から獣の爪が襲い掛かるか、あるいは闇の中から異形の魔族が姿を現すかという、心臓を直接握り潰されるような張り詰めた恐怖は、今はもう感じられなかった。屈強な男たちが放つ揺るぎない存在感が、物理的な盾となって彼女を外界の脅威から隔ててくれている。
だが、その原始的な恐怖が薄らいだ代わりに、全く質の異なる、じわりと内側から湧き上がるような緊張が、彼女の心を静かに支配し始めていた。それは、目の前にいる庇護者たちの正体が知れないことへの戸惑いと、理解を超えた現象を目の当たりにしたことへの畏怖が混じり合った、複雑な感情だった。
彼女のすぐ前を、揺れる松明の赤い光を掲げて歩くのは、燃えるような赤毛を無造作に束ねた女、ヴァレリア。その背中は、女性とは思えぬほど広く、鍛え上げられた筋肉が衣服の上からでも見て取れた。岩くれの多い険しい道も、まるで平地を行くかのように、その歩みには一切の迷いがない。力強く、そして揺るぎない自信に満ち溢れた後ろ姿は、頼もしくもあり、同時にどこか近寄りがたい威圧感を放っていた。
そして、フィーナの隣には、時折「足元、大丈夫?」「無理しないで、疲れたら言ってね」などと、場違いなほどに気遣わしげな声をかけてくる、ケンタと名乗る得体のしれない男がいた。彼は、この暗く険しい山道を、既にかなりの時間歩き続けているにもかかわらず、その呼吸には全く乱れがなかった。それは、まるで近所の公園を散歩でもしているかのような、どこまでも深く、穏やかなものだった。フィーナ自身の、浅く速い喘ぎ声とはあまりに対照的で、彼の存在そのものがこの世の理から外れているかのように感じられた。
彼らは、自らを「盗賊団」と名乗った。その言葉だけを聞けば、無秩序で粗暴なならず者の集団を思い浮かべるだろう。しかし、彼らの動きには、盗賊という言葉からは到底想像もつかない、驚くべきものが備わっていた。先頭を行く者、殿を務める者、そしてフィーナの周囲を固める者たちの連携は、まるで一つの生き物のように滑らかで、無駄がない。それは、厳しい騎士としての訓練を積んだ者だけが持つ、独特の規律と、互いへの深い信頼から生まれる気配りそのものだった。
彼らは常に周囲への警戒を怠らず、視線は絶えず闇の奥深くへと注がれている。それでいて、その意識の片隅では、負傷したフィーナの覚束ない歩調を常に気にかけてくれているのが、ひしひしと伝わってきた。彼女が小石につまずけば、誰かが黙って腕を差し出し、彼女が息を切らせば、全体の歩く速度が自然と緩やかになる。その配慮は、言葉にされずとも、彼らの行動の端々から感じ取れた。
突如、強い風が吹き抜け、木々の葉が一斉にざわざわと不気味な音を立てた。遠くで、夜行性の獣が空気を震わせるような低い咆哮を上げた。以前の彼女なら、その威嚇的な音一つで恐怖に身を竦ませ、その場にうずくまっていただろう。だが今、彼女の心は、それとは異なる種類の感情で満たされていた。
安堵と、戸惑い。そして、目の前の男、ケンタへの、理解を遥かに超えた力に対する畏怖。
彼の力は、異常だ。常軌を逸している、という言葉すら生ぬるい。あの高位の魔族を、まるで戯れに虫を払うかのようにあしらっていた。魔族が放った絶望的な威圧感も、死をもたらすはずの魔法も、彼の前では何の意味もなさなかった。あれは、人間が行使できる力の領域を、あまりにも遥かに逸脱している。
彼こそが、もしや――。
いや、とフィーナは心の中でかぶりを振る。そんなはずはない。あってはならない。伝説に語り継がれる、世界を救うと予言された伝承の勇者様が、あんなにも…締まりのない、人の好さだけが取り柄のような顔をしているはずがない。フィーナが思い描く勇者の姿は、もっと孤高で、威厳に満ち、その瞳には世界を憂う深い影を宿しているはずだった。隣を歩くこの男からは、そういったものは微塵も感じられない。
思考の迷路に迷い込んでいるうちに、一行は、鬱蒼とした木々の切れ間にそびえ立つ、巨大な岩壁の前にたどり着いた。夜の闇に溶け込むようにして佇むその岩壁は、一面がびっしりとツタと苔に覆われ、悠久の時をその身に刻み込んでいるかのようだった。
「ここさ」
ヴァレリアが、松明で岩肌の一点を照らし出しながら、短く言った。彼女が指し示したのは、巨大な岩の裂け目だった。それは、自然にできたものか、あるいは人の手によるものか、闇の中では判然としない。しかし、その亀裂の奥からは、温かい光が漏れ、人々のざわめきや笑い声が、くぐもった音となって微かに聞こえてきた。
フィーナが、その文明の光景に無意識のうちに安堵の息をついたのも束の間、洞窟の中から一人の男が姿を現した。見張りだったのだろう、手には無骨な斧を握っている。彼はヴァレリアの姿を認めると軽く会釈したが、その隣にいるフィーナの泥と血に汚れた姿を見て、たちまち怪訝な顔になった。
「団長、そいつは? 新しい獲物ですかい?」
男の目は、品定めをするようにフィーナの全身を舐め回した。その無遠慮な視線に、フィーナは反射的に身を固くする。
「アホ言いな。命の恩人だよ」
ヴァレリアは、男の頭を軽くはたくと、フィーナの背中を大きな手でぽんと叩いた。その力強さに、フィーナは少しよろめく。
「さあ、入りな。見た目は悪いが、雨風はしのげる。アンタがいたっていう立派な城の、馬小屋よりはマシだろうさ」
その言葉には、決して悪意がないのだと頭では分かっていながらも、フィーナの胸の奥がちくりと痛んだ。失われた栄光、二度と戻らない日々が、その無神経な一言によって鮮やかに蘇ったからだ。
洞窟の中は、外の身を切るような冷気とはまるで別世界のようだった。中央で燃え盛る巨大な焚き火が、ごつごつとした岩肌の壁面を幻想的なオレンジ色に染め上げ、そこに集う人々の顔に、生き生きとした陰影を落としている。
むっとするような人の密度、汗の匂い、土埃の匂い、そして、何かが焼ける香ばしい匂いが混じり合った、濃密で力強い生活の匂いが洞窟全体に満ちていた。フィーナは、そのあまりに人間的な「人の匂い」に、自分がとうの昔に忘れてしまっていた感覚を思い出していた。
王国を追われ、旅に出てからずっと、彼女は孤独だった。言葉を交わす相手もなく、ただひたすらに獣と、魔族と、そして何よりも自分自身の内なる絶望とだけ向き合ってきた。人のいる場所の、この無防備で、騒々しく、そして温かい空気に触れた瞬間、彼女の心に張り巡らされていた氷の壁が、少しだけ、本当に髪の毛一本分ほど、解けていくのを確かに感じた。
「さて、と。まずは、その怪我の手当てが先だね」
ヴァレリアは、周囲の男たちにいくつかの指示を飛ばした後、フィーナを手招きした。そして、焚き火の近くにある、少しだけ綺麗な毛皮が敷かれた場所へと彼女を座らせた。そこは、おそらく団長である彼女の特等席なのだろう。
間もなく、ヴァレリアは手際よく、なみなみと水を入れた木桶と、使い古されてはいるが清潔そうな布、そして薬草をすり潰して練り上げたのであろう、鮮やかな緑色の軟膏を持ってきた。
「ちょっとしみるかもしれないが、我慢しな」
ヴァレリアはそう言うと、フィーナの許可を待つこともなく、彼女の足の傷を覆っていたボロボロの布を、躊躇なく一気に剥がした。傷口が夜の冷気に直接晒され、ひりりとした鋭い痛みが走る。フィーナは思わず息を詰めた。
ヴァレリアは、濡らした布で、傷口の周りにこびりついた泥や乾いた血を、驚くほど丁寧に拭っていく。その手つきは、彼女の男勝りで乱暴な口調とは裏腹に、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、繊細だった。
フィーナは、黙ってその手当てを受けながら、目の前で身をかがめる女の横顔をじっと見つめていた。焚き火の光に照らされた、汗で濡れた赤い髪。日に焼けた、健康的で引き締まった肌。そして、真剣な眼差しで傷口を見つめる、力強い意志を宿した瞳。この女は一体何者なのだろう。なぜ、自分のような見ず知らずの人間を、ここまで気にかけてくれるのだろう。
「……なぜ、そこまでしてくれるのですか」
抑えようもなく、疑問が口をついて出た。声が、自分でも驚くほどか細く震えている。
「私は、あなたたちにとっては、見ず知らずの、ただの通りすがりの人間のはず…」
ヴァレリアは、手当ての手を止めずに、ちらりと視線だけを上げて答えた。
「アンタを助けたのは、そこのお人好し(ケンタのことだ)の気まぐれさ。アタシは、ただ、そのおこぼれに与っただけだよ」
「ですが…」
フィーナが何かを言い募ろうとすると、ヴァレリアはそれを遮るように続けた。
「それに、アンタ、ただ者じゃないだろう? あの魔族、明らかにアンタを狙っていた。理由があるはずだ。アンタの素性を洗いざらい聞くまでは、生かしておかないとね。アタシらは盗賊団だ。利用できるもんは、親の仇だろうが何だろうが、何でも利用させてもらうさ」
彼女は、軟膏を傷口に優しく塗り込みながら、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてみせた。ひんやりとした軟膏が、熱を持っていた傷の痛みを心地よく和らげていく。
フィーナは、彼女の言葉に、剥き出しの嘘と、隠しきれない本音が巧みに混じり合っているのを感じていた。この女は、根っからの悪人ではない。だが、この過酷な世界で仲間たちと生き抜くために、自らの心を鬼にすることを強いているのだ。その不器用な虚勢が、なぜかフィーナの胸を打った。
「…私の名は、フィーナ、と申します」
正体を明かすべきか、フィーナは一瞬、強く迷った。王女という身分は、今や栄光ではなく、むしろ災いを呼ぶ呪いのようなものだ。しかし、この状況で下手に嘘をついても、いずれ見破られるだけだろう。何より、目の前のこの女には、誠実に応えなければならないような気がした。彼女は、静かに覚悟を決めた。
「…クライロード王国の、王女でした」
その言葉を口にした瞬間、フィーナの足に軟膏を塗っていたヴァレリアの手が、ぴたりと、石のように止まった。
それまで陽気な喧騒に満ちていた洞窟の中のざわめきが、まるで水を打ったように、しんと静まり返る。近くで酒を酌み交わしながらこちらの様子を窺っていた団員たちが、皆、息を呑んでこちらを凝視していた。焚き火の薪がパチリと爆ぜる音が、やけに大きく響き渡った。
ヴァレリアは、信じられない、というようにゆっくりと顔を上げた。その瞳が、ありえないものを見るかのように、大きく、大きく見開かれている。
「……クライロード…だと…?」
その声は、微かに、しかし確かに震えていた。先ほどまでの自信に満ちた声とは似ても似つかない、か細い声だった。
「嘘…だろ…? あの国は、もう…魔族の侵攻で、滅んだはずじゃ…」
「…生き残ったのです。私、一人が」
フィーナは、唇を噛み締めながら、絞り出すように答えた。
「じゃあ、アンタが…あの、フィーナ姫…なのか…?」
ヴァレリアの脳裏に、数年前の、まだ平和だった頃の記憶が、鮮やかな光景となって蘇った。建国祭のパレードで、国王陛下の隣に立ち、民衆の歓声に、まだ幼いながらも気品に満ちた完璧な笑みを浮かべて手を振っていた、黄金の髪を持つ愛らしい姫君。自分たちが、そして父が、命を懸けて守ると誓った、国の希望、民の象徴。
その輝かしい姫が、今、目の前で、泥と血にまみれ、着ているものもボロボロになった痛ましい姿で、自分の手当てを受けている。この現実が、ヴァレリアにはにわかには信じられなかった。
「……そうかい」
ヴァレリアは、こみ上げてくる何かを必死に振り払うように、一度、強く目を閉じた。数秒の沈黙の後、再び目を開けた時には、その瞳にはもう先ほどのような動揺の色はなかった。ただ、深い、深い悲しみを湛えた、静かで澄んだ光があるだけだった。
「…アンタが、あのフィーナ姫か。大きくなったね…。アタシの親父が、よくアンタの話をしていたよ。『姫様は、時にお転婆が過ぎてハラハラさせられるが、その心根は誰よりも民を想う、優しいお方だ』ってね」
「あなたの、お父上を…存じ上げているのですか?」
「ああ。クライロード王国、第三騎士団団長、ガレオス・レーク。それがアタシの親父さ」
ガレオス。
その名前を聞いて、今度はフィーナが息を呑んだ。王国最強と謳われた猛将。誰よりも王家への忠誠心に厚く、王都が陥落するその最後の最後まで、彼女を逃がすために城門で仁王立ちとなって戦い、壮絶な死を遂げた、あの忠勇なる騎士団長。
「では、あなたは…ガレオス団長の…」
「ああ。その、出来の悪い娘だよ」
ヴァレリアは、唇の端を歪め、自嘲するように笑った。
その瞬間、フィーナの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。敵だと思っていた。利用されるだけだと、心のどこかで警戒していた。だが、目の前にいるのは、かつて同じ国に仕え、同じ王を戴き、同じ理想を抱いて生きていた、紛れもない同胞だったのだ。
「…すまない…すまないことでした…! 私が、不甲斐ないばかりに…国を、ガレオス団長を…皆を…!」
嗚咽と共に、フィーナはその場に崩れ落ちようとした。罪悪感と悲しみが、濁流となって彼女を飲み込む。その震える肩を、ヴァレリアの大きな手が、しかし、岩のように力強く支えた。
「謝るな、姫様。アンタが謝ることじゃない。悪いのは、全部、あの忌まわしい魔族だ。そして…奴らからアンタ一人守りきれなかった、アタシらの力不足さ」
その言葉は、ぶっきらぼうでありながら、どこまでも温かかった。
フィーナは、ヴァレリアのたくましい腕の中で、王国を失い、孤独な旅に出てから初めて、声を上げて泣いた。それは、国を失った悲しみ、父や母を失った痛み、そして、独りぼっちだった旅路の辛さと心細さが、一度に溢れ出した、まるで迷子の子供のような泣き声だった。
***
その夜の宴は、一度仕切り直しとなった。フィーナの涙がようやく乾いた頃、ヴァレリアが立ち上がり、洞窟中に響き渡る声で高らかに宣言した。
「野郎ども、聞け! クライロードの姫君の、奇跡の生還を祝して! そして、我らが故郷の再興を願って! 乾杯!」
その言葉を合図に、団員たちから、地響きのような、あるいは大地そのものが震えるような凄まじい歓声が上がった。「うおおおお!」「姫様、万歳!」「クライロードに栄光あれ!」という叫びが、洞窟の壁に何度もこだました。
フィーナの前には、湯気の立つ温かい肉のスープと、焚き火で軽く炙られた、焼きたての香ばしいパンが置かれた。彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、まだ少し躊躇いがちに、しかし確かに、木のスプーンを手に取り、そのスープをそっと口に運んだ。
塩気の効いた、素朴な味付け。おそらくは森で獲れた獣の肉と、名も知らぬ野草が入っているだけだろう。しかし、その飾らない温かさが、凍てついていた彼女の身体の芯まで、そして頑なに閉ざされていた心の奥深くまで、ゆっくりと、しかし確実に染み渡っていくのが分かった。
美味しい、と、彼女は心の底から思った。それは、王宮の食卓で並べられたどんな豪華な料理よりも、彼女の魂を深く満たす味だった。
宴が盛り上がるにつれて、それまで遠巻きにしていた団員たちが、代わる代わるフィーナの元へとやってきた。誰もが少し照れたような、それでいて誇らしげな顔をしている。
「姫様、覚えておいででしょうか? わしです、王城の西門の警備をしていた、バルガスですぞ。姫様が幼き砌、お忍びで城下へ抜け出そうとなさったのを、お止めしたことがございます」
年配の、髭面の男がそう言って頭を掻いた。フィーナの記憶の片隅に、確かにそんな頑固者の門番がいたことを思い出した。
「姫様がまだ小さかった頃、中庭の樫の木に登って下りられなくなったのを助けたのは、俺ですよ。あの時は肝を冷やしましたぜ」
顔に大きな傷跡のある、若い男がにかりと笑う。言われてみれば、そんな無鉄砲なことをした記憶もあった。
彼らは、口々に、今はもう失われてしまった故郷での、他愛もない思い出を語った。それは、フィーナにとっても、あまりの辛さに心の奥底に封じ込め、忘れようとしていた、温かく幸せな日々の記憶だった。
皆、笑っていた。国の惨状を嘆き、未来を悲観するのではなく、ただひたすらに、敬愛する姫が生きていたという、その一つの事実を、心の底から純粋に喜んでくれている。その屈託のない笑顔と温かい言葉に触れるたびに、フィーナの心を満たしていた孤独という名の氷が、音を立てて溶けていくのを感じた。私は、独りではなかったのだ。この人たちがいた。この温もりが、私の帰る場所だったのだ。
一方、その感動的な再会の輪の中心で、健太は、そんな湿っぽい雰囲気などお構いなしとばかりに、相変わらず黙々と巨大な骨付き肉を頬張り続けていた。
彼の両隣には、奇しくもフィーナとヴァレリアが座っている。左を見れば、悲しみを乗り越え、再び王女としての気品を取り戻しつつある、美しい金髪の元王女。右を見れば、豪快に笑い、大きなジョッキで酒を呷る、快活で頼もしい赤毛の女盗賊。
(……うっひょー! なんか知らんけど、とんでもないことになってる! これはもう、俺のハーレム計画、超絶順調ってことでいいよな!)
健太の脳内は、そんな極めて俗な思考で満たされていた。彼は、時折、思い出に浸って悲しげな表情で俯くフィーナに気づくと、デリカシーというものを母親の腹の中に忘れてきたかのような言葉を、大声で投げかけた。
「どうしたの、フィーナちゃん? この肉、あんま好きじゃない感じ? もっと焼いた方がいいとか?」
そのたびに、隣からヴァレリアの鉄のように硬い肘が、健太の脇腹に強烈な一撃を見舞った。ゴッ、と鈍い音が響く。
「この朴念仁! 少しは場の空気を読みな! 姫様は物思いに耽っておられるんだ!」
「いっつ! いてえよ、ヴァレリア! 俺は純粋にフィーナちゃんを心配してだな…」
もちろん、そんな肘鉄が健太に効くはずもないのだが、彼は大げさに痛がって見せる。その、まるで夫婦漫才のような二人のやり取りが、かえって場の重苦しい雰囲気を和ませ、団員たちの間に笑いを誘った。
フィーナも、そんな二人の様子を見て、思わず、くすりと小さな笑みを漏らした。それは、彼女がクライロード王国を失ってから、初めて見せた、心からの、何の屈託もない少女のような笑顔だった。
***
やがて狂騒の宴も終わり、ほとんどの団員がそれぞれの寝床でいびきをかき始めた頃。健太とヴァレリア、そして、興奮と安堵でまだ眠れずにいたフィーナは、小さくなった焚き火を囲んで、静かに揺らめく炎を見つめていた。
パチ、パチ、と薪の爆ぜる音と、洞窟の外から聞こえてくる夜の森の虫の声だけが、穏やかな静寂を支配している。
最初に口を開いたのは、腕を組んで炎を見つめていたヴァレリアだった。
「…それで、姫様。アンタ、これからどうするつもりなんだい?」
その声は、昼間の喧騒の中でのそれとは違い、低く、静かだったが、有無を言わさぬ真剣な響きを持っていた。
「一人で、あの伝承の勇者様とやらを探す旅を、まだ続けるとでも言うのかい?」
フィーナは、燃え盛る炎から目を離さずに、しかしはっきりと頷いた。
「ええ。それが、私に残された、唯一の使命ですから」
「無茶だ」
ヴァレリアは、きっぱりと、一切の情を挟まずに言った。
「アンタも身をもって分かっただろう。今のこの世界は、王族の姫君が一人で旅できるほど、甘くはない。今日だって、そこの朴念仁(ケンタのことだ)がいなけりゃ、アンタはとっくにあの魔族の餌食になってたんだ」
「それは…そうですが…しかし、私にはこれしか…」
「アタシらは、もう二度と、アンタを死なせるわけにはいかない」
ヴァレリアは、組んでいた腕を解くと、真っ直ぐにフィーナの瞳を見つめた。その真紅の瞳には、燃えるような決意が宿っている。
「アンタは、アタシらにとって…そして、今はもうないクライロード王国にとって、最後の『希望』なんだ。たとえ、アンタが信じる勇者様なんてものが、ただの御伽噺だったとしてもね。アンタが生きていてくれること、それ自体が希望なんだよ」
彼女は、ふと、健太の方に視線を移した。
「…ケンタ。アンタに、頼みがある」
「ん? なあに?」
最後の肉の骨までしゃぶり尽くしていた健太が、呑気に顔を上げる。
「アンタの、そのふざけた強さで、姫様を護衛してやってくれないかい」
それは、盗賊団のリーダーとしての命令ではなかった。一人の、故郷を愛し、姫を敬う、元騎士としての、切実な願いだった。彼女ほどの誇り高い人間が、他人に頭を下げる。そのことの重みを、健太は理解しているのかいないのか。
健太は、少しの間、きょとんとしていたが、やがて、真剣な眼差しのフィーナと、懇願するようなヴァレリアの顔を交互に見比べると、いつものように、にっと歯を見せて笑った。
「なんだ、そんなことか。お安い御用だよ」
彼は、まるで隣人に醤油を貸すくらいの軽さで、こともなげに言った。
「だって、可愛い女の子が困ってるのを助けるのが、男の役目だろ?」
その、あまりにも単純明快で、しかし、この世のどんな理屈よりも力強い答えに、ヴァレリアは、一瞬、言葉を失った。そして、やれやれ、といった風に、大きなため息をつくと、少しだけ口元を緩めた。
フィーナは、その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。この男は、何も考えていないようでいて、その実、物事の最も大切で、最も純粋な本質を、誰よりもまっすぐに見抜いているのかもしれない。
その時、フィーナは、久しぶりに感じた安全な場所での安堵感と、温かい食事で満たされた満足感から、抗いがたい強烈な眠気に襲われた。張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れたのだ。
彼女の意識は、ゆっくりと、穏やかで温かい眠りの海へと沈んでいく。健太の肩に、こてん、と頭をもたせかける形になった。その寝顔は、もう、国を背負う王女の苦悩に満ちたそれではなかった。ただ、歳相応の、あどけなさを残した、一人の少女の安らかな寝顔だった。
健太は、自分の肩に寄りかかって眠るフィーナの寝顔と、その隣でどこか吹っ切れたような、それでいて複雑な表情を浮かべて焚き火を見つめるヴァレリアの横顔を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
(ま、よく分かんねえけど、美味い飯が腹いっぱい食えて、こんな可愛い女の子が二人もそばにいるなら、しばらくは、こいつらと一緒に行動すっか)
彼の、どこまでも単純で、底抜けに楽観的な決意。
それを照らす焚き火の炎が、洞窟の壁に、三者三様の未来を宿した影を、長く、そしてどこまでも優しく、映し出していた。
その漆黒の中を、フィーナは、屈強な男たちの背中に守られるようにして、懸命に歩みを進めていた。一歩踏み出すごとに、ぬかるんだ土が足を取られそうになる。枯れ葉や小枝を踏む乾いた音が、静寂の中ではやけに大きく響いた。
ほんの数時間前まで、彼女の全身を苛んでいた、いつ背後から獣の爪が襲い掛かるか、あるいは闇の中から異形の魔族が姿を現すかという、心臓を直接握り潰されるような張り詰めた恐怖は、今はもう感じられなかった。屈強な男たちが放つ揺るぎない存在感が、物理的な盾となって彼女を外界の脅威から隔ててくれている。
だが、その原始的な恐怖が薄らいだ代わりに、全く質の異なる、じわりと内側から湧き上がるような緊張が、彼女の心を静かに支配し始めていた。それは、目の前にいる庇護者たちの正体が知れないことへの戸惑いと、理解を超えた現象を目の当たりにしたことへの畏怖が混じり合った、複雑な感情だった。
彼女のすぐ前を、揺れる松明の赤い光を掲げて歩くのは、燃えるような赤毛を無造作に束ねた女、ヴァレリア。その背中は、女性とは思えぬほど広く、鍛え上げられた筋肉が衣服の上からでも見て取れた。岩くれの多い険しい道も、まるで平地を行くかのように、その歩みには一切の迷いがない。力強く、そして揺るぎない自信に満ち溢れた後ろ姿は、頼もしくもあり、同時にどこか近寄りがたい威圧感を放っていた。
そして、フィーナの隣には、時折「足元、大丈夫?」「無理しないで、疲れたら言ってね」などと、場違いなほどに気遣わしげな声をかけてくる、ケンタと名乗る得体のしれない男がいた。彼は、この暗く険しい山道を、既にかなりの時間歩き続けているにもかかわらず、その呼吸には全く乱れがなかった。それは、まるで近所の公園を散歩でもしているかのような、どこまでも深く、穏やかなものだった。フィーナ自身の、浅く速い喘ぎ声とはあまりに対照的で、彼の存在そのものがこの世の理から外れているかのように感じられた。
彼らは、自らを「盗賊団」と名乗った。その言葉だけを聞けば、無秩序で粗暴なならず者の集団を思い浮かべるだろう。しかし、彼らの動きには、盗賊という言葉からは到底想像もつかない、驚くべきものが備わっていた。先頭を行く者、殿を務める者、そしてフィーナの周囲を固める者たちの連携は、まるで一つの生き物のように滑らかで、無駄がない。それは、厳しい騎士としての訓練を積んだ者だけが持つ、独特の規律と、互いへの深い信頼から生まれる気配りそのものだった。
彼らは常に周囲への警戒を怠らず、視線は絶えず闇の奥深くへと注がれている。それでいて、その意識の片隅では、負傷したフィーナの覚束ない歩調を常に気にかけてくれているのが、ひしひしと伝わってきた。彼女が小石につまずけば、誰かが黙って腕を差し出し、彼女が息を切らせば、全体の歩く速度が自然と緩やかになる。その配慮は、言葉にされずとも、彼らの行動の端々から感じ取れた。
突如、強い風が吹き抜け、木々の葉が一斉にざわざわと不気味な音を立てた。遠くで、夜行性の獣が空気を震わせるような低い咆哮を上げた。以前の彼女なら、その威嚇的な音一つで恐怖に身を竦ませ、その場にうずくまっていただろう。だが今、彼女の心は、それとは異なる種類の感情で満たされていた。
安堵と、戸惑い。そして、目の前の男、ケンタへの、理解を遥かに超えた力に対する畏怖。
彼の力は、異常だ。常軌を逸している、という言葉すら生ぬるい。あの高位の魔族を、まるで戯れに虫を払うかのようにあしらっていた。魔族が放った絶望的な威圧感も、死をもたらすはずの魔法も、彼の前では何の意味もなさなかった。あれは、人間が行使できる力の領域を、あまりにも遥かに逸脱している。
彼こそが、もしや――。
いや、とフィーナは心の中でかぶりを振る。そんなはずはない。あってはならない。伝説に語り継がれる、世界を救うと予言された伝承の勇者様が、あんなにも…締まりのない、人の好さだけが取り柄のような顔をしているはずがない。フィーナが思い描く勇者の姿は、もっと孤高で、威厳に満ち、その瞳には世界を憂う深い影を宿しているはずだった。隣を歩くこの男からは、そういったものは微塵も感じられない。
思考の迷路に迷い込んでいるうちに、一行は、鬱蒼とした木々の切れ間にそびえ立つ、巨大な岩壁の前にたどり着いた。夜の闇に溶け込むようにして佇むその岩壁は、一面がびっしりとツタと苔に覆われ、悠久の時をその身に刻み込んでいるかのようだった。
「ここさ」
ヴァレリアが、松明で岩肌の一点を照らし出しながら、短く言った。彼女が指し示したのは、巨大な岩の裂け目だった。それは、自然にできたものか、あるいは人の手によるものか、闇の中では判然としない。しかし、その亀裂の奥からは、温かい光が漏れ、人々のざわめきや笑い声が、くぐもった音となって微かに聞こえてきた。
フィーナが、その文明の光景に無意識のうちに安堵の息をついたのも束の間、洞窟の中から一人の男が姿を現した。見張りだったのだろう、手には無骨な斧を握っている。彼はヴァレリアの姿を認めると軽く会釈したが、その隣にいるフィーナの泥と血に汚れた姿を見て、たちまち怪訝な顔になった。
「団長、そいつは? 新しい獲物ですかい?」
男の目は、品定めをするようにフィーナの全身を舐め回した。その無遠慮な視線に、フィーナは反射的に身を固くする。
「アホ言いな。命の恩人だよ」
ヴァレリアは、男の頭を軽くはたくと、フィーナの背中を大きな手でぽんと叩いた。その力強さに、フィーナは少しよろめく。
「さあ、入りな。見た目は悪いが、雨風はしのげる。アンタがいたっていう立派な城の、馬小屋よりはマシだろうさ」
その言葉には、決して悪意がないのだと頭では分かっていながらも、フィーナの胸の奥がちくりと痛んだ。失われた栄光、二度と戻らない日々が、その無神経な一言によって鮮やかに蘇ったからだ。
洞窟の中は、外の身を切るような冷気とはまるで別世界のようだった。中央で燃え盛る巨大な焚き火が、ごつごつとした岩肌の壁面を幻想的なオレンジ色に染め上げ、そこに集う人々の顔に、生き生きとした陰影を落としている。
むっとするような人の密度、汗の匂い、土埃の匂い、そして、何かが焼ける香ばしい匂いが混じり合った、濃密で力強い生活の匂いが洞窟全体に満ちていた。フィーナは、そのあまりに人間的な「人の匂い」に、自分がとうの昔に忘れてしまっていた感覚を思い出していた。
王国を追われ、旅に出てからずっと、彼女は孤独だった。言葉を交わす相手もなく、ただひたすらに獣と、魔族と、そして何よりも自分自身の内なる絶望とだけ向き合ってきた。人のいる場所の、この無防備で、騒々しく、そして温かい空気に触れた瞬間、彼女の心に張り巡らされていた氷の壁が、少しだけ、本当に髪の毛一本分ほど、解けていくのを確かに感じた。
「さて、と。まずは、その怪我の手当てが先だね」
ヴァレリアは、周囲の男たちにいくつかの指示を飛ばした後、フィーナを手招きした。そして、焚き火の近くにある、少しだけ綺麗な毛皮が敷かれた場所へと彼女を座らせた。そこは、おそらく団長である彼女の特等席なのだろう。
間もなく、ヴァレリアは手際よく、なみなみと水を入れた木桶と、使い古されてはいるが清潔そうな布、そして薬草をすり潰して練り上げたのであろう、鮮やかな緑色の軟膏を持ってきた。
「ちょっとしみるかもしれないが、我慢しな」
ヴァレリアはそう言うと、フィーナの許可を待つこともなく、彼女の足の傷を覆っていたボロボロの布を、躊躇なく一気に剥がした。傷口が夜の冷気に直接晒され、ひりりとした鋭い痛みが走る。フィーナは思わず息を詰めた。
ヴァレリアは、濡らした布で、傷口の周りにこびりついた泥や乾いた血を、驚くほど丁寧に拭っていく。その手つきは、彼女の男勝りで乱暴な口調とは裏腹に、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、繊細だった。
フィーナは、黙ってその手当てを受けながら、目の前で身をかがめる女の横顔をじっと見つめていた。焚き火の光に照らされた、汗で濡れた赤い髪。日に焼けた、健康的で引き締まった肌。そして、真剣な眼差しで傷口を見つめる、力強い意志を宿した瞳。この女は一体何者なのだろう。なぜ、自分のような見ず知らずの人間を、ここまで気にかけてくれるのだろう。
「……なぜ、そこまでしてくれるのですか」
抑えようもなく、疑問が口をついて出た。声が、自分でも驚くほどか細く震えている。
「私は、あなたたちにとっては、見ず知らずの、ただの通りすがりの人間のはず…」
ヴァレリアは、手当ての手を止めずに、ちらりと視線だけを上げて答えた。
「アンタを助けたのは、そこのお人好し(ケンタのことだ)の気まぐれさ。アタシは、ただ、そのおこぼれに与っただけだよ」
「ですが…」
フィーナが何かを言い募ろうとすると、ヴァレリアはそれを遮るように続けた。
「それに、アンタ、ただ者じゃないだろう? あの魔族、明らかにアンタを狙っていた。理由があるはずだ。アンタの素性を洗いざらい聞くまでは、生かしておかないとね。アタシらは盗賊団だ。利用できるもんは、親の仇だろうが何だろうが、何でも利用させてもらうさ」
彼女は、軟膏を傷口に優しく塗り込みながら、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてみせた。ひんやりとした軟膏が、熱を持っていた傷の痛みを心地よく和らげていく。
フィーナは、彼女の言葉に、剥き出しの嘘と、隠しきれない本音が巧みに混じり合っているのを感じていた。この女は、根っからの悪人ではない。だが、この過酷な世界で仲間たちと生き抜くために、自らの心を鬼にすることを強いているのだ。その不器用な虚勢が、なぜかフィーナの胸を打った。
「…私の名は、フィーナ、と申します」
正体を明かすべきか、フィーナは一瞬、強く迷った。王女という身分は、今や栄光ではなく、むしろ災いを呼ぶ呪いのようなものだ。しかし、この状況で下手に嘘をついても、いずれ見破られるだけだろう。何より、目の前のこの女には、誠実に応えなければならないような気がした。彼女は、静かに覚悟を決めた。
「…クライロード王国の、王女でした」
その言葉を口にした瞬間、フィーナの足に軟膏を塗っていたヴァレリアの手が、ぴたりと、石のように止まった。
それまで陽気な喧騒に満ちていた洞窟の中のざわめきが、まるで水を打ったように、しんと静まり返る。近くで酒を酌み交わしながらこちらの様子を窺っていた団員たちが、皆、息を呑んでこちらを凝視していた。焚き火の薪がパチリと爆ぜる音が、やけに大きく響き渡った。
ヴァレリアは、信じられない、というようにゆっくりと顔を上げた。その瞳が、ありえないものを見るかのように、大きく、大きく見開かれている。
「……クライロード…だと…?」
その声は、微かに、しかし確かに震えていた。先ほどまでの自信に満ちた声とは似ても似つかない、か細い声だった。
「嘘…だろ…? あの国は、もう…魔族の侵攻で、滅んだはずじゃ…」
「…生き残ったのです。私、一人が」
フィーナは、唇を噛み締めながら、絞り出すように答えた。
「じゃあ、アンタが…あの、フィーナ姫…なのか…?」
ヴァレリアの脳裏に、数年前の、まだ平和だった頃の記憶が、鮮やかな光景となって蘇った。建国祭のパレードで、国王陛下の隣に立ち、民衆の歓声に、まだ幼いながらも気品に満ちた完璧な笑みを浮かべて手を振っていた、黄金の髪を持つ愛らしい姫君。自分たちが、そして父が、命を懸けて守ると誓った、国の希望、民の象徴。
その輝かしい姫が、今、目の前で、泥と血にまみれ、着ているものもボロボロになった痛ましい姿で、自分の手当てを受けている。この現実が、ヴァレリアにはにわかには信じられなかった。
「……そうかい」
ヴァレリアは、こみ上げてくる何かを必死に振り払うように、一度、強く目を閉じた。数秒の沈黙の後、再び目を開けた時には、その瞳にはもう先ほどのような動揺の色はなかった。ただ、深い、深い悲しみを湛えた、静かで澄んだ光があるだけだった。
「…アンタが、あのフィーナ姫か。大きくなったね…。アタシの親父が、よくアンタの話をしていたよ。『姫様は、時にお転婆が過ぎてハラハラさせられるが、その心根は誰よりも民を想う、優しいお方だ』ってね」
「あなたの、お父上を…存じ上げているのですか?」
「ああ。クライロード王国、第三騎士団団長、ガレオス・レーク。それがアタシの親父さ」
ガレオス。
その名前を聞いて、今度はフィーナが息を呑んだ。王国最強と謳われた猛将。誰よりも王家への忠誠心に厚く、王都が陥落するその最後の最後まで、彼女を逃がすために城門で仁王立ちとなって戦い、壮絶な死を遂げた、あの忠勇なる騎士団長。
「では、あなたは…ガレオス団長の…」
「ああ。その、出来の悪い娘だよ」
ヴァレリアは、唇の端を歪め、自嘲するように笑った。
その瞬間、フィーナの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。敵だと思っていた。利用されるだけだと、心のどこかで警戒していた。だが、目の前にいるのは、かつて同じ国に仕え、同じ王を戴き、同じ理想を抱いて生きていた、紛れもない同胞だったのだ。
「…すまない…すまないことでした…! 私が、不甲斐ないばかりに…国を、ガレオス団長を…皆を…!」
嗚咽と共に、フィーナはその場に崩れ落ちようとした。罪悪感と悲しみが、濁流となって彼女を飲み込む。その震える肩を、ヴァレリアの大きな手が、しかし、岩のように力強く支えた。
「謝るな、姫様。アンタが謝ることじゃない。悪いのは、全部、あの忌まわしい魔族だ。そして…奴らからアンタ一人守りきれなかった、アタシらの力不足さ」
その言葉は、ぶっきらぼうでありながら、どこまでも温かかった。
フィーナは、ヴァレリアのたくましい腕の中で、王国を失い、孤独な旅に出てから初めて、声を上げて泣いた。それは、国を失った悲しみ、父や母を失った痛み、そして、独りぼっちだった旅路の辛さと心細さが、一度に溢れ出した、まるで迷子の子供のような泣き声だった。
***
その夜の宴は、一度仕切り直しとなった。フィーナの涙がようやく乾いた頃、ヴァレリアが立ち上がり、洞窟中に響き渡る声で高らかに宣言した。
「野郎ども、聞け! クライロードの姫君の、奇跡の生還を祝して! そして、我らが故郷の再興を願って! 乾杯!」
その言葉を合図に、団員たちから、地響きのような、あるいは大地そのものが震えるような凄まじい歓声が上がった。「うおおおお!」「姫様、万歳!」「クライロードに栄光あれ!」という叫びが、洞窟の壁に何度もこだました。
フィーナの前には、湯気の立つ温かい肉のスープと、焚き火で軽く炙られた、焼きたての香ばしいパンが置かれた。彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、まだ少し躊躇いがちに、しかし確かに、木のスプーンを手に取り、そのスープをそっと口に運んだ。
塩気の効いた、素朴な味付け。おそらくは森で獲れた獣の肉と、名も知らぬ野草が入っているだけだろう。しかし、その飾らない温かさが、凍てついていた彼女の身体の芯まで、そして頑なに閉ざされていた心の奥深くまで、ゆっくりと、しかし確実に染み渡っていくのが分かった。
美味しい、と、彼女は心の底から思った。それは、王宮の食卓で並べられたどんな豪華な料理よりも、彼女の魂を深く満たす味だった。
宴が盛り上がるにつれて、それまで遠巻きにしていた団員たちが、代わる代わるフィーナの元へとやってきた。誰もが少し照れたような、それでいて誇らしげな顔をしている。
「姫様、覚えておいででしょうか? わしです、王城の西門の警備をしていた、バルガスですぞ。姫様が幼き砌、お忍びで城下へ抜け出そうとなさったのを、お止めしたことがございます」
年配の、髭面の男がそう言って頭を掻いた。フィーナの記憶の片隅に、確かにそんな頑固者の門番がいたことを思い出した。
「姫様がまだ小さかった頃、中庭の樫の木に登って下りられなくなったのを助けたのは、俺ですよ。あの時は肝を冷やしましたぜ」
顔に大きな傷跡のある、若い男がにかりと笑う。言われてみれば、そんな無鉄砲なことをした記憶もあった。
彼らは、口々に、今はもう失われてしまった故郷での、他愛もない思い出を語った。それは、フィーナにとっても、あまりの辛さに心の奥底に封じ込め、忘れようとしていた、温かく幸せな日々の記憶だった。
皆、笑っていた。国の惨状を嘆き、未来を悲観するのではなく、ただひたすらに、敬愛する姫が生きていたという、その一つの事実を、心の底から純粋に喜んでくれている。その屈託のない笑顔と温かい言葉に触れるたびに、フィーナの心を満たしていた孤独という名の氷が、音を立てて溶けていくのを感じた。私は、独りではなかったのだ。この人たちがいた。この温もりが、私の帰る場所だったのだ。
一方、その感動的な再会の輪の中心で、健太は、そんな湿っぽい雰囲気などお構いなしとばかりに、相変わらず黙々と巨大な骨付き肉を頬張り続けていた。
彼の両隣には、奇しくもフィーナとヴァレリアが座っている。左を見れば、悲しみを乗り越え、再び王女としての気品を取り戻しつつある、美しい金髪の元王女。右を見れば、豪快に笑い、大きなジョッキで酒を呷る、快活で頼もしい赤毛の女盗賊。
(……うっひょー! なんか知らんけど、とんでもないことになってる! これはもう、俺のハーレム計画、超絶順調ってことでいいよな!)
健太の脳内は、そんな極めて俗な思考で満たされていた。彼は、時折、思い出に浸って悲しげな表情で俯くフィーナに気づくと、デリカシーというものを母親の腹の中に忘れてきたかのような言葉を、大声で投げかけた。
「どうしたの、フィーナちゃん? この肉、あんま好きじゃない感じ? もっと焼いた方がいいとか?」
そのたびに、隣からヴァレリアの鉄のように硬い肘が、健太の脇腹に強烈な一撃を見舞った。ゴッ、と鈍い音が響く。
「この朴念仁! 少しは場の空気を読みな! 姫様は物思いに耽っておられるんだ!」
「いっつ! いてえよ、ヴァレリア! 俺は純粋にフィーナちゃんを心配してだな…」
もちろん、そんな肘鉄が健太に効くはずもないのだが、彼は大げさに痛がって見せる。その、まるで夫婦漫才のような二人のやり取りが、かえって場の重苦しい雰囲気を和ませ、団員たちの間に笑いを誘った。
フィーナも、そんな二人の様子を見て、思わず、くすりと小さな笑みを漏らした。それは、彼女がクライロード王国を失ってから、初めて見せた、心からの、何の屈託もない少女のような笑顔だった。
***
やがて狂騒の宴も終わり、ほとんどの団員がそれぞれの寝床でいびきをかき始めた頃。健太とヴァレリア、そして、興奮と安堵でまだ眠れずにいたフィーナは、小さくなった焚き火を囲んで、静かに揺らめく炎を見つめていた。
パチ、パチ、と薪の爆ぜる音と、洞窟の外から聞こえてくる夜の森の虫の声だけが、穏やかな静寂を支配している。
最初に口を開いたのは、腕を組んで炎を見つめていたヴァレリアだった。
「…それで、姫様。アンタ、これからどうするつもりなんだい?」
その声は、昼間の喧騒の中でのそれとは違い、低く、静かだったが、有無を言わさぬ真剣な響きを持っていた。
「一人で、あの伝承の勇者様とやらを探す旅を、まだ続けるとでも言うのかい?」
フィーナは、燃え盛る炎から目を離さずに、しかしはっきりと頷いた。
「ええ。それが、私に残された、唯一の使命ですから」
「無茶だ」
ヴァレリアは、きっぱりと、一切の情を挟まずに言った。
「アンタも身をもって分かっただろう。今のこの世界は、王族の姫君が一人で旅できるほど、甘くはない。今日だって、そこの朴念仁(ケンタのことだ)がいなけりゃ、アンタはとっくにあの魔族の餌食になってたんだ」
「それは…そうですが…しかし、私にはこれしか…」
「アタシらは、もう二度と、アンタを死なせるわけにはいかない」
ヴァレリアは、組んでいた腕を解くと、真っ直ぐにフィーナの瞳を見つめた。その真紅の瞳には、燃えるような決意が宿っている。
「アンタは、アタシらにとって…そして、今はもうないクライロード王国にとって、最後の『希望』なんだ。たとえ、アンタが信じる勇者様なんてものが、ただの御伽噺だったとしてもね。アンタが生きていてくれること、それ自体が希望なんだよ」
彼女は、ふと、健太の方に視線を移した。
「…ケンタ。アンタに、頼みがある」
「ん? なあに?」
最後の肉の骨までしゃぶり尽くしていた健太が、呑気に顔を上げる。
「アンタの、そのふざけた強さで、姫様を護衛してやってくれないかい」
それは、盗賊団のリーダーとしての命令ではなかった。一人の、故郷を愛し、姫を敬う、元騎士としての、切実な願いだった。彼女ほどの誇り高い人間が、他人に頭を下げる。そのことの重みを、健太は理解しているのかいないのか。
健太は、少しの間、きょとんとしていたが、やがて、真剣な眼差しのフィーナと、懇願するようなヴァレリアの顔を交互に見比べると、いつものように、にっと歯を見せて笑った。
「なんだ、そんなことか。お安い御用だよ」
彼は、まるで隣人に醤油を貸すくらいの軽さで、こともなげに言った。
「だって、可愛い女の子が困ってるのを助けるのが、男の役目だろ?」
その、あまりにも単純明快で、しかし、この世のどんな理屈よりも力強い答えに、ヴァレリアは、一瞬、言葉を失った。そして、やれやれ、といった風に、大きなため息をつくと、少しだけ口元を緩めた。
フィーナは、その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。この男は、何も考えていないようでいて、その実、物事の最も大切で、最も純粋な本質を、誰よりもまっすぐに見抜いているのかもしれない。
その時、フィーナは、久しぶりに感じた安全な場所での安堵感と、温かい食事で満たされた満足感から、抗いがたい強烈な眠気に襲われた。張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れたのだ。
彼女の意識は、ゆっくりと、穏やかで温かい眠りの海へと沈んでいく。健太の肩に、こてん、と頭をもたせかける形になった。その寝顔は、もう、国を背負う王女の苦悩に満ちたそれではなかった。ただ、歳相応の、あどけなさを残した、一人の少女の安らかな寝顔だった。
健太は、自分の肩に寄りかかって眠るフィーナの寝顔と、その隣でどこか吹っ切れたような、それでいて複雑な表情を浮かべて焚き火を見つめるヴァレリアの横顔を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
(ま、よく分かんねえけど、美味い飯が腹いっぱい食えて、こんな可愛い女の子が二人もそばにいるなら、しばらくは、こいつらと一緒に行動すっか)
彼の、どこまでも単純で、底抜けに楽観的な決意。
それを照らす焚き火の炎が、洞窟の壁に、三者三様の未来を宿した影を、長く、そしてどこまでも優しく、映し出していた。
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