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五部
第19話:帰郷、そして涙
しおりを挟む水の王国アクアフォールは、歓喜に沸いていた。
帝国軍という、抗いようのない絶対的な脅威が、たった一人の男によって、一夜にして退けられた。
その奇跡のような報せは、瞬く間に都中を駆け巡り、人々を熱狂の渦に巻き込んだ。
その夜、王宮で開かれた祝賀の宴は、これ以上ないほどに、華やかで、そして、心からの感謝に満ちていた。
大理石の床は磨き上げられ、天井の水晶のシャンデリアは、数千の蝋燭の光を乱反射させ、広間全体を、昼間のように明るく照らしている。
楽団が奏でる、勝利を祝う、高らかなファンファーレ。
テーブルには、湖で獲れた新鮮な魚介類を使った、色とりどりの豪華な料理が、所狭しと並べられていた。
人々は、笑っていた。心の底から、安堵し、明日への希望を語り合っていた。
その笑顔の一つ一つが、フィーナの胸を、温かく、しかし、同時に、ちくりと刺した。
彼女は、宴の喧騒から少し離れた、テラスに続く回廊の柱に、一人、もたれかかっていた。
手にした、上質なワインが入った銀の杯には、ほとんど口をつけていない。
彼女の視線の先では、仲間たちが、それぞれのやり方で、この祝宴を楽しんでいた。
健太は、もはや主役であることさえ忘れ、ビュッフェ台に並んだローストビーフの塊に、子供のように目を輝かせながら、一心不乱にかぶりついている。
彼の隣では、ゴルドが、ドワーフの国から特別に取り寄せられたという、燃えるように強い蒸留酒の樽を、王国の将軍たちと、楽しげに飲み比べていた。
少し離れた場所では、ルミナが、人混みを避けるように、窓辺に佇んでいる。
彼女は、宴の騒がしさは苦手なようだったが、その翡翠色の瞳には、穏やかな光が宿っていた。
そして、セシルは。
彼女は、何人かの侍女たちに囲まれ、最初は戸惑っていたものの、彼女たちの屈託のない優しさに触れ、少しずつ、その表情を和らげ、おずおずと、微笑みを浮かべていた。
フランスの、あの息詰まるような日々が、まるで、遠い昔の悪夢だったかのように。
その、平和な光景。
守られた、人々の笑顔。
それを見つめながら、フィーナは、自らの決意を、改めて、固めていた。
帝国という、大きな脅威は去った。だが、自分の戦いは、まだ、何も終わっていない。
彼女は、杯を置くと、仲間たちが集まる輪の中へと、静かに歩み寄った。
「―――皆さん。少し、よろしいでしょうか」
フィーナの、凛とした声に、仲間たちは、一斉に彼女の方を向いた。
彼女は、深々と、頭を下げた。
「これまでの、皆さんのご助力に、心から、感謝いたします。あなた方がいなければ、私は、とうに、命を落としていたでしょう」
「おいおい、姫様、水臭えじゃねえか」
ゴルドが、顔を赤らめながら言う。
「ですが」
フィーナは、顔を上げた。その瞳には、揺るぎない、強い意志の光が宿っていた。
「私は、行かなければならない場所があります」
彼女は、続けた。
「私の故郷、クライロード王国の、跡地へ」
その言葉に、仲間たちの表情が、わずかに、緊張した。
そこが、どのような場所か、彼らは、ヴァレリアから、そして、フィーナ自身の口から、断片的に聞いて知っていた。
魔族に滅ぼされ、今は、不毛の地となっている、悲劇の場所。
「…どうして、今、その場所に?」
ルミナが、静かに問う。
「私の旅は、そこから始まったからです。そして、私の罪もまた、そこにあります。私は、もう一度、あの場所で、自分の目で、現実を見つめ直さなければならない。そうでなければ、私は、本当の意味で、前に進むことができないのです」
彼女は、付け加えた。
「これは、私の、個人的な問題です。皆さんを、これ以上、危険な場所に、巻き込むわけには…」
「―――馬鹿言うなよ」
彼女の言葉を遮ったのは、口の周りをソースでべとべとにしたままの、健太だった。
「何が、個人的な問題だよ。フィーナちゃんの旅は、もう、俺たちの旅でもあるんだぜ?」
彼は、にっと笑った。
「それに、まだ、勇者探しも終わってねえだろ? だったら、パーティーが、バラバラに行動する理由が、ねえじゃんか」
その、あまりにも単純明快な言葉に、ゴルドが、豪快に笑いながら、同意した。
「へっ、その通りだぜ、朴念仁! 姫様が、どこへ行こうと、俺たちは、あんたの剣であり、盾だ! 今さら、水臭いこと、言ってんじゃねえ!」
「…仕方のない人たちですね」
ルミナも、やれやれ、といった風に、小さく微笑んだ。
「フィーナの望みが、そうなのですから。私に、異論はありません」
「わ、私も…! 私も、行きます!」
セシルが、勇気を振り絞って、言った。
「フィーナ様が、どこへ行くのでも、私は、そばにいたいですから…!」
フィーナの瞳から、熱いものが、込み上げてきた。
自分は、もう、一人ではないのだ。
***
アクアフォールの民に、英雄として盛大に見送られ、一行は、再び、旅路についた。
目指すは、北。
フィーナの故郷、クライロード王国。
船で湖を渡り、再び、街道を歩く。
季節は、夏から、初秋へと、その衣を、ゆっくりと着替え始めていた。
あれほど、容赦なく照りつけていた太陽の光は、少しだけ、その勢いを和らげ、空は、どこまでも高く、そして、青く澄み渡っている。
風が、変わっていた。
肌にまとわりつくような熱風ではなく、どこか、涼やかで、乾いた風が、頬を撫でていく。
その風は、街道沿いの木々の葉を揺らし、その葉は、緑色の中に、わずかに、黄色や赤色を、滲ませ始めていた。
道中、フィーナは、仲間たちに、かつての、クライロード王国のことを、何度も、話して聞かせた。
「…私の国の麦畑は、この時期になると、地平線の果てまで、黄金色の絨毯のようになるのです。風が吹くと、それが、大きな波となって、さわさわと、音を立てる…。その光景が、私は、大好きでした」
「城下町には、いつも、活気がありました。腕のいい職人たちが、たくさんいて…。特に、年に一度の収穫祭は、国中の人々が集まり、歌い、踊り、夜通し、お祝いをするのです…」
彼女が語る、その一つ一つの言葉には、故郷への、深い、深い、愛情が、滲んでいた。
仲間たちは、誰も、口を挟むことなく、ただ、静かに、彼女の思い出話に、耳を傾けていた。
彼女が、どれほどのものを、失ってしまったのか。
その痛みを、自分たちのことのように、感じ取っていたからだ。
故郷が、近づくにつれて。
フィーナの呼吸が、少しずつ、浅く、そして、速くなっていくのを、健太は、隣で、感じていた。
彼女は、期待しているのだ。
もしかしたら、少しは、復興しているのではないか、と。
誰かが、生き残っていてくれるのではないか、と。
そして、それと同時に、恐れているのだ。
何もかもが、自分の記憶の中の、あの日のまま、絶望的な姿で、残っていることを。
その、期待と恐怖の狭間で、彼女の心は、激しく、揺れ動いていた。
そして、一行は、ついに、クライロード王国の、国境だった場所へと、たどり着いた。
フィーナが、かつて、黄金色の絨毯のようだと語った、広大な麦畑。
そこにあったのは、ただ、枯れた雑草が、どこまでも、荒涼と広がるだけの、不毛の大地だった。
***
馬車が、ゆっくりと、止まった。
誰も、何も、言えなかった。
目の前に広がる光景が、あまりにも、雄弁に、全てを物語っていたからだ。
風が、ヒュー、と、乾いた音を立てて、荒れ地を吹き抜けていく。
その風が運んでくるのは、もはや、土の匂いですらない。
長い間、生命が活動することをやめてしまった、打ち捨てられた場所だけが放つ、独特の、カビと、塵と、そして、かすかな、死の匂いだった。
遠くに見える、王都の、残骸。
焼け落ちた建物が、まるで、巨大な墓標のように、黒い、不気味なシルエットとなって、灰色の空を、突き刺している。
そして、その中心部には、巨大なクレーターの縁が、大地に刻まれた、永遠に癒えることのない、巨大な傷跡のように、横たわっていた。
「……あ……」
フィーナの、か細い声が、漏れた。
彼女は、まるで、夢遊病者のように、ふらり、と、馬車から降りた。
そして、一歩、また一歩と、その、灰色の世界へと、足を踏み入れていく。
仲間たちが、心配そうに、彼女の後を追った。
完全な、沈黙。
鳥の声も、虫の音も、水のせせらぎも、かつて、ここにあったはずの、全ての生命の音が、完全に、消え失せていた。聞こえるのは、風が、廃墟の隙間を吹き抜ける、うめき声のような音だけだ。
フィーナは、歩いた。
かつての、城下町の、メインストリートだった場所を。
ここは、パン屋があった場所だ。
いつも、焼きたての、香ばしい匂いがしていた。
あそこは、彼女が、よく本を買いに行った、本屋。
優しい、白髪の店主がいた。
ここは、子供たちが、いつも、楽しそうに走り回っていた、噴水広場。
今は、噴水の見る影もなく、ただ、ひび割れた、石の残骸が、転がっているだけだ。
彼女の脳裏に、幸せだった頃の記憶が、鮮やかに、蘇る。
人々の、屈託のない笑顔。
活気のある、話し声。
子供たちの、甲高い、はしゃぎ声。
その、鮮やかな記憶と、目の前に広がる、色のない、音のない、死の世界との、あまりにも、残酷な、ギャップ。
彼女は、ついに、その場に、膝から、崩れ落ちた。
「…うそ…うそよ…こんなの…こんなの、嘘よ…!」
彼女は、地面の灰を、かきむしった。
「どうして…どうして、誰も、いないの…? 少しは…少しくらい、元に戻っていると…誰か、生き残っていてくれると、思ったのに…!」
彼女の肩が、小さく、震え始めた。
それは、これまで、彼女が、気丈に、決して見せようとしなかった、弱さだった。
王女としての、責任感でも、使命感でもない。
ただ、全てを失ってしまった、一人の、無力な少女の、魂の、慟哭だった。
「…う…うわあああああああああああああああん!」
ルミナも、ゴルドも、セシルも、かける言葉を、見つけられなかった。
彼らもまた、それぞれの形で、大切なものを失ってきた。
だからこそ、分かるのだ。
こういう時、どんな、慰めの言葉も、虚しく、そして、残酷でさえあることを。
彼らは、ただ、悲痛な面持ちで、泣きじゃくる、フィーナの、小さな背中を、見つめていた。
その時、健太が、動いた。
彼は、三人の横を、黙って通り過ぎると、フィーナの隣に、静かに、腰を下ろした。
彼は、何も、言わなかった。
気の利いた、慰めの言葉など、彼は、知らない。
ただ、彼は、自分が着ていた、黒いコートを脱ぐと、震える、フィーナの、その小さな肩に、そっと、かけてやった。
コートに残る、彼の、かすかな温もり。
フィーナは、驚いて、顔を上げた。
その、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、健太は、ただ、静かに、見つめていた。
そして、しばらくして、ぽつり、と、呟いた。
「…泣きたい時はさ、気の済むまで、泣けばいいんじゃねえの」
その声は、いつもと同じように、どこか、気の抜けた、呑気な響きを持っていた。
「俺たち、もう、どこにも行かねえから。君が、泣き止むまで、ずっと、ここにいるからさ」
その、あまりにも、不器用で、飾り気のない、しかし、何よりも、誠実な、優しさ。
その言葉が、フィーナの心の中で、最後の、砦となっていた、なけなしの理性の壁を、完全に、打ち砕いた。
「…う…うわああああああ……ケンタさ…ん……!」
フィーナは、健太の胸に、顔をうずめると、今度こそ、声を上げて、わんわんと、まるで、子供のように、泣いた。
それは、故郷を失った、絶望の涙だった。
それは、自らの罪を、改めて、自覚した、後悔の涙だった。
そして、それは、この、地獄のような世界で、自分は、もう、一人ではないのだと、知ることができた、安堵の涙でも、あった。
健太は、そんな彼女の、小さな背中を、ただ、黙って、優しく、撫でていた。
空が、ゆっくりと、夕焼けに、染まり始めていた。
それは、鎮魂の炎のように、どこまでも、赤く、そして、静かに、滅びてしまった、この都を、優しく、照らし出していく。
その、夕焼け独特の、全てを、赦すかのような、穏やかな光の中で。
一行は、ただ、静かに、そこにいた。
泣き疲れて、健太の腕の中で、眠ってしまった、一人の少女の、穏やかな寝息と、仲間たちの、静かな呼吸の音だけが、風の音に、混じり合っていた。
やがて、フィーナが、落ち着いた頃。
ルミナが、不意に、何かに気づいた。
「…待ってください。この、空気…」
彼女は、鼻を、くんくんと、ひくつかせた。
「これは…ただの、死の匂いではない。微かに、ですが、非常に、強力な、魔力の残滓が、この土地に、染みついている…! それも、ただの魔族のものではない。もっと、上位の…!」
彼女の視線の先、巨大なクレーターの、その中心部。
夕日の最後の光が、そこに落ちていた、何か、黒い、金属片のようなものを、鈍く、反射させていた。
それは、禍々しい、見たこともない紋章が刻まれた、巨大な鎧の、破片だった。
そして、その破片からは、今もなお、この地の、全ての生命を、拒絶するかのような、邪悪で、冷たいオーラが、放たれていた。
それは、一行が、これから、対峙することになる、新たな、そして、遥かに強大な敵の存在を、明確に示唆するものだった。
絶望の底で、彼らは、新たな、戦いの、始まりを、予感していた。
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