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五部
第30話:智将の遊戯盤
しおりを挟む健太たちが足を踏み入れたのは部屋と呼ぶにはあまりにも広大で静謐な空間だった。
そこは智将ヴァイスの観測室。
彼の思考そのものを具現化したかのような書斎。
壁は床から天井まで膨大な数の書物を収めた本棚で埋め尽くされている。その背表紙には人間界の言語だけでなく古代エルフ語ドワーフのルーン文字そして健太たちには到底理解できない禍々しい魔族の言語が金や銀で刻まれていた。
部屋の中央には黒曜石で作られた巨大な円形のテーブルが置かれている。その上には錬金術に使うのであろう複雑な形状のガラス器具や天体の運行を模した精巧な模型が静かにしかし確かな存在感を放っていた。
空気は古い羊皮紙の匂いと微かな薬品の匂いが混じり合った独特の香りがした。風はなく音もない。ただ部屋の隅に置かれた巨大な水時計がちゃぷんと一定のリズムで時を刻む音だけが静寂を支配していた。
そしてその部屋の一番奥。
巨大なステンドグラスの窓を背にして一人の男が優雅に椅子に腰掛けていた。
智将ヴァイス。
彼は一行のあまりにも乱暴な登場の仕方にも全く動じる様子を見せなかった。ただ手に持っていた血のように赤い液体が満たされたワイングラスをゆっくりと傾けているだけだ。
その唇に浮かんでいるのは全てを見通しているかのような理知的でそしてどこか冷たい笑みだった。
「…これはこれはお客様」
ヴァイスは静かに口を開いた。その声は落ち着いておりまるで旧知の友人をで迎えるかのようだった。
「ようこそ私の書斎へ。少々手荒い歓迎となってしまったことをお詫びしよう。私の仕掛けたささやかな遊戯は楽しんでいただけたかな?」
「てめえ…!」
ゴルドが怒りに顔を歪ませ戦鎚を握りしめる。
ヴァイスはそんな彼をまるで取るに足らない虫でも見るように一瞥しただけだった。彼の興味はただ一人健太にだけ向けられていた。
「君かね。豪炎のベルガを塵にし静寂のリリスを手懐けたという噂の『イレギュラー』は」
ヴァイスの切れ長の目が面白そうに細められた。
「実に興味深い。私の完璧な論理(ロジック)で構築された迷宮をただの純粋な暴力で破壊し尽くすとは。何という野蛮で…何という非論理的で…そして何という…」
彼は恍惚とした表情で呟いた。
「―――美しい解答だ」
その明らかに常軌を逸した歪んだ美学。
健太はそんな彼を心底嫌そうな顔で見ていた。
「あんたがここのボスか。なんかネチネチしてて一番嫌いなタイプだなあんた」
「ははは。手厳しいな。だが光栄だ。君のような予測不能な存在にそう言ってもらえるのは私にとっては最高の賛辞だよ」
ヴァイスは優雅な仕草で立ち上がるとワイングラスをテーブルに置いた。
カツンという硬質な音が静かな部屋に響き渡る。
「さて前座はここまでだ」
彼の瞳の奥の笑みがすっと消えた。代わりにそこに宿ったのは絶対的な支配者としての冷徹な光だった。
「君たちのそのちっぽけな勇気と絆とそして君のその理不尽な力が私の本当の『遊戯盤』の上でどこまで通用するのか。じっくりと試させてもらおうではないか」
彼がぱちんと指を鳴らした。
その瞬間世界が再び反転した。
***
ゴゴゴゴゴゴゴ…!
凄まじい地響きと共に健太たちが立っていた黒曜石の床が巨大なパネルとなって次々と開いていく。
壁一面を埋め尽くしていた本棚は奥へとスライドしその向こう側から全く別の景色が現れた。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
一行はなすすべもなく開いた床の穴へと吸い込まれていった。
ヴァイスの遊戯盤が起動したのだ。
彼は自ら手を下さない。ただこの巨大な機械仕掛けの迷宮そのものが彼の頭脳であり彼の武器なのだ。
健太たちが次に目を覚ました時彼らはそれぞれ全く別の場所に分断されていた。
ゴルドが立っていたのは鉄と炎の闘技場だった。
四方を高い鉄格子で囲まれた円形のアリーナ。地面は固い鉄板で覆われ壁のあちこちから灼熱の炎が間欠泉のように噴き出している。
「…ちっ!やってくれるじゃねえか!」
ゴルドが悪態をついたその時。
闘技場の四方のゲートが同時に開きそこから鋼鉄の巨体が何体も現れた。
鋼鉄のゴーレム。その数十体以上。一体一体がゴルドの屈強な身体よりもさらに一回りは大きい。
「へっ上等だぜ!」
ゴルドは不敵に笑い戦鎚を構えた。力比べなら誰にも負ける気はなかった。
ルミナがいたのは無数の水晶の柱が林立する鏡の間だった。
天井も壁も床も全てが鏡のように磨き上げられた水晶でできており自分の姿が無限に反射して方向感覚を完全に狂わせる。
そしてその空間を無数のハチドリほどの大きさの金属製の魔道具が高速で飛び交っていた。
魔法迎撃ドローン。
それらはルミナが魔法を詠唱しようとするその魔力の流れを感知し彼女が魔法を放つよりも速く迎撃用の光弾を乱射してくる。
「…私の魔法を封じるつもりですか。ですがエルフの戦い方はそれだけではありませんよ」
ルミナは冷静に弓を構えその翡翠色の瞳で乱れ飛ぶドローンの動きのパターンを見極めようとしていた。
フィーナとセシルは二人一緒に全く別の場所にいた。
そこは何も変哲もない石造りの部屋だった。だがその部屋に足を踏み入れた瞬間。
風景がぐにゃりと歪んだ。
気づけば二人は炎に包まれたクライロード王国の城門の前に立っていた。
「…これは…!」フィーナが息を呑む。
目の前で騎士たちが次々と魔族に殺されていく。父王と母后が血に濡れて倒れている。そしてかつての自分が禁術を詠唱する姿。
「姫様おやめください!」
ガレオス団長の悲痛な叫び声が響き渡る。
「いや…いやぁっ!」
フィーナは耳を塞ぎその場にうずくまった。これは幻だ。分かっている。だが鮮明すぎるその光景は彼女の心の最も深い傷を容赦なく抉り出した。
セシルの前にはフランスの薄暗い牢獄と自分を裏切った親友リナの泣き顔が現れていた。
『―――ごめんなさいセシル!あなたを売れば私だけは助かると思ったの!』
「やめて…!来ないで…!」
セシルもまた恐怖に顔を歪ませフィーナにしがみついた。
それはヴァイスの最も得意としそして最も悪趣味な精神攻撃の罠だった。
リリスはといえば。
彼女は完全な白で統一された正方形の部屋に閉じ込められていた。
その部屋の壁床天井は彼女の『静寂』の権能を完全に吸収しそして寸分の狂いもなく反射する特殊な魔光鏡で作られていた。
彼女が自らの力を使おうとすればするほどその力は壁に反射し増幅され彼女自身に跳ね返ってくる。
彼女自身の力が彼女を封じ込める完璧な牢獄。
「…なるほどな。智将ヴァイス…。その名は伊達ではないか…」
リリスはその白い空間の中で静かに呟いた。
***
そして健太は。
彼はただ暗い何もない空間に一人立っていた。
攻撃も罠も幻術も何一つない。
ただ彼の目の前に巨大な水晶のモニターが五つ浮かんでいるだけだった。
そしてそのモニターにはそれぞれの場所で苦戦を強いられているフィーナ、ルミナ、ゴルド、セシルそしてリリスの姿がリアルタイムで鮮明に映し出されていた。
『―――さあ選ぶがいい『無敵』の男よ』
ヴァイスの声がどこからともなく響き渡る。その声にはチェスの名人が初心者を追い詰めた時のような残酷な愉悦の色が滲んでいた。
『君のその理不尽な力はどうやら君自身にしか作用しないらしい。君は無敵だ。だが君の仲間たちは違う。脆弱で不完全でそしてあまりにも脆い』
モニターの中でゴルドがゴーレムの一撃を受け大きく吹き飛ばされる。ルミナがドローンの光弾を避けきれず肩を負傷する。
『君は誰を助ける?』
ヴァイスの声が問いかける。
『君がその無敵の力で誰か一人を助けに行ったとしよう。その隙に残りの四人はどうなるかな?私のこの遊戯盤は完璧だ。君が選択を誤ればあるいは選択を迷えばその一瞬の躊躇が君の仲間たちの命を奪うことになるだろう』
モニターの中でフィーナとセシルが幻影に苛まれその精神が崩壊寸前にまで追い詰められていく。リリスもまた自らの力が暴走を始めそのか細い身体が悲鳴を上げ始めていた。
『さあ見せてくれ。君のそのお人好しが誰を見殺しにするのか。君のその正義が誰の死の上に成り立つのかを。実に実に興味深い!』
健太は黙ってそのモニターを見ていた。
彼の顔からいつもの笑顔が消えていた。
初めてだった。
彼がこの世界に来てから本気で焦りそして葛藤したのは。
自分の力は絶対だ。だがそれは自分一人だけのもの。仲間を守ることはできない。
誰かを選べば誰かが死ぬ。
選ばなければ全員が死ぬ。
悪魔の選択。
彼の額に一筋冷たい汗が伝った。
***
その時だった。
『―――ケンタさん!』
モニターの中からフィーナの声が聞こえた。
幻影に苛まれ涙を流しながらも彼女は必死に顔を上げ叫んでいた。
『―――私たちのことは信じてください!』
その声に呼応するかのように他のモニターの仲間たちも動き出した。
『―――そうだぜケンタ!俺たちがこんな鉄屑共に遅れを取るとでも思ってんのか!』
ゴルドが血を吐きながらも立ち上がり戦鎚を構え直す。
『―――あなたの足手まといになるつもりはありません!』
ルミナが傷ついた腕で矢を放ちドローンの一機を正確に撃ち落とす。
『―――面白い観測結果が得られそうだ…』
リリスが自らの暴走する力を逆用し鏡の部屋そのものを内側から破壊しようと試みる。
仲間たちのその決して諦めない姿と信頼に満ちた声。
それを見て聞いて。
健太の顔にいつもの不敵な笑みが戻った。
「…そうだよな」
彼は呟いた。
「あいつら俺がいなくたって結構強いんだったわ」
彼はもうモニターを見てはいなかった。
彼はこの空間のどこかにいるはずのヴァイスの本体の気配を探っていた。
そして彼はヴァイスに語りかけるように言った。
「なあ智将さんよぉ。あんた一つ大きな計算違いをしてるぜ」
『…何だと…?』ヴァイスの声に初めて動揺の色が混じる。
「俺は別にいつらを助けに行かなくたっていいんだよ。だって――」
健太はにやりと笑った。
その全身からこれまでの比ではない凄まじいしかしどこまでも穏やかな力が溢れ出し始める。
それは世界の理を書き換える力。
「―――俺が今からこのめんどくせえ遊戯盤ごとあんたをぶっ壊せばそれで済む話だからな」
健太のその宣言と同時に。
ヴァイスの完璧だったはずの遊戯盤がその論理の根底からミシミシと悲鳴を上げ始めた。
智将のチェス盤が今根底からひっくり返されようとしていた。
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