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第五話:三番目の個室は閉まっている
しおりを挟むきさらぎ駅から生還してからの三日間、俺は泥のように眠り続けた。
目が覚めているのか眠っているのか、その境界線すら曖昧な微睡みの中、俺はずっと電車の揺れと、トンネルの闇と、背後から追いかけてくる鈴の音を繰り返し体験していた。目が覚めるたび、全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓は全力疾走した後のように激しく波打っていた。
四日目の朝、ようやく俺は人間としての機能を取り戻した。だが、心に残った傷は深い。証拠は何一つ残せなかった。カメラのデータは修復不能なほどに破損し、俺の手元には、膝の擦り傷と、服に染み付いた正体不明の草の匂い、そして魂に焼き付いた恐怖の記憶だけが残された。
配信者として、これは致命的だった。最高のネタを掴みながら、それを誰にも証明できない。コメント欄は「終電逃してボロボロになっただけだろw」「次の言い訳はよ」という嘲笑で溢れ、チャンネル登録者数は、じりじりと、しかし確実に減り始めていた。
もう、やめようか。
ぼんやりと天井の染みを眺めながら、俺は本気でそう考えていた。都市伝説は実在した。だが、それは人間がエンターテイメントとして消費していいような、生易しいものではない。あれは、触れてはいけない領域だ。俺は、自分が見てしまったものの重さに、完全に打ちのめされていた。
そんな無気力な日々を送っていた俺の元に、一通のダイレクトメッセージが届いたのは、きさらぎ駅から帰還して、ちょうど一週間が経った日のことだった。
差出人は、小学生の子供を持つ母親と名乗る女性からだった。
『カイさん、いつも動画を拝見しています。突然のご連絡、失礼いたします。実は、息子の通う小学校で、「トイレの花子さん」の噂が再び広まっており、怖がって学校に行きたがらない子まで出てきて困っています。もちろん、ただの噂だとは思うのですが、子供たちの不安を取り除いてあげたいのです。そこで、不躾なお願いとは存じますが、オカルトの専門家であるカイさんに、あの噂がただの作り話だと証明していただくことはできないでしょうか』
俺は、その文面を何度も読み返した。
恐怖を煽るのではなく、恐怖を打ち消してほしい、という依頼。それは、これまでの俺の活動とは、全く逆のものだった。
俺の心に、小さな光が灯るのを感じた。
そうだ、俺は今まで、恐怖を「見つける」ことばかりに躍起になっていた。だが、逆もまた然りなのではないか。その正体を突き止め、「何もいない」ことを証明する。それもまた、一つの真実の探求ではないのか。
「……分かりました。引き受けます」
俺は、そう返信していた。
もう、面白おかしく煽るだけの動画は作れない。だが、この恐怖の正体が何なのか、この目で確かめたい。そして、もしそこに本当に何もないのなら、それをきちんと伝えたい。俺の中で、配信者としての新たな目的意識が、芽生えた瞬間だった。
◇
依頼者の母親はPTAの役員も務めているらしく、話は驚くほどスムーズに進んだ。事情を話すと、校長先生も子供たちの不安を憂慮していたらしく、夜間の旧校舎への立ち入りを特別に許可してくれた。ただし、「警備員の立ち会い」と「校内の備品には絶対に触れない」という条件付きで。
約束の日、俺は夕暮れ時の小学校を訪れた。
昼間のうちに、校長先生と依頼者の母親、そして立ち会いをしてくれる老警備員の田中さんと挨拶を済ませる。
日が落ち、子供たちの声が完全に消えた校舎は、まるで巨大な生き物が眠りについたかのような、深い静寂に包まれていた。夕焼けが、教室の窓ガラスを一枚一枚、オレンジ色に染め上げていく。校庭の隅にある百葉箱や、錆びついた鉄棒が、長い影を地面に落としている。それは、ひどく懐かしく、そして同時に、ひどく不気味な光景だった。
今回の俺の装備は、これまでとは一線を画していた。手持ちのカメラに加え、暗闇でも鮮明に撮影できる高感度カメラ、微細な音を拾うためのパラボラ集音マイク、そして温度変化を可視化するサーモグラフィー。ふざけたガジェットは一つもない。これは、エンタメ動画の撮影ではなく、本気の「調査」だった。
「では、神崎さん。くれぐれも、無茶はなさらんように」
「はい。ありがとうございます、田中さん」
田中さんから旧校舎の鍵を受け取り、俺は一人、きしむ扉を開けて中へと足を踏み入れた。ひやりとした、カビと埃の匂いが鼻をつく。中は、完全な闇だった。俺はヘッドライトのスイッチを入れ、前方を照らす。
光の輪の中に、長い、長い廊下が浮かび上がった。ワックスの匂いが染み付いた、木の床。壁には、色褪せた習字や絵が、画鋲で留められたままになっている。『明るい未来』と書かれた習字の、その墨の黒さが、やけに禍々しく見えた。
目的の場所は、三階の突き当たりにある女子トイレだ。
一歩、一歩、足を進めるたびに、床板が「ミシリ」と悲鳴を上げる。その音が、静寂の中でやけに大きく響き渡り、まるで誰かが俺の後をつけてきているかのような錯覚に陥った。
二階へ上がる階段の壁には、大きな姿見が掛けられていた。昔の生徒が寄贈したものだろうか。俺は、何気なくその鏡に自分の姿を映す。ヘッドライトの光を反射する、緊張した自分の顔。そして、その後ろに広がる、暗い廊下。……その廊下の奥、俺が今上ってきた階段の隅に、一瞬、小さな子供のような黒い影が見えたような気がした。
俺は、勢いよく振り返った。
だが、そこには誰もいない。ただ、闇が広がっているだけだ。
「……気のせいか」
心臓が、ドクドクと嫌な音を立てている。俺は、鏡から目を逸らし、足早に三階へと向かった。
三階の廊下は、他の階よりも空気がさらに冷たく、淀んでいるように感じられた。突き当たりに、目的の場所が見える。古びた木製のドアプレートには、消えかかった文字で『女子トイレ』と書かれていた。
俺は、ドアノブに手をかける前に、一度大きく深呼吸をした。大丈夫だ。ただの古いトイレだ。子供たちの間で広まった、ありふれた怪談。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりとドアを開けた。
中は、思ったよりも清潔に保たれていた。だが、空気が違う。鼻を突くような、古い水の匂いと、何か甘ったるいような匂いが混じり合っている。壁のタイルはあちこちがひび割れ、天井の裸電球が、チカチカと頼りなげに点滅を繰り返していた。
正面には、四つの個室が並んでいる。手前から一番、二番、三番、四番。
噂の場所は、奥から三番目。つまり、手前から二番目の個室だ。
俺は、ゆっくりと中に入り、三脚に高感度カメラをセットした。そして、サーモグラフィーを起動し、トイレ全体をスキャンする。画面には、青く均一な温度分布が映し出されるだけ。異常はない。次に、パラボラ集音マイクを装着し、耳を澄ます。聞こえるのは、自分の呼吸音と、遠くで聞こえる車の走行音だけ。
「……よし」
俺は、カメラに向かって話し始めた。
「えー、カイです。現在、噂の旧校舎のトイレにいます。ご覧の通り、特に変わった様子はありません。温度、音声、共に異常は検知されません」
俺は、意を決して、あの有名な儀式を試みることにした。
奥から三番目の、問題の個室のドアの前に立つ。ドアは、固く閉ざされていた。
「……失礼します」
俺は、ドアを三回、優しくノックした。
コン、コン、コン。
乾いた音が、静寂に響く。
「花子さん、花子さん。遊びましょ」
何も起こらない。
当たり前だ。俺は、少しだけ安堵している自分に気づいた。
「……ご覧の通り、何も起こりません。花子さん、という怪談は、おそらく学校という閉鎖的な空間が子供たちに与える、漠然とした不安が生み出した物語なのでしょう。だから、君たちが怖がるようなものは、ここには……」
そう言って、カメラに向かって笑顔を作ろうとした、まさに、その瞬間だった。
**バァン!!!!!!**
凄まじい轟音が、トイレ全体を揺るがした。
俺は「うわっ!」と短い悲鳴を上げ、尻餅をついた。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。
だが、すぐに理解した。
目の前で、手前から一番目、三番目、四番目と、開いていた三つの個室のドアが、全て、同時に、ありえないほどの勢いで、閉まっていたのだ。
まるで、見えない巨人の平手打ちを食らったかのように。
蝶番が砕け散るかのような、耳障りな金属音が響き渡り、壁がビリビリと震えるほどの衝撃が走った。
三脚に立てていたカメラは、その衝撃で床に倒れ、あらぬ方向を映している。
俺は、腰が抜けて、その場から一歩も動けなかった。
なんだ、今のは。
風か? いや、窓は閉まっている。
地震か? いや、揺れは感じなかった。
ただ、ドアだけが、閉まった。
静寂が、戻ってきた。
だが、それは先ほどまでの静寂とは全く違う、悪意に満ちた、息苦しい静寂だった。
その、静寂の中で。
俺は、一つの音を聞いた。
ぽつり。
ぽつり、と。
水滴が、床に落ちる音。
俺は、震える視線を、その音のする方へ向けた。
音源は、奥から三番目。俺がノックした、唯一最初から閉まっていた、あの個室からだ。
ドアの下の、数センチの隙間。
そこから、ぽつり、ぽつりと、何かが滴り落ちている。
それは、水ではなかった。
薄暗い電球の光に照らされて、ぬらりと光る、**赤い液体**だった。
俺は、恐怖で叫び声も出なかった。
呼吸の仕方すら、忘れてしまった。
震える手で、床に転がったカメラを拾い上げる。
そして、祈るような気持ちで、その赤い液体が滴る、ドアの隙間にレンズを向けた。
その、瞬間。
ドアの下の暗い隙間の奥で、二つの目が、爛々と光を放ち、**こちらを、覗き返した。**
俺の記憶は、そこで途切れている。
気づいた時、俺は旧校舎の入り口で、田中さんに肩を揺すらされていた。どうやって三階からここまで逃げてきたのか、全く覚えていない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺が体験してきたこれまでの怪異は、どこか間接的だった。ポップアップ、音声、監視カメラに映らない姿、異世界。それらは、俺の認識を揺さぶるものだった。
だが、今夜、俺が出会ったのは違う。
それは、物理的な力を持った、明確な敵意を持った、直接的な「現象」だった。
俺はもう、「検証」などという、生易しい言葉を使えない場所に足を踏み入れてしまったのだ。
あれは、戦場だ。
そして俺は、丸腰でそこに乗り込んでしまったのだと、ようやく理解した。
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