フェノメノンの踊り子たち

Gaku

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第1話:原子の配置、雨の夜

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ネオ・エデンの夜は、ひっくり返した宝石箱のような騒々しさだ。

空からは、天気予報士が「絶対に晴れる」と太鼓判を押したはずの雨が、バケツをひっくり返したような勢いで叩きつけている。この街の「空模様を管理する大仕掛け」がまた癇癪(かんしゃく)を起こしているらしい。

路地裏のアスファルトには、無数の水たまりができている。そこには、けばけばしいネオンサインの「安らぎ」とか「極上の夢」といった文字が、ぐにゃぐにゃに歪んで映り込んでいた。

その水たまりを、男の革靴が踏み砕く。

男の名はカイ。二十八歳。職業は、世の中の「もつれた糸をほどく屋」。

彼は、ずぶ濡れのコートの襟を立てながら、自分の胃袋に向かって心の中で語りかけていた。 (おい、胃袋よ。そんなに鳴くな。空腹なんてものは、脳みそが勝手に作り出した電気信号の幻だ。お前が実際に縮んでいるわけじゃない。ただの原子のダンスだ)

しかし、胃袋は「グゥゥゥ!」と、まるで地獄の底から響くような重低音で反論した。

「……わかったよ。幻にしては、主張が激しすぎる」

カイは溜息をついた。彼の哲学によれば、この世に「自分」という確固たる実体などない。あるのは、環境という巨大なスープの中で、たまたま「カイ」という形に集まった具材(原子)の一時的な集まりだけだ。 だから、雨に濡れて寒いのも、腹が減ってひもじいのも、ただの「現象」に過ぎない。

そう割り切って生きれば、人生は楽勝だ。死ぬことすら、「具材が別の料理に使われるだけ」と思えば怖くない。 それが彼の「幸福論」だった。

はずだったのだが。

路地裏の突き当たり。ゴミ箱と室外機に挟まれた狭い隙間に、その「現象」は転がっていた。

最初は、捨てられたマネキンかと思った。 だが、マネキンにしては、あまりにも精巧すぎた。そして、あまりにも美しすぎた。

少女だった。 陶器のように白い肌。濡れた髪が頬に張り付いている。 彼女はボロ布のように崩れ落ちていたが、その首筋には、バーコードのような味気ないものではなく、まるで無限に続く迷宮のような幾何学模様の刺青が刻まれている。

そして、何よりカイの目を釘付けにしたのは、彼女の腹部から流れ出ている液体だった。 それは赤くない。 青かった。 夜光虫をすり潰したような、淡く発光する青い液体が、雨水と混じって排水溝へと流れていく。

(……面倒ごとの臭いがする)

カイの脳内で、危険を知らせる鐘がガンガンと鳴り響いた。 この街で、赤い血以外のものを流す人間に関わってはいけない。それは「人造のからくり人形」か、あるいはもっとヤバい「何か」だ。

「見なかったことにしよう」

カイは踵(きびす)を返した。 関われば、彼の平穏な「原子のダンス」は、ヘヴィメタルのモッシュピット並みに乱されることになる。そんなのは御免だ。

彼は一歩、足を踏み出した。 その時だ。

「……う、……」

背後で、小さな呻き声が聞こえた。 カイは立ち止まった。 (ただの空気の振動だ。気にするな。歩け、俺の足)

だが、彼の足は地面に接着されたかのように動かない。 さらに悪いことに、少女がゆっくりと顔を上げ、カイの方を見た。

その瞳と目が合った瞬間。

カイの頭の中で、花火が上がった。 比喩ではない。本当に、脳みその一番深いところで、極彩色の閃光がスパークしたのだ。

「……ッ!?」

彼はこめかみを押さえた。 なんだ、今の感覚は。 一度も会ったことがないはずなのに、まるで「忘れていたへそくりを五十年ぶりに見つけた」時のような、あるいは「無くしたと思っていた家の鍵がポケットに入っていた」時のような、強烈な懐かしさと安堵感。

脳内の快楽物質を管理する部署が、勝手に祝宴を上げ始めている。

(おいおい、俺の脳みそ。どうした? 故障か?)

カイは困惑した。合理的に考えれば、即座に逃げるべきだ。 だが、彼の体は勝手に動いていた。 気がつけば、彼は上着を脱ぎ、震える少女の肩にかけていたのだ。

「……あ」

少女が、焦点の定まらない目でカイを見る。 雨粒が彼女のまつ毛を濡らし、それが涙のように見えた。

「立てるか?」

カイはぶっきらぼうに尋ねた。 これは人助けではない。そう、これは「不快感の解消」だ。このまま彼女を見捨てて立ち去ると、脳内の祝宴が「お通夜」に変わり、寝覚めが悪くなる。 つまり、彼女を助けることは、あくまで自分の精神衛生(=幸福)を最適に保つための、利己的なメンテナンス作業なのだ。

少女はコクりと頷き、カイの腕を掴んだ。 その手は氷のように冷たかったが、カイの腕には、焼け付くような熱が伝わった。

「……変な夜だ」

カイは少女を背負い上げると、再び雨の中を歩き出した。 重い。原子の塊にしては、ずっしりと命の重みがある。

ふと、通りのショーウィンドウに映った自分の姿を見る。 雨に濡れた男と、背負われた少女。 ありふれた光景だ。 だが、一瞬だけ。 本当に瞬きするほどの一瞬だけ、鏡の中の自分の顔が、まるでテレビの電波が悪くなった時のように「ザザッ」と歪んで見えた。

「……眼科に行くか」

カイは頭痛をこらえながら、その奇妙なノイズを見なかったことにして、闇の中へと消えていった。
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