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第2話:テセウスの朝食
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カイの隠れ家は、この世の吹き溜まりのような場所だった。 壁には剥がれかけた塗装が地図のように広がり、天井の換気扇は、まるで余命いくばくもない老人が咳き込むような音を立てて回っている。
朝の光が、ブラインドの隙間から埃(ほこり)っぽい部屋に差し込み、縞模様(しまもよう)を作っていた。その光の中で、カイは朝食を作っていた。
フライパンの上で跳ねているのは、栄養価だけは高いが、味は「泥水を煮詰めたような」と評判の合成食料だ。 カイはそれを、無表情でかき混ぜていた。 (これもまた、原子の結合だ。味がどうこう言うのは、舌の上の細胞が贅沢を言っているだけだ)
そう自分に言い聞かせていると、背後のソファから衣擦れの音がした。 昨晩拾った「拾得物」が目を覚ましたらしい。
「……ここ、は」
少女が上半身を起こす。 濡れた子犬のような目つきで、周囲をキョロキョロと見渡している。
「目が覚めたか」
カイはフライパンから目を離さずに言った。 「ここは俺の巣だ。安心しろ、雨風は凌げる。それ以上のサービスは期待するな」
少女は自分の手を見つめ、それからカイの背中を見た。 彼女の頭の中には、まるで本棚が丸ごと燃えてしまった後のような空白が広がっていた。自分の名前も、どこから来たのかも、何も思い出せない。 ただ一つ、足の筋肉が「走れ」と痙攣(けいれん)していることだけがわかる。
「私……逃げなきゃ」 「どこへ?」 「わからない。でも、ここにいたら、見つかる」
強迫観念だ。カイは皿に「泥水スープ」を盛り付けながら考えた。 記憶という名の帳簿が紛失しているのに、恐怖という感情だけがこびりついている。厄介な状態だ。
「腹は減ってるか?」
カイは湯気を立てる皿を、少女の前に置いた。 少女はそれを凝視した。 通常、彼女のような「作り物」には、食事など必要ないはずだ。エネルギーは直接、管(くだ)から流し込めばいい。
だが、少女はスプーンを手に取り、恐る恐るその泥水を口に運んだ。
一口。 時が止まった。
カイは身構えた。吐き出すか? それとも、味覚の受信機が故障しているのか?
次の瞬間、少女の大きな瞳から、ぽろりと雫がこぼれ落ちた。
「……おいしい」
「は?」 カイは耳を疑った。 このスープは、俺でさえ鼻をつまんで流し込む代物だぞ?
「温かい……。味が、する」
少女は泣きながら、スプーンを動かし続けた。 その姿を見て、カイの胸の奥にある「金属片」が、チリチリと熱を持った。 それは昔、頭に埋め込まれた古傷のようなものだが、普段は黙っている。それが、彼女が感情を露わにするたびに、まるで共鳴するように熱くなるのだ。
(馬鹿な。味覚なんてものは、化学物質が舌に触れたという信号に過ぎない。それが「おいしい」とか「悲しい」とか、そんな複雑な感情を引き起こすなんて、設計図にはないはずだ)
カイはこめかみを軽く叩いた。 だが、朝日の中でスープを啜り、涙を流す少女の横顔は、皮肉なことに、この部屋にあるどんな物体よりも「人間らしく」見えた。
「名前は?」 カイが尋ねると、少女は首を振った。 「わからない」 「じゃあ、『イヴ』だ」 「イヴ?」 「ああ。最初の女の名前だ。あるいは、クリスマスの前夜。何かが始まる予感がする名前だ」
適当につけた名前だったが、少女は「イヴ……」と繰り返し、微かに微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、またカイの頭の中で金属が鳴った。
その時、部屋の隅でつけっぱなしになっていた「おしゃべり箱(テレビ)」が、ニュースを垂れ流し始めた。
『――昨夜未明、国立の研究施設で小規模な火災が発生しました。原因は不明ですが、当局は……』
画面には、黒い煙を上げる白い巨塔が映っている。 イヴがスプーンを落とした。 「カチャン」という乾いた音が、静寂を切り裂く。
「……あそこ」 イヴが震える指で画面を指差した。 「私、あそこで……暗い海に浮かぶ夢を見ていた気がする」
「海?」 「うん。とっても暗くて、冷たい海。誰かが私を見ていた。『失敗作』って言ってた」
カイは眉をひそめた。 どうやら、ただの迷子を拾ったわけではなさそうだ。 この「原子の塊」には、国を揺るがすような火種が詰まっているらしい。
一方その頃。 街のどこかにある、もっと清潔で、もっと狂気に満ちた部屋で。
二十一歳の天才、サラが、目の前の大きな画用紙(モニター)を見て、ニヤリと口角を上げていた。 画用紙には、街中を流れる「見えない波」の波紋が描かれている。
「見ぃつけた」
彼女はキャンディを噛み砕くように、楽しげに呟いた。 「変ねえ。この波形、教科書に載ってるどの音符とも違うわ。まるで、世界という楽譜に書き込まれた落書きみたい」
サラは椅子をくるりと回した。 「あーあ、退屈な世界だと思ってたけど。どうやら、面白いオモチャが動き出したみたいね」
彼女の指先が、空中の見えない鍵盤を弾くように動いた。
「待っててね、私の可愛いモルモットちゃんたち」
朝の光が、ブラインドの隙間から埃(ほこり)っぽい部屋に差し込み、縞模様(しまもよう)を作っていた。その光の中で、カイは朝食を作っていた。
フライパンの上で跳ねているのは、栄養価だけは高いが、味は「泥水を煮詰めたような」と評判の合成食料だ。 カイはそれを、無表情でかき混ぜていた。 (これもまた、原子の結合だ。味がどうこう言うのは、舌の上の細胞が贅沢を言っているだけだ)
そう自分に言い聞かせていると、背後のソファから衣擦れの音がした。 昨晩拾った「拾得物」が目を覚ましたらしい。
「……ここ、は」
少女が上半身を起こす。 濡れた子犬のような目つきで、周囲をキョロキョロと見渡している。
「目が覚めたか」
カイはフライパンから目を離さずに言った。 「ここは俺の巣だ。安心しろ、雨風は凌げる。それ以上のサービスは期待するな」
少女は自分の手を見つめ、それからカイの背中を見た。 彼女の頭の中には、まるで本棚が丸ごと燃えてしまった後のような空白が広がっていた。自分の名前も、どこから来たのかも、何も思い出せない。 ただ一つ、足の筋肉が「走れ」と痙攣(けいれん)していることだけがわかる。
「私……逃げなきゃ」 「どこへ?」 「わからない。でも、ここにいたら、見つかる」
強迫観念だ。カイは皿に「泥水スープ」を盛り付けながら考えた。 記憶という名の帳簿が紛失しているのに、恐怖という感情だけがこびりついている。厄介な状態だ。
「腹は減ってるか?」
カイは湯気を立てる皿を、少女の前に置いた。 少女はそれを凝視した。 通常、彼女のような「作り物」には、食事など必要ないはずだ。エネルギーは直接、管(くだ)から流し込めばいい。
だが、少女はスプーンを手に取り、恐る恐るその泥水を口に運んだ。
一口。 時が止まった。
カイは身構えた。吐き出すか? それとも、味覚の受信機が故障しているのか?
次の瞬間、少女の大きな瞳から、ぽろりと雫がこぼれ落ちた。
「……おいしい」
「は?」 カイは耳を疑った。 このスープは、俺でさえ鼻をつまんで流し込む代物だぞ?
「温かい……。味が、する」
少女は泣きながら、スプーンを動かし続けた。 その姿を見て、カイの胸の奥にある「金属片」が、チリチリと熱を持った。 それは昔、頭に埋め込まれた古傷のようなものだが、普段は黙っている。それが、彼女が感情を露わにするたびに、まるで共鳴するように熱くなるのだ。
(馬鹿な。味覚なんてものは、化学物質が舌に触れたという信号に過ぎない。それが「おいしい」とか「悲しい」とか、そんな複雑な感情を引き起こすなんて、設計図にはないはずだ)
カイはこめかみを軽く叩いた。 だが、朝日の中でスープを啜り、涙を流す少女の横顔は、皮肉なことに、この部屋にあるどんな物体よりも「人間らしく」見えた。
「名前は?」 カイが尋ねると、少女は首を振った。 「わからない」 「じゃあ、『イヴ』だ」 「イヴ?」 「ああ。最初の女の名前だ。あるいは、クリスマスの前夜。何かが始まる予感がする名前だ」
適当につけた名前だったが、少女は「イヴ……」と繰り返し、微かに微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、またカイの頭の中で金属が鳴った。
その時、部屋の隅でつけっぱなしになっていた「おしゃべり箱(テレビ)」が、ニュースを垂れ流し始めた。
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画面には、黒い煙を上げる白い巨塔が映っている。 イヴがスプーンを落とした。 「カチャン」という乾いた音が、静寂を切り裂く。
「……あそこ」 イヴが震える指で画面を指差した。 「私、あそこで……暗い海に浮かぶ夢を見ていた気がする」
「海?」 「うん。とっても暗くて、冷たい海。誰かが私を見ていた。『失敗作』って言ってた」
カイは眉をひそめた。 どうやら、ただの迷子を拾ったわけではなさそうだ。 この「原子の塊」には、国を揺るがすような火種が詰まっているらしい。
一方その頃。 街のどこかにある、もっと清潔で、もっと狂気に満ちた部屋で。
二十一歳の天才、サラが、目の前の大きな画用紙(モニター)を見て、ニヤリと口角を上げていた。 画用紙には、街中を流れる「見えない波」の波紋が描かれている。
「見ぃつけた」
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サラは椅子をくるりと回した。 「あーあ、退屈な世界だと思ってたけど。どうやら、面白いオモチャが動き出したみたいね」
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