フェノメノンの踊り子たち

Gaku

文字の大きさ
2 / 7

第2話:テセウスの朝食

しおりを挟む
カイの隠れ家は、この世の吹き溜まりのような場所だった。 壁には剥がれかけた塗装が地図のように広がり、天井の換気扇は、まるで余命いくばくもない老人が咳き込むような音を立てて回っている。

朝の光が、ブラインドの隙間から埃(ほこり)っぽい部屋に差し込み、縞模様(しまもよう)を作っていた。その光の中で、カイは朝食を作っていた。

フライパンの上で跳ねているのは、栄養価だけは高いが、味は「泥水を煮詰めたような」と評判の合成食料だ。 カイはそれを、無表情でかき混ぜていた。 (これもまた、原子の結合だ。味がどうこう言うのは、舌の上の細胞が贅沢を言っているだけだ)

そう自分に言い聞かせていると、背後のソファから衣擦れの音がした。 昨晩拾った「拾得物」が目を覚ましたらしい。

「……ここ、は」

少女が上半身を起こす。 濡れた子犬のような目つきで、周囲をキョロキョロと見渡している。

「目が覚めたか」

カイはフライパンから目を離さずに言った。 「ここは俺の巣だ。安心しろ、雨風は凌げる。それ以上のサービスは期待するな」

少女は自分の手を見つめ、それからカイの背中を見た。 彼女の頭の中には、まるで本棚が丸ごと燃えてしまった後のような空白が広がっていた。自分の名前も、どこから来たのかも、何も思い出せない。 ただ一つ、足の筋肉が「走れ」と痙攣(けいれん)していることだけがわかる。

「私……逃げなきゃ」 「どこへ?」 「わからない。でも、ここにいたら、見つかる」

強迫観念だ。カイは皿に「泥水スープ」を盛り付けながら考えた。 記憶という名の帳簿が紛失しているのに、恐怖という感情だけがこびりついている。厄介な状態だ。

「腹は減ってるか?」

カイは湯気を立てる皿を、少女の前に置いた。 少女はそれを凝視した。 通常、彼女のような「作り物」には、食事など必要ないはずだ。エネルギーは直接、管(くだ)から流し込めばいい。

だが、少女はスプーンを手に取り、恐る恐るその泥水を口に運んだ。

一口。 時が止まった。

カイは身構えた。吐き出すか? それとも、味覚の受信機が故障しているのか?

次の瞬間、少女の大きな瞳から、ぽろりと雫がこぼれ落ちた。

「……おいしい」

「は?」 カイは耳を疑った。 このスープは、俺でさえ鼻をつまんで流し込む代物だぞ?

「温かい……。味が、する」

少女は泣きながら、スプーンを動かし続けた。 その姿を見て、カイの胸の奥にある「金属片」が、チリチリと熱を持った。 それは昔、頭に埋め込まれた古傷のようなものだが、普段は黙っている。それが、彼女が感情を露わにするたびに、まるで共鳴するように熱くなるのだ。

(馬鹿な。味覚なんてものは、化学物質が舌に触れたという信号に過ぎない。それが「おいしい」とか「悲しい」とか、そんな複雑な感情を引き起こすなんて、設計図にはないはずだ)

カイはこめかみを軽く叩いた。 だが、朝日の中でスープを啜り、涙を流す少女の横顔は、皮肉なことに、この部屋にあるどんな物体よりも「人間らしく」見えた。

「名前は?」 カイが尋ねると、少女は首を振った。 「わからない」 「じゃあ、『イヴ』だ」 「イヴ?」 「ああ。最初の女の名前だ。あるいは、クリスマスの前夜。何かが始まる予感がする名前だ」

適当につけた名前だったが、少女は「イヴ……」と繰り返し、微かに微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、またカイの頭の中で金属が鳴った。

その時、部屋の隅でつけっぱなしになっていた「おしゃべり箱(テレビ)」が、ニュースを垂れ流し始めた。

『――昨夜未明、国立の研究施設で小規模な火災が発生しました。原因は不明ですが、当局は……』

画面には、黒い煙を上げる白い巨塔が映っている。 イヴがスプーンを落とした。 「カチャン」という乾いた音が、静寂を切り裂く。

「……あそこ」 イヴが震える指で画面を指差した。 「私、あそこで……暗い海に浮かぶ夢を見ていた気がする」

「海?」 「うん。とっても暗くて、冷たい海。誰かが私を見ていた。『失敗作』って言ってた」

カイは眉をひそめた。 どうやら、ただの迷子を拾ったわけではなさそうだ。 この「原子の塊」には、国を揺るがすような火種が詰まっているらしい。

一方その頃。 街のどこかにある、もっと清潔で、もっと狂気に満ちた部屋で。

二十一歳の天才、サラが、目の前の大きな画用紙(モニター)を見て、ニヤリと口角を上げていた。 画用紙には、街中を流れる「見えない波」の波紋が描かれている。

「見ぃつけた」

彼女はキャンディを噛み砕くように、楽しげに呟いた。 「変ねえ。この波形、教科書に載ってるどの音符とも違うわ。まるで、世界という楽譜に書き込まれた落書きみたい」

サラは椅子をくるりと回した。 「あーあ、退屈な世界だと思ってたけど。どうやら、面白いオモチャが動き出したみたいね」

彼女の指先が、空中の見えない鍵盤を弾くように動いた。

「待っててね、私の可愛いモルモットちゃんたち」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

処理中です...