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第8話 鬼頭の告白 -星屑になった約束-
しおりを挟む黒いエクトの襲撃から、一夜が明けた。
八月最初の週末。空は、昨日の惨劇などまるで意に介さないとでも言うように、どこまでも高く、そして残酷なほどに青く澄み渡っていた。だが、ATSの事務所の中は、分厚い鉛色の雲に覆われたかのように、重く、冷たい沈黙に支配されていた。
西園寺かおりが設置していった最新鋭のエアコンは、律儀に快適な冷気を送り出し続けている。しかし、その涼やかさも、この凍てついた空気を和らげることはできなかった。誰もが口を閉ざし、それぞれの場所で、昨日の出来事を、そして自分たちの無力さを、繰り返し反芻していた。
テレビのワイドショーでは、昨日の事件を『川口駅前で謎の集団パニック、専門家も首をかしげる』などと、呑気な見出しで報じている。コメンテーターが「現代社会のストレスが…」「一種の集団催眠では…」などと、したり顔で語っている。その画面を、俺たちは、何の感情も浮かばない、空っぽの目で見つめていた。違う。違うんだ。ストレスなんかじゃない。あれは、明確な『攻撃』だった。俺たちは、それを知っている。そして、何もできなかった。
休憩スペースの隅では、姫川さんが、黙々と犬飼さんの腕の手当てをしていた。犬飼さんは、黒いエクトの攻撃を受けた際に腕を負傷したのだ。幸い、骨に異常はなかったが、彼のオーラには、まるで黒いインクを垂らしたかのように、不吉なノイズの染みが残ってしまっていた。姫川さんは、時折、悔しそうに唇を噛み締めながら、慣れた手つきで包帯を巻いていく。その指先は、普段の乱暴さが嘘のように、優しかった。
ひかりちゃんは、青ざめた顔で、それでも健気に、皆のために麦茶を淹れて回っていた。彼女の周りを飛ぶキラポコたちも、主の心を反映してか、いつもより光が弱く、元気がないように見える。彼女は、きっと、誰よりも恐怖を感じたはずだ。それでも、この場所にいようとするその健気さが、逆に痛々しかった。
俺、佐藤健太は、何もできずに、ただソファに深く沈み込んでいた。
筋肉痛なんかじゃない。体の芯が、恐怖で冷え切っている。初めて味わった、本物の殺意。初めて直面した、圧倒的な力の差。そして、初めて感じた、仲間の喪失の可能性。
月給五十万。そんなものは、命の危険の前では、なんの意味も持たない。俺は、とんでもない世界に、足を踏み入れてしまったのだ。今さら、後悔しても、もう遅い。
窓の外では、入道雲が、ゆっくりとその形を変えていく。夏の強い日差しが、事務所の床に、くっきりとした光と影のコントラストを描き出していた。まるで、光に満ちた日常と、すぐ隣にある闇の世界を、象徴しているかのように。
***
その日の夜。
あれほど晴れ渡っていた空は、夕方から急速に雲に覆われ、やがて、遠くでゴロゴロと、地鳴りのような雷の音が響き始めた。湿り気を帯びた生暖かい風が、事務所の窓をガタガタと揺らす。夕立が来るのだろう。
重苦しい沈黙が支配する事務所で、それまで窓の外をじっと眺めていた鬼頭さんが、静かに、しかし、その場の全員の耳に届く、確かな声で言った。
「…お前たちに、話しておかなければならないことがある」
その声には、覚悟が滲んでいた。
俺たちは、まるで合図でもされたかのように、一斉に鬼頭さんの方を向いた。
「周防、神代くんも繋いでくれ。ご住職にも、連絡を。…ここにいる全員に、聞いてもらう必要がある」
鬼頭さんの、ただならぬ雰囲気に、誰もが息を呑んだ。
リモートで接続された神代の顔が、大型モニターに映し出される。スピーカーからは、電話越しの田中住職の声が聞こえる。
ひかりちゃんが、ごくりと唾を飲む音。姫川さんが、固唾を飲んで鬼頭さんを見つめる気配。犬飼さんの、静かな呼吸。
そして、窓を激しく叩きつける、大粒の雨の音。
物語の、本当の中心に触れる時が来たのだと、その場にいた全員が、悟っていた。
***
「俺が、そして犬飼が、以前所属していた場所の話だ」
鬼頭さんは、ゆっくりと、一言一言を確かめるように、語り始めた。彼の声は、外で荒れ狂う雨音にかき消されることなく、不思議なほど、俺たちの心に直接響いた。
「今から、十五年前。国が、その存在を完全に隠蔽した、極秘の研究機関があった。…その名は、『高次元周波数研究所』。表向きは、次世代エネルギーの研究を行う施設だったが、その真の目的は、当時『エーテル粒子』と仮称されていた、未知のエネルギー体…今、俺たちが『エクト』と呼んでいるものの、観測と、その平和的利用の研究だった」
鬼頭さんの語りと共に、俺の脳裏に、まるで古い映画のフィルムのように、過去の情景が浮かび上がってくる。
そこは、希望に満ちた場所だった。
緑豊かな丘の上に建てられた、白亜の研究施設。世界中から、若く、優秀な頭脳が集められ、来るべき未来のエネルギー問題や、様々な課題を、この未知の力で解決できると、誰もが信じていた。そこには、絶望も、憎しみもなかった。ただ、純粋な探究心と、未来への明るい展望だけが、満ち溢れていた。
「俺も、そこにいた。物理学の若手研究者としてな。毎日が、刺激的で、楽しくて、仕方がなかった」
鬼頭さんの顔に、一瞬だけ、懐かしむような、穏やかな笑みが浮かんだ。
「そこには、俺にとって、かけがえのない人間が、二人いた」
彼は、続ける。
「一人は、俺の最高の親友であり、そして、最大のライバルだった男。…夜月景(やづき かげみ)。誰もが認める、天才だった。俺なんかが逆立ちしても敵わない、圧倒的な頭脳と、誰よりも純粋に、この世界の真理を求める心を持っていた。俺とあいつは、いつも二人で、この力の可能性について、夜が明けるまで語り合ったもんだ」
「そして、もう一人」
鬼頭さんの声が、僅かに震えた。
「夜月の妹で…俺の、恋人だった女性だ。夜月小夜(やづき さよ)。彼女は、植物学が専門で、エクトと、生命との共存を研究していた。優しくて、誰よりも生命を愛していて…いつも、研究室に花を飾るような、そんな女だった。彼女は、俺にとって…光、そのものだったんだ」
彼の脳裏に浮かんでいるのだろう、若き日の鬼頭と、天才・夜月、そして、太陽のように笑う小夜の姿。三人が、白衣を風になびかせながら、研究所の庭で笑い合っている。そんな、二度と戻らない、輝かしい日々の幻影が、俺にも見えるようだった。
***
「だが…歯車は、少しずつ、狂い始めた」
鬼頭さんの声から、光が消えた。
窓の外では、雷が、空を引き裂くような閃光と共に、轟音を立てた。
「研究が進み、エクトが、ただのクリーンエネルギー源ではない、とてつもない潜在能力を秘めていることが分かってきた。空間に干渉し、物質を再構成し、そして…人間の精神にすら、影響を与える力。その強大すぎる力を前にして、夜月は、少しずつ、変わっていった」
彼の純粋すぎた探究心は、いつしか、危険な思想へと変貌していった。
『この力は、ただ、人々の生活を豊かにするためだけにあるんじゃない。もっと大いなる目的…愚かで、過ちを繰り返すばかりの、この人類そのものを、正しい方向へ『導く』ために使うべきだ』
彼は、そう言うようになった。
『痛みを伴わない改革など、意味がない。真の進化は、破壊と再生の中からしか、生まれないんだ』
「俺は、必死で止めた。そんなことは、神の領域に踏み込むことだ、と。俺たちの力は、人々を幸せにするためにあるべきだ、と。だが、俺の声は、もう、あいつには届かなかった。俺とあいつの間には、いつしか、修復不可能なほどの、深い亀裂が生まれていた」
「そして…運命の日が来た」
鬼頭さんは、ぎゅっと、強く拳を握りしめた。その指の関節が、白くなっている。
「夜月は、俺たちの制止を振り切り、研究所の地下にある、高密度エーテルチャンバーの、リミッターを解除した。高濃度のエクトを、完全に自らのコントロール下に置き、その力で、世界に『神の雷』を見せつけるつもりだったんだ」
強い雨が、まるで天が泣いているかのように、事務所の窓を激しく、激しく叩いていた。
***
「…実験は、暴走した」
その一言は、絞り出すような、かすれた声だった。
「制御不能になった、高密度のエネルギーの奔流が、チャンバーを破壊し、研究所全体を飲み込んでいった。警報が鳴り響き、壁が崩れ、天井が落ちてくる。阿鼻叫喚の、地獄絵図だった。誰もが、逃げ惑い、そして、光の奔流に飲み込まれて、消えていった…」
「俺は、必死で小夜を探した。彼女の研究室は、植物園のようになっていて…そこで、彼女を見つけた。崩れてきた瓦礫の下敷きになって…」
鬼頭さんの目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。三十年間、ずっと、その胸にしまい込んできた、慟哭の雫だった。
「彼女は、俺を庇って、致命傷を負っていた。もう、助からないことは、素人の俺にも分かった。彼女は、薄れゆく意識の中で、俺に、最後の言葉を託した」
鬼頭さんは、天を仰いだ。
『…景さんを…お兄ちゃんを、止めて…。あの人は、優しすぎただけなの。純粋すぎただけなの。だから…お願い…』
『そして…あなただけでも、生きて…。私のことなんて、忘れて、幸せに…』
「それが、彼女の最後の言葉だった。彼女の体は、俺の腕の中で、少しずつ、光の粒子になって、崩れていった。まるで、たくさんの蛍が、夜空に還っていくように…。綺麗で…そして、あまりにも、悲しい光景だった。俺は、彼女の名前を叫ぶことしかできなかった」
星屑になった、約束。
守ると誓ったはずの光は、彼の腕の中から、永遠に失われた。
「そして、俺は見た。暴走するエネルギーの中心で、親友だった男が、立っているのを。彼の体は、エクトの奔流と融合し、もはや、人間のそれではなかった。彼は、絶望と、狂気に満ちた、しかし、どこか悲しげな笑みを浮かべて、俺に言ったんだ」
『見ていろ、鬼頭…! 俺は、この力で、世界を再生する…! この腐った世界を、一度、無に還す!』
「それが、俺が聞いた、夜月の最後の言葉だった。その直後、研究所は、大爆発を起こし、すべてが、光の中に消えた」
「…俺は、たった一人、生き残った。犬飼は、当時、研究所の保安要員で、爆心地から少し離れた場所にいて、奇跡的に助かった。だが、他の仲間は、全員…。そして、小夜も…」
「俺は、全てを失った。希望も、未来も、愛する人も。残ったのは、果たせなかった約束と、親友だった男への、消えることのない憎しみだけだ」
***
鬼頭さんの、長い、長い告白が終わった。
まるで、合わせでもしたかのように、あれほど激しく降っていた雨が、いつの間にか、ぴたりと止んでいた。
後に残されたのは、完全な沈黙と、雨上がりの、湿った夜の匂いだけだった。
誰も、言葉を発することができなかった。
物語の、あまりにも重く、そして悲しい真実に、ただ、打ちのめされていた。
「昨日、現れた、あの黒いエクト」鬼頭さんが、静かに続けた。「あれは、夜月だ。あいつが、あの事故で暴走したエクトを、完全に自らの支配下に置き、作り変えた、私兵だ。あいつは、生きている。そして、十五年前の計画を、今、実行しようとしている。世界中の周波数をジャックし、人々の精神を破壊し、あいつの望む、新たな世界を創り上げるつもりだ」
「…ATSは」
鬼頭さんは、ゆっくりと立ち上がると、俺たちに向かって、深く、深く、頭を下げた。
「俺個人の、復讐のために作った組織だ。夜月を、この手で止めるためだけに。お前たちを、姫川も、周防も、そして、新しく入ってくれたお前たち全員を、俺の、個人的な戦いに巻き込んでしまった。…本当に、すまない」
その、心からの謝罪に、誰もが、かける言葉を見つけられなかった。
その、重い沈黙を、破ったのは、意外な人物だった。
「…冗談、じゃないわよ」
声の主は、リモートで参加していた、西園寺かおりだった。スピーカー越しのその声は、震えていたが、しかし、強い意志がこもっていた。
「今さら、何よ、その話は! あなた一人の復讐ですって? 私たちは、もう、ただの金蔓や、部外者じゃないわ! キララを! 私の大事な親友を、救ってくれたのは、誰でもない、あなたたち『ATS』じゃないの!」
「そうです!」ひかりちゃんが、涙を拭って叫んだ。「私も、もう、ただ守られてるだけの女の子じゃない! 私も、このチームの、一員です!」
「…全くだ」神代が、モニターの向こうで、ふっと笑った。「こんな、世界で最もエキサイティングな謎を目の前にして、降りるなんて選択肢、僕の辞書にはないね」
「うむ」田中住職が、大きく頷いた。「鬼頭殿の過去がどうであれ、今、世界が危機に瀕しているのは事実。ならば、我々が為すべきことは、一つですな」
姫川さんが、そっと、鬼頭さんの肩に手を置いた。
犬飼さんが、静かに、鬼頭さんの隣に立った。
みんなの想いが、言葉が、傷ついたリーダーの元へと、集まっていく。
俺は、立ち上がると、鬼頭さんの前に進み出た。
「…鬼頭さん。俺が、この仕事始めた理由は、月給五十万でした。今でも、正直、その気持ちがないって言ったら、嘘になります」
俺は、一呼吸置いて、続けた。
「でも、今は、違う。犬飼さんが、俺を庇ってくれた。ひかりちゃんが、俺を先輩だって、信じてくれてる。姫川さんや、周防さんや、あんたにも、色々、教わった。…俺は、もう、ただの、金目当ての元無職じゃない。…アストラル・チューニング・ソリューションズの、一員なんです。だから…」
俺は、まっすぐに、鬼頭さんの目を見た。
「水臭いこと、言ってんじゃねえですよ、リーダー」
俺の言葉に、鬼頭さんの瞳が、大きく見開かれた。
そして、その目から、再び、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。
それは、十五年間の孤独な復讐の終わりと、本当の意味での『チーム』が、産声を上げた瞬間だった。
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