アストラル・チューニング・ソリューションズ

Gaku

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*第15話 世界はこんなにも、

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 あの長くて暑くて、そしてあまりにも激しかった夏が、遠い昔のことのように感じられる。
 十月も半ばを過ぎ、川口の街はすっかり秋の装いに包まれていた。空はインクを垂らした水面のようにどこまでも澄み渡り、筆でさっと掃いたようなうろこ雲が浮かんでいる。日差しは夏の暴力性を失い、今は柔らかな金色となって街全体を優しく包み込んでいた。道端の植え込みからは金木犀の甘くそしてどこか切ない香りが漂い、風が吹くたびに公園のケヤキの木から赤や黄色に色づいた葉がはらはらと舞い落ちていく。

 そして俺たちの職場『アストラル・チューニング・ソリューションズ』はといえば、平和を取り戻した今、以前にも増して混沌と賑やかな日常が繰り広げられていた。

 俺、佐藤健太は事務所のソファで極上のコーヒーをすすっている。役職は雑用係兼、現場サブリーダー代理(仮)。この(仮)が取れる日はおそらく永遠に来ないだろう。だが鬼頭さんの計らいで給料は少しだけ上がった。ありがたい。このコーヒー豆は昨日、西園寺かおりが「あなたたち、インスタントなんか飲んでるから思考が貧しくなるのよ!」と半ば強引に送りつけてきた一杯数千円はするという高級品だ。正直俺の馬鹿舌ではネスカフェとの違いがよく分からないが、まあ美味い気がする。

 そんな俺の目の前では今日もいつもの光景が広がっていた。
 応接セットでは鬼頭さんが田中住職と将棋盤を挟んで静かな熱戦を繰り広げている。鬼頭さんの表情は憑き物が落ちたように穏やかだ。
「鬼頭殿、その飛車の動きはまるでかつての夜月殿のよう。あまりに直線的ですな」
「はっはっは。ご住職こそその角の使い方はいやらしいほど回りくどい。まるで今の夜月のようですな」
 二人は顔を見合わせて穏やかに笑い合った。

 作業スペースでは姫川さんが唸りを上げるグラインダーを片手に、また何かとんでもないものを開発していた。
「よし…! 新型ガントレット『アイアンクロー改二』に新機能『アボカドの皮むきモード』搭載完了! これで女子力もストロングポイントよ!」
 彼女はガントレットを装着しアボカドに向かって青いビームを発射した。次の瞬間アボカドは皮だけが綺麗に剥かれ、中身は完璧な角切りになって皿の上に盛り付けられた。
「…姫川さん、そのとんでもない技術、もっと平和利用できませんかね…」
「うるせえ新人! アボカドは平和の象徴だろが!」
 もう何も言うまい。

 デジタル部門は相変わらず神代と周防の独壇場だった。
「周防さん! このエクトの残留エネルギーを利用した永久機関の理論、どう思う!? これさえあれば世界からエネルギー問題がなくなるぞ!」
『非現実的です神代さん。エントロピー増大の法則を無視しています。それよりこちらの量子通信ネットワークを利用した次世代SNS『スピリッター』の企画書を先に西園寺様に提出してください』
「くそっ、君はいつも夢がないな!」
「夢だけじゃ腹は膨れません」
 この二人がいつかノーベル賞を取るか、あるいは痴話喧嘩で世界を滅ぼすか、俺にはまだ分からない。

 そして事務所の一番穏やかな場所、窓際の日の当たる一角では、犬飼さんがひかりちゃんの周りを飛び交うキラポコたちと何やらコミュニケーションを取っていた。
「…そうか。君は昨日ひかり殿のプリンを食べたかったのか」
「ぴゅい!」
「だがダメだ。あれは彼女が楽しみにしていたものだ。代わりにこの金平糖をあげよう」
 犬飼さんが手のひらに金平糖を乗せると、キラポコたちは嬉しそうにその周りをくるくると舞った。その光景をお忍びで遊びに来ていた星野キララがにこにこしながらスケッチブックに描いている。
 平和だ。あまりにも平和すぎる。

 ***

 あの後、俺たちの世界は大きく変わった。
 全ての力を失い、ただの人間となった夜月景は自らの罪を償うため、国の監視下にある特殊な研究施設に自ら入ったという。彼は今ATSの技術顧問という立場で鬼頭さんと時折連絡を取り合いながら、あの暴走事故で世界中に拡散してしまったエクトの歪みの後始末に協力しているらしい。十五年という長い時を経て、二人の天才はようやく本当の意味で同じ方向を見つめられるようになったのだ。

 西園寺かおりは宣言通りATSの公式で最強のスポンサーとなった。彼女が設立した『西園寺科学振興財団』は今や俺たちの活動を資金面で全面的にバックアップしてくれている。おかげで俺の給料も少し上がった。実にありがたい。
 星野キララはATSの広報大使として、その絶大な影響力で「見えない世界との正しい共存」を世間に少しずつ広めてくれている。彼女の歌うエクトを癒やす効果のある新曲は今、世界中で大ヒットしているらしい。

 そう。俺たちの戦いは終わった。
 だが俺たちの騒がしくて面倒で、そして愛おしい日常はこれからもずっと続いていくのだ。

 ***

 その日の午後、事務所の電話がどこか気の抜けた音で鳴った。
「はい、こちらアストラル(略)ソリューションズです」
 俺がすっかり板についた口調で応じると、受話器の向こうからまだ声変わりもしていないような少年の、か細い声が聞こえてきた。
『あ、あの…ぼく、しょうがっこうのハヤトっていいます…。あの、こうえんのブランコがよなかにかってにゆれてて、こわいんです…』

 なんとも可愛らしい依頼だった。
「よし、分かった!」鬼頭さんが将棋盤から顔を上げて豪快に笑った。「そのブランコのモノノケ、俺たちが退治してやろう! …佐藤、ひかり! 二人で行ってこい! 新人研修の総仕上げだ!」
「ええ!? 俺たち二人でですか!?」
「当たり前だ。いつまでも俺たちが側にいてやれるわけじゃねえんだぞ」
 鬼頭さんはそう言うと悪戯っぽくウィンクした。

 俺とひかりちゃんは二人で夕暮れの公園へと向かった。
 秋の日は釣瓶落とし。太陽はすでに西の空を燃えるような美しい茜色に染め上げている。公園の大きなイチョウの木がその光を浴びて黄金色にきらきらと輝いていた。地面には子供たちが作ったのだろう、どんぐりの小さな道が続いている。金木犀の甘い香りが辺り一面に漂っていた。

「…なんだか、懐かしい匂いがしますね」ひかりちゃんがぽつりと言った。
「ああ。俺がガキの頃もこの匂いがすると、ああもうすぐ冬が来るんだなあって思ったもんだ」

 俺たちは問題のブランコへと近づいた。スペクターゴーグルを装着する。
 するとそこにはやはり、いた。
 五歳くらいの男の子だろうか、半透明の小さなエクトが一人寂しそうにブランコに座っていた。彼はブランコを漕ぎたいのだが体が透けてしまっているためうまく鎖を握ることができない。そのもどかしい動きが結果として夜中にブランコをぎぃ、ぎぃと揺らしていたのだ。

 もう俺は慌てない。
 俺はその男の子の前にそっとしゃがみこんだ。
「よお坊主。ブランコ、乗りたいのか?」
 男の子はびっくりしたようにこっちを見てこくりと頷いた。
「そうか。でもな、夜はもうお休みの時間なんだ。お母さんが心配するだろ? …だから今日はもうおうちに帰ろうな。また明日、昼間にここでみんなと一緒に遊ぼうぜ」
 俺はスイーパーではなく、ただ優しく語りかけた。
 男の子はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがてにこっとはにかむように笑うと、すぅっとその姿を夜の闇に溶かすように消していった。
 もうブランコが夜中に勝手に揺れることはないだろう。

 ***

 簡単な事件(?)解決の後、俺とひかりちゃんは公園のベンチに座り、自販機で買った温かい缶コーヒーを飲んでいた。
 空には一番星が瞬き始めている。
「…先輩」
 ひかりちゃんがもじもじしながら口を開いた。
「あの…私…ATSに入って本当によかったです。色々なことがたくさん、たくさんありましたけど…。でも、先輩に出会えて…本当によかった、です」
 彼女の頬が夕焼けのせいか、それとも…。
 その潤んだ瞳でまっすぐに見つめられて、俺の心臓はついに観念したかのように、これまでで一番大きくそして温かい音を立てた。

「お、おう…」
 俺は相変わらず気の利いた言葉も言えず、ただ照れ隠しにコーヒーをすするだけだった。
「俺もその…お前みたいな出来た後輩がいて助かってるよ。いつもありがとな」
 それが今の俺の精一杯だった。
 でも彼女はその言葉だけで本当に嬉しそうに、花が咲くように笑ってくれた。
 俺たちの間にはまだ少しだけ距離がある。だがこの心地よい距離感が今は悪くないと心からそう思った。

 俺たちは事務所への帰り道をゆっくりと歩き始めた。
 夕暮れの商店街。家路を急ぐ人々の楽しげな笑い声。どこからか漂う美味しそうな夕飯の匂い。
 俺はそんなありふれた、しかしかけがえのない日常の風景を眺めながら考えていた。

 この世界は俺たちの目に見えるものが全てじゃない。聞こえる音や肌で感じるものが全てじゃない。そんな当たり前の事実にほとんどの人間は気づかずに一生を終える。…だけどたぶん、それでいいんだろう。

 見えない世界は確かにここにあって、俺たちの日常とぴったりと隣り合わせで息づいている。
 それは時々牙を剥いて俺たちを恐怖のどん底に突き落とす。
 でもそのほとんどは、ひかりちゃんの周りを嬉しそうに飛び交うキラポコみたいに、夜中の公園でただブランコに乗りたかったあの小さな子供みたいに、悪意なくただそこに『いる』だけなのだ。

 俺たちの仕事はそんな二つの世界のほんの、ほんの僅かな『ズレ』を見つけ出して、そっと元に戻してやること。優しく『調律(チューニング)』してやること。
 まあ相も変わらず月給分の苦労は絶えないし、あの個性しか取り柄のないような愉快な仲間たちに毎日振り回される、ドタバタな日々だけどな。

 俺は隣を歩くひかりちゃんの横顔を盗み見た。
 彼女も俺に気づいてにこりと微笑み返してくれた。
 俺はふっと笑みがこぼれるのをどうすることもできなかった。

 悪くない。
 いや。
 最高に、面白いじゃないか。
 このどこまでも騒がしくてどこまでも面倒で、そして途方もなく美しい世界で、生きていくというのも。
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