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第1部:出会いと勘違いの旅路
第7話:森の彷徨い人
しおりを挟む雨が降っていた。
空の遥か高みで生まれたであろう無数の雫が、鬱蒼と茂る森の葉に遮られ、その勢いを弱めながら、やがて地上へとたどり着く。ある雫は巨大な羊歯の葉の上を滑り台のように転がり落ち、ある雫は幾枚もの葉を経由するうちに大粒となり、重力に引かれてぽたり、と音を立てる。森の天蓋は、まるで巨大な緑色の濾過装置のようだ。空から降り注ぐ純粋な悲しみを、一度受け止め、選別し、地上には少しだけ和らげた絶望を届けているかのようだった。
それでも、雨は冷たかった。
シルフィアは、苔むした大樹の根元に背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。数日前から止むことなく降り続く雨は、彼女の最後の気力と体温を、まるで薄紙を一枚一枚剥がしていくかのように、容赦なく奪い続けていた。
王家の威光を示すために、最高級の絹で仕立てられたはずのドレスは、今や泥と得体の知れない体液、そして自身の血で汚れ、その原型を留めていない。裾は無残に引き裂かれ、濡れて重くなった布地が、氷のように冷たい皮膚にじっとりと張り付いていた。肌に触れる全てのものが、不快だった。
空腹は、とうの昔に限界を超えていた。最初は胃が焼け付くような痛みがあったが、今はそれすら感じない。身体が、生命活動を維持するために不要な感覚から順番にシャットダウンしていくのが、どこか他人事のように分かった。思考が、霧の中を彷徨うように鈍重になる。手足の指先の感覚はほとんどなく、まるで自分の身体ではないかのようだ。
モンスターとの連戦で負った左腕の切り傷が、雨水に濡れてじくじくと疼いた。もはや痛みという明確な感覚ではなく、ただそこにある不快な熱。傷口から何かが体内に侵入し、ゆっくりと自分を蝕んでいく。そんな確かな予感だけがあった。
彼女の心を支配しているのは、しかし、肉体的な苦痛だけではなかった。それよりも遥かに深く、冷たく、そして重い何かが、魂の最も深い場所に錨を下ろしていた。
焦り、そして孤独。
「このままでは……」
かろうじて動く唇から、声にならない声が漏れる。
「勇者様を、見つける前に……私が、死んでしまう」
伝承の勇者。
絶望の闇の中で見つけた、唯一の光。故郷を、民を救うための最後の希望。その執着だけが、瓦礫の中で目覚めたあの日から、かろうじて彼女の心を繋ぎとめていた。歩き続けろ、と。立ち止まるな、と。死ぬことは許されない、と。
だが、その希望はあまりに遠く、あまりに不確かだった。旅に出て、どれほどの月日が経っただろう。確かな手がかりは何一つなく、ただ闇雲に、古文書に記された「東へ」という言葉だけを頼りに歩き続けてきた。希望のはずだったそれは、今や彼女の首を絞める見えない枷となり、焦りと孤独を増幅させるだけの毒になっていた。
歩けば歩くほど、希望は遠のいていくように感じる。自分の無力さだけが、浮き彫りになっていく。
ふと、脳裏にあの日の悪夢が、色鮮やかな絵画のように蘇る。
燃え盛る王都。美しい白亜の城壁は崩れ落ち、かつて民の笑顔で溢れていた広場は、今は死体と瓦礫で埋め尽くされている。空は、巨大な隕石がもたらした熱波と煤煙で、不気味な茜色に染まっていた。熱風が、肉の焼ける匂いと、鉄の匂い、そして人々の絶叫を運んでくる。
「シルフィア、行け!」
父王の苦悶に満ちた表情。民を守るための最後の切り札として放った王家の秘術は、制御を失い、敵も味方もない無差別な破壊となって自らの王国に降り注いだ。自らの招いた悲劇に絶望しながらも、彼は娘だけは生かそうと、最後の魔力を振り絞った。それが、父の最期の姿だった。
「姫様!どうか、ご無事で……!」
幼い頃から妹のように可愛がってくれた、敬愛する騎士団長。屈強な体躯を誇った彼は、王女を庇い、背中に魔族の将軍の刃を受けた。彼の身体が、まるで陽炎のように揺らめき、次の瞬間には塵となって風に掻き消えていく。その感触だけが、今もシルフィアの右手に、生々しく残っていた。
「いやっ……!」
シルフィアは、か細い悲鳴を上げて頭を振った。悪夢を追い払おうとすればするほど、その光景は網膜に焼き付いて離れない。
なぜ、私だけが生き残ったのか。
父も、母も、忠実な騎士たちも、名も知らぬ多くの民も、皆死んだ。だというのに、なぜ、守られるべき何ものも持たない私だけが、こうして惨めに息をしているのか。
涙は、とうに枯れ果てていた。悲しみも、怒りも、あまりに巨大な絶望の前では、些細な感情の揺らぎでしかなかった。ただ、虚無だけが、雨のように心に降り注ぎ、全てを洗い流していく。
立ち上がらなければ。
そう思うのに、身体が鉛のように重い。泥濘に深く沈み込んでいくようだ。冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。このまま、この大樹の根元で、静かに朽ちていけたら、どれほど楽だろうか。もう、何も考えたくない。何も、感じたくない。
湿った土の匂いと、腐葉土のどこか甘ったるい香りが混じり合い、死の気配を濃厚に漂わせる。雨音に混じって、獣の唸り声のようなものが、すぐ近くで聞こえた気がした。
(ああ、これで、ようやく……)
諦めが、安堵に似た感情となって心を支配する。重い瞼が、ゆっくりと落ちてこようとした、その時だった。
脳裏に、ふと、全く別の光景が浮かんだ。
それは、絶望の記憶ではない。まだ空が青かった頃の、遠い日の思い出。
城下町の収穫祭。広場で手を取り合って踊る、民の屈託のない笑顔。
「姫様、このリンゴが一番甘いんですよ」と、皺くちゃの手で真っ赤な果実を差し出してくれた、老婆の優しい眼差し。
中庭の花畑で、母の膝枕で聞かされた、勇者の物語。
訓練場で、木剣の稽古をつけてくれた騎士団長の、不器用だが温かい励ましの言葉。
失われた、温かい光。
それらは、彼女が生きていた証であり、彼女が取り戻さなければならない世界の姿だった。
「……まだ」
シルフィアの唇が、微かに動いた。
「まだ、終われない……」
それは、誰に向けた言葉でもない。消えかかった自分自身の魂に言い聞かせる、最後の抵抗だった。
彼女は、最後の力を振り絞った。泥水に手をつき、震える腕で、ゆっくりと身体を起こす。指先に食い込む小石の痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれた。
柄に大きなひびが入った愛用の剣。それはもう武器としての役割は果たさない。だが、今の彼女にとっては、唯一の杖だった。それを地面に突き立て、支えにして、よろめきながら、ついにシルフィアは立ち上がった。
雨に濡れた銀色の髪が、額に張り付いている。血の気の失せた唇は青紫色に変わり、その頬は痛々しいほどにこけていた。
しかし、その瞳には。
深い絶望と、全てを諦めたかのような諦観の色を宿しながらも、その奥の奥に、決して消えることのない、小さな、小さな、しかしダイヤモンドのように硬質な意志の光が、確かに宿っていた。
獣の唸り声が、今度ははっきりと、すぐ背後から聞こえた。
シルフィアは、ゆっくりと振り返る。そこに何が待っていようと、もはや恐れはなかった。ただ、為すべきことを為す。その先に、たとえ死が待っていようとも。
冷たい雨が、彼女の頬を伝う一筋の雫と、見分けがつかないまま流れ落ちていった。
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