滅びた国の絶望王女が勇者を探していたので、俺(勇者)も一緒に探してみることにした件

Gaku

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第2部:偽りの神と作られし者たち

第五十二話:裏切りの淵

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 夜明けは、救いではなく、ただ新しい一日分の絶望を連れてくるだけの合図だった。
 エリアが目を覚ましたのは、寝室の窓枠を鉛色の光が縁取り始めた頃だった。昨夜の悪夢――隣家から引きずり出されていく家族の、耳朶にこびりついて離れない悲鳴――が、冷たい汗と共に肌に張り付いている。眠ったという感覚はほとんどなく、ただ意識を失っていただけの時間は、彼女の心身の疲労を何一つ癒してはくれなかった。

 身を起こし、水差しから汲んだ冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、まるで知らない誰かのようだった。血の気は失せ、目の下には深い隈が刻まれ、瞳の奥からはかつて宿っていたはずの純粋な光が消え失せている。これが、たった半年で変わり果てた自分の姿。そして、この街そのものの姿だった。

 父はすでに大聖堂へ向かった後で、家の中はしんと静まり返っている。エリアは、硬くなったパンのひとかけらを無理やり喉の奥へと押し込み、買い出しのために簡素な外套を羽織った。扉を開けると、ひやりとした湿り気のある空気が肌を撫でる。街は、まだ深い眠りから覚めきらないかのように、濃い霧に包まれていた。その霧は、まるでこの街に住む人々の心に溜まった澱(おり)が、形となって現れたかのようだった。

 早朝の市場は、かつての活気が嘘のように、静かで、そして冷え冷えとしていた。人々は皆うつむき加減に、まるで亡霊のように音もなく行き交う。交わされる言葉は必要最低限。視線が合うことは決してない。露店に並ぶ野菜や果物も、どこか新鮮さを失い、生命力が枯渇しているように見える。かつては威勢のいい呼び込みの声や、値切り交渉をする主婦たちの陽気な笑い声が響いていたこの場所も、今ではただ、疑心暗鬼と恐怖が支配する沈黙の空間と化していた。

 エリアはカゴに数個のジャガイモと萎びたカブを入れると、足早にその場を立ち去ろうとした。この場所にいるだけで、魂が吸い取られていくような息苦しさを感じる。一刻も早く、父の待つ教会へ。あの神聖な空間だけが、かろうじて彼女の心を繋ぎとめる最後の砦だった。

 広場を抜けようとした、その時だった。
 前方に、見慣れない人だかりができていた。それは市場の賑わいとは全く異質の、冷たく粘着質な好奇と、隠しようのない恐怖が渦巻く人垣だった。そして、その中心で響く、高圧的な怒声。
「言い訳は聞かんな! 貴様が禁制品である薬草を闇市で手に入れようとしていたことは、我々の調査で明白なのだ!」
 黒装束の異端審問官。その声を聞いただけで、エリアの背筋に氷の刃が突き立てられたような悪寒が走る。また誰かが、理不尽な罪で連れて行かれるのだ。昨夜の悪夢が蘇り、エリアは顔を伏せ、人垣を避けて通り過ぎようとした。関わってはいけない。父の言葉が脳裏をよぎる。「今は、耐える時だ」。

 しかし、罪人として糾弾されている、か細く震える声を聞いた瞬間、エリアの足は石になったかのように地面に縫い付けられた。
「ち、違います……僕は、ただ、母さんの病気を治したくて……」
 その声を知っていた。忘れるはずがない。
 エリアには、リオという幼馴染の青年がいた。同じ教会で育ち、気弱で、少し頼りないところはあったけれど、誰よりも心が優しく、エリアが幼い頃から実の兄のように慕ってきた、かけがえのない存在。エリアが転んで膝を擦りむけば、自分のことのように涙ぐんで手当てをしてくれた。祭りの日に、悪ガキにからかわれているのを、震えながらも間に割って入って守ってくれた。
 エリアにとって、この恐怖に満ちた世界で、唯一、心の底から信頼できると思える人間だった。

 人垣をかき分け、前に出る。そこにいたのは、やはりリオだった。彼は審問官たちに囲まれ、恐怖で顔を蒼白にさせ、小刻みに震えている。その手には、小さな布の袋が握られていた。中身はおそらく、彼の母親のための薬草だろう。彼の母親が、もう長くはない重い病に罹っていることは、エリアも知っていた。教団が認可していない薬草を使うことは、確かに禁じられてはいる。しかし、それは女神への反逆などではない。ただ、愛する母親を救いたいという、息子の純粋で切実な願いから来る行動だった。

 どうしよう。
 頭の中で、父の「目立つな」という警告と、目の前で震える幼馴染の姿が激しくせめぎ合う。見て見ぬふりをすれば、自分は安全だ。しかし、彼を見捨てれば、自分の中に残っている最後の人間性までをも失ってしまう気がした。
 エリアは、心の奥で燃え残っていた、ほんの小さな勇気の熾火をかき集めた。そして、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。

「お待ちください!」

 凛とした声が、静かな広場に響き渡った。審問官たち、そして野次馬たちの視線が一斉にエリアへと突き刺さる。エリアは、恐怖で早鐘を打つ心臓を必死で押さえつけ、リオと審問官の間に立ちはだかった。
「彼は、決して女神様への信仰を侮辱するような人間ではありません! ただ、病に苦しむお母様を助けたい一心で……どうか、お慈悲を!」
 審問官のリーダー格である、痩せこけた男が、蛇のように冷たい視線でエリアを値踏みするように見た。エリアが司祭の娘だと気づくと、男は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにサディスティックな愉悦の色を浮かべ、その唇を醜く歪めた。
「ほう、これはこれは、司祭様のお嬢君か。異端者の肩を持つとは、感心なことだ。だがな、小娘。法は法だ。そして、異端者を庇う者は、すなわち異端者と見なされる。お前も、こいつと同罪として、あの『祈りの間』へ行きたいと見えるな?」
 『祈りの間』。その言葉が持つ本当の意味を、この街の者なら誰もが知っていた。それは、異端者の心を「清める」ための拷問部屋の婉曲な呼び名だった。そこへ連れて行かれ、生きて戻ってきた者は一人もいない。
 その脅しは、エリア以上に、彼女の後ろにいるリオの心を打ち砕いた。
 彼の脳裏に、先日広場で行われた公開処刑の光景が、鮮明に蘇る。火炙りにされ、絶叫を上げながら黒焦げになっていく男の姿。それを、無表情で見つめる群衆。自分も、ああなるのか。あの、耐え難い苦痛を味わうのか。
 恐怖は、彼の心の中で育まれたけちなプライドも、エリアへの感謝も、母親への愛情さえも、一瞬にして喰らい尽くしていった。彼は、この絶望的な状況から逃れるための、唯一の蜘蛛の糸に必死で手を伸ばした。それは、自分を庇うために目の前に立ってくれている、たった一人の友人を、奈落の底へと突き落とすことだった。
 リオは、震える指を、ゆっくりと持ち上げた。そして、その指先は、真っ直ぐに、自分を守ろうとしてくれているはずのエリアの背中を、指し示した。

「ち、ちが、違います! 僕は、悪くない! 僕は、こいつに、そそのかされたんです!」

 その瞬間、エリアの世界から、全ての音が消えた。

 まるで、分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のように、何もかもがスローモーションで見える。審問官の嘲笑。野次馬たちの驚愕の表情。そして、背後から聞こえてくる、必死で、無様で、そして何よりも残酷な、聞き慣れたはずの声。

「そ、そうです! こいつが、司祭の娘であるこいつが、『女神様の教えよりも、古い迷信の方が病には効く』と言って、僕にこの薬草を……! だから、僕もつい……!」
「こいつも、仲間です! 僕を異端の道に引きずり込んだ、仲間なんです!」

 時間が、異常なほどに引き延ばされていた。一秒が一時間にも感じられる、永遠のような時の流れの中で、エリアはゆっくりと、本当にゆっくりと、振り返った。
 そこに立っていたのは、もう彼女の知っているリオではなかった。
 恐怖と、自己保身と、そして裏切りの罪悪感から逃れるための自己正当化とがぐちゃぐちゃに混ざり合って、彼の顔を、醜く、卑屈に歪めていた。その瞳はエリアを真っ直ぐに見ることができず、怯えたように泳いでいる。
 エリアの唇が、かすかに動いた。

「……なんで?」

 それは、声にならなかった。ただ、吐き出された息が、白い霧となって虚空に消えただけだった。
 なぜ?
 どうして?
 私は、あなたを信じていたのに。
 私は、あなたを守ろうとしたのに。
 人が、当たり前に抱く心。誰かを信頼するという心。誰かを助けたいと願う心。そういった、温かく、美しいはずの感情(渇愛)が、今、最も鋭く、最も冷たい刃となって、エリアの魂の最も柔らかい場所を、何の躊躇もなく突き刺し、そして抉り抜いていった。
 苦しみの原因は、外にあるのではない。自分自身の内にあったのだ。他者へ無邪気に差し出した、期待と信頼という名の心。それこそが、この耐え難い苦痛を生み出す、本当の原因だったのだと、彼女は、この絶望の淵で、初めて理解した。

 審問官たちの、脂ぎった手が自分に向かって伸びてくるのを、エリアはどこか他人事のように感じていた。もう、どうでもいい。何もかも。女神様も、人も、この世界も、何もかも信じられない。信じる価値など、どこにもなかった。
 絶望の淵の、さらにその底で。
 エリアは、かつて父が「万が一の時のために」と、護身用として教えてくれた、一度も使ったことのない転移魔法の呪文を、無意識に、そして何の感情も込めずに、ただ唇に乗せていた。それは、生きるための選択ではなかった。ただ、この地獄から消え去りたいという、魂の放棄だった。

「―――」

 彼女の体から、眩いばかりの純白の光が迸る。審問官たちが「な、何!?」と驚き、手を伸ばすが、もう遅い。
 光に包まれ、意識が白一色に染まっていく、その最後の瞬間。エリアの目に映ったのは、自分の突然の消失に驚き、そして次の瞬間、自分が助かったのだと理解して、醜い安堵の表情を浮かべた、リオの顔だった。

 その光景が、引き金だった。
 エリアの心の中で、かろうじて繋がっていた最後の糸が、ぷつりと、音もなく切れた。

 光が消え去った時、彼女は見知らぬ森の中にいた。
 どこかも分からない、薄暗い森。肌を裂く冷たい雨が、容赦なく彼女の体を打ち付けている。しかし、エリアは何も感じなかった。寒さも、痛みも、悲しみも、怒りさえも。心は、完全に死んでいた。
 ただ、生き物としての本能だけが、彼女の足を動かしていた。追っ手から逃れなければ。その、意味さえも失った命令だけが、空っぽになった頭の中で響いている。
 木の根に足を取られて転び、鋭い茨が外套を引き裂き、その下の柔らかな肌を傷つける。ぬかるんだ地面に膝をつき、泥水が顔にかかる。それでも、彼女は立ち上がり、ただ無我夢中で走り続けた。
 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
 やがて、体力も、そして転移に使った魔力も、完全に尽き果てた。エリアの体は、まるで糸の切れた人形のように、冷たい土の上に崩れ落ちた。
 意識が、ゆっくりと遠のいていく。冷たい雨が、頬を伝う涙の代わりのように、その蒼白な顔を濡らし続けていた。
 遠のいていく意識の最後に、エリアの心を満たしていたのは、ただ一つの、絶対的な虚無感だった。

「もう、誰も信じない」
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