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第5話:夏休み前、オタクの憂鬱
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六月という名の、優柔不断で湿った季節がその最後の抵抗をやめ、七月という燃えるような支配者が高らかに凱旋のファンファーレを鳴らすと、世界は一夜にしてその装いを変えた。
あれほど執拗に空を覆っていた分厚い灰色の雲は、まるで悪戯好きな神が気まぐれに消しゴムで消し去ったかのように跡形もなくなり、代わりに、吸い込まれそうなほど深く、どこまでも澄み渡るコバルトブルーのキャンバスが無限に広がっていた。
太陽は、もはや遠慮や慈悲といった言葉を遥か遠い忘却の彼方へと追いやり、その身に宿す全ての熱量と光を、一切の容赦なく地上へと叩きつけてくる。 その光はあまりに強く、あらゆる色彩を白く焼き尽くし、世界の輪郭を曖昧にしてしまうほどだった。
◇
街全体が巨大な鉄板の上で焼かれているかのようだ。 アスファルトはぐにゃりと歪み、立ち昇る陽炎が遠くの風景を蜃気楼のように揺らめかせる。 通学路の脇に立つ電信柱の影だけが、この灼熱地獄における唯一の聖域のように黒々と濃い。
そして、世界を支配するのは、けたたましいセミの大合唱。 それはもはや単なる鳴き声ではなく、空気そのものを震わせる音の壁となって、四方八方から降り注ぎ、鼓膜を通り越して脳の奥深くに直接響き渡るかのようだった。
それは、生命力に満ち溢れた真夏の謳歌であり、同時に、あらゆる思考力を根こそぎ奪い去っていく、抗いがたい催眠術のようでもあった。
そんな外界の熱狂とは裏腹に、教室の中は、別の意味での地獄の様相を呈していた。
むせ返るような熱気と、寝不足の生徒たちが吐き出す二酸化炭素、そして間近に迫った期末テストへの絶望が混じり合い、よどんだ空気となって沈殿している。 天井では、年代物の扇風機が力なく首を振り続けているが、その動きはあまりに緩慢で、まるで断末魔の喘ぎのようだ。
それが送り出す風は、もはや涼しさとは無縁の生ぬるい空気の塊でしかなく、熱せられた澱みをかき混ぜているだけ。 それは慰めですらなく、むしろ不快感を増長させるだけの存在だった。
男子も女子も、校則で許される最大限の軽装をしていた。 ブレザーはとっくにロッカーの中へ追いやられ、ワイシャツの第一ボタンは外され、袖は肘の上まで無造作にまくり上げられている。
それでも、じっとりと汗が肌にまとわりつき、背中を、額を、首筋を絶え間なく流れ落ちていく。 誰もが、夏の巨大な圧力とテスト期間という精神的な重圧の前に、完全に打ちのめされ、ぐったりと机に突っ伏していた。
まるで戦場で散った兵士のように、あるいは溶けてしまった蝋人形のように、生命活動の痕跡が希薄だった。
◇
あの日、放課後の静寂に包まれた図書室で、朝陽輝くんと奇妙な対話を交わして以来、私と彼の関係は、新たな、そして非常に厄介な局面を迎えていた。
いや、そもそも「関係」という言葉を用いること自体が、おこがましいのかもしれない。 私たちの間に、そもそも名前の付くような関係性など、初めから成立してはいなかったのだから。 ただ、状況がほんの少しだけ、私の意に反する形で変化した。それだけのことだ。
彼は、以前のように、何の配慮もなく、まるで親しい友人にでもするように無遠慮に、そして時に無慈悲に私に話しかけてくることはなくなった。 それは、ある意味で私の望んだ静寂の訪れだったのかもしれない。
しかし、彼は私を完全に無視しているわけでもないのだ。 廊下ですれ違う時、あるいは教室でふと視線が交錯する瞬間。 そんな時、彼は一瞬、はっとしたような顔をして、それから少しだけ困ったように眉を下げて笑うのだ。
そして、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、慌てて視線を逸らす。 その絶妙な距離感は、私にとって、以前の彼の猛攻よりも、ある意味でずっと心臓に悪かった。
嵐が猛威を振るった後、全てを破壊し尽くして去っていった後に訪れる、不気味なほどの静けさ。それに似ていた。 彼の口から飛び出した「天気」という、あまりにも単純で、それでいて世界の真理を突いているかのような言葉が、私の頭の中で何度も何度もリフレインする。
彼の内面にも、きっと様々な天気があるのだろう。 そして、今のこの、お互いにどう接していいか分からず、ぎこちない沈黙だけが流れる状態は、一体、どんな天気に分類されるのだろうか。 快晴ではない。嵐でもない。 おそらくは、濃い霧が発生していて、お互いの姿がぼんやりとしか見えない、そんな日なのかもしれない。
私は、これまで通り「石」であろうと努めていた。 感情の波に揺さぶられず、他者との相互作用を極力避け、ただそこに存在するだけの無機質な物体。 それが、私がこの息苦しい人間社会を生き抜くために編み出した、唯一の生存戦略だった。
だが、一度、朝陽輝という名の奇妙なハンマーによってヒビを入れられてしまった私の心の壁は、もはや完全な静寂と平穏を保つことはできなくなっていた。 輝くんの「天気」という、あまりにも単純明快な世界の捉え方が、私の脳内にインストールした覚えのないOSのように、時折勝手に起動して、私の思考回路を混乱させるのだ。
(この教室を満たす、息苦しいほどの空気の重さ。これは、夏の高気圧がもたらす物理的な圧力なのか、それとも、目前に迫った期末テストが生み出す心理的な重圧のせいなのか)
(前の席の女子が、貧乏ゆすりをしている。小刻みに揺れる膝は、彼女の内面で今、局地的な暴風雨が吹き荒れていることの現れなのかもしれない)
そんな、一見すると哲学的で、しかし冷静に考えればどうしようもなく無意味な分析をしている自分にふと気づき、私は誰にも聞こえないようにそっとため息をついた。 彼の放った思考のウイルスに、私は確実に、そしてゆっくりと感染しつつある。 それは、静寂を愛する私にとって、決して歓迎すべきことではなかった。
◇
事件が起きたのは、そんな、誰もが茹だるような暑さの中で意識を朦朧とさせていた、昼休みのことだった。
その日も、私は教室の自席で、母親が作ってくれた弁当を広げていた。 彩りなど気にしていない、茶色いおかずばかりが詰められた、素朴な弁当。 それを、誰と話すでもなく、ただ黙々と口に運ぶ。それが私の日常だった。
視界の端では、輝くんがサッカー部の仲間たちと、教室の後ろの方でくだらない馬鹿話をしながら、購買で買ってきたであろう焼きそばパンを大きな口で頬張っているのが見えた。 彼の周りだけは、夏の暑ささえも吹き飛ばすような、明るいエネルギーに満ちている。
平穏だ。 このまま、何も起こらず、誰にも干渉されず、夏休みまでこの凪の状態が続いてくれればいい。 私は心からそう願っていた。
私の斜め前の席に座っているのは、秋葉雄太くんという男子生徒だ。 彼は、クラスの中でも、私と同じ種類の人間だった。 すなわち、「気配を消す」という特殊な能力に、意識的か無意識的か、非常に長けた人間だった。
いつも少し猫背気味で、長い前髪が彼の表情を巧みに隠している。 授業中に教師から指名された時以外、彼の声を聞くことはほとんどなく、彼が誰かと視線を合わせようとする場面を、私は一度も見たことがなかった。
彼の机の上には、常に最新号のアニメ雑誌か、あるいは美麗なイラストが表紙を飾るライトノベルが置かれている。 それは、彼にとっての結界のようなものだった。 その周囲だけが、ざわついた現実世界から完全に切り離され、彼が愛する二次元の物語によって守られた、侵すべからざる聖域となっているかのようだった。
彼の鞄には、古びた小さなキーホルダーが一つだけ、ぶら下がっている。 鮮やかなピンク色の髪をした、やたらと瞳の大きな、デフォルメされた女の子のキャラクター。 おそらく、彼が今、最も愛してやまない作品の登場人物なのだろう。 そのキーホルダーは、きっと彼にとって、この理不尽で過酷な現実世界を生き抜くための、小さなお守りのようなものなのだ。
私には、その気持ちが少しだけわかるような気がした。
その、か弱くも尊い小さな聖域が、泥のついた土足で無遠慮に踏みにじられたのは、本当に、一瞬の出来事だった。
クラスの中でも、常に教室の中心で大きな声で騒ぎ、自分たちが世界の中心であるかのように振る舞っている、いわゆる「イケてるグループ」の男子が三人。 彼らが、まるで獲物を見つけたハイエナのように、秋葉くんの席を取り囲んだのだ。
「なあ、秋葉ー。お前さあ、またそんなオタクみたいなの読んでんの?」
リーダー格の男が、嘲るような笑みを浮かべながら、秋葉くんの読んでいたライトノベルの表紙を、指先で軽蔑するように、ぱちん、と弾いた。 それは、軽い、乾いた音だったが、静かな教室の中では、不快なほど大きく響いた。
「マジ、キモいんですけどー。そんなんばっか読んでるから、お前、いつまでもそんなんなんだよ」
周りにいた二人が、同調して下品な笑い声を上げる。
秋葉くんは、びくり、と雷に打たれたように肩を震わせ、さらに深く、自分の殻に閉じこもるように背中を丸めた。 何も言わない。いや、何も言えないのだ。 彼の気持ちが、痛いほどわかる。 ここで何か反論しようものなら、彼らの嘲笑はさらに大きくなり、言葉の暴力はエスカレートするだけだ。
それを彼は、これまでの経験から痛いほど知っている。 だから、沈黙するしかない。 ここでは、沈黙こそが、唯一の、そして最も無力な、鎧なのだ。
「つーかさ、カバンのこれ、何? このピンク頭の女」
もう一人が、秋葉くんの鞄に手を伸ばし、彼が大切にしているお守りであるキーホルダーを、汚いものでもつまむかのように、二本の指でぷらぷらと揺らした。
「うわ、なにこれ。絵じゃん。こんなのに興奮してんの? ロリコンじゃん。やっべー、マジ引くわー」
下品で、空虚な笑い声が、熱気のこもった教室に響き渡る。 周囲の生徒たちのほとんどは、見て見ぬふりをしている。 弁当を食べる手を止めず、友達との会話を中断せず、あるいは窓の外を眺めて、この不快な出来事が自分の視界に入らないようにしている。
関わり合いになりたくない。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。 その気持ちも、痛いほど、わかる。私も、そうだ。 私は石。私は壁。 この教室で今、起きていることは、私とは無関係の、ただの現象に過ぎない。 そう、自分に強く言い聞かせる。
しかし、私の視線は、秋葉くんの、膝の上で固く固く握りしめられた拳に、釘付けになっていた。 血の気が失せて白くなった指の関節。小刻みに、わなわなと震える、その拳。
悔しいだろう。悲しいだろう。 自分の「好き」という純粋な気持ちを、大切にしている宝物を、こんなにも無価値で、唾棄すべきもののように扱われて。 その心の痛みは、かつて私が味わった、あの冷たい絶望と、よく似ていた。 自分の世界が、他人の無理解によって、いとも簡単に土足で踏み荒らされる感覚。
私に何かできるだろうか。 いや、何もできない。動けば、また失敗する。 良かれと思って取った行動が、意図しない形でさらに彼を傷つけることになるかもしれない。 そうだ。ここで私が動くのは、傲慢だ。 何もしないのが、彼にとっても、私にとっても、一番傷が浅く済む方法なのだ。正解なのだ。
そう、私が、必死に自分に言い聞かせ、再び弁当の甘い卵焼きに箸を伸ばそうとした、まさにその時だった。
「――お前ら、何してんの?」
その声は、茹だるように重く沈殿した教室の空気を、まるで鋭利な氷の刃のように、一瞬で切り裂いた。 それは、この熱気の中にあって、驚くほど涼やかで、澄んだ響きを持っていた。
朝陽輝くんだった。
彼は、食べかけの焼きそばパンの袋を片手に、いつの間にか、イケてるグループの背後に、音もなく立っていた。 その表情は、いつもと変わらない、屈託のないものだったが、その目だけは、笑っていなかった。
「あ? なんだよ朝陽。関係ねえだろ」
リーダー格の男が、面倒くさそうに、そして少しだけ警戒するように振り返る。 彼らのグループと輝くんのグループは、クラス内カーストの頂点を二分する存在だが、その性質は全く異なっていた。
「いやー、だってよ、秋葉の趣味がキモすぎて、つい、いじりたくなっちゃってさ」
男は、輝くんに弁解するように言った。
「ふーん」
輝くんは、リーダー格の男を、まるで道端の石ころでも見るかのように、一瞥しただけだった。 彼の視線は、その男の肩越しに、今もなお指先で弄ばれている、ピンク色の髪をした女の子のキーホルダーへと真っ直ぐに注がれていた。
私は、息を呑んだ。 ああ、やっぱり。 輝くんが、彼の持ち前の正義感から、彼らを咎めるのだ。 そして、また面倒なことになるのだ。そう思った。
しかし、彼の次の行動は、私のその浅はかな予測を、またしても鮮やかに、そして軽々と裏切った。
輝くんは、秋葉くんをいじめていた男たちを、完全に無視した。 彼は、まるでそこに誰も存在していないかのように、その横をすり抜けると、すっと秋葉くんの隣に立ち、そのキーホルダーを、心の底から興味があるというように、きらきらした目で覗き込んだ。
「へえ、そのアニメ、面白そうじゃん! 俺、見たことねえや。なんていうタイトルのやつ?」
しん、と教室が水を打ったように静まり返った。 いじめていた男たちも、いじめられていた秋葉くんも、そして、遠巻きにその光景を固唾を飲んで見守っていた私も、クラス中の誰もが、輝くんのその言葉の真意を、一瞬、理解することができなかった。
彼は、秋葉くんを「庇った」のではない。 彼は、いじめっ子たちを「非難した」のでもない。 彼は、ただ、純粋に、一切の先入観なく、そのキーホルダーに「興味を持った」のだ。 まるで、道端で見つけた珍しい形の石や、綺麗な色の花に心を奪われた子供のように。
「え……?」
この状況で、一番驚いていたのは、間違いなく秋葉くん本人だった。
「な、なんだよ、朝陽……。俺をからかうのは、やめろよ……」
か細い、疑心暗鬼に満ちた声だった。
「からかってねえよ。マジで。だってさ、その子、なんかすげーでかい武器持ってんじゃん。何それ、剣? もしかしてビームとか出るの?」
輝くんの目は、本気だった。 四月のあの日、図書室で、私の読んでいた難解な科学雑誌に向けられたのと同じ、一点の曇りもない、純度百パーセントの好奇心の塊のような瞳だった。
いじめていた男たちは、顔を見合わせている。 自分たちが 作り上げてきた「いじめ」という、加害者と被害者、そして傍観者から成る閉鎖的な空気が、輝くんという、あまりにも異質で予測不可能な存在のたった一言によって、完全に破壊されてしまったことに、ひどく戸惑っているようだった。 彼らの用意した脚本には、こんな役者は登場する予定はなかったのだ。
「……ちっ。なんか、しらけたな。行こうぜ」
リーダー格の男は、心底つまらなそうにそう吐き捨てると、仲間たちを引き連れて、ばつの悪そうな顔でその場を去っていった。 あれほど猛威を振るっていた局地的な嵐は、まるで何事もなかったかのように、あっけなく過ぎ去っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす秋葉くんと、彼のキーホルダーをキラキラした目で見つめ続ける輝くんと、そして、そのあまりにも奇妙で、非現実的な光景を、弁当を食べるのも忘れてただじっと見つめている、私だった。
「で、どうなの? 結局、このピンク髪の子、強いの?」
輝くんが、何もわかっていない顔で、秋葉くんに問いかける。
「……え、あ……うん。彼女は、星詠みの魔導騎士、リリアンヌ・フォン・シュバルツシルト……。この聖剣『アストラルゲイザー』は、天に輝く七つの星の力を束ねて、あらゆる因果を断ち切るっていう、伝説の武器で……」
秋葉くんは、おそるおそる、しかし、堰を切ったように、どこか嬉しそうに、驚くほどの早口で説明を始めた。 それは、私にとっては、完全に異星の言語のように聞こえた。 スターライト? パラディン? シュバルツシルト? 因果を断ち切る剣? まるで意味がわからない。単語の一つ一つが、私の理解の範疇を遥かに超えていた。
「へえ! 因果を断ち切る! ヤベえ、超カッケーじゃん! それってさ、俺が昨日、数学の小テストで赤点取ったっていう事実も無かったことにもできんの?」
輝くんの解釈は、あまりにも短絡的で、あまりにも彼らしかった。
「いや、そういう物理法則への直接的な干渉じゃなくて、もっと概念的な、こう、運命の赤い糸を組み替える的な……そういう……」
「なるほどな! 運命の糸! つまり、俺が今日、焼きそばパンじゃなくて、コロッケパンを買ってたかもしれない、もう一つの世界線に行ける、みたいな感じか!」
「うーん、解釈としては、まあ、遠からず……かな……」
秋葉くんの顔から、さっきまでの絶望と恐怖の色が、まるで嘘のように綺麗さっぱりと消えていた。 彼の瞳は、自分の愛する世界を、それを理解しようとしてくれる相手に語れる喜びに、生き生きと輝いている。
その顔は、私がこのクラスで一年以上過ごしてきて、一度も見たことのない、秋葉くんの、本当の顔なのかもしれない。
私は、その光景から、どうしても目が離せなかった。 面白い、と心の底から思った。 アニメの内容がじゃない。スターライトなんとかがじゃない。 今、私の目の前で起きている、この不思議な化学反応が、とてつもなく面白いのだ。
クラスで一番明るく、人気者で、太陽のような男の子と、クラスで一番暗く、いつも日陰にいて、気配を消している男の子が、私の全く知らない世界の専門用語で、心から楽しそうに話している。 その空間には、何の偏見も、見下すような気持ちも、哀れみや同情さえもない。 ただ、純粋で、混じりけのない「興味」だけが存在している。
「あ、そうだ!」
輝くんが、突然、何かを思い出したように、私の方を勢いよく振り返った。
「なあ、水無月! お前も聞いとけよ! このリリアンヌって子、マジでヤバいぞ! 聖剣から、因果を断ち切るビームが出るんだって!」
「いや、だから、ビームっていうよりは、概念的な奔流というか……」という秋葉くんの的確なツッコミが、背後から小さく聞こえる。
私は、不意に話を振られて、びくりと体を硬直させた。 どうしよう。なんと答えればいい? (すごいね)? いや、何がすごいのか、一ミリも理解できていない。 (面白そうだね)? 本心ではない。そんなお世辞を言えるほど器用ではない。 私の脳が、エラー音を立てながら、最適解を求めて猛烈な勢いで回転を始める。 沈黙はダメだ。でも、下手に答えても、この場の空気を壊してしまうかもしれない。
でも、私の脳が最終的な答えを導き出すよりも先に、私の口から、思わず、言葉がぽつりと漏れていた。
「……因果を、断ち切る……」
それは、問いかけでも、感想でもない。ただ、彼の言葉を、意味を噛みしめるように繰り返した、無意識の反芻だった。 しかし、輝くんは、それを聞いて、太陽のように、にぱっと笑った。
「だろ? ヤバいだろ? 昨日の俺の赤点っていう因果も、マジで断ち切ってほしいわー」
「だから、そういう個人的な都合じゃなくて、もっとこう、世界の理に関わるレベルの……」
秋葉くんが、心底困ったように、でも、本当に楽しそうに笑う。 その、あまりにも平和で、あまりにも意外な光景に、私の口元が、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。
◇
その日の放課後。 私は、いつものように一人で、夕暮れの光が差し込む通学路を歩いていた。
でも、いつもと少しだけ、見える景色が違っていた。 むせ返るような熱気も、脳を揺らすけたたましいセミの声も、なぜか、あまり不快には感じなかった。 むしろ、生命力に満ちた、夏の証として、素直に受け入れることができた。
私の頭の中では、昼休みの、あの奇妙な三人の光景が、何度も何度もリプレイされていた。 太陽と、日陰の住人と、そして、ただの石ころだったはずの、私。
何の計画も、意図もなかった。誰もが、ただ、自分の役割を演じていただけだったのに。 ただ、一人の男の子の、真っ直ぐで、何のフィルターも通さない純粋な好奇心が、凍りついて澱んでいた教室の空気をかき混ぜて、誰も予想しなかった、新しい、小さな「流れ」のようなものを生み出した。
自己組織化。 かつて、暇つぶしに読んでいた科学雑誌で目にした言葉が、ふと頭の片隅に浮かんだ。 互いに無関係で、バラバラに動いていた要素が、ある特定の条件下で、互いに影響を及ぼし合うことで、誰も意図しなかった、より高次の、新しい秩序が自発的に生まれる現象。
(まさか、ね)
私は、小さくかぶりを振って、その大げさな考えを打ち消した。 でも、私が望んだ完全な静寂とは、全く違う方向へ、しかし、必ずしも悪い気はしない方向へと、私の高校二年生の夏が、勝手に、そして確かに動き出している。
その事実だけは、認めざるを得なかった。 見上げた空は、まだ明るい。 鬱陶しいだけだったはずのセミの声が、夏休みの訪れを告げる、祝祭の音楽のように聞こえていた。
あれほど執拗に空を覆っていた分厚い灰色の雲は、まるで悪戯好きな神が気まぐれに消しゴムで消し去ったかのように跡形もなくなり、代わりに、吸い込まれそうなほど深く、どこまでも澄み渡るコバルトブルーのキャンバスが無限に広がっていた。
太陽は、もはや遠慮や慈悲といった言葉を遥か遠い忘却の彼方へと追いやり、その身に宿す全ての熱量と光を、一切の容赦なく地上へと叩きつけてくる。 その光はあまりに強く、あらゆる色彩を白く焼き尽くし、世界の輪郭を曖昧にしてしまうほどだった。
◇
街全体が巨大な鉄板の上で焼かれているかのようだ。 アスファルトはぐにゃりと歪み、立ち昇る陽炎が遠くの風景を蜃気楼のように揺らめかせる。 通学路の脇に立つ電信柱の影だけが、この灼熱地獄における唯一の聖域のように黒々と濃い。
そして、世界を支配するのは、けたたましいセミの大合唱。 それはもはや単なる鳴き声ではなく、空気そのものを震わせる音の壁となって、四方八方から降り注ぎ、鼓膜を通り越して脳の奥深くに直接響き渡るかのようだった。
それは、生命力に満ち溢れた真夏の謳歌であり、同時に、あらゆる思考力を根こそぎ奪い去っていく、抗いがたい催眠術のようでもあった。
そんな外界の熱狂とは裏腹に、教室の中は、別の意味での地獄の様相を呈していた。
むせ返るような熱気と、寝不足の生徒たちが吐き出す二酸化炭素、そして間近に迫った期末テストへの絶望が混じり合い、よどんだ空気となって沈殿している。 天井では、年代物の扇風機が力なく首を振り続けているが、その動きはあまりに緩慢で、まるで断末魔の喘ぎのようだ。
それが送り出す風は、もはや涼しさとは無縁の生ぬるい空気の塊でしかなく、熱せられた澱みをかき混ぜているだけ。 それは慰めですらなく、むしろ不快感を増長させるだけの存在だった。
男子も女子も、校則で許される最大限の軽装をしていた。 ブレザーはとっくにロッカーの中へ追いやられ、ワイシャツの第一ボタンは外され、袖は肘の上まで無造作にまくり上げられている。
それでも、じっとりと汗が肌にまとわりつき、背中を、額を、首筋を絶え間なく流れ落ちていく。 誰もが、夏の巨大な圧力とテスト期間という精神的な重圧の前に、完全に打ちのめされ、ぐったりと机に突っ伏していた。
まるで戦場で散った兵士のように、あるいは溶けてしまった蝋人形のように、生命活動の痕跡が希薄だった。
◇
あの日、放課後の静寂に包まれた図書室で、朝陽輝くんと奇妙な対話を交わして以来、私と彼の関係は、新たな、そして非常に厄介な局面を迎えていた。
いや、そもそも「関係」という言葉を用いること自体が、おこがましいのかもしれない。 私たちの間に、そもそも名前の付くような関係性など、初めから成立してはいなかったのだから。 ただ、状況がほんの少しだけ、私の意に反する形で変化した。それだけのことだ。
彼は、以前のように、何の配慮もなく、まるで親しい友人にでもするように無遠慮に、そして時に無慈悲に私に話しかけてくることはなくなった。 それは、ある意味で私の望んだ静寂の訪れだったのかもしれない。
しかし、彼は私を完全に無視しているわけでもないのだ。 廊下ですれ違う時、あるいは教室でふと視線が交錯する瞬間。 そんな時、彼は一瞬、はっとしたような顔をして、それから少しだけ困ったように眉を下げて笑うのだ。
そして、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、慌てて視線を逸らす。 その絶妙な距離感は、私にとって、以前の彼の猛攻よりも、ある意味でずっと心臓に悪かった。
嵐が猛威を振るった後、全てを破壊し尽くして去っていった後に訪れる、不気味なほどの静けさ。それに似ていた。 彼の口から飛び出した「天気」という、あまりにも単純で、それでいて世界の真理を突いているかのような言葉が、私の頭の中で何度も何度もリフレインする。
彼の内面にも、きっと様々な天気があるのだろう。 そして、今のこの、お互いにどう接していいか分からず、ぎこちない沈黙だけが流れる状態は、一体、どんな天気に分類されるのだろうか。 快晴ではない。嵐でもない。 おそらくは、濃い霧が発生していて、お互いの姿がぼんやりとしか見えない、そんな日なのかもしれない。
私は、これまで通り「石」であろうと努めていた。 感情の波に揺さぶられず、他者との相互作用を極力避け、ただそこに存在するだけの無機質な物体。 それが、私がこの息苦しい人間社会を生き抜くために編み出した、唯一の生存戦略だった。
だが、一度、朝陽輝という名の奇妙なハンマーによってヒビを入れられてしまった私の心の壁は、もはや完全な静寂と平穏を保つことはできなくなっていた。 輝くんの「天気」という、あまりにも単純明快な世界の捉え方が、私の脳内にインストールした覚えのないOSのように、時折勝手に起動して、私の思考回路を混乱させるのだ。
(この教室を満たす、息苦しいほどの空気の重さ。これは、夏の高気圧がもたらす物理的な圧力なのか、それとも、目前に迫った期末テストが生み出す心理的な重圧のせいなのか)
(前の席の女子が、貧乏ゆすりをしている。小刻みに揺れる膝は、彼女の内面で今、局地的な暴風雨が吹き荒れていることの現れなのかもしれない)
そんな、一見すると哲学的で、しかし冷静に考えればどうしようもなく無意味な分析をしている自分にふと気づき、私は誰にも聞こえないようにそっとため息をついた。 彼の放った思考のウイルスに、私は確実に、そしてゆっくりと感染しつつある。 それは、静寂を愛する私にとって、決して歓迎すべきことではなかった。
◇
事件が起きたのは、そんな、誰もが茹だるような暑さの中で意識を朦朧とさせていた、昼休みのことだった。
その日も、私は教室の自席で、母親が作ってくれた弁当を広げていた。 彩りなど気にしていない、茶色いおかずばかりが詰められた、素朴な弁当。 それを、誰と話すでもなく、ただ黙々と口に運ぶ。それが私の日常だった。
視界の端では、輝くんがサッカー部の仲間たちと、教室の後ろの方でくだらない馬鹿話をしながら、購買で買ってきたであろう焼きそばパンを大きな口で頬張っているのが見えた。 彼の周りだけは、夏の暑ささえも吹き飛ばすような、明るいエネルギーに満ちている。
平穏だ。 このまま、何も起こらず、誰にも干渉されず、夏休みまでこの凪の状態が続いてくれればいい。 私は心からそう願っていた。
私の斜め前の席に座っているのは、秋葉雄太くんという男子生徒だ。 彼は、クラスの中でも、私と同じ種類の人間だった。 すなわち、「気配を消す」という特殊な能力に、意識的か無意識的か、非常に長けた人間だった。
いつも少し猫背気味で、長い前髪が彼の表情を巧みに隠している。 授業中に教師から指名された時以外、彼の声を聞くことはほとんどなく、彼が誰かと視線を合わせようとする場面を、私は一度も見たことがなかった。
彼の机の上には、常に最新号のアニメ雑誌か、あるいは美麗なイラストが表紙を飾るライトノベルが置かれている。 それは、彼にとっての結界のようなものだった。 その周囲だけが、ざわついた現実世界から完全に切り離され、彼が愛する二次元の物語によって守られた、侵すべからざる聖域となっているかのようだった。
彼の鞄には、古びた小さなキーホルダーが一つだけ、ぶら下がっている。 鮮やかなピンク色の髪をした、やたらと瞳の大きな、デフォルメされた女の子のキャラクター。 おそらく、彼が今、最も愛してやまない作品の登場人物なのだろう。 そのキーホルダーは、きっと彼にとって、この理不尽で過酷な現実世界を生き抜くための、小さなお守りのようなものなのだ。
私には、その気持ちが少しだけわかるような気がした。
その、か弱くも尊い小さな聖域が、泥のついた土足で無遠慮に踏みにじられたのは、本当に、一瞬の出来事だった。
クラスの中でも、常に教室の中心で大きな声で騒ぎ、自分たちが世界の中心であるかのように振る舞っている、いわゆる「イケてるグループ」の男子が三人。 彼らが、まるで獲物を見つけたハイエナのように、秋葉くんの席を取り囲んだのだ。
「なあ、秋葉ー。お前さあ、またそんなオタクみたいなの読んでんの?」
リーダー格の男が、嘲るような笑みを浮かべながら、秋葉くんの読んでいたライトノベルの表紙を、指先で軽蔑するように、ぱちん、と弾いた。 それは、軽い、乾いた音だったが、静かな教室の中では、不快なほど大きく響いた。
「マジ、キモいんですけどー。そんなんばっか読んでるから、お前、いつまでもそんなんなんだよ」
周りにいた二人が、同調して下品な笑い声を上げる。
秋葉くんは、びくり、と雷に打たれたように肩を震わせ、さらに深く、自分の殻に閉じこもるように背中を丸めた。 何も言わない。いや、何も言えないのだ。 彼の気持ちが、痛いほどわかる。 ここで何か反論しようものなら、彼らの嘲笑はさらに大きくなり、言葉の暴力はエスカレートするだけだ。
それを彼は、これまでの経験から痛いほど知っている。 だから、沈黙するしかない。 ここでは、沈黙こそが、唯一の、そして最も無力な、鎧なのだ。
「つーかさ、カバンのこれ、何? このピンク頭の女」
もう一人が、秋葉くんの鞄に手を伸ばし、彼が大切にしているお守りであるキーホルダーを、汚いものでもつまむかのように、二本の指でぷらぷらと揺らした。
「うわ、なにこれ。絵じゃん。こんなのに興奮してんの? ロリコンじゃん。やっべー、マジ引くわー」
下品で、空虚な笑い声が、熱気のこもった教室に響き渡る。 周囲の生徒たちのほとんどは、見て見ぬふりをしている。 弁当を食べる手を止めず、友達との会話を中断せず、あるいは窓の外を眺めて、この不快な出来事が自分の視界に入らないようにしている。
関わり合いになりたくない。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。 その気持ちも、痛いほど、わかる。私も、そうだ。 私は石。私は壁。 この教室で今、起きていることは、私とは無関係の、ただの現象に過ぎない。 そう、自分に強く言い聞かせる。
しかし、私の視線は、秋葉くんの、膝の上で固く固く握りしめられた拳に、釘付けになっていた。 血の気が失せて白くなった指の関節。小刻みに、わなわなと震える、その拳。
悔しいだろう。悲しいだろう。 自分の「好き」という純粋な気持ちを、大切にしている宝物を、こんなにも無価値で、唾棄すべきもののように扱われて。 その心の痛みは、かつて私が味わった、あの冷たい絶望と、よく似ていた。 自分の世界が、他人の無理解によって、いとも簡単に土足で踏み荒らされる感覚。
私に何かできるだろうか。 いや、何もできない。動けば、また失敗する。 良かれと思って取った行動が、意図しない形でさらに彼を傷つけることになるかもしれない。 そうだ。ここで私が動くのは、傲慢だ。 何もしないのが、彼にとっても、私にとっても、一番傷が浅く済む方法なのだ。正解なのだ。
そう、私が、必死に自分に言い聞かせ、再び弁当の甘い卵焼きに箸を伸ばそうとした、まさにその時だった。
「――お前ら、何してんの?」
その声は、茹だるように重く沈殿した教室の空気を、まるで鋭利な氷の刃のように、一瞬で切り裂いた。 それは、この熱気の中にあって、驚くほど涼やかで、澄んだ響きを持っていた。
朝陽輝くんだった。
彼は、食べかけの焼きそばパンの袋を片手に、いつの間にか、イケてるグループの背後に、音もなく立っていた。 その表情は、いつもと変わらない、屈託のないものだったが、その目だけは、笑っていなかった。
「あ? なんだよ朝陽。関係ねえだろ」
リーダー格の男が、面倒くさそうに、そして少しだけ警戒するように振り返る。 彼らのグループと輝くんのグループは、クラス内カーストの頂点を二分する存在だが、その性質は全く異なっていた。
「いやー、だってよ、秋葉の趣味がキモすぎて、つい、いじりたくなっちゃってさ」
男は、輝くんに弁解するように言った。
「ふーん」
輝くんは、リーダー格の男を、まるで道端の石ころでも見るかのように、一瞥しただけだった。 彼の視線は、その男の肩越しに、今もなお指先で弄ばれている、ピンク色の髪をした女の子のキーホルダーへと真っ直ぐに注がれていた。
私は、息を呑んだ。 ああ、やっぱり。 輝くんが、彼の持ち前の正義感から、彼らを咎めるのだ。 そして、また面倒なことになるのだ。そう思った。
しかし、彼の次の行動は、私のその浅はかな予測を、またしても鮮やかに、そして軽々と裏切った。
輝くんは、秋葉くんをいじめていた男たちを、完全に無視した。 彼は、まるでそこに誰も存在していないかのように、その横をすり抜けると、すっと秋葉くんの隣に立ち、そのキーホルダーを、心の底から興味があるというように、きらきらした目で覗き込んだ。
「へえ、そのアニメ、面白そうじゃん! 俺、見たことねえや。なんていうタイトルのやつ?」
しん、と教室が水を打ったように静まり返った。 いじめていた男たちも、いじめられていた秋葉くんも、そして、遠巻きにその光景を固唾を飲んで見守っていた私も、クラス中の誰もが、輝くんのその言葉の真意を、一瞬、理解することができなかった。
彼は、秋葉くんを「庇った」のではない。 彼は、いじめっ子たちを「非難した」のでもない。 彼は、ただ、純粋に、一切の先入観なく、そのキーホルダーに「興味を持った」のだ。 まるで、道端で見つけた珍しい形の石や、綺麗な色の花に心を奪われた子供のように。
「え……?」
この状況で、一番驚いていたのは、間違いなく秋葉くん本人だった。
「な、なんだよ、朝陽……。俺をからかうのは、やめろよ……」
か細い、疑心暗鬼に満ちた声だった。
「からかってねえよ。マジで。だってさ、その子、なんかすげーでかい武器持ってんじゃん。何それ、剣? もしかしてビームとか出るの?」
輝くんの目は、本気だった。 四月のあの日、図書室で、私の読んでいた難解な科学雑誌に向けられたのと同じ、一点の曇りもない、純度百パーセントの好奇心の塊のような瞳だった。
いじめていた男たちは、顔を見合わせている。 自分たちが 作り上げてきた「いじめ」という、加害者と被害者、そして傍観者から成る閉鎖的な空気が、輝くんという、あまりにも異質で予測不可能な存在のたった一言によって、完全に破壊されてしまったことに、ひどく戸惑っているようだった。 彼らの用意した脚本には、こんな役者は登場する予定はなかったのだ。
「……ちっ。なんか、しらけたな。行こうぜ」
リーダー格の男は、心底つまらなそうにそう吐き捨てると、仲間たちを引き連れて、ばつの悪そうな顔でその場を去っていった。 あれほど猛威を振るっていた局地的な嵐は、まるで何事もなかったかのように、あっけなく過ぎ去っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす秋葉くんと、彼のキーホルダーをキラキラした目で見つめ続ける輝くんと、そして、そのあまりにも奇妙で、非現実的な光景を、弁当を食べるのも忘れてただじっと見つめている、私だった。
「で、どうなの? 結局、このピンク髪の子、強いの?」
輝くんが、何もわかっていない顔で、秋葉くんに問いかける。
「……え、あ……うん。彼女は、星詠みの魔導騎士、リリアンヌ・フォン・シュバルツシルト……。この聖剣『アストラルゲイザー』は、天に輝く七つの星の力を束ねて、あらゆる因果を断ち切るっていう、伝説の武器で……」
秋葉くんは、おそるおそる、しかし、堰を切ったように、どこか嬉しそうに、驚くほどの早口で説明を始めた。 それは、私にとっては、完全に異星の言語のように聞こえた。 スターライト? パラディン? シュバルツシルト? 因果を断ち切る剣? まるで意味がわからない。単語の一つ一つが、私の理解の範疇を遥かに超えていた。
「へえ! 因果を断ち切る! ヤベえ、超カッケーじゃん! それってさ、俺が昨日、数学の小テストで赤点取ったっていう事実も無かったことにもできんの?」
輝くんの解釈は、あまりにも短絡的で、あまりにも彼らしかった。
「いや、そういう物理法則への直接的な干渉じゃなくて、もっと概念的な、こう、運命の赤い糸を組み替える的な……そういう……」
「なるほどな! 運命の糸! つまり、俺が今日、焼きそばパンじゃなくて、コロッケパンを買ってたかもしれない、もう一つの世界線に行ける、みたいな感じか!」
「うーん、解釈としては、まあ、遠からず……かな……」
秋葉くんの顔から、さっきまでの絶望と恐怖の色が、まるで嘘のように綺麗さっぱりと消えていた。 彼の瞳は、自分の愛する世界を、それを理解しようとしてくれる相手に語れる喜びに、生き生きと輝いている。
その顔は、私がこのクラスで一年以上過ごしてきて、一度も見たことのない、秋葉くんの、本当の顔なのかもしれない。
私は、その光景から、どうしても目が離せなかった。 面白い、と心の底から思った。 アニメの内容がじゃない。スターライトなんとかがじゃない。 今、私の目の前で起きている、この不思議な化学反応が、とてつもなく面白いのだ。
クラスで一番明るく、人気者で、太陽のような男の子と、クラスで一番暗く、いつも日陰にいて、気配を消している男の子が、私の全く知らない世界の専門用語で、心から楽しそうに話している。 その空間には、何の偏見も、見下すような気持ちも、哀れみや同情さえもない。 ただ、純粋で、混じりけのない「興味」だけが存在している。
「あ、そうだ!」
輝くんが、突然、何かを思い出したように、私の方を勢いよく振り返った。
「なあ、水無月! お前も聞いとけよ! このリリアンヌって子、マジでヤバいぞ! 聖剣から、因果を断ち切るビームが出るんだって!」
「いや、だから、ビームっていうよりは、概念的な奔流というか……」という秋葉くんの的確なツッコミが、背後から小さく聞こえる。
私は、不意に話を振られて、びくりと体を硬直させた。 どうしよう。なんと答えればいい? (すごいね)? いや、何がすごいのか、一ミリも理解できていない。 (面白そうだね)? 本心ではない。そんなお世辞を言えるほど器用ではない。 私の脳が、エラー音を立てながら、最適解を求めて猛烈な勢いで回転を始める。 沈黙はダメだ。でも、下手に答えても、この場の空気を壊してしまうかもしれない。
でも、私の脳が最終的な答えを導き出すよりも先に、私の口から、思わず、言葉がぽつりと漏れていた。
「……因果を、断ち切る……」
それは、問いかけでも、感想でもない。ただ、彼の言葉を、意味を噛みしめるように繰り返した、無意識の反芻だった。 しかし、輝くんは、それを聞いて、太陽のように、にぱっと笑った。
「だろ? ヤバいだろ? 昨日の俺の赤点っていう因果も、マジで断ち切ってほしいわー」
「だから、そういう個人的な都合じゃなくて、もっとこう、世界の理に関わるレベルの……」
秋葉くんが、心底困ったように、でも、本当に楽しそうに笑う。 その、あまりにも平和で、あまりにも意外な光景に、私の口元が、ほんの少しだけ、緩んだような気がした。
◇
その日の放課後。 私は、いつものように一人で、夕暮れの光が差し込む通学路を歩いていた。
でも、いつもと少しだけ、見える景色が違っていた。 むせ返るような熱気も、脳を揺らすけたたましいセミの声も、なぜか、あまり不快には感じなかった。 むしろ、生命力に満ちた、夏の証として、素直に受け入れることができた。
私の頭の中では、昼休みの、あの奇妙な三人の光景が、何度も何度もリプレイされていた。 太陽と、日陰の住人と、そして、ただの石ころだったはずの、私。
何の計画も、意図もなかった。誰もが、ただ、自分の役割を演じていただけだったのに。 ただ、一人の男の子の、真っ直ぐで、何のフィルターも通さない純粋な好奇心が、凍りついて澱んでいた教室の空気をかき混ぜて、誰も予想しなかった、新しい、小さな「流れ」のようなものを生み出した。
自己組織化。 かつて、暇つぶしに読んでいた科学雑誌で目にした言葉が、ふと頭の片隅に浮かんだ。 互いに無関係で、バラバラに動いていた要素が、ある特定の条件下で、互いに影響を及ぼし合うことで、誰も意図しなかった、より高次の、新しい秩序が自発的に生まれる現象。
(まさか、ね)
私は、小さくかぶりを振って、その大げさな考えを打ち消した。 でも、私が望んだ完全な静寂とは、全く違う方向へ、しかし、必ずしも悪い気はしない方向へと、私の高校二年生の夏が、勝手に、そして確かに動き出している。
その事実だけは、認めざるを得なかった。 見上げた空は、まだ明るい。 鬱陶しいだけだったはずのセミの声が、夏休みの訪れを告げる、祝祭の音楽のように聞こえていた。
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