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第一章 赤拷
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「グレティア! 大変だっ」
朝早く店の扉が開き、男が一人飛び込んできた。
宿屋『花追い亭』の食堂で開店の準備をしていたグレティア・ノーブルは突然の訪問者にぎょっと目を見開いた。
男はこの村で診療所を開いているトマスの息子、イーライ・モリソンだった。
彼はグレティアの二つ年上の二十三歳で、若いながらもトマスの助手として多くの患者を救ってきた実績がある。その上、長身に整った顔立ちということもあり村に暮らす年頃の少女たちの憧憬のまとであった。
店に飛び込んできたイーライは淡い金髪を乱し、寒の節が間近に迫った涼しい日だというのに、その額に汗のつぶをいくつも浮かばせていた。その姿はいつも落ち着いた態度を崩さない彼とは別人のようで、けれど同時に、彼がどれだけ急いでこの場にやってきたのかが窺えた。
「どうしたの?」
そう訊いたグレティアの声は震えていた。イーライの様子から尋常ではない事態が起きていると予想できたからだ。
「リゼオンさんが……。赤拷に咬まれたんだ……っ」
「――っ!」
イーライが膝に手をついて荒い呼吸とともにそう言った。
リゼオン――その名を聞いたグレティアは愕然とし手にしていた硝子杯を落としてしまった。硝子の割れる音が耳朶を打つ。
「う、そ……。兄さんが……」
思わず口元を両手で覆った。
赤拷とは強い毒を持つ害虫のことだ。
体は細長い扁平で、大きな顎を持つ頭部と多数の環節が連なる胴部から成っている。その長さは大人の肘から指先ほどもあり、環節ごとにある一対の脚を使ってぞろぞろと動く様はひどく気味が悪い。
赤拷に咬まれるとその箇所は大きく腫れ上がり、腫れが治まると今度は身体中に発疹が出てくる。そうして数日、発疹の痛みと熱にうなされたあと死に至るのだ。
赤く腫れ上がる患部と苦痛が拷問の様に続くことから『赤拷』と名付けられたと言われている。
「ほ、本当に赤拷だったのっ⁉」
踏み出したグレティアの足元で割れた破片が音を立てた。
本来、赤拷はこの地方に生息していない毒虫だ。しかし、近年――ここ五年ほど、年に一、二度の頻度で村の中から被害者が出ている。住民たちの間では、街道沿いに位置する村なため旅人の荷物に紛れ込んだ赤拷が人を襲っているのではないかと噂されていた。
イーライとその父であるトマスの早い処置により今のところ死者が出ていないことがせめてもの救いだ。
「そんな……」
物心つく前に両親を亡くしたグレティアにとって兄は唯一の肉親だ。
その兄が赤拷に襲われたなど信じたくない出来事だったし、自分の家族がごく希に出る毒虫の被害に遭うなど想像もしていなかった。呆然とするグレティアの目の前で、イーライが呼吸を整えるといつも通りの落ち着いた物腰で額の汗を拭いながら顔を上げた。
「リゼオンさんとは広場の井戸の前で会ったんだ。急にしゃがみ込んだからどうしたのかと思ったら足下から赤黒い虫が這い出してきた。あれは赤拷だったよ。咄嗟に近くにあった棒で叩き殺して、その死体を父に見せて確かめてもらったから間違いない」
「兄さんはどこに……?」
「僕の家に運んだ。とりあえず、今後の話もしたいから僕と一緒に来て欲しいんだけど――。大丈夫?」
イーライの声がひどく遠くから聞こえるような気がした。
もし、兄に万が一のことがあったら――。
くらり、と目眩がする。
グレティアの心が恐怖と不安でいっぱいになった。
思考が悪い方へと向かいそうになって両拳をきつく握りしめる。必死で堪えなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「今すぐが無理なようなら、またあとで迎えに来るけど……」
「大丈夫。行くわ」
イーライに頷いて見せたあと、グレティアは前掛けを外すと近くの椅子にかけた。
朝早く店の扉が開き、男が一人飛び込んできた。
宿屋『花追い亭』の食堂で開店の準備をしていたグレティア・ノーブルは突然の訪問者にぎょっと目を見開いた。
男はこの村で診療所を開いているトマスの息子、イーライ・モリソンだった。
彼はグレティアの二つ年上の二十三歳で、若いながらもトマスの助手として多くの患者を救ってきた実績がある。その上、長身に整った顔立ちということもあり村に暮らす年頃の少女たちの憧憬のまとであった。
店に飛び込んできたイーライは淡い金髪を乱し、寒の節が間近に迫った涼しい日だというのに、その額に汗のつぶをいくつも浮かばせていた。その姿はいつも落ち着いた態度を崩さない彼とは別人のようで、けれど同時に、彼がどれだけ急いでこの場にやってきたのかが窺えた。
「どうしたの?」
そう訊いたグレティアの声は震えていた。イーライの様子から尋常ではない事態が起きていると予想できたからだ。
「リゼオンさんが……。赤拷に咬まれたんだ……っ」
「――っ!」
イーライが膝に手をついて荒い呼吸とともにそう言った。
リゼオン――その名を聞いたグレティアは愕然とし手にしていた硝子杯を落としてしまった。硝子の割れる音が耳朶を打つ。
「う、そ……。兄さんが……」
思わず口元を両手で覆った。
赤拷とは強い毒を持つ害虫のことだ。
体は細長い扁平で、大きな顎を持つ頭部と多数の環節が連なる胴部から成っている。その長さは大人の肘から指先ほどもあり、環節ごとにある一対の脚を使ってぞろぞろと動く様はひどく気味が悪い。
赤拷に咬まれるとその箇所は大きく腫れ上がり、腫れが治まると今度は身体中に発疹が出てくる。そうして数日、発疹の痛みと熱にうなされたあと死に至るのだ。
赤く腫れ上がる患部と苦痛が拷問の様に続くことから『赤拷』と名付けられたと言われている。
「ほ、本当に赤拷だったのっ⁉」
踏み出したグレティアの足元で割れた破片が音を立てた。
本来、赤拷はこの地方に生息していない毒虫だ。しかし、近年――ここ五年ほど、年に一、二度の頻度で村の中から被害者が出ている。住民たちの間では、街道沿いに位置する村なため旅人の荷物に紛れ込んだ赤拷が人を襲っているのではないかと噂されていた。
イーライとその父であるトマスの早い処置により今のところ死者が出ていないことがせめてもの救いだ。
「そんな……」
物心つく前に両親を亡くしたグレティアにとって兄は唯一の肉親だ。
その兄が赤拷に襲われたなど信じたくない出来事だったし、自分の家族がごく希に出る毒虫の被害に遭うなど想像もしていなかった。呆然とするグレティアの目の前で、イーライが呼吸を整えるといつも通りの落ち着いた物腰で額の汗を拭いながら顔を上げた。
「リゼオンさんとは広場の井戸の前で会ったんだ。急にしゃがみ込んだからどうしたのかと思ったら足下から赤黒い虫が這い出してきた。あれは赤拷だったよ。咄嗟に近くにあった棒で叩き殺して、その死体を父に見せて確かめてもらったから間違いない」
「兄さんはどこに……?」
「僕の家に運んだ。とりあえず、今後の話もしたいから僕と一緒に来て欲しいんだけど――。大丈夫?」
イーライの声がひどく遠くから聞こえるような気がした。
もし、兄に万が一のことがあったら――。
くらり、と目眩がする。
グレティアの心が恐怖と不安でいっぱいになった。
思考が悪い方へと向かいそうになって両拳をきつく握りしめる。必死で堪えなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「今すぐが無理なようなら、またあとで迎えに来るけど……」
「大丈夫。行くわ」
イーライに頷いて見せたあと、グレティアは前掛けを外すと近くの椅子にかけた。
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