蕾の花

椿木るり

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第三章 秋の花

クレオメ

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 夏休みが終わり、秋がやってきた。むしむしとした暑苦しい空気の中に時折涼やかな風が吹き、空は気は遠くなるほど高く澄んでいる。受験組は受験勉強に一層身が入り、就職組は採用試験が始まる時期だ。夏休みが明けてすぐに行われる三者面談でそれぞれの進路希望が確定する。とはいえもうほとんどの人が進路を決めているし、専門学校組はもう合格している人もいるので形ばかりの三者面談だ。それゆえに生徒たちからしたら面倒で仕方がない。なぜ今更面談をする必要があるのか。お知らせのプリントを渡された時、クラスの全員がそう思った。

「三者面談だるい……」

 昼休み、希美のぞみは珍しく組んだ腕を机の上に乗せて頭を預けている。通路側に座る希美の顔や肩に無造作に散らばるミディアムヘア。その黒い髪にまだ夏の気配が残る秋の日差しが降り注いで、艶やかな光彩が浮かび上がっている。また両親と進路やお金の話をするのが嫌なのだろう。もう来月に採用試験を控えているのにまだ進学に考え直さないかと言われているらしい。先ほどから深いため息を何度もついている。

「いまさら気が変わったって遅いのにね」

 希美は自嘲気味に吐き捨てた。その様子を見ていた流奈るなは少し驚いていた。こんなに機嫌が悪い希美を見たのは初めてな気がする。なにか三者面談以外に嫌なことがあったのだろうか。なにかあったの、その言葉が喉元まで出かかって慌てて飲み込んだ。友達だからって何もかも話せるわけではないことは流奈だってよく知っている。

「でもほんと、なんでこんな時期に面談するのかね。だいたいみんな決まってるってのに」

 はぁ~と満里奈まりなまで盛大にため息をつく。もしも両親の気が変わってしまったら困るからだろうか。明日香あすかもあまり気乗りはしていなさそうだ。明日香の場合は多忙な母の手を煩わせてしまうのが申し訳ないからだろう。みんな大変そうだな。流奈はそんな他人事な感想が頭に浮かんだ。進路がすでに確定している生徒は面談をしないという選択もできる。学校側の認識では流奈はすでに就職がすでに決まっていることになっている。そのため今回の面談はなしになった。就職が決まっている。この言葉がどんどん心に食い込んで、あと少しで突き破ってしまいそうになる。いっそのこと心を突き破って、ぐちゃぐちゃにしてしまった方が楽になれるのではとさえ思ってしまう。


 *


「あの、先生。何とかこの子に絵をやらせてあげられないでしょうか」

 松坂希美とその母、真由美まゆみは担任教師と三人で面談をしている最中だ。教師に対して懇願するような顔で言う母を横目に見ながら希美は小さくため息をついた。この三年で何百回聞いたかわからない話に嫌気がさす。何回も進学はしないって言ってきたのにもうやめてよ。母親に対する文句が渦巻いて心臓のあたりがざわざわした。

「お母様のお気持ちはわかりますが、もうこの時期ですし。今から進学に変えても準備の時間が足りないのではないかと」

 そうだ。いいぞ先生。もっと言ってくれ。希美は心の中でエールを送る。希美自身から言っても納得しないのなら教師から言ってもらうしかない。真由美は涙声でそんな、とつぶやく。ああ、これは帰り道に謝罪の嵐が降ってくるなと、また小さくため息をついた。


 秋の夕暮れを母と二人で歩く。昼間はまだ暑いけれども夕方には心地よい風が吹いて気持ちいい。トンボが黒いシルエットになって赤い景色の中を飛び回る。希美はこのきれいな景色を大きなキャンパスに書き写したい気持ちになる。

「ごめんね、希美ちゃん」

 希美の少し後ろを歩いていた真由美がポツリとつぶやく。またいつもみたいに謝られた。この言葉の後は、ふがいない親でごめんね、だ。そう思ったが今日はいつもとは違う言葉が続いた。

「こんな親の所に連れてきてしまってごめんなさい」

 震えるその言葉が耳の届いたのと同時にかっと頭に熱い血が上る。ここ数日両親から感じ取っていたその雰囲気を真由美はついに言葉にしてしまった。くるりと振り返って母の瞳を見据える。なんであんたが泣くんだよ。気が付いたら言葉があふれて止まらなくなっていた。

「なんでそんなこと言うの!? 後悔してたら自分から施設に戻ってるよ!! そうしないでこの3年間バイトしてがんばってきたんでしょ!? 家族のことが好きだから!一緒にいたいから!! 私のこと何も見てなかったの!?」

 希美の金切り声が真っ赤な空に吸い込まれていく。希美の前に真由美が膝をついて泣き崩れた。その姿が神の前に懺悔をする罪人のように見えて、希美の頬からも涙が流れ落ちた。



 *



 久保明日香は希美から突然電話が来て、夏休みに4人で遊んだ公園に呼び出されていた。制服姿の希美がベンチにうなだれて座っているのを見つける。

「希美、おまたせ」

 顔を上げた希美の、赤く充血した瞳と目が合った。前にも希美のこんな顔を見たことがある。それがもう四年以上も前のことだと気が付くと自分はもうおばさんなのだろうかと不安になった。穏やかに微笑み返して希美の隣に座る。

「面談で何か言われた?」

 優しく聞くと希美はまたあふれそうになる涙を我慢しているのか、唇をかみしめた。

「うちに連れてきちゃってごめんね、だってさ」

 そういうことか、と妙に納得した。間違いなくその話は一番希美がされたない話だっただろう。今までの希美の努力を根本から否定してしまうようなものなのだから。気の利いた返答ができずに二人の間に沈黙が流れる。その沈黙に気まずさがないのは出会ってから五年という長い時間のおかげかもしれない。カセットテープの再生ボタンが押されたように希美と仲良くなった時のことが鮮明に明日香の脳内で再生流れ始めた。

 明日香と希美は中学一年生の時に同じクラスになって、同じグループにいた。小学校から仲がいい子が誰とでも仲良くなれるような子で、はぶかれるのがいやでその子の後ろにくっついていたらなんとなく友達になった。それくらいの浅い関係。絵がうまい子という認識くらいしかなかった。中学二年のクラス替えでは仲良しグループは離れ離れになり、同じクラスになったのは希美だけだった。お互い知っている子と一緒にいたくてよく話すようなった。女子中学生特有の、妙にヒステリックで不安定なところがないのもお互いが気に入った理由だったのかもしれない。それから少しして、希美が今みたいにこの公園のベンチで泣いているのを見つけた。

「どしたの」

 近づいて声をかける。希美の赤く充血した瞳とこちらを見上げている。
 
「私、部活やめるんだ。お父さんの会社が倒産して家がいろいろ大変になっちゃってさ」
「そうなんだ」

 純粋にそうなんだ、としか思わなかった。この時に自分は結構冷たい人間だったんだなと自覚した。希美のすすり泣きの声が隣から聞こえてくる。自分から何かを聞く気はなかった。なんとなく一緒にいるくらいの関係なのだから。


「なんか昔のこと思い出した」
「中学の時の話? 懐かしいね」

 希美は少しだけ黙って意を決したように口を動かした。

「私さ、昔ここで話した時から明日香のこと好きだったんだよ」
「ごめん。たぶん、知ってた」

 明日香は少し下を向いて微かに笑って答えた。あの頃から時折感じていた熱い視線。その正体に気が付いたのは流奈に恋をしてからのはず何に昔から知っていたような気がした。

「なにそれ。ひどい女だね」

 希美も明日香の目をしっかりと見て笑う。瞳の赤みはだいぶ引いていた。

「ねぇ、一回だけキスしてよ。私のこと流奈だと思っていいからさ」
「なにそれ、ひどい女」

 明日香は先ほどの希美のセリフを真似して苦笑する。泣き腫らして乾燥しているように見えた希美の唇は思ったより潤っていて、柔らかかった。

「流奈には言っちゃだめだよ」
「わかってるよ」

 希美の言葉が今の秘密のことではないことはわかっていた。少女は時として、友情と恋情を間違える。あの小説の一説が頭をよぎった。
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