蕾の花

椿木るり

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第三章 秋の花

カタバミ

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 鳴り響くチャイムを合図にホームルームが終わる。辰野満里奈たつのまりなは机の中の筆記用具や教科書を白のスポーツバッグにぽんっと移していく。今日はバッグの中にジャージやタオルは入っていない。中身の少ないバッグの中はきれいに教科書を入れようとしてもぐにゃりと弓のようにしなってしまう。曲がらないようにと何度か入れ直してみてもまたぐにゃりとなる。中学のときからスポーツバッグに教科書を入れているがこんな時はどう入れるのが正解なのかいまだにわからない。あきらめて教科書がしなったままファスナーを閉めた。ジジッとファスナーが閉まりきったとき、夏服のスカートが震えた。ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出す。画面を確認すると母からの連絡が来ていた。

『もうすぐ着くわよ』

 わかった、と返信をして、ついでに部活の後輩たちから来ていた連絡にも返信をした。今日は部活を休むということを事前に連絡していたのだ。たんったんっとスマートフォンに文字を打ち込んでいると明日香が自分のカバンを持って満里奈の席までやって来た。

「満里奈も今日三者面談だっけ」

 明日香あすかが細くくびれた腰を曲げて、持っていたスクールバッグを床に置く。前の席に横向きに腰を下ろすと体をひねって満里奈の机に肩ひじをついた。

「うん。今日は終わったらまっすぐ帰って勉強でもしようかなって。明日香も面談?」
「そうだよ。一番遅い時間だから、図書室で勉強して待ってるつもり」

 最後の時間ということは面談が始まるのは17時半あたり。一般受験の明日香は夏休みが終わったあたりから本腰を入れて勉強をしている。長い時間待つからと一旦家に帰るくらいなら図書室で勉強しようとなるのも頷ける。

「二人とも面談かあ。私は昨日終わっちゃたから気が楽になったよ。がんばってねぇ」

 希美のぞみ流奈るなもそれぞれ自分の荷物を持って満里奈の席に集まってきた。流奈が近くの席から椅子だけ持ってきて明日香の隣に座る。希美は満里奈の背中側からのしっと乗って頭の上に顎を乗せた。両腕を肩の上から出して、満里奈の体ごとゆらゆらと揺れながら言う。

 希美は昨日、家に帰ると母親に思いきり視線をそらされた。仲直りはまた今度にしようとしたほうがよさそうだと部屋にこもることにした。腫れた瞼に保冷剤を当てながら、妹の奏美かなみと2段ベッドの上下で話しているといつの間にか眠りに落ちた。学校に向かっているときは明日香と気まずくなってしまわないかと心配だった。けれど明日香は今までと変わらずに接してくれてほっとしている。長い片思いは終わりを告げたものの、これでよかったのだと思う。

「ママがそろそろ来るみたいだから玄関まで迎えに行ってくるね」
「うん、ならわたしたちも早いとこ教室出ないとだね」
「私もバイト行くわ。流奈は?」
「うーん、暇だし、明日香と一緒に図書室に行こうかな」

 流奈のその言葉を聞いて明日香と希美の視線が自然と合う。やったじゃん。うるさい。そんなやり取りがあったような視線だった。満里奈は三人に別れを告げて教室を出た。

 階段の踏み面に足を下ろすたびにスカートが膝を撫でていく。ふと、踊り場の窓から風が流れ込んでいることに気がついた。なんとなく立ち止まると涼しげな風が満里奈のポニーテールがさらさらと揺らした。秋の懐かしいような匂いは子供時代を思い起こさせる。兄と一緒に太陽がオレンジ色になるまで遊んだあの公園。泥だらけになって、おなかがすいたね、なんて言っていると母が迎えに来てくれた。迎えに来た母の顔を思い出そうとしたときはっとする。ママを迎えに行くんだった。満里奈が今度はさっきより速いペースでぱたぱたと階段を降りていく。玄関についたちょうどその時、母、美智子みちこが来客用のスリッパに履き替えていた。

 学校で親に会うと妙に緊張してしまう。毎日のように見ているこの玄関もいつもと違う景色に見えてしまう。

「迷わなかった?」

 なんと声をかければよいのかわからなくなって、そんなありきたりな質問をしてしまう。

「迷わないわよ。お兄ちゃんの時から何回も来てるんだから」

 美智子はふぅ、とため息をついた。おかしな子ね、とでも言うような顔に満里奈は体が軽くなったような気がした。


 *


「では第一志望は体育大学のスポーツ推薦で、ということでよろしいですね?」

 じっと進路希望表を見ていた担任の先生が視線を上げて向かい側に座る満里奈とその隣に座る美智子を交互に見る。

「はい、大丈夫です」

 満里奈が凛とした声で答える。その声には石のような固い芯が通っていた。

「そして万が一駄目だった場合は、こちらの私立大のスポーツ学科に一般受験ということで」
「はい」

 確固たる意志を持って答える満里奈の言葉を美智子は黙って聞いている。母親としては、できれば普通の大学に進学して、就職して欲しかった。そこで出会った男性と結婚して家庭を築く。古い考えなのかもしれないが、これが美智子にとっての女の幸せだった。決勝戦で敗退したその日の夜。満里奈は家族全員を集めて、やっぱり陸上をあきらめることはできないと語った。約束が違うと揉めた末に、わたしの幸せを決めつけないでくれ、と満里奈は泣きながら自室に戻った。その娘の背中がどうしても脳裏に焼き付いて離れなかった。

 娘の幸せを考えていったはずなのに、そう頭を抱えていると満里奈の兄で息子の俊介しゅんすけが認めてやって欲しいと言い出した。俊介が何を思ってそう言いだしたか美智子にはわからない。けれども俊介のおかげで満里奈の背中を押すと決めることができた。今ではもう娘の望みが叶うようにと願うばかりだ。


 *


 満里奈はお気に入りの赤い自転車を押しながら、少しだけ先を歩く母を見つめていた。昔はとても大きく感じたのに、いつの間にか小さくなったその背中。秋の、夕暮れの手前の柔らかな日差しの中を歩いている、その背中。突然、胸が締め付けられるような恋しさが込み上げてきた。今すぐその背中に抱き着きたい。なんで自転車で来ちゃったんだろう。自転車を止めて抱き着けばいいのかもしれない。でもそこまでするのはなんだか気恥ずかしくて、カラカラと車輪が回る音だけが秋の風の中に溶けていく。

「今日のご飯何がいい?」

 美智子が口を動かしながら顔だけこちらを振り返る。

「カレーがいいな」
「また?カレーばっかり食べてたら太るわよ」
「大丈夫、走ってるから」

 満里奈は泣きたいような気持になって、それを何とか抑えながらいたずらっ子っぽい笑みを浮かべた。

「ねぇ、ママ。ありがとう」

 突然お礼を言ったら変な子だと思われるかもしれない。それでもどうしても伝えたくて精一杯の思いを込めた。こんなにも母に深い愛情を抱いたのは初めてだった。

「何よ、お礼ならお兄ちゃんに言いなさい」

 美智子の顔は公園に迎えに来てくれた時と同じ、優しい笑顔だった。小走りに自転車を押して、母の隣に並ぶ。

「カレーの材料買ってから帰るわよ」

 太陽の縁がオレンジ色に染まり始める。たまには歩くのもいいと思った。
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