蕾の花

椿木るり

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第三章 秋の花

サザンカ

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「これで大丈夫かな」

 希美のぞみにアドバイスを受けながらなんとか終わらせた美術の課題。それを見ながら黒崎流奈くろさきるなは不安そうに首を傾げる。授業中より幾分かはましになった絵の中の希美が「まあ、いいんじゃない」と言っているような気がした。

「また何か言われるかもしれないから、私も職員室までついていくよ」
「ありがとう」

 希美を連れ立って職員室へ向かう。上に置かれたものの量が圧倒的に多い机がひとつある。そこが例の偏屈女美術教師の机だ。

 一緒についてきた希美は流奈の後ろにそっと控えたまま、その席の方へ行く。

「先生、できました」

 美術教師が渡された絵を見て、また何か言いたげな視線を投げつけてきた。けれど職員室は他の教師もいるのであまり変なことはしたくなかったのだろう。これでよいということで補習は終わりになった。
 去り際、流奈は教師の机の上積まれているものが、どれも高価そうな、美術資料であるこのに気が付いた。
 美術準備室にもたくさんの資料があるのに、全部自分で揃えたのだろうか。きっとこの人は美術が好きで好きで、仕方がないんだろう。だから適当に描いているように見えた絵が嫌だったんだ。
 流奈はそんなふうに思って、授業のときほどこの教師が嫌いではなくなった。





 帰宅して黒のジャージに着替えると、むき出しの肌をひやりした空気が撫でた。昼間の時間は日増しに短くなり、まだ一七時だというのに空には夜のカーテンがかかり始めている。帰宅して、着替えて、以前にベッドの下で見つけた進学情報誌を眺めてから夕飯の支度を始める。それがここ最近の流奈の日課だった。いつも開くページは同じ。もう書いている文章はもちろん、そこが何ページ目なのかすらも、覚えてしまった。 

 髪を後ろで一つに束ねて、いつものように米を炊く準備から始めた。米を入れた釜に水を流し入れてシャカシャカと洗う。米を研ぐ水は冷たい。炊飯ボタンを押すときには流奈の手は氷のように冷たくなってしまっていた。

 今夜は肉じゃがにしよう。冷蔵庫から豚肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。食材を取り出して、調理を始める。リズミカルな包丁の音が肉じゃがのいい匂いに変わって、二LDKのマンションの一室を満たしていく。幸せそうな家庭に漂っているような、食欲を刺激する匂い。流奈にとっては刻一刻と近づく地獄へ誘う匂いだ。
 手際よく手を動かしながらも、流奈の頭の中にはぐるぐると希美の言葉が回っていた。

 来年の春も、その先の夏もみんなと一緒にいたいのなら、わたしは動き出さないといけない。お父さんは、なんて思うのかな。怒っているなんて言葉では表せないくらい、怒るんだろうな。

 十八時半。ちょうど米が炊けて、ジャガイモが柔らかくなった時、英司えいじが帰ってきた。

「おかえりなさい、お父さん」

 いつものように三つ指をついて出迎える。そういえばこの習慣はいつから始まったのだったか。お母さんがいた時はやっていなかったはずだから、二人で暮らすようになってからか。もう三年続けている習慣。きっとクラスメイトの誰の家庭でもないであろう習慣。
 どうしてわたしだけこんなことを毎日しているの? この人は、わたしのお父さんのはずなのに。
 流奈はこの異常な習慣に初めて疑問を持った。

 夕食後、英司はソファで煙草を吸いながらテレビを見ていた。お笑い芸人が裸で踊り狂っている映像だ。ソファとテレビの間に置かれたローテーブル。その上にある透明なガラスの灰皿に吸い殻を押し付けながら、けらけらと笑い声をあげている。お笑いなんてめったに見ないのに、職場でなにかいいことでもあったのだろうか。とても機嫌がいい。

 洗い終わった食器を一枚一枚丁寧に拭いて食器棚に片付けながら、その様子を見ていた流奈は若干の不気味悪ささえ感じた。

 お父さんがこんなに機嫌がいいのはいつぶりだろう。

 片づけをすべて終えて英司の座るソファのほうへ行く。ソファが置かれたカーペットの上に膝をついて英司を見上げる体勢になった。芸人が裸で、局部を手で隠したまま退場する。そのままクレジットが流れ、番組が終わった。ちょうどそのタイミングで流奈は口を開いた。

「お父さん、話があるんですけど」

 機嫌が悪い日ならこの時点で殴られているだろう。しかし今日は上機嫌なのだ。英司はめんどくさそうな視線を送ってきたが、無言で流奈の話の続きを促す。

「わたし、進学したいです」

 英司がすっとソファから立ち上がる。先ほどまで裸芸を見て笑っていた人物とはまるで別人のような顔つきだ。

「学費は自分で払います。家にお金も入れます。だからお願いします」

 頭を下げながら、早口でまくし立てる流奈の声は震えている。恐怖とほんの僅かな期待によって。
 英司が流奈の長い髪を鷲掴みにして、無理やり上を向かせる。髪の毛一本一本が無理に引っ張る力に悲鳴を上げた。ぶちぶちと何本かの毛が抜ける音が、直接脳に響く。

「お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ。本当にお前は馬鹿で愚図で覚えが悪いな」

 そのセリフが耳に届いた直後、空気を切り裂く音と共に流奈の視界が白く弾けた。
  
 頭が、捥げてしまったのではないかと思うほどの勢いで吹き飛ぶ。顔を拳で殴られた。普段英司は痣が付かないように顔は平手でしか叩かない。自分が虐待をしているなんて世間に知られるのはまっぴらごめんだからだ。それでも今は痣ができるかもしれない、なんてことは忘れてしまっているのだろう。手塩にかけて抵抗などできないように育てた人形が、自分の意思をもって反抗してきたのだから。

 流奈は殴られた頬を抑えながら、立ち上がった。震える細い足で自分の部屋に駆け込む。

「お父さん見て! わたし友達に勉強教えるのがうまいって褒めてもらったの。先生になれるよって。先生ってきらいだったけど、友達にそう言われてからそんなにきらいじゃなくなった。わたしは、友達が認めてくれた、わたしのすごいところをもっと上手にできるようになって、まだ友達と一緒にいたいの!」

 流奈の声が最低限のものしかない部屋に響き渡る。こんなに大きな声を出したのは人生で初めてかもしれない。それくらいの声で流奈は叫んでいた。

 擦り切れそうなほどみた進学情報誌の、教育大学のページを英司に押し付ける。鬼の形相で雑誌を奪い取った英司は、無情に破り捨てる。ビリっと空気を切り裂く音とともにページが紙くずとなって流奈の足元に落ちた。

 絶望、諦め。流奈の少し幼い、大きな瞳の顔が黒い感情に染まる。しかしそれは今まで抱いていた感情とはたしかに違うものだった。

「おまえは俺の言うことを聞いて生きていればいいんだ! 逆らうな!」

 英司は再び流奈の髪の毛をつかんでリビングに投げ飛ばす。ぶちぶちと、今度は先ほどより多めに鳴った。

 ソファとテーブルの間あたりに投げ飛ばされる。体がテーブルの足にぶつかり、灰皿が音を立てて落ちた。灰が流奈の腕にかかる。
 英司は細い体に馬乗りになり、顔をまた、殴る。一発、二発、三発目を英司が振りかぶったとき、流奈が英司の体を、持てる全ての力で思いきり押しのけた。バランスの悪い体勢をとっていた英司のがっしりとした体が、流奈の体から一瞬離れる。

「もうやめて!わたしは!わたしは、あんたのおもちゃじゃない!!」

 転がっていた灰皿が流奈の白い手に握られている。燃えカスを受け止めるためのガラスが重く鈍い音を出して血に染まった。
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