蕾の花

椿木るり

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第三章 秋の花

シオン

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 つけっぱなしのテレビの中で、殺人事件のニュースを読み上げる、誠実そうな男性アナウンサーの声。それと荒い呼吸音。この二つが、サスペンス映画のクライマックスシーンのような、張り詰めた弦のような空気を作り出している。そんな異様な空間で、黒崎流奈くろさきるなは血に濡れた灰皿を握りしめていた。灰皿を持つ手は、いや、手だけではなく、全身が震えていた。心臓は倍に膨れ上がってしまったのかと思うほどドクドクと大きく鳴る。それなのに、一切の血が抜かれたかのように、肌が青白く、冷えていく。

 大きな瞳の顔は目も当てられないほど青あざができて、ところどころ出血している。これだけの傷なら当然口の中も切れ、鉄臭い血の味が広がっているだろう。しかし、当の本人は目の前に広がる光景に意識を持っていかれ、痛みも味も匂いも、なにもかも忘れてしまっていた。

 目の前に広がる光景、それは赤く染まる世界。手に握られた灰皿の角についた血。黒いジャージに飛び跳ねたいくつかの血。そして、英司えいじの額から滝のように流れる鮮血。文字通り、流奈の視界は赤に染まっていた。

 殺人事件の概要を読み上げたアナウンサーは次に、子供が虐待死したニュースを伝え始める。

 だらだらと額から血を流す英司は、流奈を殴っていたその手で、流れる血を押さえつけている。先ほどまでは殺しかねない勢いだった腕も今は僅かに震えていた。関節が張った太い指の隙間から覗く傷口は、血で分かりづらいが、ぱっくりと割れている。よくよく見たら骨まで見えてしまいそうなほどだ。長年、現場仕事で鍛え上げた強靭な体。しかし、どんなに頑丈な体でも皮膚を鍛えることはできない。

 英司はふらついて、膝立ちだった体を後ろに倒してしまった。ドスンと尻もちをつく音が、アナウンサーの息継ぎのタイミングとぴったり重なった。出血多量のため、目の前が白くちかちかと点滅し、焦点が定まっていない。

 テーブルとソファの隙間で英司と向かい合うような体勢だった流奈は、立ち上がる。
 
 初めてみる大量の血と、初めて見下ろす父親の姿。普段自分を殴り、おもちゃのように扱う父親がこんなにも弱った姿をしている。そうさせたのが自分自身であるということに流奈は恐怖を覚えると同時に、ほんの少しの、新芽の先ほどの復讐心が芽生えた。

 もう一回、あと一回、それくらい、許されるんじゃないの……?

 流奈はゆっくりとガラス製の灰皿を、頭の上まで大きく振りかぶる。傷だらけの顔に埋め込まれた黒いガラス玉のような瞳。その瞳の上を覆うぱっちりとした二重瞼が見開かれた。脳髄には、骨が震える音が直接響いている。

 ヒュッ、と空気を吸い込むのと同時に、腕が、動く。

 ちがう、だめ。一緒にいられなくなってしまう。

 一瞬振り下ろしかけた腕がぴたりと止まる。その瞬間、額を抑えて白くなる視界と戦っていた英司と目が合った。

「おい、流奈! こっちに来い! ぶっ殺してやる!」

 低く腹の底に響くような声で叫ぶ英司。この声は間違いなく、流奈が今まで聞いてきた英司の怒鳴り声の中で一番、殺意がこもっていた。捕まれば間違いなく殺される。流奈は本能でそう直感した。

「ひっ……!」

 恐怖に震えてぎゅっと目をつぶる。そのまま灰皿を持った腕を振り下ろした。瞼の裏まで赤い。何も見えないままで投げつけた灰皿は、英司の顔の横を通り過ぎ、床に激突して粉々に砕け散った。灰皿を投げた勢いで玄関に駆け出した流奈はそのことに気が付いていない。

 砕け散った灰皿を呆然と見つめる英司は、再び視界がぐらつき、ガラス片の海に倒れこんでしまった。

 飛び出した世界は夜の闇に染まっている。街灯の明かりと家から漏れる僅かな明かりが、行く先のわからない道を照らしていた。

 流奈は何かに追いかけられるように暗闇を必死に走る。追いかけているのは英司なのか、警察なのか、それは流奈にもわからない。遠くから聞こえるサイレンの音が、心臓の奥をかきむしる。

 あのパトカーが探しているのはわたしだろうか。お父さんが追いかけてくるかもしれない。死んじゃったらどうしよう。もし死んじゃったらわたしは殺人犯? わたしはこれから、どこに行けばいい? どうしよう。どしよう。どこまで、いつまで走ればいいの? わたしは今までどこにいたの? これからどこに行けばいいの?

 サイレンの音から遠ざかるために、足元のローファーがパタパタと音を立てる。慌てて靴を履いたからローファーを履いてきてしまった。この靴は以前、靴底が剥がれかけた。新しい靴を買う余裕などあるはずもなく、底は接着剤でくっつけたが、また剥がれかけてしまっていた。気が付いた時にすぐ直しておけばよかったと、心底後悔する。それでも走った。走って、走って息が苦しい。

 どれくらいの時間走っただろうか。五分もたっていないような気もするし、一時間以上たっているような気もする。家からどれくらい離れて、いまどこを走っているのかも、よくわからない。毎日通っているような道の気もするし、初めて通る道のような気もした。心臓が破裂してしまいそう。

 ガクンっと足が後ろに引かれる。膝がアスファルトにこすりつけられて、ジャージに穴が空いた。その穴の奥には血がにじんでいる。反射的に出した手も擦り切れてじんじんと痛む。忘れていたはずの痛みが一度に襲ってきた。

 転んだはずみで靴底は完全にはがれ、走ることはもちろん、歩くこともできない。

 一度止まってしまった足は動かない。再び流奈の体は小刻みに震え始めた。夜の闇を包むひやりとした空気が傷口に染みる。

 きっとお父さんは追いかけてくる。そうしたらわたしはきっと死んじゃうんだ。

 諦めのような気持が心を支配して、投げやりな気持ちになってしまった。うつぶせに倒れたまま顔だけ横を向いて、側頭部をアスファルトのうえに乗せる。するとその視線の先に四人で遊んだあの公園があった。脳裏に友達の笑顔と、言葉が走馬灯のように蘇る。         

 それは写真フィルムのように決して鮮やかではないけれど、それすらも愛しい瞬間ばかりだった。


『見たい景色があるなら走らなきゃ』
「みんなと、来年の春に桜が見たかったな。今年はまだ友達じゃなかったから」

 目頭の奥の奥が熱くなる。

『転んで起き上がれないなら、私たちが起こしてあげるよ』
「せっかく起こしてもらったのに、もう転んじゃったよ」

 遠い昔に置いてきたような感情が胸を支配する。

「みんなに会いたい、会いたいよ……! どこに行けばいいの? これからわたし、どうしたらいいの……」

『また、遊びにおいでよ』


 いつか聞いた優しい言葉が、聞こえてきた。流奈は傷だらけの手のひらで体を、自分の力で起き上がらせる。暖かい水に浸ったガラス玉が強い意志を映し出す。靴はもういらない。履き続けてくたびれたローファーは役目を終えたかのように、走り出す流奈の背中を見送った。


 震える指が二回だけ訪れた家の、チャイムを押す。呼吸は荒く、肩が上下するのを止めることができない。ゆっくりと扉が開く。見慣れた顔が流奈の瞳に映し出された。オレンジ色の光の中にある、大切な友達の顔。

「明日香……! 助けて!」
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