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スピンオフ「デュインズ」
覚悟の目2
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「可愛らしい攻撃だった」
ヒルデグントの背後から、まるで冷気のような気配がする。耳元で囁くように女が呟けば、びくりと肩を震わせた。
ヒルデグントは即座に距離を取り、相手を確認する。いや、確認するまでもないのだが、先程までの戦闘があったため信じきれていなかった。
そこにいたのは、傷一つどころか埃一つついていないアリス・ヴェル・トレラントだった。
飛び退いたヒルデグントに対して、気さくに手を振って笑顔を見せているが、ヒルデグントには恐怖でしか無い。
しかも隣には、見たことの無い女が立っている。魔王と名乗る女は連れと一緒に城に来たと聞いていたが、この女なのか――とヒルデグントは思う。
緩く巻いた茶髪に、茶色の瞳。この辺りにはいない彫りの浅い顔。よく見ればその異変に気付けただろうが、ヒルデグントにそんな余裕などなかった。
「ひっ!? お、お願いです、ころさないで……!」
さて、ヒルデグントの判断は早かった。
即座に床に伏して、頭を低くし、地面へとこすりつける。場内はあまり綺麗とも言えず、ゴミや様々なものが散乱している。
だがそんなことを気にせず、彼女は平伏した。所謂命乞いであり、土下座である。
「そう怯えるな、少し話をしようじゃないか。スタジアムのことなら、私の作ったスライムが盛り上げてくれている」
「な、なに……?」
「単刀直入に言おう。君は転生者だな」
「……え? ど、どうして……」
「私は何人も、君のような転生者を葬ってきた」
「……ッ!」
アリスの放った言葉に、ヒルデグントは息を呑んだ。
この一瞬でアリスがやったことを見れば、その言葉の重みがはっきりとわかる。転移、傷の修復、代理の召喚。魔術の知識が少ないヒルデグントでさえ、これだけやってのけるのは只者ではないと理解できる。
だからこそ、アリスは間違いなく転生者を殺してきたのだろう。そしてその次は、自分であると。
ヒルデグントの中では、様々な感情がうずまき始めた。
観客に嘲笑われながら、呆れながら死ぬよりかは、誰も知らないこの場所でひっそりと消えたい。
でも死にたくない。二度も死を経験するだなんて、まっぴらごめんだ。
どうにかして取り繕いたいのに、言葉は上手く出てこない。
「君がどのような〝前世〟だったのかは知らないが、この人生では相当苦労していたことだろう。同じく上に立つものとして、そこには敬意を示そう」
「たっ、たすけてください、死にたくないです……!」
「ふむ」
アリスの推測では、ヒルデグントが勇者ではない可能性が浮上する。ただの転生であり、下手をすれば〝別のジャンル〟の可能性だってある。
弱い姫様がのうのうと生きていられたのであれば、家族に溺愛でもされていたのだろう――とアリスは思う。
それにここは、フルスの管理下ではなかった。前任の神がどういう運営をしていたのかは知らないが、それが上手くなかったのは事実だろう。
だからこそ、優秀なフルスが引き継いだのかもしれない。
ロマンスファンタジーとしての世界観を構築したかったのであれば、あまりにもハードモードすぎるのだ。
しかしフルスは転生者について触れていなかった。となれば彼はこの世界にいる人間の管理は、全てアリスに一任しているようなもの。生かすも殺すも好きにしていいということだ。
(ま、簡単に配下にできるし、ラッキー)
「おっ、お願いします、お願いしましゅ……!」
ヒルデグントは、顔を涙と鼻水と冷や汗でぐちゃぐちゃに汚して、綺麗な顔を台無しにしている。それだけではなく、そんな顔を汚い地面に擦り付けて懇願する。
アリスが急に黙ったことで、ヒルデグントの中での恐怖が増幅したのだろう。
顔中の水分のせいで、擦り付けている地面は水溜まりが出来そうな勢いだ。
アリスはヒルデグントの前にしゃがみ込んだ。ヒルデグントもそれに応じて、少しだけ顔を上げる。
土や砂が付着し、ベトベトに汚れた美少女がアリスを見上げている。パーツは整っているが、汚れのせいで綺麗とは言い難い。
アリスは布を適当に生成すると、ヒルデグントの顔を拭った。青白く鱗の見える手のひらはザラついており、ヒルデグントの頬を撫でる度にビクリと体を震わせた。
触れているのは男の頭部をいとも簡単に握り潰した魔王の手。
汚してはならないと必死に鼻水と涙を出さないように耐えているものの、抑えようと思っても簡単に抑えられるものでは無い。
「安心しろ、君が死ぬことはない」
「なっ、何でもします! 体も売りますっ、だから、殺さないで……!」
「君には国の管理者として、上に君臨していてほしい。もちろん、本当の権力者は私ということだがね」
「はっ、はい! お任せください!」
「いい返事で助かるよ。……えれな」
「はい。いつでも構いません」
それまで一言も喋っていなかった女――松ヶ野えれなが声を出す。甘ったるく、他人に媚びを売って生きているような声色だった。
えれなはヒルデグントと目が合うと、愛想のいい笑顔を向けた。
「あの……?」
「では始めようか」
「はい? ――うぎっ!?」
どすん、と肉を貫く音がする。アリスの爪や指が、ヒルデグントの頭を突き刺した。
激しい痛みに襲われているのか、ヒルデグントはジタバタと暴れだした。
アリスは地面に手をついて、魔力を注ぐ。地面はぐにゃぐにゃと変形したと思えば、瞬く間にヒルデグントを拘束した。
「う、あ、ああ! あぐっ、いだいっ、なんでっ!」
「えれな、痛みを取ってやれ」
「承知しました。〈主観治療〉」
えれながスキルを発動すると、ヒルデグントの痛みが一瞬で引いた。
〈主観治療〉とは、使用者であるえれなが〝異常〟と感じたことであれば、すべて〝治療〟してもとに戻すことができる。
この特性を利用して過去には、えれなの爛れた男女関係を構築していたのだが、それも昔の――黒歴史だ。
「なん、なんで、どうして……」
「どうして? 君の希望通りだろう」
「ちがう……死にたくない……」
「あはは。死にはしないさ――肉体はな。人格が変わって〝君〟が消えることを〝死〟と表現するのであれば、死ぬだろうがね」
ヒルデグントには、アリスの言っている意味が理解できなかった。既に彼女の意識が朦朧としていたというのも理由の一つだ。
アリスの指が彼女の頭に突き刺さった時点で、〝施術〟は始まっていた。
現在の人格である〝ヒルデグント〟は、そっくりそのまま植え替えられる。前世も恐怖もなく、新たに植え付けられるのはアリスへの忠誠心だ。
おまけとして、黒国の王者にふさわしい肉体も添える。
「い……や……助けて……」
「そう悲しむことはない。君は様々な苦痛から開放される。これは救済だよ」
「きゅう……さい……」
アリスは優しく諭すように言う。少し前に人を殺したばかりの化け物が、まるで小さな子に言い聞かせるように言っている。
ヒルデグントは頭が追いつかなかった。撫でる手も、説明する声色も、魔王のものではない。
魔王の言うことを理解するために、頭を必至に動かそうとする。理解したくても、既にヒルデグントの脳みそは作り変えられている。
完全に彼女の意識が、人格が消えていくのも時間の問題だ。
アリスであれば瞬時に切り替えられるだろうが、こうして長引かせているのは、彼女の魔王たる性格の悪さから来ているのだろう。
「私、は……」
「さて。そろそろ打ち合わせもあるから、君には退場願おうか。おやすみ、さようなら――ヒルデグント・クンツェンドルフ」
頭に突き刺していた指を引き抜くと、ヒルデグントがガクリと項垂れた。――と、思えば次の瞬間にはぱっちりと目を開いて頭を上げた。
先程の情けないほどに怯えているヒルデグントは、もういなかった。
ヒルデグントは一歩下がると、自然な動作で跪いた。まるで十数年もの間、同じ動きをしてきたかのようなスムーズなものだった。
「おはよう」
「お早う御座います、崇高なる我が君――トレラント陛下」
幼子のように泣きじゃくっていたヒルデグントとは違い、その声色は凍てつく冬のように冷たい。
冷静であると言えば聞こえは良いかもしれないが、冷酷のほうが近いだろう。彼女の中からすっかりあの人間らしい少女は消え去ってしまった。
「問題はなさそう?」
「はい。陛下が肉体の調整を行って下さったお陰で、不調は見られません」
「よかった。じゃあえれなは帰ってもいいよ」
「あ、ありがとうございます……。そ、その……」
「ん? あぁ、そう言えばそうだったね」
えれなは本来、ここに来る予定ではなかった。ヒルデグントの〝作り変え〟に際して、緊急で呼び寄せたのだ。
普段はトラッシュの中のアベスカにて、パラケルススの補佐を行っている。
そんな彼女が急な呼びつけに応じたのは、ひとつ頼み事があったからだ。それは大いに私情の含んだ内容であった。
「それじゃあ、わたしとパラケルスス様の婚約をお認め頂けるということで……?」
「うーん」
「や、やっぱり駄目ですか……?」
「そうじゃなくてさ」
はじめに聞いたときは、とても驚いた。
この数年間で、噂と恋愛話が大好きなサキュバス達から、えれなの恋愛事情について小耳に挟んでいた。アベスカは特に魔族の行き来が多いため、トップに立っている二人の出来事はよく噂に持ち上がる。
えれなとパラケルススの間に何があったかという話も、はるか昔に聞いていた。
アリスも幹部達のそういったことに関して、口を突っ込む気はなかった。勇者の殺害や国の運営、これからのアリスの邪魔にならなければいいと。
幹部達も、当然ながらアリスを最優先として動いている。だがそこに、意思がないわけではない。
「パラケルススが私に聞いてこいって言ったんだよね?」
「はい……」
「ならいいんじゃない? 結婚しちゃえば」
「え?」
「幹部は私が生み出したけど、考えるのとか、意見するのは彼らの意思だよ」
アリスの許可のもとであれば、結婚してもいい――パラケルススはえれなにそう言った。
パラケルススが本当にえれなを拒絶していたのであれば、そもそもアリスに伺いを立てるなんてことはしない。えれなに婚約の話を持ち出された時点で、ばっさりと断りをいれる。
だがパラケルススはそんなことをしなかった。
それであれば、パラケルススもそれなりにえれなへ感情を向けているということ。少なくとも、彼女と共に歩んでも良いと思ったということだ。
「あ、あ、ありがとうございます!」
「式はアベスカでやるんでしょ。絶対に呼んでね、行くから」
「はっ、はい!」
アリスは〈転移門〉を生成すると、今にも泣き出しそうなえれなを押し込んだ。
えれなを送り出すと、アリスはヒルデグントの方を改めて見る。まだこちらの仕事が残っていた。
ヒルデグントはこの短い間に、顔や服がほこりまみれの砂まみれ、血だらけになっていた。
現在闘技場で行われている、スライム同士の戦闘に合わせた容姿になっている。
闘技場からこちらへ転移してきたのであれば、いずれは闘技場へ戻らねばならない。いつまでも決着がつかないままにしておけないのだ。
辻褄を合わせるためにも、見た目を汚しておく必要があったのだが、命令するまでもなかったらしい。すっかり以前の腑抜けた性格が抜けきって、これからアリスが頼もうとしたことを終わらせてしまっていた。
「もう戻れそうだね」
「いつでも構いません」
「そう。じゃあ行くよ、三……二……一!」
カウントダウンが終わると、その場からアリスとヒルデグントの二人が消え去った。
ヒルデグントの背後から、まるで冷気のような気配がする。耳元で囁くように女が呟けば、びくりと肩を震わせた。
ヒルデグントは即座に距離を取り、相手を確認する。いや、確認するまでもないのだが、先程までの戦闘があったため信じきれていなかった。
そこにいたのは、傷一つどころか埃一つついていないアリス・ヴェル・トレラントだった。
飛び退いたヒルデグントに対して、気さくに手を振って笑顔を見せているが、ヒルデグントには恐怖でしか無い。
しかも隣には、見たことの無い女が立っている。魔王と名乗る女は連れと一緒に城に来たと聞いていたが、この女なのか――とヒルデグントは思う。
緩く巻いた茶髪に、茶色の瞳。この辺りにはいない彫りの浅い顔。よく見ればその異変に気付けただろうが、ヒルデグントにそんな余裕などなかった。
「ひっ!? お、お願いです、ころさないで……!」
さて、ヒルデグントの判断は早かった。
即座に床に伏して、頭を低くし、地面へとこすりつける。場内はあまり綺麗とも言えず、ゴミや様々なものが散乱している。
だがそんなことを気にせず、彼女は平伏した。所謂命乞いであり、土下座である。
「そう怯えるな、少し話をしようじゃないか。スタジアムのことなら、私の作ったスライムが盛り上げてくれている」
「な、なに……?」
「単刀直入に言おう。君は転生者だな」
「……え? ど、どうして……」
「私は何人も、君のような転生者を葬ってきた」
「……ッ!」
アリスの放った言葉に、ヒルデグントは息を呑んだ。
この一瞬でアリスがやったことを見れば、その言葉の重みがはっきりとわかる。転移、傷の修復、代理の召喚。魔術の知識が少ないヒルデグントでさえ、これだけやってのけるのは只者ではないと理解できる。
だからこそ、アリスは間違いなく転生者を殺してきたのだろう。そしてその次は、自分であると。
ヒルデグントの中では、様々な感情がうずまき始めた。
観客に嘲笑われながら、呆れながら死ぬよりかは、誰も知らないこの場所でひっそりと消えたい。
でも死にたくない。二度も死を経験するだなんて、まっぴらごめんだ。
どうにかして取り繕いたいのに、言葉は上手く出てこない。
「君がどのような〝前世〟だったのかは知らないが、この人生では相当苦労していたことだろう。同じく上に立つものとして、そこには敬意を示そう」
「たっ、たすけてください、死にたくないです……!」
「ふむ」
アリスの推測では、ヒルデグントが勇者ではない可能性が浮上する。ただの転生であり、下手をすれば〝別のジャンル〟の可能性だってある。
弱い姫様がのうのうと生きていられたのであれば、家族に溺愛でもされていたのだろう――とアリスは思う。
それにここは、フルスの管理下ではなかった。前任の神がどういう運営をしていたのかは知らないが、それが上手くなかったのは事実だろう。
だからこそ、優秀なフルスが引き継いだのかもしれない。
ロマンスファンタジーとしての世界観を構築したかったのであれば、あまりにもハードモードすぎるのだ。
しかしフルスは転生者について触れていなかった。となれば彼はこの世界にいる人間の管理は、全てアリスに一任しているようなもの。生かすも殺すも好きにしていいということだ。
(ま、簡単に配下にできるし、ラッキー)
「おっ、お願いします、お願いしましゅ……!」
ヒルデグントは、顔を涙と鼻水と冷や汗でぐちゃぐちゃに汚して、綺麗な顔を台無しにしている。それだけではなく、そんな顔を汚い地面に擦り付けて懇願する。
アリスが急に黙ったことで、ヒルデグントの中での恐怖が増幅したのだろう。
顔中の水分のせいで、擦り付けている地面は水溜まりが出来そうな勢いだ。
アリスはヒルデグントの前にしゃがみ込んだ。ヒルデグントもそれに応じて、少しだけ顔を上げる。
土や砂が付着し、ベトベトに汚れた美少女がアリスを見上げている。パーツは整っているが、汚れのせいで綺麗とは言い難い。
アリスは布を適当に生成すると、ヒルデグントの顔を拭った。青白く鱗の見える手のひらはザラついており、ヒルデグントの頬を撫でる度にビクリと体を震わせた。
触れているのは男の頭部をいとも簡単に握り潰した魔王の手。
汚してはならないと必死に鼻水と涙を出さないように耐えているものの、抑えようと思っても簡単に抑えられるものでは無い。
「安心しろ、君が死ぬことはない」
「なっ、何でもします! 体も売りますっ、だから、殺さないで……!」
「君には国の管理者として、上に君臨していてほしい。もちろん、本当の権力者は私ということだがね」
「はっ、はい! お任せください!」
「いい返事で助かるよ。……えれな」
「はい。いつでも構いません」
それまで一言も喋っていなかった女――松ヶ野えれなが声を出す。甘ったるく、他人に媚びを売って生きているような声色だった。
えれなはヒルデグントと目が合うと、愛想のいい笑顔を向けた。
「あの……?」
「では始めようか」
「はい? ――うぎっ!?」
どすん、と肉を貫く音がする。アリスの爪や指が、ヒルデグントの頭を突き刺した。
激しい痛みに襲われているのか、ヒルデグントはジタバタと暴れだした。
アリスは地面に手をついて、魔力を注ぐ。地面はぐにゃぐにゃと変形したと思えば、瞬く間にヒルデグントを拘束した。
「う、あ、ああ! あぐっ、いだいっ、なんでっ!」
「えれな、痛みを取ってやれ」
「承知しました。〈主観治療〉」
えれながスキルを発動すると、ヒルデグントの痛みが一瞬で引いた。
〈主観治療〉とは、使用者であるえれなが〝異常〟と感じたことであれば、すべて〝治療〟してもとに戻すことができる。
この特性を利用して過去には、えれなの爛れた男女関係を構築していたのだが、それも昔の――黒歴史だ。
「なん、なんで、どうして……」
「どうして? 君の希望通りだろう」
「ちがう……死にたくない……」
「あはは。死にはしないさ――肉体はな。人格が変わって〝君〟が消えることを〝死〟と表現するのであれば、死ぬだろうがね」
ヒルデグントには、アリスの言っている意味が理解できなかった。既に彼女の意識が朦朧としていたというのも理由の一つだ。
アリスの指が彼女の頭に突き刺さった時点で、〝施術〟は始まっていた。
現在の人格である〝ヒルデグント〟は、そっくりそのまま植え替えられる。前世も恐怖もなく、新たに植え付けられるのはアリスへの忠誠心だ。
おまけとして、黒国の王者にふさわしい肉体も添える。
「い……や……助けて……」
「そう悲しむことはない。君は様々な苦痛から開放される。これは救済だよ」
「きゅう……さい……」
アリスは優しく諭すように言う。少し前に人を殺したばかりの化け物が、まるで小さな子に言い聞かせるように言っている。
ヒルデグントは頭が追いつかなかった。撫でる手も、説明する声色も、魔王のものではない。
魔王の言うことを理解するために、頭を必至に動かそうとする。理解したくても、既にヒルデグントの脳みそは作り変えられている。
完全に彼女の意識が、人格が消えていくのも時間の問題だ。
アリスであれば瞬時に切り替えられるだろうが、こうして長引かせているのは、彼女の魔王たる性格の悪さから来ているのだろう。
「私、は……」
「さて。そろそろ打ち合わせもあるから、君には退場願おうか。おやすみ、さようなら――ヒルデグント・クンツェンドルフ」
頭に突き刺していた指を引き抜くと、ヒルデグントがガクリと項垂れた。――と、思えば次の瞬間にはぱっちりと目を開いて頭を上げた。
先程の情けないほどに怯えているヒルデグントは、もういなかった。
ヒルデグントは一歩下がると、自然な動作で跪いた。まるで十数年もの間、同じ動きをしてきたかのようなスムーズなものだった。
「おはよう」
「お早う御座います、崇高なる我が君――トレラント陛下」
幼子のように泣きじゃくっていたヒルデグントとは違い、その声色は凍てつく冬のように冷たい。
冷静であると言えば聞こえは良いかもしれないが、冷酷のほうが近いだろう。彼女の中からすっかりあの人間らしい少女は消え去ってしまった。
「問題はなさそう?」
「はい。陛下が肉体の調整を行って下さったお陰で、不調は見られません」
「よかった。じゃあえれなは帰ってもいいよ」
「あ、ありがとうございます……。そ、その……」
「ん? あぁ、そう言えばそうだったね」
えれなは本来、ここに来る予定ではなかった。ヒルデグントの〝作り変え〟に際して、緊急で呼び寄せたのだ。
普段はトラッシュの中のアベスカにて、パラケルススの補佐を行っている。
そんな彼女が急な呼びつけに応じたのは、ひとつ頼み事があったからだ。それは大いに私情の含んだ内容であった。
「それじゃあ、わたしとパラケルスス様の婚約をお認め頂けるということで……?」
「うーん」
「や、やっぱり駄目ですか……?」
「そうじゃなくてさ」
はじめに聞いたときは、とても驚いた。
この数年間で、噂と恋愛話が大好きなサキュバス達から、えれなの恋愛事情について小耳に挟んでいた。アベスカは特に魔族の行き来が多いため、トップに立っている二人の出来事はよく噂に持ち上がる。
えれなとパラケルススの間に何があったかという話も、はるか昔に聞いていた。
アリスも幹部達のそういったことに関して、口を突っ込む気はなかった。勇者の殺害や国の運営、これからのアリスの邪魔にならなければいいと。
幹部達も、当然ながらアリスを最優先として動いている。だがそこに、意思がないわけではない。
「パラケルススが私に聞いてこいって言ったんだよね?」
「はい……」
「ならいいんじゃない? 結婚しちゃえば」
「え?」
「幹部は私が生み出したけど、考えるのとか、意見するのは彼らの意思だよ」
アリスの許可のもとであれば、結婚してもいい――パラケルススはえれなにそう言った。
パラケルススが本当にえれなを拒絶していたのであれば、そもそもアリスに伺いを立てるなんてことはしない。えれなに婚約の話を持ち出された時点で、ばっさりと断りをいれる。
だがパラケルススはそんなことをしなかった。
それであれば、パラケルススもそれなりにえれなへ感情を向けているということ。少なくとも、彼女と共に歩んでも良いと思ったということだ。
「あ、あ、ありがとうございます!」
「式はアベスカでやるんでしょ。絶対に呼んでね、行くから」
「はっ、はい!」
アリスは〈転移門〉を生成すると、今にも泣き出しそうなえれなを押し込んだ。
えれなを送り出すと、アリスはヒルデグントの方を改めて見る。まだこちらの仕事が残っていた。
ヒルデグントはこの短い間に、顔や服がほこりまみれの砂まみれ、血だらけになっていた。
現在闘技場で行われている、スライム同士の戦闘に合わせた容姿になっている。
闘技場からこちらへ転移してきたのであれば、いずれは闘技場へ戻らねばならない。いつまでも決着がつかないままにしておけないのだ。
辻褄を合わせるためにも、見た目を汚しておく必要があったのだが、命令するまでもなかったらしい。すっかり以前の腑抜けた性格が抜けきって、これからアリスが頼もうとしたことを終わらせてしまっていた。
「もう戻れそうだね」
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