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scene.2 フィールの苦悩

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神々の審理に三件立ち会い、裁きの間での判決に二件立ち会い、その際に逃げ出そうとする罪人を取り押さえ、庭園の復旧具合を確かめ、中級天使たちとの謁見ではさまざまな要望という名の要求に眉をひそめるのを堪え、上級三隊それぞれの長との会食とは名ばかりの密告集会で顔が引きつるのを堪え……限界だ。

本来であれば結晶の器を探しているはずのルフェルはここ最近、エデンでの仕事が膨れ上がり精も根も尽き果てていた。やたらと駆り出される不祥事の後始末を考えるに、もしや絶対的な権力を求められているのではなく、単なる便利屋として重宝されているだけではないかという気さえして来る。

いくら水晶に魂を預けているとはいえ、そしてその水晶が毎日浄化されているとはいえ、これだけ頻繁に駆り出されていてはさすがに疲労も蓄積して来る。天使同士の痴情のもつれによる刃傷沙汰など捨て置けばいい……どれだけ傷付けようと死にはせん……いや、上級三隊がつるぎを召喚した場合はその限りでは……まあ、代わりはいくらでもいるから構わんな……

足元がふらつくほどの疲れと眠気に最早抗う気力もなく、ルフェルはエデンの自室に入るとそのまま真っ直ぐベッドに向かい倒れ込んだ。もう、二度と、起きたくない……


───


── なぜ、こんなことに……

毎朝決まった時間に目覚めることが自分の誇れる数少ない美点のひとつだと思っているフィールは、その日も当然いつもと同じ時間に目覚め、いつもと同じようにベッドの中で伸びをして……違和感を覚えた。おかしい、いつものように手足を伸ばせない。一晩でわたしが成長したのか、それともベッドが小さくなったのか。

まあそのどちらもあり得ないけれど、と寝返りを打って違和感の正体がわかり、むしろそのあり得ないどちらかのほうが現実的だとさえ思える視界に息が止まった。そして思った。動いてはいけない、と。

銀色の柔らかそうな髪を無造作に額に垂らし、きれいに整った眉を無防備に緩め、長いまつげと、すっと通った鼻筋と、薄いくちびると、透き通るように白い肌と……それはそれは見事に完璧な美形が隣で寝息を立てている。このときフィールは自分にもう少し語彙力があれば、と後悔した。


大天使長さまは……間近で見てもなんてお美しいんだろう……いや、違う、なぜここにおられるんだろう! だわ。そう、なぜわたしのベッドで大天使長さまが寝ておられるのか。もしかしてわたしが部屋を間違え……そんな無礼を働けばその場で熾烈の剣が召喚されるからそれはないわね……うん、やはりここはわたしの部屋だ。

しかし、どうしたものか。さっきのわたしの寝返りでお目覚めになられてはいないけれど、次に動いた振動で起こしてしまうかもしれない。もし、大天使長さまの眠りを妨げることになろうものなら、謀反を起こしたとして捕えられても言い逃れできる気がしない。それにしても寝顔までこんなにお美しいのね……大天使長さまは……いや、違う。

身動きひとつ取らず微動だにしないまま、フィールは石のように固まっていた。するとルフェルが寝返りを打ち、その左手がフィールのからだの上に乗る。思いがけずルフェルに抱かれる格好になったフィールは、そのからだをいっそう硬くした。ますます動けなくなってしまった……最早この拍動でさえ伝わって、起こしてしまう確率が跳ね上がったのでは……


眠っているルフェルを凝視しながらフィールは考えた。ちょっと待って。仮に大天使長さまが自らお目覚めになられたとして、この状況をどう思われるのだろう。わたしはわたしの部屋のわたしのベッドで寝ていただけだから、咎められることは何ひとつないのだけれど、大天使長さまにしてみれば、これはれっきとした……恥辱ではないかしら……わたしは悪くないはずだけれど……口封じということもないわけでは……

そして、もっと待って。目の前から伸びるこの左腕と肩から類推するに、もしかして大天使長さまは……衣服を身に着けておられないのでは……こんな至近距離で類稀なる美形が裸体はだかで無防備に眠っておられるというのか。フィールは凝視していた顔から少し視線を下にずらし、慌てて視線を顔に戻した。うん、裸体の美形が目の前で眠っているということは、わかった。わかったけれど……

こ、これは……いよいよ不味いのではないかしら……お目覚めになられたときご自分が裸体で見知らぬ女の、いえ、見知った間柄ではあるけれど、下級天使のベッドで眠られていたなどということにお気付きになれば……やはりなかったことにされてしまうのでは……こんなことが外部に漏れでもすれば、大天使長さまの輝かしい経歴に傷が付くかもしれない……


そのときルフェルの左腕に力が入り、フィールの心臓が止まった。薄っすらと目を開けたルフェルは目の前にいるフィールを確かめると「……どおりであたたかいと思った」とつぶやき再び眠りに落ちた。も、もしや……寝ぼけておられるのかしら……


しょうがないわ、とフィールは心を決めた。何をどう言ったとしても状況は変わらない。大天使長さまがお目覚めになられたときに決めることだもの。もし、仮に、たとえば、万が一、亡き者にされたとしても後悔しないように……類稀なる美形が裸体で目の前にいるというご褒美と引き換えだと思うことにしよう。うん、この無駄に前向きなところも自分の誇れる数少ない美点のひとつだと思う。

そうと決まればこの状況を堪能するしかないわよね!? だってどっちに転んでももう二度とこんなことは起こらないのだから! それにしても、非の打ち所がないとはこういうときにこそ使うものよね。どこまで完璧なのかしら、大天使長さまは。もう少し華奢な方だとばかり思っていたけれど、こうして見ると……鎖骨の窪みから大胸筋への曲線までもがお美しい……

お顔も完璧ならおからだまで完璧なのだろうか、大天使長さまは……肩幅も広く三角筋から少し浮いた肩峰けんぽうの儚く美しいこと……上腕二頭筋もさすが鍛えられておられるのね……長身でいらっしゃるのに! この! お顔の小ささ! 神々も大天使長さまを創り給うたとき、よほど気合いを入れられたに違いない。なんて長いまつげなのかしら……とフィールが見入っているとルフェルがふっと目を開き、ああ、煌めく翠玉の瞳までもがお美しい……と……あ……え、もしや、お目覚めでしょうか……


ルフェルは硬直したまま、目だけを動かし部屋の様子を確かめた。いま、間違いなく言えることは、ここが自分の部屋ではない、ということだけだった。

「……僕は、もしかして」
……ぼく?
「えーと……一応、確認したいんだけど」
したいんだけど?
「僕は、もしかして、いま、フィールの部屋に、いるのかな……」
いるのかな!?
「……ごめん」
ごめん!!??

「だ……大天使長さま……?」
「ごめん、本っ当にごめん」
「あ、いえ、わたくしはむしろ得を、いえ、あの、大丈夫です」
「昨日……どうやって帰って来たのか憶えてない……んだよね」
「に、似たようなドアが並んでいますし! 毎日お忙しいお立場ですから!」
「本当にごめんよ。邪魔じゃなかったかい?」
「邪魔だなんてとんでもないことでございます!」
「うん、フィールがちゃんと眠れたのなら、よかった」

ルフェルはからだを起こし、両腕を伸ばしながら「久しぶりによく眠れたな」と安心したような声で言った。

……何? 何なの? この大天使長さまの愛らしい少年のような、しかもわたしの睡眠まで気に掛けてくださるお優しいお振舞いは何? いま目の前におられる方と、しばらく前に剣を振り抜いただけで庭園の三分の一を壊滅させた方は、もしかして別人? それともわたしはもう粛清済みで幻でも見ているの?

「ああ……しっかり服まで脱ぎ散らかしてるな」

そう言うとルフェルはそのまま・・・・ベッドから降りて、床に散らかっている自分の服を拾い集めた。フィールは無言でその姿を目で追いつつ「……やはり、おからだも完璧」と心の中で思った。


服を着て、一応身支度を整えたルフェルは「本当にごめんよ、二度とないように気を付けるから」と言ってそのまま部屋を出て行こうとした。慌ててフィールはそれを止め、部屋の外を確認しなくてはと訴える。

「……何を確認するんだい?」
「え、その、大天使長さまが下級の者の部屋からお出になるところを見られるのは……」
「あ、そうか……あらぬ噂を立てられるときみが困るかもしれないな」
「いえ、わたくしではなく、大天使長さまがお困りになられるかと……」
「……僕が? なぜ?」

……もしかして大天使長さまは……少し鈍いというか……ご自分がどれほど周りから視線を集めておられるのかに気付かれていないというか……ご自分に興味がなさ過ぎるというか……さっきもほら、何の抵抗もなく裸体のままうろうろされていたし……まあ……目の保養になったからいいのだけど……

「……あ」
「どうされました!?」
「もしかして、僕、きみに手を付けたりとか」
「いっっっさいございません!」

そしてルフェルはもう一度フィールに謝り、部屋から出て行った。


───


「……へえ」

それを偶然見掛けたミシャは、にやり、と笑った。
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