地上の愛

槙野 シオ

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ACT.10 水晶 - Crystal

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「……なんだ……これは」

ルフェルは足元を見てつぶやいた。


いつもより少し遅く目覚めたルフェルは慌てて飛び起き、ベッドから抜け出そうと床に足を着いた。それから立ち上がり、一歩を踏み出したところでバサバサッと何かが落ちる音を聞いた。


── ルフェルの足元には、いくらか抜け落ちた翼が散らかった。


痛みはない。むしろ、背中が少し軽くなって快適だ、とすら思った。残された翼を動かしてみる。問題ない。


ルフェルを起こそうと寝室の扉を開けたノエルは、立ち尽くすルフェルとその足元を見て、何が起こっているのかまず理解できなかった。足元を覆うように重なり合うそれが、ルフェルの翼だと気付くまでに、しばらくの時間を要した。

ノエルはゆっくりとルフェルに歩み寄り、床に落ちた翼を一枚抱えた。

「……ルフェル」
「ああ……大丈夫だよ、痛みもないし」
「こんなこと、いままで一度もなかったけど…」
「残った翼も動くから、問題ないよ」
「そうじゃなくて、これは普通の出来事なの?」
「いや、少なくとも僕は産まれて初めてだ」
「……異常な出来事が…起こったのね?」

大事そうに翼を抱えたまま、ノエルはルフェルを見上げた。ルフェルはいつもの優しい笑顔でノエルを見ていたが、突然驚いたように翼を凝視した。

ノエルの腕の中で白く輝いていた翼は、はらはらと羽根を散らしながら縮んで行った。ルフェルの足元を覆っていた翼も縮みだし、抜け落ちた翼はすべて黒く乾涸び、元の姿など想像すらできないほど醜く変わり果てた。


───


時を同じくして、エデンの水晶の間では天使たちが信じられない、といった顔でひとつの水晶に群がっていた。

「なぜ……こんなことが……」
「いままでこんなことは、ただの一度もなかったのに……」
「とにかく、水晶の女神さまに…モーリアさまにご報告しなくては」
「……ちょっと待って」

慌てて部屋を出て行こうとする天使を、ひとりの天使が呼び止めた。

「こんなことが公になったら、水晶の間を預かっているわたくしたちの手落ちだと思われないかしら」
「……では、黙っていろと言うの?」
「そうではないわ……ただ……女神さまの前に、天使長さまにお話を伺うとか」
「ああ、そうね……天使長さまならわたくしたちを守ってくださるでしょうし」

亀裂が入り、いくらかが欠けたルフェルの水晶の前で、天使たちはまずミシャの元へ行くことを話し合った。


水晶の前でミシャもまた、信じられないという顔で立ち尽くした。

「水晶に亀裂が入るなど……わたしの知る限り初めてのことだ」
「ミシャさま……いかがいたしましょう……」
「この亀裂は……最初からこの大きさだったのか? それとも徐々に大きくなって来ているのか?」
「わたくしたちが気付いた時には……もうそのような大きさだったのです」

ひと差し指一本分ほどの長さに、小指の先ほどの深さの亀裂。ここまで来ればもう光の加減や見間違いとは言えないだろう。迂闊に触れると完全に割れてしまいそうなその水晶は、心なしか透明度さえも若干衰えて映る。

「大天使長さまの身に……何か良くないことでも」
「言うな」
「お、お赦しくださいませ」
「言われずともそれを一番危惧しているのだ」


ミシャは深く長い溜息を吐いた。


このまま亀裂が大きく深くなって、水晶が割れてしまったら……ルフェルはどうなるの? 抜け出た魂は遠い地上にいるルフェルの元へちゃんとたどり着くの? それとも、この場で……消滅してしまうの? そうなったら、ルフェルは……

「一刻も早く、ルフェルを呼び戻せ」

ミシャは天使たちにそう告げると、足早に水晶の間をあとにした。


魂が地上にいるルフェルにたどり着けば、ルフェルは堕天して人間になる。ではたどり着かなかったら? 魂を守る容れ物が砕け、魂がエデンで解き放たれたら? 魂は消えてなくなるのか、それともエデンをさまよい続けるのか……

どちらにしても……ルフェルはいなくなる。


───


「大丈夫だよノエル、そんな顔しないで」

抜け落ち黒く乾涸びた翼と、六枚になった背中の翼が心配で堪らず、いまにも泣き出しそうなノエルの頬を、ルフェルは両の手で優しく包みなだめた。

「でも……」
「そんなことよりノエル、宝物の名前を考えたんだ」
「まあ! あなたったら自分がそんな大変なときに!」
「僕にとっては、宝物が増えたことのほうがよっぽど大切な出来事なんだよ」

……わたしにはあなたの翼のことも同じくらい大切な出来事なのよ、とノエルは言い掛けて、言葉を飲み込んだ。わたしが心配するよりも事態は深刻で、だとしたらあなたがそれに気付かないはずがない。

ルフェルの言うことが真実でも気休めでも、それを疑うことは愛するひとの優しさを踏みにじることだと思ったノエルは、せめて悲しい顔をすることだけはやめよう、と笑顔でルフェルに訊いた。

「じゃあ、そのあなたの翼よりも大切な宝物の名前を教えてちょうだい」


ふたりの宝物は "シルフィ" と名付けられた。

「素敵な名前をもらってしあわせね、シルフィ」

ノエルは小さなシルフィを抱き上げ額にキスをして、それからルフェルの頬にやわらかくキスをした。

四大精霊の一翼を担う風の精シルフィードは、姿形は人間のように見えるが魂を持たず、人間の愛を得ることで不滅の魂を得られるという。

「何といっても、人間と天使の愛を産まれる前から得ているからね」
「不滅の魂を持って産まれて来たのね」
「そう、僕たちの愛は消えることもないからシルフィの魂も不滅だ」
「ルフェル、わたし……こんなにしあわせでいいのかしら」


── その時、いままで部屋に流れていた空気が凍り付いたように動きを止めた。

すうっと部屋の温度が下がり、空気に含まれた水分が細やかな氷の粒となってきらめきながら降り注ぐ。傍目に見れば美しい光景だろうが次に起こることがわかるルフェルにとって、このタイミングでの招かれざる客の存在は、ただただ迷惑でしかなかった。

立ち昇る冷気が消えると案の定、主天使ロードが三人の前に姿を現し深々と頭をさげた。

「大天使長さま……どうか、いますぐエデンにお戻りください」
「いますぐ? ……何かあったのか」
「いえ……あの……」

主天使は口ごもりながら姿勢を正し、ルフェルの姿を見て悲鳴にも似た声をあっ、と短くあげた。

「大天使長さま! そのお姿は……!」
「……わたしの問いが聞こえなかったようだ」
「いえ、そのようなことは決して」
「同じことを言わせるな」
「ミシャさまがお呼びです。どうか、どうかいますぐお戻りを……!」


……ミシャが?

あのミシャが、小さくつまらない出来事なんかで僕を呼ぶはずがない。まさか、シルフィのことか……いや、だとすれば神々から直々にお呼びが掛かるだろう。職務に関して言えばミシャは門外漢だ。思い当たる節のないルフェルは、いま一度主天使に確かめた。

「エデンで何があった?」
「……申し上げられません、ですが」

ルフェルは突然現れた招かれざる客が "言えもしないこと" で家族との時間を邪魔していること、訊ねても曖昧な答えを繰り返すこと、用件がわからない以上エデンでの滞在時間が読めないこと、そして何より、エデンにいる間ノエルとシルフィに何が起こっても守れないことに対し、苛立ちを隠さなかった・・・・・・

すっと右手が空を切ったその瞬間、ルフェルの手には焔火ほのおで鍛えられ深紅に染まった熾烈しれつつるぎが納まり、瞬きをする間もなくその切先は主天使の首から一厘の距離でぴたりと止まった。ルフェルのエメラルドの瞳はピジョンブラッドのように紅くたぎり、逆らう者を決して赦さない圧倒的な存在感をたえている。

「大天使長さま……っ!」
「おまえがエデンに戻らなければ」
「同じことでございます……すぐに別の者が参りましょう」
「その通りだ。次の者に訊く」
「同じことでございます!」
「答える者が現れるまで続くだけだ」
「わたくしどもにとっては、ミシャさまも上位にございます……」
「そうだな」

主天使の首から一厘の距離で止まった切先はまるでぶれることがなく、それが殊更に主天使を震え上がらせた。六尺もの剣を片手でぴたりと固定させたまま冷徹に話をしているのは、筋骨隆々の屈強な人物などではなく、長身ではあるもののしなやかで細い肢体と類希な美しさを持つ、うら若き青年の姿をした……化け物だ。

神の右に座すことを許された、ただひとりの熾天使セラフ。エデン史上最凶と言わしめた大天使長であるその人物は、酷く美しい顔立ちに一切の感情を覗かせることなく、主天使の首をねようと突き付けた剣を、冷酷無残な態度を崩そうともせず眼前でひと払いすると、剣身に溶熱した焔火をまとわせた。もはや警告や脅しではない。

「大天使長さま……後生ですからどうかエデンに」
「熾烈の剣は水晶の干渉を受けん……意味は、わかるな?」
「ミシャさまからお叱りを受けてしまいます……どうか……」
「叱られることはあるまい」
「…っ、大天使長さま!!」

ここで斬り捨てられるのだ。ミシャに叱られる心配などする意味がない。

階級主義のエデンにおいて身分の上下は絶対なうえ、四級の主天使からすれば三級の座天使であるミシャもまた、身分は上なのだ。大天使長であるルフェルを連れ帰れなければ、主天使の首を刎ねる相手が変わるだけのこと。

懇請する主天使を、眉ひとつ動かすことなく冷淡な表情で見据えていたルフェルが痺れを切らした、次の瞬間 ──


── ノエルがルフェルの瞳を覗き込んだ。


「まあ……! 本当にアレキサンドライトのように色が変わるのね!」

ルフェル、あなたは本当に何もかもが美しいのね。エメラルドの瞳もそれは美しいけれど、熱を帯びて深紅に染まったその瞳もたがわず美しいわ。六枚になってしまった翼はまるで失った分までも輝きを増しているようで、翼を半分失ったくらいではあなたの美しさは何ひとつ損なわれないのね。でも、


「シルフィの前で……あなたは天使をあやめるつもりなの?」


ノエルは、静かな怒りを内に滾らせ剣を握るルフェルの振舞いを、小さなこどもを諭すように優しくとがめた。途端、ルフェルの手から剣は消え、ピジョンブラッドのように紅く揺らめいていた瞳は、エメラルドの海のような青緑の煌めきを取り戻した。

「わたし、熾天使としてのあなたを初めて見たけれど」


一番見せてはいけない相手に……いままでひたすらに愛を、安心を、信頼を与え続けて来たノエルに、いくら感情がたかぶっていたとはいえ熾天使として最も残酷で冷淡な姿を、残虐で冷酷な姿を…… "本当の姿" を晒してしまったことを、ルフェルは心の底から悔いた。

どんなに優しい言葉で取り繕ったとしても、いまノエルが目にしたものがすべてだ。ただ懇請するだけの主天使を、自分を苛立たせたというそれだけの理由で剣を振るい追い詰めた。ここがエデンなら正義は自分にあるが、地上においてはその行為こそが罪なのだ。

人間のような姿をしてはいても、所詮血の通わぬ抜け殻の残忍な姿に、どれだけノエルは傷付いたことだろう。

「厳しいルフェルもストイックでとても素敵ね」


……主天使は耳を疑った。


「……きみは……僕が怖くないのか?」
「なぜ? いままで知らずにいたことが悔しくて堪らないわ」
「きみが咎めなければ……僕はいまここで主天使を粛清していた」
「あら、じゃあわたしはその熾天使を咎める、より恐ろしい存在なのね」

ノエルは楽しそうに笑いながら、ついいましがたルフェルに粛清されそうになり震えている主天使に話し掛けた。

「わたしは天使じゃないから、エデンについては知らないのだけど」
「はい……存じております……」主天使は消え入りそうな声で答えた。
「ルフェルが行かなくてはならないことが、起こってるのね?」
「さようにございます……わたくしはミシャさまの遣いとして参りました」
「ひとつ約束してちょうだい」
「いかようにも……わたくしの力の及ぶ範囲であれば、ですが」
「ことが済んだら、わたしのルフェルを必ず返して」
「……それは、わたくしには」
「次は、止めないわよ?」


ノエルの言葉に蒼褪める主天使と、にこやかに微笑むノエルを交互に確かめ、ルフェルは込み上げる笑いを抑えられなかった。どうだ、この僕のノエルのしたたかさと賢さは。エデンで最凶だと恐れられている特級の熾天使をひと言で制し、中級とはいえ第四級の主天使に取り引きを持ち掛ける。それも、自分の有利なように。

笑い声をあげながら、ルフェルは主天使に言った。

「本気で殺すつもりだったけど、きみ、命拾いしたね」
「わたくしも……さすがに覚悟いたしました」
「うん、まあ、ノエルが救った命だ。きみの言う通りにしよう」

ルフェルは小さなシルフィの額にキスをして、それからノエルを抱き締め優しく耳を噛んだ。「すぐ戻るよ」と告げると「門限を過ぎたら締め出すわよ」と、ノエルはルフェルの首に両腕を絡め愛おしそうにくちづけた。


……大天使長さまは……ルフェルさまはこんなにもお優しく、穏やかな方だったろうか……

主天使の疑問だけを残し、ルフェルはすうっと空気に同化するように消え、慌てて追い掛けるように主天使もその姿を消した。
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