地上の愛

槙野 シオ

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ACT.11 ミシャ - Michae

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「だいじょうぶよ、ルフェル」
「だめだよ。だって空のめがみさまだって、森のめがみさまだって、入っちゃいけないって」
「ちょっと入口をのぞくだけだから!」
「だめだよ。はての森には近付いちゃいけないって」
「もう! よわむしルフェル! いいわ、わたしひとりでだって行ってくる!」

小さなミシャはそう言うと、果ての森へと向かい走り出した。


エデンの最果てにある "果ての森" は、不気味な異形の木々が生い茂り、時間の経過によってその木々は形を変え森の道の行き先を変えてしまう。一歩でも足を踏み入れたが最後、広く深い森の中では泣き叫び助けを呼んでもその声は誰にも届くことはなく、歩けど歩けど出口にたどり着くことはできない。

その日、ふたりはエデンの中枢である "神々の塔" からの外出を許され、塔の周りにある居住区の中を探検していた。牧場で羊とたわむれ、公園で砂まみれになり、小川で魚を追い掛けている時に突然、ミシャはまるで良いことを思い付いたかのように「はての森に行ってみない?」とルフェルに持ち掛けたのだった。

「だめだよ、だめだよミシャ!」

小さなルフェルはミシャを止めようと必死になって追い掛けた。だめだよ、やめようよと繰り返しながら結局はミシャの思惑通り、ふたりは果ての森の入口まで来ることとなった。


こどもは好奇心が旺盛なものだ。中でもミシャは特にその傾向が強かった。

「ミシャ、ほんとうに入口をのぞくだけだよ? 中に入っちゃいけないんだよ?」

ルフェルは何度も、何度もミシャにそう言い聞かせた。

「わかってる。入口をのぞくだけ、ね?」

小さなミシャと小さなルフェルは、果ての森の入口まで近寄ると、そうっと中を覗き込んだ。覗き込んだだけで森の中に入ってはいないはずだった。しかし明確な境界線があるわけでも、扉があるわけでもないその森は、不気味な異形の木々の幹をうねらせながら、あっという間に小さな訪問者を森の中へと取り込んでしまった。

「ミシャ!」
「ルフェル……だいじょうぶ!?」

そう言いながらミシャは、つないでいたルフェルの手をきゅうっと握った。だいじょうぶよルフェル、だって入口だったんだもの。ふりかえればそこは出口にちがいないわ。ふたりは振り返って出口を確かめた。


……一歩たりとも動いてはいないふたりの瞳に映ったものは、不気味な木々が複雑に絡まり合ってできた果てしなく続く長い道だった。

「ミシャ……出口が……」

ルフェルの不安そうな声を聞いたミシャは、つないだ手に力を込めて明るく言った。

「だいじょうぶよルフェル。だって道はまっすぐだもの。ここを歩いて行けば出口にたどりつけるわよ」


握り合った小さな手に力を込めながら、ふたりは歩き出した。歩いても歩いても道はどんどん遠くなって行く。ついさっき見た景色を頼りに歩いても、再びついさっき見た景色にたどり着いてしまう。もう日も暮れる頃だ。鬱蒼と茂った森はすでに暗闇に包まれ始めていた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶよルフェル。わたしがきっと、出口を見つけてあげるから」


そう言ったミシャの手は、強く握り締めないとわからないほど小さく震えていた。


驚いてミシャの顔を見ると、言葉とは裏腹にその表情は硬く、不安と焦りと恐怖にその瞳は瞬きさえ忘れていた。

この時ルフェルは初めて気が付いた。気丈に振舞うミシャが怯えていることに。怖がる自分をなんとかなだめよう、と明るく振舞っていてくれたミシャの優しさに。なぜ気付こうとしなかったのか、なぜ守られて当然だと思っていたのか、ルフェルは自分の意気地のなさを恥じた。

── 怖くないはずがない。

ルフェルはミシャの手を強く、強く握り締めた。だいじょうぶよ、と言おうとしてミシャがルフェルの顔を見ると、まるでこの薄闇を照らすかのようにルフェルの翠玉の瞳は鮮やかな赤色へと変化していた。

「だいじょうぶだよミシャ、ぼくがミシャをまもる」

赤い瞳のルフェルは、さっきまで森と夜の怖さに震えていたとは思えないほど落ち着いた表情で、ミシャを力強く励まし優しくなだめた。その言葉を聞いた途端、込み上げて来るものを抑え切れなくなったミシャは声をあげて泣き出した。

だいじょうぶ、だいじょうぶだ。ぼくがミシャをかならずまもるから。


───


その頃エデンの神々の塔では、小さな天使が見つからない、と大騒ぎになっていた。

「まさか、果ての森へ行ったのでは……」
「行ってはいけないとあれだけ言い含めてあるんですもの、それはないでしょう」
「ではどこに隠れてしまったのです?」
「もう、こんなに暗くなってしまったというのに……」

天使とはいえふたりはまだ幼いこどもだ。背に生えている頼りない翼では、そう高くも長くも飛べるはずがなく、ましてや行方がわからなくなっている天使のひとりは、十二枚もの翼を背負った特別な子なのだ。見つからない、では済まされない。

神々の塔の中を熾天使セラフが、その塔を囲む居住区を智天使ケルブが、さらにその周りにある商工区や自然区を座天使スローネが、総力を挙げ小さな天使を捜し続けた。


エデンのあちこちを飛び回る天使たちは、空の女神ウィリナスが泣きじゃくる小さなふたりの天使の手を引いて歩いて来る姿を見つけ、一斉に集まった。それを見つけたのが神であったことは、天使たちにとって非常にばつの悪い話だったが、最悪な事態を免れたことに皆が安堵した。

「果ての森で、迷子になっていたわ」

ウィリナスはそう言うと微笑んで、小さな天使にこう続けた。

「だから、入ってはいけないと言ったでしょう? あなたたちには少しお仕置きが必要なようね」

すると泣きじゃくりながらミシャが叫んだ。

「ルフェルはちがうの! かんけいないの!」
「ミシャ、それはどういうこと?」
「わたしが、ルフェルをむりやりつれて行ったの! ルフェルはだめって言ってたの!」
「ルフェル、ミシャの言っていることは本当なの?」

ウィリナスは優しくルフェルに訊いた。

「ぼくも、いっしょに行きました」
「おねがいします、お尻をぶつならわたしだけにして! ルフェルは何もわるくないの!」

泣きながら真っ赤な顔で必死にルフェルを庇うミシャと、いままでならそのミシャの後ろに隠れ、泣いているだけだったであろうルフェルが物怖じもせず自分の罪を認めたことを、ウィリナスは大いに評価した。

「あなたは正直で、そしてとても優しい子ね」

ミシャの頭をなでながら、ウィリナスは穏やかに微笑んだ。それからルフェルの頭をなで、少し成長を見せたルフェルを褒めたあと、「このふたりをとがめることのないように」と集まった天使たちに告げた。


「ごめんね……ごめんなさい、ルフェル」

しゃくり上げながらミシャは、ルフェルに何度も何度も謝った。


気の強いミシャ。好奇心旺盛なミシャ。だけどごまかしたり嘘を吐いたり、卑怯なことは絶対にしないミシャ。ルフェルはミシャが泣き止むまでずっと、その小さな手でミシャの頭をなで続けた。透き通るエメラルドの瞳で。


───


そう、ミシャは嘘を吐いたり、物事を大袈裟に言ったり、ごまかしたりする者ではない。そのミシャがいますぐエデンに、と言うからには何か大きな問題が起こっていることに間違いはないだろう。

エデンに戻ったルフェルは、とにかくミシャのいる座天使の部屋へ向かった。

ノエルやシルフィのことではない、と思うが……だとしたら、生命の樹の実のことだろうか。それならば天使長であるミシャが呼び戻すことにも一理ある。一理はあるが、あれからもう三十年以上も経っているのだ。いくら咎めるにしても時間が経ち過ぎているし、さらに言えば階級主義のエデンにおいて、三級の座天使であるミシャが特級の熾天使である僕を裁く権利は持たない。

犯した罪を数えながら、それでもそのすべてが腑に落ちない。生命の樹の実を持ち出したこと以外はどれも神々による審判の領域だろう。法の女神に……ユスティアに呼び出されるならまだしも、ミシャに呼び戻される理由がまるで思い当たらないルフェルは、むしろ不安を募らせた。

── 気付かない何かがあるのか。

ミシャの部屋の前でルフェルは少しためらった。思い当たる節がない。だからこそミシャの話を聞くにはそれなりの覚悟が必要なのではないか。しかしここで立ち尽くしていても何もわからないことに変わりはない。

ルフェルは小さく溜息を吐いてドアをノックした。ドアが即座に開かれたということは、それだけ急を要するということか……


慌ててドアを開いたミシャは、目の前のルフェルの姿に愕然とした。

「ルフェル……あの美しい翼は……残りの翼はどうしてしまったの!?」

開口一番、翼の話が出るということは、失った翼以上の話ではないということか、とルフェルは内心ほっとした。どうやら生命の樹の実の話でもなさそうだ。

「ああ、朝起きたら、抜けてたんだ」

ルフェルはできるだけサラリと答えた。

「……どうやら無関係ではなさそうね」

無関係ではない? 翼の抜け落ちた話が?

ますます話の見えなくなったルフェルは、ミシャに言われるがまま水晶の間へと足を運んだ。


──


「あなたは自分の、このひび割れた水晶を見て、どう思う?」

ルフェル自身も亀裂の入った水晶を見るのは初めてだった。しかも "自分の魂" が込められている水晶を。

「……割れて魂が飛び出したら、僕はどうなってしまうのかな」
「それがわからないから、あなたを呼び戻したのよ」
「エデンにいる間に魂が本体に戻ったら」
「この場で堕天して即死するでしょうね。人間はエデンには踏み込めないもの」
「じゃあ地上にいる時に水晶が砕けたら、魂は地上まで僕を探しに来るのかな」
「それもわからないわ。ここから地上は遠過ぎるもの」

もう随分と長く神々に仕え、地上はもちろんエデンの歴史をも目の当たりにして来たルフェルでさえ、からだから切り離された魂の容れ物に亀裂が入った、などという話はただの一度も聞いたことがない。

これが、神の手により意図して砕かれたものならその魂は奈落アビスへと堕ち、漆黒の闇を久遠にさまよう堕天使と成り果てる。しかし自然に割れた、などということは噂話でさえ聞いたことがなかった。

「ねえルフェル、結晶の器を探すの、しばらく休めないの?」
「休めると思うかい? 産まれ変わるための結晶はもうずっと順番を待ってるんだ」
「あなたには少しエデンでの休養が必要だと思うわ。そうすれば水晶だって元に戻るかもしれないし」
「大丈夫だよミシャ。僕はこの通り元気だし、背中が軽くなってちょうどいいくらいだ」
「そんな簡単な話じゃないかもしれないのよ!? ちゃんとよく考えてルフェル」

ミシャは、他人事のようなルフェルを見て苛立ちと不安を隠し切れない。

「……わかったよ、ミシャ。少し考えてみる」

考えてみるまでもなかった。地上には愛しいノエルとシルフィがいて、そばにいることを誰よりも願っているのはルフェル自身なのだ。しかし、ここでミシャと不毛な問答を続けるより、なんとか切り上げてノエルとの約束を果たすことのほうが重要だった。


「何かあったら、すぐエデンに戻って来るのよ」

ミシャは強くルフェルに念を押した。

「わかったよ。ありがとう、ミシャ」

そう言うとルフェルはまた、地上へと戻って行った。


───


「ただいま、ノエル」
「ルフェル……帰って来てくれたのね…」
「当たり前じゃないか、何を心配してたんだい?」

小さなゆりかごで眠るシルフィを見つめていたノエルは、ルフェルの声に振り返り両腕を伸ばした。ルフェルはクスリと笑ってノエルを抱き締め、地上に戻って来たことをあらためて確かめた。

「僕の帰る場所はここにしかないんだよ」




「ねえ、エデンで何があったの?」
「いや、上級天使の小競り合いが掴み合いにまでなっててさ」
「あら……天使でも揉めることがあるのね」
「もう誰にも止められないから、僕に白羽の矢が立ったみたいだ」
「大変なことが起こっていたわけじゃなくてよかった」
「だからすぐ戻るって言ったろう?」
「ええ、そうね……締め出すことにならずに済んで安心したわ」
「ノエル、僕はきみのそばにいるよ。これまでも、そしてこれからもずっとね」
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