白衣の下(Ⅰ)悪魔的破天荒な天才外科医黒崎ヒカルと惨めな過去を引きずる女子大生の激甘ラブストーリー。先生ったらいきなり襲ってくるんだもん 涙

高野マキ

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香川君の失踪


池田ゼミの学生

香川タカシが扉の向こうのやり取りを耳にしていた。 じんわりと
失恋の痛手をこらえる…。
池田教授から、呼び出しを受けていたが、入室のタイミングを逸してしまった。



 ( さようなら…綾野さん   )

香川君は そっとその場を立ち去った…。




「うちのゼミの学生で、黒ちゃんに 一発喰らった香川を呼んでいるのだが…遅いなぁ…」


(えっえ――っ!)

驚いたのは私だけだった…。  サプライズが多すぎて 私のキャパで理解するには時間がかかる。  先生は…香川君の指導教員が池田教授だと言うことはすでに知っていた。


「あの学生は、久しぶりに楽しみね…」

ミチコさんが紅茶を出してくれた。

「ミッちゃんも そう思うかい?」

先生はとぼけているが…、香川君の評価をミチコさんに前からリサーチしていたのかもしれない。  その程度の根回しは狡猾な先生にとっては朝飯前。


「ええっ、 育て方次第だけど チハルさんの上をいくかもっ」

ミチコさんがご主人を挑発するように笑った。


「おっ、おいっ、 二人で何の冗談だい?まだ国試前の学生だよ!」

池田教授は苦々しい表情で否定する。

(チハル先生は、意外に単純な性格かも…)


「あらっ、あの学生  去年わたくしのゼミを取りたいと面接にきたのよ…」


(えっえええ―!)


先生も、チハルさんも仰天している。  私に至っては、もう何がどうなっているのか…複雑な関係と、それぞれの思惑が絡まって傍観する他なかった。    でも、先生だけが どこか変。何故か、わざとらしく驚いて見せていた。ミチコさんは 何処吹く風の程で、気にもとめずお茶を口にしている。



「…なぜ、僕のゼミ生なんだ? 」

チハルさんの不満げな表情が見てとれ、ミチコさんのさらなる 衝撃発言は続く…。


「あなたぁ…何故って、それは、わたくしがお断りしたからに決まってるじゃ ないですか! 」


池田チハル教授のプライドが 呆気無く崩れた。 人気ゼミに選抜された優秀な学生が、妻のゼミの二番煎じ…。

ジリジリと、余談を勿体振るように ミチコさんは、ゆっくりと二口めのお茶を飲む。  先生は何時もの愉快そうな瞳を、ミチコさんに向けた。


「ミッちゃん、焦らすなよっ、  何故 香川を断ったんだよ   あいつ成績も、人格も申し分無いだろうに…」



「そこが問題ですわ お兄さま! 彼は優秀すぎて、法医学のような地味な研究者には向いていないと思いましたの…しかも一般のご家庭出身ですし…」

先生は、腕組みしながらニヤリッと笑う。


「そうかぁ、まぁ…そらそうだよなっ」

先生は納得しているが、 私とチハルさんは、お互い別な意味で納得がいかない。


「ミっ、ミチコさん  一般家庭だと 法医学がダメな理由があるのですか?」

つい 口を挟んでしまった。

香川君の母方のお祖父さんは、開業医をしている。   将来は、家業を継いで貰うつもりで、資金援助をしているが…事情があり、大学関係には知られてはいなかった。


「ミチルさん  そうねぇ…」

ミチコさんが口を濁す。


「あのなっ、ミチル  法医学なんて酔狂な学問は ‘金’ になんねぇんだよ、実家がミチコや、リノみたいに開業医の金持ちならっやりたいだけ法医学して 飽きたら内科でも標榜して家を継ぎゃいいわけさ…ミチコが香川に言いたかったのは…一般家庭じゃ、先々資金が尽きちまうから…需要のある標榜科を考えろって事さ、整形とか、麻酔科とかな…地獄の沙汰も金次第って訳だ…」


「もうっ、お兄様!下世話な説明…」

ミチコさんは、顔を両手で覆う。


私は、先生のひどい説明で納得した。



そんな理由で納得いかないのは、池田チハル教授だった。

「僕は解せないなっ、これでも、人気ゼミだと自負しているんだよ…それが、第一志望じゃ無い学生が紛れ込んでいるなど、見逃せないね」

実力者池田教授が、大人げなく どうでもいい事にこだわりだした。黒崎先生の前で、同業のプライドがそうさせる。


「あなたっ、もう少し大人になって下さい…香川君は、稀にみる優秀な学生ですよ…きっと研究室の屋台骨を引っ張る研究者になります
あなた、いつも後継者が育たないとおっしゃっていたじゃないですか!  」


「では、ミチコっ 君が面倒みたらいいじゃないかっ‼︎  うちにとっても優秀なら、君の所だったら支度金ものだろっ? どうなんだっ!」

チハルさんが声を荒げた。 険悪な雰囲気…


「ミッちゃん  失礼だぞっ、言い過ぎだっ、謝りなさい」

(先生…変な感じだよ ?)

ミチコさんと先生が、一瞬 合図しあったように見えた。



「チハルさん…申し分ありません気の強い妹で…」



(うわっ!でた、三文芝居 !)

「いやっ………ヒカル君の前で、たかが学生一人に目くじら立てた僕が…恥ずかしいよ」


「先生…この場で大変失礼な、ご相談なのですがーー」

と、先生が本題を池田教授に切り出しだ。
(先生の悪巧みは今からだよ…きっと)


「実は香川の事で…」


先生が、池田教授に深々と頭を下げて相談持ちかけた。



話題の中心の香川君。  立ち聞きするつもりで法医学研究室に行った訳ではない。   ゼミ担当教授から呼び出されて研究の扉をノックする寸前だった。   扉の向こうで抜き差しならない会話が耳に飛び込んできた。   まさか、ゼミの教授と黒崎先生が縁者だとは…。


(黒先っ!どこまで付き纏うんだっ)


綾野ミチルもいると、確信した香川君は耳をそばだて、中の会話を聴く。  綾野ミチルが切実に訴えていた…。  黒崎ヒカルへの深い愛ーを、



[子供が出来なくても…検察官になれなくても…先生の傍に一生居られれば、それが私の幸せです…]


(君は…夢を捨てて 黒先の傍らに…いいのかっ?それで!)


目の前の現実が彼の恋心を粉々に砕いた…。


 ( 何やってんだ    …俺)


無意識にバイクに跨がると、エンジンをかけた。


( 今さら 何、傷ついてんだっ !)


バイクのスピードが上がる…。

( 初めから わかってたじゃないかっ!)

香川君は、それでも少しは、チャンスを期待していた甘い自分に気づいた。



(くっそぉっ)



がむしゃらに首都高を飛ばし、気がつくと、中央道から長野自動車道へ、白い雪化粧をしたアルプスの麓までバイクを走らせていた。


“ 蕎麦 大好きっ!”  彼女の弾む声が耳に残っている。


2時間ぶっ通しでバイクを転がす。駐車場に泊め、フルフェースのメットを脱ぐと、普段の香川君の顔に戻っていた。


「祖母ちゃん!只今っ」


暖簾をくぐると、あいも変わらず 昼をとおに過ぎても まだ、お客さんが店内で順番を待つほどに店は繁盛していた。  働く人の顔ぶれも昔から同じ…何一つ変わらない安心できる場所…。  香川君は祖母の打った蕎麦を食べながら、心に決着をつけようと思っていた。


…………


帰りの車中、先生は上機嫌で車を運転している。


「しかし、ミチコも役者だよな、なぁっおいっ」


「知らないっ!」

私はぷいと横を向いた。


…………

あのあと、先生は、池田教授に香川君が了解するなら、前期臨床研修からT大学で世話をしたいと願い出た。 第一希望が池田ゼミでないと知った池田教授は、香川君を、本人がその場にいないとはいえ、黒崎先生や妻で法医学教室講師の池田ミチコ先生の前で散々こき下ろした。   教授は今更、香川君の研修先についてとやかく言えなくなってしまった。


「まあね…国家試験に 合格してから本人が決めればいい事だよ…」

歯切れの悪い返事が返ってきた。


「じゃ、チハルさんは、香川がうちに来るのは了承でいいですねっ」

先生は念を押す。


「そりゃ…本人さえ希望すれば、 僕は文句はないですよ」


………

(―よしっ)  先生は、してやったりとほくそ笑んでいた。

(悪巧みが成就した時の慇懃無礼な笑顔…何て言う策士 )


ミチコさんは、二人のやり取りにも表情ひとつ変えず見守っていた。この企ての功労者は、あるいはミチコさんかも知れない。チハルさんの負けず嫌いな性格を利用して、わざと香川君をゼミの邪魔者にした。それで、黒崎先生の思惑は成就一歩手前……。

(何と言う兄思いの妹…それにしても、先生は、また何を企んで 香川君をT大へ呼び寄せたいの? )
 

流れは 全て自分になびくものと思い違いしている。  この絶対の自信はどこからくるの?  世の中、そんなに上手く運ばない。  特に人の人生を、他人が決めるなんて事は、出来ない。

………………

「先生っ、香川君が居ないのに…そんな大事な事、勝手に決めて良いわけないよね?」


「なにを…怒ってるんだ? あいつにとってはチャンスだぜっ」


「T大で臨床研修することが?   先生が辞めた後の大学で2年間の研修してっ…香川君にとって意味があるの?  何がチャンスなのっ…」


私は腹を立てて、香川君の代弁をしたつもりになっていた…。
先生とミチコさんには…私の考えの及ばない所で、香川君の将来について、グローバルな考えがあった。

この茶番劇もそこへの布石だった。  二人を動かすほど彼は将来有望な学生だったのかもしれない。


2月の第二週。  医師国家試験が始まった。

私が退院し 先生宅に帰って 一週間が経っていた。先生の生活パターンが見えてくると、先生に合わせて、主婦業も板についてきた。毎日先生には お弁当を持たせている。  独身の頃は、手術が遅くなると病院に泊まっていたらしいが、 家も近く 私も居るので遅くなっても必ず帰って来る。それじゃあと、 私は出来るだけ帰宅した先生の世話を焼く。  元来、母性の強いお節介が幸いし、全く苦にならなかった。
但し、体力的に無理が効かない。  いくら体調がいいとはいえ、難病を抱えていることに変わりない。   先生に生活を合わせると、どうしても睡眠不足になるので 昼寝を小まめに取るようにして、体調を合わせていた。


香川君の試験も無事に済むと、サヤカが彼氏と香川君を誘って遊びに来る事になった。

金曜日の夜…鍋の用意をした。

サヤカは4月には最終学年…。  私は3年に復学予定。


「サヤカ 就活は?」

「院に行くから…」

昨秋には早くも大学院に合格していた。  サヤカは、食べるのに夢中になっている。  私は給仕をしながら 彼らの行き先を聞いた。


「堺君は…?」


「俺は親父のコネで **代議士の政策秘書見習いが決まったよ」

「へぇ~っ!」  (そつなく将来は選挙に出るつもり………かな)


「香川君は…試験合格したらどうするの?」

私は一番知りたかった香川君の先行きを聞いた。

「ああ…臨床研修があるからね、ずっと先だよ、独り立ちは…、それにしてもこの豚肉、凄く美味しいね」


香川君も箸が進む。


皆それぞれに、将来を見据えて、着実に前進している。




鎌倉のお母さんから届いた桜島黒豚…を早速豚しゃぶにして頂いている。 メール…が知らせてきたのは、先生が三浦先生と帰って来ること。

「あのね…先生帰って来るけど、無視しちゃっていいからね?」

皆の顔色を伺う。

(まさか、三浦先生の前で失礼な態度は、しないよ…)


「いいタイミング!超レアな有名人に生で会えるじゃん」

サヤカは、相変わらずのミーハーぶりで、その場の空気を和らげてくれる。

「俺は 別に…」

堺君は 前回のインパクトが強烈すぎてか、やや不安げ…  香川君はさすが 我関せずで、しゃぶしゃぶを堪能している。
二人分の鍋の用意を始めると豚肉が足らない事に気がついた。慌てて冷蔵庫を見ると、ふぐちりセットが冷凍庫に収まっていた。

(あるじゃん!  豚がないなら フグで!遜色ない)

丁度 先生達の用意が整った頃合いに、二人が帰ってきた。
玄関で出迎える。

「お帰りなさい、サヤカ達が来てるの…」

先生の反応は、

「ふん…」

無表情。  三浦先生のダウンジャケットを預かりハンガーにかける。

「お邪魔じゃ ないですか…」

三浦先生は、申し訳なさ気に私の顔を覗き込んだ。


「いえ、全然っ‼︎  よくいらして下さいました。 お鍋しているので一緒に食べていって下さい♪ 」


「先生っ、コートは…?」


「自分でする…」

先生は、お帰りハグの代わりに 頭にポンと手を置き優しげな眼差を私に向けた。


(機嫌が悪いわけじゃないか…)


先生が、リビングに一歩踏み入れると………、

リビングルームでくつろぐサヤカ達に、一瞬緊張感が走る。

「今晩は~先生っ、お邪魔してま~すぅ」

サヤカが ぶりっ子して、先生達に挨拶をする。


「いらっしゃい  ゆっくりして行って…」

いつもの台詞を棒読みする生顔の先生が怖い。  先生はジロっと、リビングルームを見渡して、香川君に視線を落とした。 つかつかと香川君の背後に近づくと、

「よっ、カガワっ…以心伝心だよなぁ  俺達」

〝 ガツッ〟と、香川君の肩を掴むと強い握力で彼の肩を揉む。

 ( 痛ってぇ…な!)

香川君の無表情が、不快さを表しているように思えた。   肩越しに香川君に慇懃な笑顔を向ける先生。



 (クロセン…またなにか企んでる…な 、)





「三浦ぁっ  先に風呂、入ってこいよ」

 「…えっ」

三浦ハルヒ先生は、学生達に視線を向ける。

  
「せっ先生、私達にお構いなく 先生ずっと病院だったんでしょ?」
私も三浦先生に入浴を勧めた。  無精髭と若い男性特有の体臭が、長時間入浴もできず激務をこなしてきた事を リビングにいた私達でも察しがついた。

「はぁ…」

グズグズと躊躇する三浦先生に、業を煮やした先生が声を荒げた。

「早くいけっ !お前が遅いと、俺も遅くなるだろうが!」

私は三浦先生をバスルームまで案内して、ゲスト用の着替えとローブを用意した。


「先生っ Tシャツと綿パンは、洗っていいですか?すぐ乾きますから」


「じゃ   お願いします」



「ちぇっ!なんだよ  俺の食う肉が、 ねぇじやんかっ」

先生の素っ頓狂な声が聞こえた。

(またぁ… 始まった、大の大人が ! 恥ずかしい…立場を考えてよ)


私は慌ててリビングルームへ戻った。


「 先生っ」

先生は、香川君達のテーブルでちゃっかり同席してしゃぶしゃぶに箸をつけていた。


「何やってるのっ! ふぐの用意してるのにっ…」


サヤカも堺君も、先生の傍若無人ぶりに 食べるのを忘れ固まっている。香川君だけは、全く動揺することなく、

「先生っ 僕が下で買って来ますから、産地は何処がいいですか?」


(はぁ…ツボを心得てる  素早い対応)

「さっすがっ香川君~♪   じゃあ…と、山形三元豚で…極上のやつ買って来てくれぇ」

 「はいっ」

香川君は先生に向かって手の平を突き付ける。


「ああっ、 はい はいわかってますよ~♪ 」


先生はお尻のポケットに仕舞い込んだままだった長財布からクレジットカードを抜き取り香川君に預ける。一連の二人の仕種を私も唖然として見ていた…。


(この二人、息が合ってる…あ、うんの呼吸だ)


ケアンズでこんなやり取りする仲になっていたんだと、私は感心した。
    
「かっ、香川君っ! 私が行くからっ」


「綾野さんは 僕が帰るまで先生の相手をお願いします…」


 「へっ?」  ( 私の台詞だよ)

香川君の視線が先生を指す。  先生は満足そうにテレビのチャンネルを、お笑い番組に合わしだす。  サヤカ達は、すっかりシラケムードで、帰り支度を始め  香川君の買い出しに合わせるように “ お邪魔しました~” と、そそくさと帰ってしまった。


先生の視界に 私の友達は映らない。居ないも同然。


(…ったくぅ。どうしようも無い)

全ての中心は ‘黒崎ヒカル’ 先生でないと丸く収まらない。 先が思い遣られる。



「目障りなエロガキも消えたことだし、ふぐでも食うかっ」

「せっ先生っ 少しは口を謹んでっ」

私のヒステリックな声がリビングに響いた。  三浦先生がお風呂から出てきたタイミングとかちあってしまった。  先生は怒っている私を無視し、何食わぬ顔で、

「おっ 三浦ぁ~ ビールでも飲んで待っててくれっ !  ミチルっ 三浦にビールっ 出してやって―」

私に指図する。

「はい…」

( ったく! 超ムカつくっ‼︎  黒崎クソオヤジっ)


先生は、わざと私の目の前を素通りしてサニタリーに消えた。


「あれ―ミチルさんの友達は?」


「先生が意地悪して 追い出しちゃって、ごめんなさい…つい声を荒げたりして、三浦先生にみっともないところ お見せました…気を悪くしないで下さい」


「気を悪くなんて、天下の黒崎先生に盾突けるのは貴女かリノ先生くらいです…もっとも、リノ先生の場合は一人相撲っぽいですがね…」

三浦先生の笑顔が心なしか淋しそうだった。

( リノ先生と上手くいってないのかな? )

私はリビングのテーブルを片づけながら三浦先生にビ―ルとおつまみを出した。  21階のエントランスに香川君が戻ってきた。キッチンのモニターで確認しセキュリティ解除を設定する。先生が風呂から出てくる前にふぐちりが食べられるように準備を始める。 香川君が三元豚を買って戻ってきた。


「ごめんねぇ~ 何時も 香川君を使いだてして…」

香川君には申し訳ない。

「綾野さん、こちらの方は?」


「あれっ初対面?」


「えっ…」



私が二人を紹介するはめになった。


「君が …か!最近の話題の主、先生が 面白い奴を拾ったって、オペ中に君の事話すんだよ」 


(オッオペ中って! かっ香川君の事 を?)

「なにかの人違いじゃ ないでしょうか…」

香川君が困惑している。


「そうかなあ…君だろっ?  K大の学生で、海外の学会に同行したのは…」


「はぁ 同行はしましたが、さして役にもたてず……」

香川君の顔が曇る…。


( 香川君、あのケアンズでの災害現場が蘇っている? )


「羨ましい…よ、僕なんて 先生に裁縫部ってあだ名付けられただけで…」


「さっ裁縫部!?」

三浦先生は裁縫部のいきさつから 胸部外科から救命センターに移った事で黒崎先生のオペの現場に参加できる機会が増えたことなど―熱く語り始めた。  香川君も、その話しを熱心に傾聴している。 私が食事の用意をしている間二人は尽きる事無く仕事や先生の話題で盛り上がり意気投合した様子だった。


(  先生…若いドクター達からも尊敬されていることは、認めてあげます、凄いんだね…)



「おーい ミーちゃ~ん♪  乾燥終わってるよぉ~」



「ウソでしょ…⁈  恥ずかしいっ」


( やっぱり、信じられない…先生が尊敬されてるなんて!)


「はいっ、はい  今、行きますっ」



三浦先生は、黒崎先生の退職宣言をにわかに受け入れられないと言った表情で固まっている。 香川君は、T大学の事情は分からないが…黒崎先生の退職は職場環境より個人的事情だと推量していた。

 (綾野さんの体調が…良くないのか?)

香川君の中の不安が拡がる。


黒崎先生は、そんな二人にはお構い無く、満足げにふぐ雑炊に舌鼓を打ちながら

「お前らっ、冷めちまうぞっ!早く食えっ」
と、人を不安にさせておきながら、煽りだした。


「せっ先生っ!食べてる場合ですか…消化器外科の教授はぁ!先生以外に適任者居ませんよっ‼︎  何故っこんな教授選間際に退職なんてぇっ⁈  馬鹿なっ!」


三浦先生は、半分パニックになって 黒崎先生に本音をぶつける。


「三浦よ…っ  落ち着けってー ほれっワイン飲めこれは美味いぞ」

先生は、ちらりと香川君をみたが、そのあとは、三浦先生にワインを注ぐ。

 
 ( っく、 気にいらねぇーな… 香川め、すましやがって!)

先生は厭らしい笑みを浮かべ…

「三浦ぁ、俺さ…ケアンズの一件で国内じゃ面も割れてヤバい訳さ~」

先生は、すまし顔でヌケヌケと言う。

「せっ、先生っその逆じゃないですかっ! 医学部の名声はうなぎ登りだし、先生はもう押しも押されもしない日本の名医ですよ!」

「だからだよっ、 日本じゃ目立って、ミチルとメシにも行けねぇ有様だ…実際、外来もうろつけねぇし…この不自由さ、お前達には分からんだろうが…な、仕方ないからさ…スタン○○○ドへ行くわ…」


先生は、ワインをじっくり味わうように口に含んだ。


「行くわって…先生っ、酔ってますねっ…⁉︎ 今更、留学ですかっ? T大の教授の椅子を蹴ってまで…冗談じゃないっ!嘘でしょ?  何しに行くんですっ」


三浦先生は、継がれたワインを一気に煽った。




「だから、お前は何時まで経っても裁縫クラブだって言うんだよ…!俺が貧乏くじ引くわけねえだろが?  向こうから、専任教授で来てくれってオファーがあったのさー…但し大学にはまだ言うなよ…」

先生は、どや顔を香川君に向けた。香川君もこの話しにはさすがに驚きを隠せない。

私は…医療界の事情は全くわからないが、文系の日本人教授は割に沢山いる。
(スタ○○○ドの専任教授って…!)


三浦先生が涙目になってきた。三浦先生を無視して、先生は香川君に向かって話し出す。



「そこでだ、向こうで俺の手足となって動ける身軽な助手がいる、給料は多くはないが、日本に比べれば破格な扱いだ。」





「香川っ、よく聞けよ」


「えっ ぼっ僕…」


香川君は 余りに現実離れした事実に放心状態だった。 アメリカ国籍の話しは立ち聞きしてしまっていたが、まさかS大学の専任教授など、誰が予想できるだろ…!  全米大学ランキング5位…世界ランキングも一桁のスーパー大学。

「お前を アメリカへ連れて行く!」




「せっ 先生っ ! ちょっとぉ、まっ…待って下さい!  なっ何、考えてんですか っ …」

さすがの香川君も目を白黒させて仰天する。

「冗談キツイッす!  まだ 医者でもない僕が…、ふざけないで下さい」


(なっ何、言ってんだ   このオヤジ)


先生はワインを日本酒の大吟醸に変えて一口飲む。





「三浦っ、4月から香川のオーベン( 指導医 )頼む…  前期臨床研修はうちで取らす。9月には退職させてスタ○○○ドに留学だ」

余りの荒唐無稽さに香川君も絶句した。


「香川っ、これは決定だ!………お前に選択の余地は無い」

香川君は、黙ったまま空中を見つめる。先生もミチコさんも香川君の将来に期待してるんだ‥。二人とも純粋に研究と人材育成に尽力しようとしている。    私の浅はかな頭では辿り着けないー。

私は、キッチンで洗い物をしながらジワリと感動ていた。


「……」
 

三浦先生が俯き体を震わせていた。……泣いてる!

「…せんせい、僕…悔しいです」

( 何故僕が選ばれ ないんだ!)


「三浦っよ  お前さ ほんと鈍い奴だなっ」

先生は三浦先生の頭を拳骨でこづいた。


「お前はもう、充分一人前だっ、後は自分の力で這い上がってこい…
なんなら、スタ○○○ドといわず、コロンビアでもハーバードでもお前がその気なら 何時でも推薦状書いてやる  お前なら自力で行ける」
先生が薄ら笑いを浮かべている。

「せっ先生ぇ―っ」

三浦先生は泣き崩れた…。その傍らで香川君は、目を真っ赤に充血させて 黙ったまま一点を見つめていた。



結局
香川君は、国家試験の結果がわかるまで返事は出来ないと 頑として
先生の提案を突っぱねた。


「先生から どんなに素晴らしい提案を頂いても、決めるのは僕です」

 先生が鬼の形相で香川君を見据える。香川君も目を逸らさない…。沈黙のガチンコ 勝負。  三浦先生は悔しさと羨ましさ、そしてその提案を突っぱねた香川君の気概に


 (  こいつ…何者なんだ?…………)

香川君の底知れない器に畏敬の念を抱いた………。この先 この二人が、黒崎先生世代後の日本の外科医療の担い手になる事は間違いない。……


まだずっと先の    お話し…



私は玄関で帰る二人を見送った。
  振り返ると クリムトの[接吻] (Der kuss)クリムトの広い懐に抱かれ、うっとりと恍惚の表情を見せる恋人エミ―リェ。  それを満足そうに
眺めつつ、今この瞬間接吻をする…クリムト。  エミ―リェの足元の断崖…。  黄金色に溶け合う歓喜の絶頂の先の危うさ…。私はその場に立ち尽くし絵に見とれていた。  まるで、私と先生。明日はどうなるのか、この先の不安を抱えたまま…。先生は、帰る二人を見送らなかった…。これからも、今夜のように先生の言動が、周りに波乱を巻き起こすに違いない。ひとつ間違えば、先生の立場も壊しかねない…。公人としての立場も、 彼にとっては   [糞喰らえ]  なのかもしれない。


        破壊者、黒崎ヒカル




香川君は強い…、香川君が先生に流される事なく自分で決めると、強く宣言したように…私も、もう後戻り出来ない。私は先生と人生を
歩む事を自分で決めた。どんな事があってもついて行く…。


クリムトの絵に魅入っていた私の背後から先生が そっと私の腰に手を回した。

「この絵が好きか…」

私は黙って、頷いた。


「実物をウイーンに見に行くか…」

右斜め上を見上げ先生の顔をみた。   先生もクリムトとエミーリェを見ている。  その顔は穏やかで満足そうだ。背後の先生の腕の中に身を沈めて躯を全て預けると、逞しい躯で受け止めてくれる。  私を抱く腕に手を沿えて筋肉の凹凸を確かめながらゆっくりと撫でる。


崖から落ちそうになっても彼の腕を決して離さない。



死が二人を分かつまで―




香川君は、大学近くの学生寮の自室に戻ると 深いため息をついた…。


( ―どうする  香川タカシ…)

パソコンを開けると何通かのメールが届いていた。その中には 南米の大使館に勤める父親からの一通があった。香川君は父親が大使館勤めの帰国子女…。良家のご子息が通うK大学学生は豪華マンション一人暮らしが暗黙の常識…。香川君は違った。母親の実家で開業医を営む祖父母の家から中学高校と通学していたが、忙しく帰宅時間も取れなくなってきたのを機会に学生寮に入寮した。



香川君は パソコンを閉じて一階のサロンに行く…。自分から、親や親類の豊富な援助がある事を忘れて、奢り高ぶらないように…と
選んだ寮生活…。日本人の寮生は珍しく、寮生の大半は外国人留学生が占めている。サロンでは 深夜の学生による国際ディスカッション。政治 宗教 経済 軍事 医療 福祉…貧困   様々な問題で英語 中国語ラテン語と、多国語も飛び交い白熱した激しい議論に盛り上がる。  香川君はこの集まりを 楽しみにしていた。



香川君のグローバルな思考は、元々の生まれ育ちに加え寮生との交流も深く影響している…。



ほとんどが 海外からの国費留学生が暮らす寮を香川君はあえて生活の場所に選んだ。  寮生はインド 中国 アフリカ と旧イギリス統治国出身者も多い。彼らの多くが頭脳明晰で優秀な学生ばかり、家庭的な問題身分制度の問題様々な事情を 背景に国費を使って学んでいる。  この大学の医学部卒業までに掛かる費用は数億とも言われている…。香川君も両親や祖父母からの援助がなければ入学すら出来なかった。


留学生達のモチベーションは常に高く、勉強への取り組みが彼らの将来や家族の生活に直接影響する…  。迷惑はかけ放題お金は親…
ただ大学に入る事が、ステータスな一部の学生とは全く違う。



  人生を賭けた  真剣勝負   自分にその覚悟が あるのか…。



3月に入り私の周辺は、俄かに慌ただしくなってきた。

「ミチルっ、月末にミチコとシスコの教会の下見と体外受精の病院の診察に行ってこい」


「えっ  はぁ」

…………

先生はいつも突然予定を決める。

「ミチコに任せとけばいい…あいつは、高校卒業してから12年間ずっとカリフォルニアで暮らしてたから」


「先生は…?」

不安が募った。

「俺は、退職願い出してから、後片付けでお前を構ってやれねぇ…」

先生は話しながらせわしなくキーボードを打つ。


「そうだっ、香川の奴ぅ…」

先生が舌打ちする。香川君はあれ以来、全く音沙汰が無い。大学の卒業式も欠席し、堺君が心配して香川君の祖父母に連絡したらしい。
香川君は先生の提案を保留した翌日に、日本を発ち、南米のご両親の元へ行ったきりと…聞いていた。


「せっ、先生っ、香川君がどうしたの?」


「あの野郎っ! 俺の有り難い申し出を放ったまま、チハルさんの所にも連絡せずに行方くらましてやがった…ったくぅ」
先生は怒るでもなく指を忙しなく動かす。


「私、 堺君からご両親の所に行っているって聞いてるけど…」


「……親の所だてぇ?  ククッ…」

先生は笑いを堪えながらワードに集中する。私はコーヒーを入れる手を止めた。


「えっ 南米じゃ 無い?」


 (香川君っ   何処へ行ったのよ?)






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