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過去の清算

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“ くっ黒崎ぃ――ッ ”

血液内科、助教笠原リノは、医局でこの噂を耳にした。

( あいつぅ…マジ! 辞めてどこ行くつもりよっ)

リノ先生は、本人に会って直接話しを聴くまで信じないと 心に決め先生の居そうな場所を探して院内を駆けずり回った。しかし…“ ゴキブリ ” と あだ名された神出鬼没の黒崎先生の居所は掴めなかった。

( 三浦先生は出張中…)


准教授室の宗方先生を頼る…


「せっ、先生―黒崎が辞めることご存知でしたぁ?」

……


「もう 噂が耳に届きましたか…  賭けは、僕の勝ちかな?」

金縁眼鏡の奥の冷ややかな視線が、リノ先生の慌てぶりを愉快そうに見つめる。  宗方先生が全く驚かない事に 疑問が湧く…賭けを持ち掛けたのも宗方先生………。


「先生…、知ってました?」


宗方先生を睨むリノ先生の眼に涙が溜まりだす。


「まあ  立っていないで、座りなさい…、僕からも、君に話したいこともあるんだ…」


(  黒崎が辞める… 辞める…辞める…………………)

「……」

リノ先生は、黒崎先生から一言の連絡もない事へ、怒りが込み上げてきた。


「黒ちゃんは……、9月からス○○○ード大学の専任教授に決まったんだ。退職は6月末だが、早ければ来月からサンフランシスコに行くよ」


〝 ガガァーアアアァ!〟

リノ先生の中の何かが音を発てて崩れ落ちる。


「スッ…スッ!!  ス〇〇〇―〇ォ! の専任教授っ」


(  有り得ない…信じられない!!  黒崎がぁ…!)

リノ先生は、床に座り込み、両手で顔を覆い泣きだした…



「うぅ…うう…もう おしまいっ!  叶わなくても近くで 一緒に仕事が出来るだけで…よかったのにぃ」

大声で泣きだした。


宗方先生は、困り顔でゆっくりとコーヒーを口に運ぶ…。


(  泣かれてもなぁ…)


“  もう…どうでもいい   黒崎が居ない大学なんて…ずっと 一緒にオペしたかっただけなのに……遠すぎて 手が 届かないよ ……くろさきっ ! ”



【  医学部3年の時…突然 見知らぬ いかつい風貌の同級生と名乗る男が講義に参加しだす…つねに一人で行動し、親しい友人もいそうに無い。たまたま  講義に遅れて入ってきたその早瀬と名乗る男が、座席の横に飛び込んできた。いきなり
「わりぃ ~  紙一枚くれないか…」 】



笠原リノの脳裏には、走馬灯のように黒崎ヒカルとの思い出の場面がフラッシュバックする。


〝  あぁ――― 〟


涙は枯れるどころか後から後から溢れる。


(くろさきぃ… )

【 恋人の米軍中尉の突然の事故死の後…大学病院に退職願を出し、大学院も辞めて一人渡米する。一言の相談もなく…早瀬ヒカルは 笠原リノの前から 忽然と姿を消した。】



 ( 一緒じゃん!! )


いつも 私の前から突然消える…。



 再会―


【 7年後帰国した 黒崎ヒカルは新進気鋭の第二外科准教授………緊急時の手術現場だった。
“ こんなExcitingなOPeは初めてだっ!素晴らしい!”…】

黒崎の一挙手一投足に   神経を集中して麻酔管理をする。 痺れる瞬間、あの日の手術が今も忘れられない…


【 手術場から退出する時…背後から黒崎が近づき、

“  リノとセックスしたら超気持ちいいだろうなぁ…” と、耳元で囁…
追い越していった。  白衣をひるがえし去って行く黒崎の背中を見つめる事しかできなかった…………】


くるくると場面が蘇る…何も 変わらない黒崎の背中ばかり見てきた私。
( もうイヤダ…)

一度も振り返ってくれなかった。

   
 「…」


「ティッシュ いるかい…?」


宗方先生から差し出されたティッシュを勢い受け取り涙も鼻水も一緒に拭き取る。

【 黒崎はハンカチを血色の悪い痩せっぽちな女の子に押し付け、 

“ 拭けよ…きったねえなぁ”と、彼女の背中を叩いて介抱した。】
 

私がララ以外に初めて見る黒崎の女性に対する優しい態度…

( 誰!この貧弱なオンナっ⁉︎ )

沸き上がる嫉妬で彼女に絡んでしまった…〝 綾野ミチル 〟世界で一番嫌いな女…

【 黒崎は私とランチしているのにっ、まるで私がそこに居ないかのように……。“あ…もう食えねぇなあ”  彼女の落としたスコーンを気にかける 】

黒崎が、興味を持った冴えない女の子。  突然私と黒崎の間に割り込み…黒崎を奪った。   彼女に絡んだ私の嫉妬を、黒崎は見逃さず…

【  “ッ いい加減にしろっ! 何なんだよ お前? みっともねぇ女だなぁ”  】


酷い言葉を浴びせてきた…。

(黒崎ぃ!ひどいのはあんたの方よっ)

―涙が止まらない…

【   “馬鹿がぁ!んなわけねぇんだよ行くぞ!   えっ はぁっ ”  戸惑う彼女の手首を掴み院内のカフェから強引に彼女を引っ張って、行ってしまった…私を置き去りにして…】

( なぜ?  私じゃダメなの?  くろさきぃ…こんなに 好きなのに…)



“  宗方先生…”


ティッシュで鼻水を拭いながら宗方先生と視線が交差する。…
顔に血流が集中し火照る…


 ( …酷い姿 見られた )「……」


「リノちゃん、もう諦めついた?」

宗方先生は、脚を組み肘を立て自分の顎を指先でなぞる。真ん中から左右に流れるサラサラの髪が良く似合う…。細い金縁眼鏡の奥の瞳は微かに微笑んでいるようにも見えてなまめかしいエロスの薫りを発散している。リノ先生が俯くと 、再び涙がポトリと落ちた。


「ふぅ…やれやれ、仕方がないなぁ…さあー 床に何時まで座っているつもりだい?」


宗方先生が手を差し出す…。蜘蛛が張り巡らした糸に蝶が捕まるように リノ先生はその手を掴んだ。 …………



宗方先生の手を掴んだ途端、躯は長い腕に絡め捕られた。 先生の懐に泣き顔を沈め…つづく嗚咽を受け止めてもらう。 先生の体温と呼吸を感じながら、“ 黒崎ヒカルを消し去って” と、リノ先生は願った。

 君から、黒崎ヒカルを消し去る事などとうの昔に諦め ているよ…君自身で消し去る しか方法はない… そこは、全て君次 第って訳さ。 今は、僕を仮の住家 にすればいいけれど…黒崎ヒカルが居なくなれば…僕は容赦しない…。  僕からは 逃れられない…さ。



( 覚悟して、リノちゃん )


 君は僕無しでは 居られないように なるから…。



サンフランシスコの日本人街…

小さな教会で家族だけの挙式を挙げる予定でいたが…現地の先生の知人、友人、大学関係者が大勢お祝いに駆け付けてくれた。  出席者の中には ナオミ先生とクラリスの姿があった。  香川君の事を真っ先に聞きたかったのは、私だけではなかった。


『香川は?』


ナオミ先生は、 “ほらきた!”  とばかりに、

『タカシは 気が利いてるから、重宝に使わせて頂いてるわっ、 ほんとっ、ヒカルのおかげっ』と、厭味たっぷりに返答する。


『ふ~ん…俺はまた、クラリスが “ たらしこんで ” ラリったまま コケてんじゃねぇかと心配してたんだ…、さっすがナオミっ! アイツぅ…何せ純情まっしぐらだからよ…』

先生はクラリスに冷ややかな視線を向ける。


『たっ…、たらしこむって!  』

クラリスは、白い肌を真っ赤にして先生を睨んだ。  ナオミは、内心事実を突かれて苦笑する。  日本からも、宗方先生と笠原リノ先生が来てくれた。


『シンジぃ!』

ナオミ先生と宗方先生は同じ分野を研究するよきライバルだった。二人が仕事の話しに没頭しだすと、  宗方先生のK大学の同期で、黒崎先生の義弟にあたる池田チハル教授も話しの輪に加わった。


『香川タカシは、ヒカル君に横取りされたと思ってね…一本やられたと思ってましたが、メ○○○ン大学ですかっ!  クククッヒカル君もホワイト教授にうわまえをはねられた訳だっ   アッハハハァ…愉快  愉快』


チハルさんは、先生がS大学教授になった事に相当な悔しい思いを噛み締めていたに違いない。その事に一切触れず香川君の一件にすり替えている。   チハルさんの妻で 先生の義妹、池田ミチコ先生は先生のお母さん、早瀬カオルさんと親しげに談笑している。


本物の母と娘のよう…



それにひきかえ…………



うちの家族ときたら、お父さんも、タダシも見るもの聞くもの初めてばかりで…皆がネイティブな英語で会話する中、身振り手振り和製英語で押し通し、キョロキョロ、うろちょろ目が離せない。


(ったくぅ…)


「姉ちゃんっ、オレ明日なぁ  タクヤと、ディズニーランドへ行こかぁって…ゆうてんねん! ええよなぁ?」


タダシはすっかり関西訛りに戻ってしまった。


「えっ… 誰に連れてもらうんよ?」


「そんなんっ、決まってんちゃうん… ‘アニキ’ やん!」



「えっ ⁉︎  せんせぇ!」

先生がディズニーランド!  想像するだけで寒気がする……




日本なら丁度 小学二年生のタクヤ君は、 ドイツベルリンで両親と暮らしている。   春休みを利用して鎌倉の早瀬カオルことタクヤ君の戸籍上の祖母の所に遊びに来ていた。  戸籍上、父親である、先生に新しいゲームとアニメグッズを秋葉原で買いたいと、ベルリンから毎日メールを送り続け先生が根負けしたらしい。  先生は誰にも内緒で、タクヤ君に付き合って、秋葉原を初めて散策し、メイドカフェやオタク文化を初体験していた。   なにせ、先生のテリトリーは銀座、六本木、新橋  完全なオヤジステージ。   先生の恐れをしらぬアクティブさに感心する。   そんなこんなで旅行を楽しんでいたタクヤ君を、突然の挙式で日本に残すわけにも行かず、  鎌倉のお母さんが連れて来ていた。   肝心のタクヤ君は、結婚式よりディズニーランドに行きたいと、我儘を言って先生を困まらせている。


(このクソガキっ!)   先生は怒りながら タクヤ君の我儘を即刻聞き入れた。

( 何なの?   甘過ぎ…だよ!)

子供を潰す典型的なダメ親。


(先が思いやられる…)

しかも先生は、タダシをタクヤ君のお守り役に決めていた。

タダシが、お守りでは先は真っ暗…。弟は初の海外旅行で先生の思惑などどうでもよく、ただただ舞い上がっていた。



これから…皆が親戚関係―





「黒崎ぃー話しが あるの…」



( えっ!  リノ先生?)


「リノ…わざわざアメリカまで来てくれて 、ありがとなっ!だが… 仕事は 大丈夫なんだろうな?」

綺麗な白い歯が 先生の口元から覗く。


「黒崎ぃ…私と話す時は 仕事の事だけなの?」


リノ先生の思い詰めた表情が先生に警戒の信号を送る。先生は無言の返事を返していた。

「黒崎ぃっ  私の気持ち…さ、わかってるよね!   大学時代からずっとあんたのことを…」


「リノっ!それ以上言うなよ…」

先生が意外に優しく制止した。


「…」

リノ先生の悲しみに沈む瞳が先生を睨む…。


「リノ…おまえとはさ、タイミングがズレてたんだ」


「なっ、何…よ!タイミングって…逃げないでよっ」

堪え切れず涙がこぼれた。リノ先生の顔を見ることすらしない先生…。

(先生も辛いんだ…)


「俺はさっ、世の中に偶然は 無いと思っている…全てが必然なんだよ、 俺が おまえに気がついたのも、おまえが俺の行く先々に 先回りして現れたからだろ…違うか?」

「 くろさき…知っていたんだ  」


リノ先生の泣き腫らした顔は、恥ずかしさで赤くなった。


「俺はさ、昔な…ララを自分のものにする為にわざとララの前でバカをやった…」

先生は俯き、フッと笑う。


「人を、好きになるとな、言葉より先に誰しも普通じゃ考えられない行動をしてさ…気持ちを伝えようとする…」


「なっ、何が言いたいわけっ?」

リノ先生が苛立つ。

「まあ、聞けっ!  ミチルなんて別にどうって取り柄のない小娘だった…しかし、  アイツがたまたま取った行動に俺がハマったんだ。   あいつにすりゃあ、よっぽど俺に腹がたったか…嫌いだったんだろ…?」

( 俺の診察を…拒否しやがった…)


「クソ生意気な小娘に、思い知らせてやろうと、年甲斐もなく策を巡らした…フフフ   わざと待ち伏せしたりしてな…クク    いい歳した中年オヤジがさ…」


(  その時から、俺とミチルの必然が重なった…)

「黒崎…それは 」

リノ先生の綺麗な眉間が険しくなる。


「あいつは俺から逃げようとしやがったんだ…!  この俺様から!」


「黒崎…何を言いたいわけ?」


( そんな話し 聞きたくない…)


黒崎先生は、思い出した出会いの瞬間を愛おしむように懐かしんでいる。


 (   私達だって、偶然の出会いから  今の今迄…誰よりも長く時間を共にしたじゃない よ!)



「私とは、重ならなかったって?何っよ  !」

 長い間の苦しい思い。

「そんな簡単に片付けないでよっ!  くろさきぃ…」


 お互いの思い…必然は生まれ なかった…の?


「そんなのは、あんたの勝手な都合じゃん!」



「そういう事だ…お前とはこれからも…無いんだ」


黒崎先生は、冷たく言い放った。   リノ先生は、茫然と立ち尽くす。



「だけど、僕はそれこそ…最低な気分だよっ、黒ちゃん…」


 (  宗方先生っ!  )




「な~んだ、宗方先生っ  立ち聞きですかぁ?人が悪いなぁ」

先生は、バツが悪く頭に手をやる。

「恋だの、愛だの実態の無いそんなもの…は、何とでもなるんだけどね…」


「…」

リノ先生は俯いたまま動けない。


「二人の手術場での阿吽の呼吸が、僕には堪え難い苦痛だったよ…一緒に入ってた機械出しのナースが、二人の事をね  “永年連れ添った夫婦のようだ”と言うからさ…発狂しそうなくらい君達に嫉妬を覚えたね…」


宗方先生は、苦し気に話す。


「…」


「今でも二人が、一緒にオペに入っているだけで、妬ける…無性に腹が立つっ」


宗方先生の涼しげな目元が、急に険しくなり 怒りの視線が黒崎先生に向けられた。


「…」


宗方先生が感情を他人にぶつける姿を初めて目の当たりにした。



〝 ガッハッハッハァァ― 〟
黒崎先生は、張り詰めた空気を蹴破る。


「だっ、だれぇ⁉︎  そんな事言った機械出しはっ!!   褒めて遣らなきゃ、  〝まさに〟だっ‼︎   その通り!」

「くろさきぃ…」

先生は、例の妖しい視線をリノ先生に向けた。

「リノとのオペは燃える…黙っていても最高に気持ち良くしてくれるんだ!   お前って女は…!  俺、お前とのオペ中は勃起しまくりだぜっ!
まるで、最高のセックスでスペルマぶちまける時、以上の快感だなっ」


黒崎先生の表情が恍惚となる…。

(せっ先生っ、よだれっ!口から涎)


リノ先生もオペを思いだしうっとりとする。


「くっそぉ!!!よくもっお前達ぃ、ヌケヌケとっ―そんな気持ち良さそうにっ…」

宗方先生は、顔を紅潮させ声を荒げて怒る。


(うわ…)


すると――――




いきなりっ


――――!



黒崎先生は、泣き顔のリノ先生を強く抱きしめた。

そして唇を奪った。




「あっ―!はぁぁ―――っ! なっにぃやってくれてんだぁっ黒崎ぃぃ!!!」


その口づけは、リノ先生の心臓を止めるほど激しく甘いものだった。




―最初で最後の 甘く情熱的なキス



一瞬で 下半身は蕩け躯の力が抜けていく―――


「……」


 力強く支えながら 朦朧としているリノ先生から唇を離すと



「俺の手術場でのおまえの代わりは世界中どこを探してもいない…リノお前だけだ  、幸せに…なれ」




 ( くろさきぃ…)  涙は枯れる事なく溢れ――、その滲むベ―ルはリノ先生の視界から黒崎先生を遠ざけていく…  先生は力の抜けた笠原リノ先生を、呆気にとられている宗方先生に預け、



優しく別れを告げた。



“――いつまでぐずぐずしているつもりですか…宗方先生”

黒崎先生は、去り際に小声で呟いた。   宗方先生は、リノ先生を黒崎先生の腕から受け取った。


抱きしめながら人形に命を吹き込むように、  甘く 優しく、耳元へ囁く…。

「リノは、もう一度生まれ変わればいい…」


涙の錘で閉じていた瞼が、長い睫毛と共にゆっくりと開く。   鼻先を掠める宗方先生言葉を、  瞳の奥の真意を、探るように見つめながら
探るが、  考える暇さえ与えらずに、先生の甘く優しい包み込むような口づけが、リノ先生に精気を吹き込み、ふわふわと抜けだしていた魂が、再び宿主の元へ…


「シンジ…」








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