上 下
1 / 20

風変わりなドクターと風変わりなナース

しおりを挟む

ここは伊豆半島。  入りくんだリアス式海岸に点在する集落の中のとある寒村。

漁港を眼下に見下ろす高台の診療所が、アメリカ帰りの名医黒崎ヒカル先生の〝 隠遁先〟だった。


粗末な平屋の診療所は、岬の高台の南面の蜜柑畑の中に隠れるように建っていた。ペンキの剥げた白い立て札は、所々下地の板が見え隠れしている。

【岬診療所】と、読み取れる程度の文字が浮かぶ。  三段の石段を上がると 雑草が足元のセメント通路を覆う。  入口には貼紙。

[釣りに出ています。 御用の方は夕方再訪して下さい。但し 、急患はこれに有らず。トバリ漁港内事務所までご連絡下さい。直ちに診察いたします。                                                                               院長]

貼紙の最後にトバリ漁協組合の電話番号が記されていた。事実は違う。  診療所の中で、主(あるじ)と芸者の清香が恥ずかしい遊戯を繰り広げている最中だった。



大抵が休診状態の岬の診療所。 そこを預かる医師黒崎ヒカル。数年前まで欧米で活躍し、日本の医療界でも知らない者のいない名医。

【 岬診療所 】は、平日 午前中だけ診療しているはずである。  例外は、しっかり者の看護師が休みの時。  つい嵌めを外して女性を連れ込む先生は看護師に見つかりヒンシュクを買う。  そんな先生がこの寒村に来るまでは、一番近い病院まで 港から船で1時間はかかり、病人や怪我人は搬送途中に初期治療が遅れて落命する事も少なく無かった。名医先生の着任が決まると、自治体広域連合は直ぐに朽ちかけた診療所をリフォームした。   先生の着任条件とは、 岬診療所から数百メートル先の休耕畑をヘリコプターが離着陸出来る広場に整地する事だった。


重篤な患者は 黒崎先生が初期治療した後、ヘリコプターで大学病院や専門病院へ搬送されるようになった。そのおかげで命を落とす人が格段に減った。  名医先生は地域医療の要として、自治体からも期待される存在だった。 先生が学会や所用で診療所を空ける時は、近隣の総合病院や大学病院の医師が出張して代診をしてくれる。  今の今まで 近代的医療から見捨てられていた限界集落。   一人の有名な医師の赴任の噂が噂を呼び遠方から泊まりがけで 診察を受けに来る患者もいた。研究機関のある病院は、病院で彼の診断でオファーのある急患は何かしら学術的な症例の可能性が高く率先して受け入れた。



一年前から午前中だけ、看護士兼事務員として修善寺に住む女性が診療所の仕事を手伝いに来ていた。


彼女の名前は

 藍川 夢 


彼女は、東京の名門 神学校を卒業した後、牧師として アフリカや南米の紛争地域への布教活動に身を捧げてきた。紛争地域や発展途上国での布教活動中に医療従事者の人材不足を目の当たりにした。目の前で 僅かな医療さえ受ければ 尊い命 幼い命を失わなくても済む場面に 幾度となく遭遇して…イエスの教えだけでは 傷を癒せないジレンマに苦悩し、任期を終え帰国すると、K大学医学部保健看護学科に入学し、看護師になる事を目指した。


そこで、黒崎先生の妹で 保険看護学科兼任の医学部教授 池田ミチコから保健衛生学の講義を受け、発展途上国での保健衛生の重要性を学び救急看護師の資格を取得した。



本業はあくまでも神に身を捧げた牧師であり、伊豆教区の教会で信者のために務める傍ら、彼女の望みは、再び世界中の貧困や紛争で苦しむ人々の暮らす地域へ赴くことだった。   平日の午前中は 黒崎先生の片腕として 献身的に看護の仕事をこなし、  午後は自らが預かる伊豆の教会で、布教活動を続けている。


毎朝、8時きっかりに、彼女は赤いポンコツのピックアップバンで出勤して来る。狭い山沿いの農道を小さな躯に似合わぬ大型バンを操りやって来る。



「おはよう ございます。」


明るく良く通る声で黒崎先生を目覚めさせた。

「牧師さん、今日は いつもより早くないかい?」


「先生…‘牧師’  さんは。止めて下さいね…今はナースなんだから!」


先生は、冗談の通じない堅物看護師を 毎朝からかうのが、最近の楽しみになっていた。   看護師藍川 夢は、手際よくスクラブに着替えると、

「先生もたまには 教会に来て下さい」

と、信仰心のかけらもない雇い主を誘う。


「そのうちな…」

黒崎先生は、生粋の無信心論者。  二人の思惑が重なる事はない。先生はTシャツにクロップドパンツの上から 白衣を羽織った姿で、コーヒーメーカーからカップにエスプレッソを注ぐ。   診察室に芳醇なコーヒーの香りが漂うと診察前の穏やかなひとときが訪れる。 先生はドクターズチェアに腰かけて、脚を組みエスプレッソの香りを堪能する。


「黒崎先生っ、今日は予約の患者さんが沢山いますよ…お昼過ぎますね…」


藍川夢は、予約診のカルテを確認しながら てきぱきと診察室の準備を整えていく。


「まあな…適当にやるさ」

先生は煎れたてのエスプレッソをゆっくり味わう。


「先生っ…その ‘適当’ の言葉と ‘いつでも釣りに行くぞ!’ みたいなラフな格好は感心しませんよ  」


藍川 夢は、冷ややかな視線を先生に向けた。  彼女の投げかける言葉は いつもでしゃばり過ぎる。


「白衣を脱げば、すぐ波止場に行くつもりでしょ?」


「煩いっ…たくぅ!  お前さんの仕事が説教かどうかはしらんが、ここは診察室だぞっ…俺が院長なんだ!   お堅ぇ事ばっかり言うなっ」


「はぁ?…先生のおっしゃっている意味が私には理解出来ません」

夢は意に介さず診察準備を続ける。



「お前さんの 理解は必要ないんだ! 見て見ぬふりするのが利口な従業員ってもんだろっ!…《朴念仁め》さっさとコーヒー飲めよっ!冷めちまうぜ」


「頂きます。しかし ‘隠遁’  されたとは言え、黒崎先生は、今でも人気でございますね」



(隠遁だと?俺は、引きこもりかっ!)

「藍川っ…!  お前 さぁ、さっきから聞いてりゃあ …俺に 喧嘩売ってるだろ?」


「まさかっ…私は尊敬申し上げているのです」


「ったくぅな…どうだか、坊主と女は信用出来ない」


「私はお坊様ではございません」


「あぁ~  牧師さまだ」


「先生っ…いらいらは血圧に良くありませんよ」



(っ忌ま忌ましい  ~)

小柄で華奢な藍川 夢が激しい紛争地域をまたにかけて、布教に走り廻っていたとは、俄かには 信じられない。  町が看護師の求人を毎回出しても、限界集落の朽ち果てた診療所で働こうなどと思う酔狂な看護師はいない。   思案の末に黒崎先生は、大学を退職し黒崎総合病院の院長になっていた腹違いの妹、池田ミチコに相談した。  彼女から「ピッタリな人材」と。紹介された時、その履歴書の証明写真を見て俄かには信用出来ない経歴だった。  藍川夢の外見は、上品で、大事に育てられたいかにもお嬢様の雰囲気が漂う写真だった。  

先生は、オペの最中に失神でもされたら困ると…一度は断った。  だが…試験期間を置けと妹から強く押され、やむなく仮雇いして様子を見る事にした。




一年前の出勤初日。

ちょっとした事件が、黒崎先生の彼女への評価を一変させた。


藍川 夢が初出勤したその日、黒崎先生は、

「何かあったら連絡しろと」

と、言い残し 携帯電話の番号だけを夢に伝えると 行き先も告げず往診に出たままだった。




「せっ、先生ぇっ! 前川の爺ちゃんが 畑でひっくり返ってぇ―血まみれずらぁ」

診療所に血相を変えて農夫が飛び込んできた。




「すっ、すみません!黒崎先生は急な往診で―」





「ええっ!!  爺ちゃん死んじまうぞっ!早く先生っ呼んでくれっ」




「わかりました、先生に連絡します その前川さんが倒れている畑まで私を連れて行って下さいませんか?」



「じょっ、嬢ちゃん あんた 誰だよっ⁉︎ 」




「私は看護師の藍川と申します…」

農夫の慌て様とは 対照的に、夢は平然と現場へ向かう準備を整え携帯用医療用具を担ぎ、農夫の軽トラックに乗り込んだ。




「もしもし 黒崎先生ですか? 急患です。 前川さんという方が 畑で倒れているそうで…かなり出血しているとの事です。今から現場に向かいます」





『おっおいっ!お前ぇーッ  俺が行くまで勝手なことするなぁっ!現場を言えっ』


夢は、運転手の耳元に携帯電話を寄せて、彼に場所を伝えて貰った。



「先生、前川さんを発見したらまた電話します、指示願います」





『おっ、おいっ、こらぁ!切るなっ』


…………


「くっそっ、あのチビっぃ!!  ドジったら、クビだけじゃ済まさねぇぞっ」


前川の爺さんは 蜜柑畑の中程で仰向けに倒れ 頭部から相当量出血していた。藍川 夢は頭部の裂傷を確認し、首の動脈に指先を当てる。


(脈は振れている…)


頭を動かさないように細心の注意を払いながら 気道を確保した。頭部裂傷の具合いを確認して消毒したのち 止血した。その間わずか数十秒…早い処置。  彼女の判断と処置の速さに 急を告げた農夫も唖然とした。

「姉ぇちゃん、医者みてぇだなぁ…」
黒崎先生の現状判断が適切に行えるよう 夢が知り得る最善の処置作業をしながら

「いえ…看護師です。黒崎先生を直ぐにお呼びしますから…」



『先生っ、患者さんを発見ました』

救急看護師としてできる応急処置をしたあと、黒崎先生の携帯に連絡を入れた。


『どんな具合だ?』
焦れた電話口の先生の声色から明らかに怒っていた。


『バイタルは一応安定していますが…不整脈があり、失神状態です。出血は、恐らく脳梗塞か一過性虚血発作による転倒が原因かと思われる頭部裂傷で 止血しました。 現状維持しています』



『よしっ、そのままで待ってろよっ!心原性だと厄介だからな…』


心原性脳塞栓とは…

一般的に  ‘ノックアウト脳卒中’  とも言われ、心臓で作られた血栓が脳塞栓を引き起こし 脳のダメージが広範囲に渡り重大な後遺症を残す事で知られている。


夢は、黒崎先生に処置内容を答える。


『はい…気道確保して頭部固定しました』


しばらくすると 救急車とスクーターに乗った先生が相次いで到着した。

「よし、藍川っ  良くやった。あとは救急に任せよう」


「せっ、先生っ! 引き受け先病院がありませんっ」
救急隊員が訴える。


「ったくぅ!」  先生が、恐ろしく厳しい顔をした。


「せっ先生っ」

藍川 夢の顔から血の気が引いていく。すがるような 切なげな彼女の瞳の奥深くに  過去のどうしょうもない凄惨な難民キャンプでの死にゆく人々を前にした無力な我が身が蘇る。



黒崎先生は、携帯電話で何処に連絡を取り出した。


『やあ、三浦先生っ 久しぶりだなぁ~♪  今から…一人患者をヘリで搬送するから…心原性脳塞栓の疑いありだ~ 』

先生は、三浦なる人物に大まかな症状を話し終えると、

「おいっ、T大救命が受けたから、10分でヘリが来る。 患者をヘリポートまで運んでくれっ』

騒動に集まって来た地元の人々が、電話一本で引き受け病院を決めてしまった先生に感嘆する。


「せっ、先生っ! みっ三浦先生って救命医日本一のぉ⁈ 』

救急隊員が仰天する。

( 何が 日本一だぁ…ったく…三浦のやつ 調子こきやがって…)



藍川夢の適切な初期対応が、一連の迅速な連携を取ることに繋がった。   一人の患者の一命を取り留め、処置の適切さと搬送が早く後遺症もほとんど残らずその患者は再び農作業が出来るまで回復した。

「藍川っ、いい働きだった  、一応 合格だ…」


黒崎先生が仕事で人を褒める事は 滅多に無い。


「有難うございます…でも、先生こそが、聞きしに勝る辣腕ぶり! 私こそ 此処に来て良かったです。」

夢は頬を染めた。


この日の出来事は ちょっとしたニュースとなり瞬く間に町中に広まった。しばらくの間、住人は連日 藍川夢を目当てに診療所に押しかけて先生をウンザリさせた。  先生のウンザリにはもう一つの理由があった。


それは…

藍川夢の布教活動だった。どんなに住人が押しかけても、精力的に、根気強くイエスの教えを説きながら 看護師の仕事も完璧にこなす。




(  ったくう…ミチコは 面倒なお荷物を 俺に押し付けやがった…)



先生の内心は複雑だった。


牧師に見張られていては、うかうか女も連れ込めない。この先、藍川牧師の顔を見る度、‘悔い改めよ’  と説く、ジーザスの 顔が浮かぶ
十数年の独身の歳月は、黒崎ヒカル先生の萎れかけた ‘性と心’を回復させるには 充分なリハビリ期間だった。  後にも先にも妻と呼べる女は一人だけではあるが、 男としての本能が枯れ果てたわけでは無い。   アメリカ時代は、女に不自由する事なく暮らせていた。  愛だの恋だの、面倒な感情抜きの セックスライフを楽しんできたのだ。


しかし、帰国後は  アメリカと違い簡単にコールガールをデリバリーできない。その上、歳に見えぬ可愛らしい  ‘聖職者’ を送り込まれては堪らない。いや看護師。  先生は藍川看護師の休みの日を狙って密かに女性を連れ込み ストレスを発散することにしていた。



「先生、そろそろ患者さんが 表でお待ちですよ」


「さぁて…と、働くかっ!」


先生は この診療所に来てからというもの、専ら 高齢者特有の骨粗鬆症の診断や、認知症…風邪  転倒などによる骨折   など総合的な初期の診療や、一般的に良く知られているアルツハイマー型認知症、脳血管性の認知症などの判別と投薬。  生活習慣改善の指導が主な仕事内容だった。   肉食系外科医師が、内科領域の僻地診療所でいつまで ガマン出来るのか、先生を知る多くの医療関係者達が 固唾を呑んで見守っている。

いつか、何か、やらかすだろう…と!


稀に、レビー小体型認知症やピック病など  希少な患者を発見した時は、先生の研究者としての血が騒ぎ出す。   しかし多くは、症状に対応した投薬や点滴などの対症療法で事足りていた。


暇な時は、患者と囲碁や将棋で戯れ、看護師の藍川夢などは、ちゃっかり聖書の朗読会を催すなど…  医療の最前線とは程遠い長閑さで、午後になると、  藍川夢が愛車のポンコツで帰って行った。


もっぱら午後から 先生は、港に係留しているクルーザーの手入れか、地元の男達と釣りに出たりして 毎日を過ごしていた。





しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

念のために身に付けておいて良かったです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:49pt お気に入り:145

【R18】きっかけはどうでも

恋愛 / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:116

幸介による短編恋愛小説集

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:213pt お気に入り:2

吸血少女ののんびり気ままなゲームライフ

SF / 連載中 24h.ポイント:1,243pt お気に入り:107

ねぇ、神様?どうして死なせてくれないの?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:369pt お気に入り:6

ぽっちゃりOLは筋肉課長に愛される

恋愛 / 完結 24h.ポイント:120pt お気に入り:107

ワイルドなおじさまと

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:101

処理中です...