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第3話 心が目覚める
『まだ、結婚してもらえないの?』
その言葉が、エレオノーラの耳の奥で、何度も何度も木霊した。
ふと、ルカが不思議そうな顔をして、エレオノーラの顔を下から覗き込んだ。
「エレおばさま、けっこんできないの? かわいそう。ぼくが、おおきくなったら、おばさまとけっこんしてあげる!」
「ルカ……」
小さな手が、エレオノーラの頬を優しく撫でる。その温もりに触れた瞬間だった。
――パチン。
エレオノーラの心の中で、何かが冷たく弾ける音がした。
それは、熱く燃え上がるような怒りではなかった。絶対零度の吹雪のように、あらゆる感情が一瞬にして凍りつき、そして澄み渡っていくような恐ろしいほどの静寂だった。
(ああ……私、何をしているのかしら)
目の前には、私を心から心配して涙を浮かべる妹。私を純粋に慕ってくれる天使のような甥っ子。
彼らをこんなに悲しい顔にさせてまで、私が守りたかったものは何だった?
『君と必ず結婚する。だから待ってくれ』
ユリウスのあの甘い言葉は、ただの呪いだったのだ。
(私を都合よく繋ぎ止めておくための、空っぽの鎖)
彼は私との未来を築く気など最初からなく、ただ有能な公爵令嬢という後ろ盾と、何も言わずに自分を待ってくれる都合の良い女が欲しかっただけなのだ。
この十年、私は公爵家の令嬢としての責務と、「一度交わした約束は守らねばならない」という呪縛に囚われすぎていた。
彼に尽くした時間、注ぎ込んだ資金、すり減らした精神。それらを取り戻そうと無意識に執着し、「ここまで待ったのだから、いつかは報われるはずだ」と自分に言い聞かせていた。
(――馬鹿みたい)
すっと憑き物が落ちたように、視界がクリアになった。
(彼への愛は、とうの昔に冷めていた。残っていたのは、ただの執着と惰性だったのね)
それに気がついたエレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳にはもう、待ちわびる女の哀愁も、報われない婚約者の悲壮感も微塵もなかった。
あるのは、氷のように冷たくて刃のように鋭い、本来の公爵家次期当主としての凄みだけだった。
「……セシリア。泣かないで。ルカも、心配してくれてありがとうね。でも、もう大丈夫よ」
エレオノーラは、ティーカップを持ち上げて優雅に微笑んだ。
それは、社交界で氷の薔薇と称される彼女の、最も美しく最も恐ろしい微笑みだった。
「私、殿下との結婚を諦めることにしたわ」
「え……? お、お姉様……?」
「十年よ。ええ、十年。よく我慢したと自分を褒めてあげたいわ」
エレオノーラの頭脳が、恐ろしいスピードで計算を始める。
婚約破棄に向けた根回し、王家への貸付金の回収計画、そして何よりあの愚かな王子に自分が何を失ったのかを骨の髄まで分からせるための「報復(おとし前)」のシナリオ。
「実はね、セシリア。十年前の婚約の際、お父様が王家と交わした『ある契約書』が存在するの」
「契約書、ですか?」
「ええ。殿下は恐らく、読んですらいないか、完全に忘れているでしょうけれど」
エレオノーラは、空の広がる青空を見上げた。
(今日から、私は自由だ)
十年間、心に降り積もった重い灰が、風に吹き飛ばされていくのを感じる。
「さあ、お茶にしましょう。明日からは、とびきり忙しくなりそうだわ」
十年の惰性恋愛に、自らの手で終止符を打つ。
明日迎える『契約の最終日』。彼がどのような態度に出るか、エレオノーラは冷酷な期待に胸を躍らせていた。
その言葉が、エレオノーラの耳の奥で、何度も何度も木霊した。
ふと、ルカが不思議そうな顔をして、エレオノーラの顔を下から覗き込んだ。
「エレおばさま、けっこんできないの? かわいそう。ぼくが、おおきくなったら、おばさまとけっこんしてあげる!」
「ルカ……」
小さな手が、エレオノーラの頬を優しく撫でる。その温もりに触れた瞬間だった。
――パチン。
エレオノーラの心の中で、何かが冷たく弾ける音がした。
それは、熱く燃え上がるような怒りではなかった。絶対零度の吹雪のように、あらゆる感情が一瞬にして凍りつき、そして澄み渡っていくような恐ろしいほどの静寂だった。
(ああ……私、何をしているのかしら)
目の前には、私を心から心配して涙を浮かべる妹。私を純粋に慕ってくれる天使のような甥っ子。
彼らをこんなに悲しい顔にさせてまで、私が守りたかったものは何だった?
『君と必ず結婚する。だから待ってくれ』
ユリウスのあの甘い言葉は、ただの呪いだったのだ。
(私を都合よく繋ぎ止めておくための、空っぽの鎖)
彼は私との未来を築く気など最初からなく、ただ有能な公爵令嬢という後ろ盾と、何も言わずに自分を待ってくれる都合の良い女が欲しかっただけなのだ。
この十年、私は公爵家の令嬢としての責務と、「一度交わした約束は守らねばならない」という呪縛に囚われすぎていた。
彼に尽くした時間、注ぎ込んだ資金、すり減らした精神。それらを取り戻そうと無意識に執着し、「ここまで待ったのだから、いつかは報われるはずだ」と自分に言い聞かせていた。
(――馬鹿みたい)
すっと憑き物が落ちたように、視界がクリアになった。
(彼への愛は、とうの昔に冷めていた。残っていたのは、ただの執着と惰性だったのね)
それに気がついたエレオノーラは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳にはもう、待ちわびる女の哀愁も、報われない婚約者の悲壮感も微塵もなかった。
あるのは、氷のように冷たくて刃のように鋭い、本来の公爵家次期当主としての凄みだけだった。
「……セシリア。泣かないで。ルカも、心配してくれてありがとうね。でも、もう大丈夫よ」
エレオノーラは、ティーカップを持ち上げて優雅に微笑んだ。
それは、社交界で氷の薔薇と称される彼女の、最も美しく最も恐ろしい微笑みだった。
「私、殿下との結婚を諦めることにしたわ」
「え……? お、お姉様……?」
「十年よ。ええ、十年。よく我慢したと自分を褒めてあげたいわ」
エレオノーラの頭脳が、恐ろしいスピードで計算を始める。
婚約破棄に向けた根回し、王家への貸付金の回収計画、そして何よりあの愚かな王子に自分が何を失ったのかを骨の髄まで分からせるための「報復(おとし前)」のシナリオ。
「実はね、セシリア。十年前の婚約の際、お父様が王家と交わした『ある契約書』が存在するの」
「契約書、ですか?」
「ええ。殿下は恐らく、読んですらいないか、完全に忘れているでしょうけれど」
エレオノーラは、空の広がる青空を見上げた。
(今日から、私は自由だ)
十年間、心に降り積もった重い灰が、風に吹き飛ばされていくのを感じる。
「さあ、お茶にしましょう。明日からは、とびきり忙しくなりそうだわ」
十年の惰性恋愛に、自らの手で終止符を打つ。
明日迎える『契約の最終日』。彼がどのような態度に出るか、エレオノーラは冷酷な期待に胸を躍らせていた。
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