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第83話 父親の恐怖を克服
「……うぅ……誰か……」
隙間から漏れ聞こえてきたのは、獣の呻き声のようなかすれきった男の声だった。
悪臭と冷気が立ち昇る。ノアはゴクリと唾を呑み込み、意を決して井戸の縁から下を覗き込んだ。
「……くさい」
ノアは、耐え難い悪臭に反応して、自然と口から出てしまった言葉だった。
振り返って母を見つめると、エリザはその様子を察してハンカチを手渡した。
光が差し込んだ底で泥と汚物に塗れ、ぼろ布を纏ったようにうずくまっている男。
かつて、上から見下ろすようにノアを叱りつけていたあの巨大で恐ろしいパパの姿は、今はどこにも見当たらなかった。
そこにいたのは、飢えと寒さで頬がこけ目を血走らせ、ただの惨めで矮小な一人の罪人だった。
「パ、パパ……?」
ノアの口から、無意識にその言葉がこぼれた。
その微かな声に、底にいるオスカーが弾かれたように顔を上げた。
「ノ……ノア……!? ノアなのか!?」
オスカーは這いつくばるようにして光の下に移動し、泥だらけの手を頭上へと伸ばした。
「ノア! おお、よく来てくれた! パパだ、パパだよ! 頼む、ノア! パパをここから出してくれ!」
その声は、狂喜に満ちていた。
エリザにもマリアにも見捨てられた彼にとって、実の息子であるノアだけが自分を盲信し、言うことを聞いてくれる最後の駒だったのだ。
「パパは酷い目に遭っているんだ! ここは寒くて、臭くて、お腹が空いて死にそうだ! お前はパパのことが大好きだろう!? だったら、ママやあの男に隠れて、縄を持ってきてくれ! パパを助けてくれるよな!?」
恥も外聞もなく、七歳の息子に命乞いをする父親。
そのあまりにも利己的で見苦しい姿にノアは、井戸の底の男をじっと見つめていた。
足の震えは、いつの間にか止まっていた。
(……なんだ)
ノアの心の中で、何かがパチンと弾ける音がした。
(ぼくが怖がっていたパパは……こんなに、ちっちゃくて、かっこわるい人だったんだ)
自分が井戸の底で泣き叫んでいた夜。オスカーは「お前が悪い子だからだ」と冷酷に言い放ち、助けてくれなかった。
(レオナルドおじ様なら、ぼくが泣いていたら、絶対に助けに来てくれるのに)
今のオスカーの言葉には、「ノアに怖い思いをさせてごめんね」という謝罪は一言もない。あるのはただ、自分を助けろという身勝手な要求だけだった。
ノアは、自分がこの男を恐れていたことが、なんだかひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「……いやだ」
ノアの小さくてもはっきりと澄んだ声が、井戸の中に響いた。
「え……? ノア、今、なんて……」
「いやだ! ぼくは、パパなんか絶対に助けない!」
ノアは井戸の底にいるオスカーに向かって、ありったけの勇気を振り絞って叫んだ。
「パパは、ぼくを暗いところに閉じ込めて! ぼくがいくら『ごめんなさい、助けて』って泣いても、パパは蓋を閉めて、ぼくを見捨てたじゃないか!」
「そ、それは……お前の教育のため(自分が離婚されないため)に……!」
オスカーは、逃げ道を探すように言い訳をした。
隙間から漏れ聞こえてきたのは、獣の呻き声のようなかすれきった男の声だった。
悪臭と冷気が立ち昇る。ノアはゴクリと唾を呑み込み、意を決して井戸の縁から下を覗き込んだ。
「……くさい」
ノアは、耐え難い悪臭に反応して、自然と口から出てしまった言葉だった。
振り返って母を見つめると、エリザはその様子を察してハンカチを手渡した。
光が差し込んだ底で泥と汚物に塗れ、ぼろ布を纏ったようにうずくまっている男。
かつて、上から見下ろすようにノアを叱りつけていたあの巨大で恐ろしいパパの姿は、今はどこにも見当たらなかった。
そこにいたのは、飢えと寒さで頬がこけ目を血走らせ、ただの惨めで矮小な一人の罪人だった。
「パ、パパ……?」
ノアの口から、無意識にその言葉がこぼれた。
その微かな声に、底にいるオスカーが弾かれたように顔を上げた。
「ノ……ノア……!? ノアなのか!?」
オスカーは這いつくばるようにして光の下に移動し、泥だらけの手を頭上へと伸ばした。
「ノア! おお、よく来てくれた! パパだ、パパだよ! 頼む、ノア! パパをここから出してくれ!」
その声は、狂喜に満ちていた。
エリザにもマリアにも見捨てられた彼にとって、実の息子であるノアだけが自分を盲信し、言うことを聞いてくれる最後の駒だったのだ。
「パパは酷い目に遭っているんだ! ここは寒くて、臭くて、お腹が空いて死にそうだ! お前はパパのことが大好きだろう!? だったら、ママやあの男に隠れて、縄を持ってきてくれ! パパを助けてくれるよな!?」
恥も外聞もなく、七歳の息子に命乞いをする父親。
そのあまりにも利己的で見苦しい姿にノアは、井戸の底の男をじっと見つめていた。
足の震えは、いつの間にか止まっていた。
(……なんだ)
ノアの心の中で、何かがパチンと弾ける音がした。
(ぼくが怖がっていたパパは……こんなに、ちっちゃくて、かっこわるい人だったんだ)
自分が井戸の底で泣き叫んでいた夜。オスカーは「お前が悪い子だからだ」と冷酷に言い放ち、助けてくれなかった。
(レオナルドおじ様なら、ぼくが泣いていたら、絶対に助けに来てくれるのに)
今のオスカーの言葉には、「ノアに怖い思いをさせてごめんね」という謝罪は一言もない。あるのはただ、自分を助けろという身勝手な要求だけだった。
ノアは、自分がこの男を恐れていたことが、なんだかひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「……いやだ」
ノアの小さくてもはっきりと澄んだ声が、井戸の中に響いた。
「え……? ノア、今、なんて……」
「いやだ! ぼくは、パパなんか絶対に助けない!」
ノアは井戸の底にいるオスカーに向かって、ありったけの勇気を振り絞って叫んだ。
「パパは、ぼくを暗いところに閉じ込めて! ぼくがいくら『ごめんなさい、助けて』って泣いても、パパは蓋を閉めて、ぼくを見捨てたじゃないか!」
「そ、それは……お前の教育のため(自分が離婚されないため)に……!」
オスカーは、逃げ道を探すように言い訳をした。
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