千姫物語~大坂の陣篇~

翔子

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第十章 救出

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 夫・豊臣秀頼、そして、義母・淀殿の死。

 二人の助命嘆願叶わず、大坂城の炎落城をただ茫然と見つめる事しか出来ないでいた千姫は深く落胆し、度重なる悲劇に当惑の思いを隠し切れなかったのであった。

 戦場を駆け抜け、茶臼山へ参った千姫にとって余りにも突然の出来事ばかりで、涙を流す事さえも出来なかった。

 助けてくれた実家・徳川に対する恩義と、豊臣を救済してくれなかった徳川に対する憎しみ……その二つの矛盾する心に苛まれていた。

 秀頼の遺髪となった髪を見つめながら、千姫は死ぬ事も許されない自身の境遇を恨んだのだった。

 夜中の内に大坂を離れる事となった徳川家康の命により、側室・阿茶局が、千姫達の一切の世話を任される事となった。

 家康の陣営が置かれていた茶臼山には、【冬の陣】の折に城が設けられており;対面之間・休息之間・次之間・三之間・家臣詰所、更には湯殿まで備えられてあった。
 食事も賄い場で調達され、縫い子も多数江戸から連れて来ていた為、昨夜戦があったとは思えない程、衣食住、何不自由なく過ごす事が出来た。

 しかし、憔悴し切っていた千には仮設で作られた城には一切興味を示さず、顔を一度も上げないまま、ただ一点を見つめるだけであった。三日が過ぎても、食べる事も着替える事もしなかったのだった。

 目を閉じれば、秀頼の顔が鮮明に思い浮んで来る。

 今すぐ追い掛けたい……追い掛けて、微笑む秀頼の胸に飛び込みたい……。いっそ、この世から去りたい。そう、頭の片隅で願っていた。

───────────────────────

 刑部卿局とお千代保は、哀しみに暮れてばかりもおられず、徳川の援助を快く受け入れ、汚れてしまった身体を清めたうえに新しい小袖に身を包んで、再び給仕しようと試みたが、一向に心を開かない主に、成す術も無かった。

 常高院は一度、義理の息子・京極忠高の陣営に戻って一晩を過ごした後、落ち着かせた心を伴って、再び茶臼山陣城へと赴いた。しかしそこには、口も効けない心ここにあらずの千姫がいた。常高院はそのままそっとしてあげる事にした、

「常高院様、恐れながら、このままではお千様は死んでしまいまする……少しでも何か食べなければ……」

 前のめりになりながら訴えるお千代保は、ただただ不安でいっぱいだった。千姫と秀頼はお互いを愛し合っていた。きっと追い掛けたい思いに違いないと悟ったお千代保は、自ら命を絶つのでは無いかと案じているのだった。

「人は腹が減れば生きては行けぬ。幼い頃から戦を知らぬ千なら、それに耐えられるはずが無い。私も初めは同じであった。案ずるには及ばぬ」

 これまで三度の戦の経験をして来た常高院の言葉には、説得力があった。

「されど、此度は、初めて愛する御方の死を目の当たりにしたのです。崩れる大坂城を見て、方々が生き残るはずはまずありえますまい。相当なる絶望をお感じのはずでございます」

 刑部卿が言うと、常高院は軽く頷いた。二人にとっても最愛の姉を亡くしたのだ。その悲しみは深いものだ。刑部卿と常高院の二人はそれ以上に、父母の死を経験している。その折にも、追い掛けたい思いに苛まれた。しかし、二人の傍には姉妹が居た。互いに元気付け、悲しみを分かち、励まし合って来た。

 それに比べて、千姫は一人だ。弟妹は六人いるも、誰も同じ経験をした事なく傍にはいない。二人は、どう千姫を元気付け、励ます事が出来るかと思案する事にした。


千姫の部屋 ───────

 あれから幾日が経ったのか分からない。

 燃え盛る大坂城を見たのがつい昨日の様にも感じる。

 空腹で鳴き喚く腹を叩きながら、千は無情な自分に怒りを覚えた。秀頼と淀の二人が、空腹のまま腹を掻っ捌いて熱い火の海に消えていったのだと思うと心が痛み、目の前に出される食事に手を伸ばす気にはなれないでいた。
 二度と空腹を感じる事も無く死んで行った二人が永遠の極楽浄土を歩める様に、千は祈ることにした。徐に背筋を正して、手を合わそうとすると、打掛の袖に何かが入っている事に気付いた。不思議に思った千は、そっと袖口から手を入れると、見知らぬ封書があった。

 封を開けると、中には淀殿からの文が入っていた。千姫は震える手を抑えながらそれを読んだ、

    ───────────────────────

 千、これを読んでおるという事は、城から出て、無事に匿われたのであろうな、まずは一安心じゃ。
 そなたに、これをしたためたるは、ただ一つ、詫びたいが故じゃ。
 そなたと秀頼を引き離そうとした事、そして、徳川と豊臣との間で板挟みに合い、辛い重荷を背負わせたこと、真に申し訳ないと思うておる。
 婚儀の翌日、そなたに冷たく当たった事、今まで悔いておった。
 ただそれは、そなたの後ろにおった家康を許せぬという、愚かな私の意地だった事を、そなたはすでに気付いておったであろう。
 しかしそなたは、私の浅はかな考えに屈さず、秀頼と仲睦まじく過ごした。側室が産んだ国松や千代姫を許したこと、とても嬉しかった。
 一度でもそなたと、義理の間柄とは申せ、親子として過ごしてみたかった。生まれ変わることが叶うのなら、そなたと母娘としてやり直したいものじゃのう。
 生きるのじゃ、千。生きて、そなたの道を歩み続けるのじゃ。それが母としての、最期の願いじゃ。

    ───────────────────────

『義母上………』

 知らぬ間に袖に入れられた文を何度も読み返しながら、千は流せなかった涙をようやく流す事が出来た。

 千は改めて、義母と自身は似ている事に気が付いた。共に意地を張らず、分かち合う事が出来れば、きっと良い家族として暮らして行けたであろうと、千は微笑しながら文をそっと胸に抱いた。

 常高院と刑部卿そしてお千代保の三人は、千姫の好物である落雁が盛られた高坏を持って、部屋を訪れた。
 障子を開けると、千姫が行李に入れて用意されていた小袖に腕を通していた。それを目の当たりにした三人は予想だにしなかった光景に目を丸くした。

『おお、お千代保! どうかのう? ずれておらぬか?』

 千姫は大きく手を広げ、何食わぬ顔でお千代保に帯の結び方が合っているかを訊ねた。

「あ、はい……。帯の後ろを少しお上げになると────」

 お千代保は高坏を置き、帯の後ろを上げながら、驚いた表情で千姫に訊ねた、

「お……お千様? ご自分でお召しになられたのですか?」

『そうじゃ? 煤だらけの小袖や掛は着ていて気持ちが良うなくてのう? 先刻、そちが着替えを置いて行った故、着てみたのじゃ』

 お千代保は、先ほどまで沈んでいた表情の千姫はそこに居なく、いつもの千姫に戻ったのを見て、満面の笑みで頷いた。

「ご立派にございます! ご自身でお召しになるなど、私、嬉しゅうございます!」

 千はお千代保に微笑みかけ、刑部卿と常高院にも笑みを見せた。

 『もう大丈夫』そう言っている様に見えた二人は、そっと胸を撫で下ろした。その後、千姫は身体を清める為、湯殿へと渡り、また新たな小袖と打掛を着た。

 哀しみや切なさを乗り越えた千姫が、少しずつ大人になって行くのを目にし、刑部卿と常高院は寂しさを覚えつつ、誇りに胸を高鳴らせたのだった。

───────────────────────

五月十三日、早朝。

 阿茶局が千姫の部屋を訪ね、明日には伏見城へ移るという事が知らされた。
 千姫は、慣れ親しんだ大坂を去るのを惜しがったが、もはや戦で荒れ地と化していた大坂の地には十二年前の面影などとうに失われていた。

 千姫は、およそ五日ぶりに大坂城の跡地を茶臼山から見下ろした。この五日の間に、徳川の兵士らによって大坂城の瓦礫や死体の処理が施され、うようよと小さく動く人影はあるものの、天守台と堀の石垣だけが残るその光景を目にし、胸が痛んだ。

 これは後から聞かされた事だったが、【山里曲輪】で自刃した三十数名の遺体は発見される事なく、残されたのは衣服や鎧だけだったという。

 両手を合わせた千姫に倣い、常高院、刑部卿とお千代保も続けて合掌し、亡くなった人々の魂を悼んだ。

五月十四日、朝。

 一行は京街道を上り、その夜の内に伏見城に入った。伏見城は千姫にとって生まれた場所でもあり、大坂城に移る前に滞在していた城でもあった為、心弾ませていた。
 翌日、御殿内を廻った千姫は、昨夜感じた胸のときめきを再び呼び起こした。

「姫様、阿茶殿によりますれば、しばらく伏見でのご滞在が長くなる模様にございます。こちらでのお暮らしに慣れますよう、御庭に、お花などを植えさせましょうか」

 見ると、伏見城の庭には花は一切咲いておらず、まさに武家の趣で、殺風景だった。千姫は笑みを湛えた、

『そうじゃな。皐月や芍薬、菖蒲しょうぶの花などを愛でたいのう』

 季節の花々の名を耳にし、胸が高鳴ったのは千だけではなかった。

かずらのお花も町方では近頃人気らしゅうございますよ? お千様、如何でしょう?」

「葛はならぬ、あれは匂いが強い。姫様の御心の妨げになるだけじゃ」

 お千代保の言い分に刑部卿が意を唱えると、千姫は手で制した、

『良いでは無いか。大坂では葛の香りを好まぬ者が多かった。そなた達が構わぬなら、私は久しぶりに葛の香りを楽しみたい』

 千姫の無邪気な笑顔を見て、心が洗われた刑部卿とお千代保であった。

───────────────────────

 その後しばらくは、ゆったりとした平穏な時が流れた。

 ところが、それから数日が経った五月二十三日、千姫に恐れていた報せが届いた。大坂城から逃げ延びていた秀頼の嫡男・国松が、十四日間の逃亡も甲斐なく、都に潜伏していた所を徳川の兵によって捕らえられたというのだ。そして、市中引き回しの上、六条河原にて処刑された。享年八歳の幼い命であった。

 刑部卿局からその報せを受けた千姫は驚きのあまり言葉を失った、

『そんな……国松が…?』

 国松とは、そう長く時を過ごしたことは無かったが、千姫にとって国松は秀頼の忘れ形見だ。事が落ち着けば、国松を迎えに参ろうと考えた矢先に、こうした訃報が届き、深く落胆した。

 刑部卿は気を落ち着かせながら報告を続けた、

「御母君のお伊茶いさ殿につきまして、国松君をお守りしようとお庇いなされた折、兵の一人が切り殺した……との事でございます」

『なんと……』

 おぞましい真実を聞かされ、千姫は徐に両手を合わせ、国松と共に処刑されて行った者達の死を哀れんだ。その瞬間、千姫は国松と同時に城を逃れたと思われる、千代姫の姿が脳裏をかすめ、刑部卿に訊ねた、

『っ! 千代は……千代姫の身はどうなった? 未だ……徳川の兵に見つかってはおらぬであろうな?』

「行方知れずにて。逃げ延びておいでだとよろしいのですが……」

 すると千姫は俄かに立ち上がり、次之間へと渡って行った。

『お祖父様はまだ京におられるのであろう。今から文を書く……千代姫の命だけは救うようお願いするのじゃ。刑部卿、書き終えたら、ただちに届けよ!』

 千姫は文机に向かい、筆を取って家康に届ける文をしたためた。一言一句、家康の機嫌を損なわない様な内容にしつつ、孫としての必死の願いを紙に書き連ねた。
 筆を置いて封緘ふうかんした後、刑部卿に手渡した。刑部卿が立ち上がろうとした丁度その時、千代姫捕縛の情報が侍女によってもたらされた。

 恐れていた事が真になり、千姫の胸の鼓動が早くなって行った。

 家康や秀忠に黙って、勝手に城を出る事は許されない。しかし、許可を得ようにも、二人は伏見から離れた二条城にいる。許しを得てからでは、取り返しの付かない事になるかもしれない。

 いくら考えても打開策を見出せず、観念した千姫は、文を破り捨てようとした。すると……

戦場いくさばと化した大坂城を抜け出せた貴女様が、然様に弱気になって如何なさいますか!」

 阿茶局が突如として現れ、千姫に進言し出した、

「姫様、お行き遊ばせ! 大御所様の、幼児おさなごを手に掛ける非道な行い、私も許せませぬ……。後ほど、私から大御所様へ言い含めておきまする故、お発ちなされ」

 阿茶局の力の強い言葉を受け、生きる為のよすがを助け出す為、千姫は行動に出た。

───────────────────────

京・六条河原 ───────

 兄・国松が処刑された事を知る由も無かった千代姫は、京都の寺に潜んでいた所を徳川兵に見つかり、所司代の通告を得ぬまま、罪人の処刑場である六条河原へと連行された。

 小石の方と乳母、護衛として伴った家臣らが目の前で惨殺され、千代姫はもはや逃げる事も隠れる事も出来ないと悟り、じっと死を受け入れたのだった。

 身体の自由を奪われ、目隠しもされ、見るも哀れな小さな姿に同心らはたじろぎもせず、土壇場の上に千代姫を跪かせた。

 豊臣家の血筋を引く最後の処刑を、見世物の様に民衆の前で披露される事となった。観衆は恐れと興味から見守る中、今かと今かと、豊臣の血が流れ出るのを待ち受けていた。

 するとそこへ、護衛と共に現れた一基の輿が、河原の手前で下ろされた。

 不審に思った番所の同心は声を荒らげながら、輿から現れた人物に向かって言い放った、

「これ、そこの女!! 何をしておる!! 処刑の邪魔だ! 早々にここから立ち去れい!!」

 人道も倫理も感じられない同心の言葉に、刑部卿局が颯爽と同心に歩み寄り、刀に恐れる事無く声を張り上げた、

「控えよ!! この御方を誰と心得る! 二代将軍・徳川秀忠公の御息女にして大御所・徳川家康公の令孫れいそんなるぞ!!」

「は、ははーー!!」

 将軍・秀忠と大御所・家康の名を聞いた同心と首打役は、血相を変えて、葵の御紋を突き付けられたように平伏した。

 千姫は毅然としながら、縛られている小さな姫君の傍に立ち、近くにいた首打役に向かって命令した、

『すぐにその娘の縄を解くが良い』

 ところが首打役は、例え大御所の孫娘といえど、執行人としての誇りを携え、尚も勤めを果たすべく、刀を離そうとしなかった、

「豊臣の血族を絶やせよとの……大御所様よりの命にて」

『聞こえなんだか……今すぐ解くのじゃ! 我が言葉は、大御所様の言葉と心得よ!』

 男は、千姫の強い眼差しを見て、悔しそうに顔を歪ませながら、言う通りに、千代姫の縄と目隠しを外してそのをを退いた。
 
『千代姫っ! 大事無いか?』

 千姫が千代姫の肩を抱いた途端、やせ細ったその身体を哀れに思った。千代姫はそっと力なく目を上げて、蚊の鳴くような声で、「はは……うぇ……」と呟き、千姫の胸に倒れ込んだ。

 夫の忘れ形見を抱きかかえた千姫は、輿へと戻り、一行はその場を去って行った。

 取り残された、同心と首打役は身悶えしながら、ゆっくりと去る輿に平伏しながらも、血が滲むほどに地を力強く叩いたのだった。
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