黄昏の芙蓉

翔子

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御所の反乱



後宮・弘徽殿  ───────

「御上、御願いがございます。居頼親王の女御についてでございますが……私の末の娘、ゆう子を……嫁がせとうございます」
幾百年続く後宮の常識を逸脱した有子様の思いがけない発言に、裏で控えていた勾当内侍こうとうのないしはお二人の目の前に姿を現し、帝の御前である事を忘れる程に憤りを顕わにされたのでした、
「弘徽殿さん!!今度と言う今度は──」
言い終える前に、帝は御手で勾当内侍の言葉を御制止され、有子様に冷たく言い放たれました、
「有子、何故そちと他の者との間の娘を、居頼に嫁がせねばならぬのだ」
「私は……気付いたのでございます。私の身内は後宮にはおられぬと……」
有子様は両手を付き続けながら目を合わさずに申し上げました。
「居頼がおるではないか……そちは……朕との子より、呉服問屋との子を選ぶつもりか!!!」
帝は初めてと言って良いほど、力強く御怒り遊ばし、御声を荒らげなさいました。
「違います!!」
有子様は帝のお怒りを恐れぬ素振りをお見せになり強く反論なされました。
「何が違う!!!」
「恐れながら、真の事を申し上げます。御上は御承知の事とは存じますが……公家の者達の婚儀の目的は、帝の外戚にならんが為の縁組みにございます。その様な事を、居頼親王にはさせとうは無いのでございまする……」
帝は不意を突かれたかの様に、御口を御噤みに御成り遊ばされました。

公家が権力を持ちたいが為、また、帝との縁戚となる為に婚儀を結ぶ事は俗世間も承知の事でした。しかしながら、代々の慣わしを蔑ろにする訳には行かず、御上は目を瞑っておいでだったのでございます。

「我が実家は居頼親王を外戚とし、実権を握ろうなどとは考えませぬ……いいえ、考えも持つことも叶わぬ、商家にございます。どうか、お願い申し上げまする」
頭を垂れるとしばらく沈黙が続きました。ただ聞こえるのは広い庭の池の波打つ音と鳥の囀りのみでございました。
「そちの事……信じるに値する女子おなごだと思うておったがな……」
そう言い御捨てになられ、帝は弘徽殿を後にされました。

その後、有子様は人払いを御命じになられ、一人、庭を眺める事しか出来ないでおりました。
帝の御怒りに触れてしまった事に反省の念を抱きつつ、心は遠く六条に思いを馳せておいででした。
末娘のゆう子さまとは六年前に別れた切りでございました。まだ幼な子でございました故、母の顔を知らぬまま「ふよう」ですくすくと育っている事だろうと、有子様はお考えだったのでございます。

崇敬してやまぬ御上に対し、大きい口を叩いたものの、果たして愚かな母の願いを藤子は受け入れてくれるのか、ご不安な思いの有子様でございました。


─────────────────────────────

それからしばらく時が流れ、年が明けました。
年始の挨拶の折、帝は有子様と距離を御置きになられ、有子様と目を合わせる事さえされませんでした。

有子様はあれからご自身のご性格を恨み始めておりました。
「素直過ぎる」と勾当内侍にあれほどきつく諭されたというのに、それを無視してまで、御心のままに御言葉を帝に対し、申し上げ奉るなど、無礼千万であられたと後悔しておいでだったのです。


後宮・藤壺  ───────

新年のご挨拶の為、有子様は勾当内侍を連れ立って、藤壺へとおいでになりました。
超子とおこ様の傍らには、珍しく藤小路ふじのこうじが控えておりました。

「宮さん、新しく御年おとしをご無事に御迎おむかえになられました由、御慶び申し上げまする」
有子様が年始の挨拶を申し述べると、超子様も続けて挨拶を返されました、
「女御さんも新しく年を迎えた事、おめでとう」
「ありがとう存じます。相も変わらず、お馬さんであらしゃいますか?」
有子様は、超子様の身成りを見て、微笑みながら仰せになられました。

年が改まっても尚、超子様は乗馬に勤しんでおいででした。乗馬用の装束も毎月新調遊ばされており、その仕立ての依頼は無論、有子様に一任されておりました。

「もちろんや!そちが帰ったらお馬さんに乗ろうと思うておるぞ」

お二人は仲睦まじそうに笑い合っておいででした。横をちらと見やると藤小路が呆れた様な顔をしておりましたが、有子様は気にしないように心掛けられました。
ところが、意図せずに藤小路は口を挟んで来られたのでした、
「弘徽殿さん、大層ご機嫌そうであらしゃいますが、居頼さんの姫宮さんはもうお決まりにならしゃったのですか?」
有子様は痛いところを突かれた様な心持ちでしたが、毅然きぜんとした態度で、藤小路の問いに応えられました、
「未だ、思い定められぬ所がある故、いささか時が掛かるかと」
「そないな悠長なことを考えていてよろしゅうおますのんか?」
「はい?」
「御上が、居頼さんの女御さんを定めたい言う事は、いずれ譲位遊ばされる言う事ではあらしゃいますまいか?」
「その様な事、聞いた事がありませぬ。御上の御考えを憶測するのは控えなされ、藤小路さん」
藤小路はあからさまに嫌な顔をし、超子様に向けて頭を下げ、その場を去って行きました。客、しかもその相手が自分より格が上の方より先にへやを退出するなぞ、女房に取ってはあってはならぬ行為でございます。
有子様は深い溜息をつくと、超子様が心配そうに、
「有子さん?どないしたのえ?」とお尋ねになられました。
「超子さん……実は───」

有子様は昨年末の帝とのひと悶着の事を告げられました。





「そうか……そないな事が……」
庭を眺めながら、超子様が呟かれました。
「超子さんにこの事をお話しする事、真に恐れ多うございます」
「何を言う……私も、御上にお願い事をしたことはあるぞ?馬に乗る事も、藤壺の殿舎に馬蔵を設ける事も、御上にねだってして下されたことじゃ」
「されど、私の願いは大事にございます。妻一人の願い事を聞き入れ遊ばされ、まつりごとを動かしてしまっているのでございます……私は……自分のした事を……悔いております……」
「悔いる事はないぞ、有子さん……」
有子様と勾当内侍は思いもよらない藤壺様のお言葉を聞き、驚愕なされました。

超子様は有子様の前に座り、手を取りながら清らかな眼で見つめられました、
「悔いる必要は無い……。其方は寂しゅうなったのじゃろう?私でも、帝でも無く、加持祈祷も行われずに腹を痛めて産んだ娘が愛おしゅうなったのじゃろう?御上は、其方の事を良う存じておる。信じるに値しないと言うたわ、つい口から出てきてしまった言葉だったのじゃと、私は思うておる……きっと、其方の為に動いてくれるに違いあるまい……」
有子様は目頭が熱くなるのを感じたのでした。
「私は、知っておる通り、先帝さきのみかどの内親王であった。外戚になりたいという浅ましい考えを持つ公家に対し、私もいささか毛嫌いしておる。されど、私は其方の様に、己をまっすぐ貫く事が出来ずにご公儀の決定に背く事は出来なんだ。私は其方が羨ましいぞ……有子さん」
有子様は、思い悩んでいた事が嘘のように快闊かいかつとなり、反対に今まで沈んでいた事を悔やまれたのでございました。

弘徽殿に帰る道中、有子様は勾当内侍に向かって言葉を述べられました、
「そちは年が明けてもなお、私を恨んでおろうのう」
「いいえ……私はただただ、貴方様に付いて行くのみにございます」
勾当内侍は、跪きながら海なる母の様な優しさを見せられました。
「そなたらしゅうも無いのう。叱ったりせぬのか?」
「申し上げたはずにございます……私は貴方様のそのお優しい心に感じ入っていると」
例え厳しく叱責されたとて、御二人の友情は永遠に続いている事に有子様は感涙の思いになるのを必死にお堪えになられたのでした。
「そうであったのう。参るぞ」
お二人は微笑み合いながら、歩みを進められました。


御所・大極殿  ───────

一方御所では、帝がご公務において、”東宮” と御成り遊ばされた居頼様の御姫宮おんひめみやの御候補決めが執り行われようとしておりました。

「つきましては御上、東宮さんの御姫宮の御相手、如何相成りまするのんかお決めにならはりましたか?」
時の関白である藤原家の御筆頭、兼親かねちか様が御上の御前に座り、表題を申し上げておりました。

御上は有子様の御言葉が、あれから頭から離れないでおりました。
公家に外戚として持つことは如何ばかりであると。御上も有子様と同じ思いでお悩みであられたのでございます。
「兼親」
「はっ」
帝に名を呼ばれ、兼親様は恐れ多く、ひれ伏しました。
「そのほうは朕の女御を存じておるか」
「何を仰せで。無論存じ上げてございます」
「その女御の末の娘を、居頼に嫁がせたいと思うておる」

一瞬、時が止まったかのように、控える公卿達は固まり、やがて、紛糾が矢の如く飛び交いました。
「それはなりません!!!」
権大納言・藤原実兼ふじわらのさねかねが身を乗り出しながら言いました、
「代々、公家の姫宮からお選びになるのが慣わしにございます」
権中納言・藤原兼平ふじわらのかねひらが冷静に問い質されました、
「恐れながら御上は、千年続く御血おんちを汚されるおつもりでございますか!!」
参議・藤原公実ふじわらのきみさねが恐れ多くも帝に怒鳴られました、

「静まれ!!!!」
数々の反論に黙って聞いていた兼親様は声を荒らげて、制止されました。
兼親様にとっても余りに衝撃的な帝の御言葉には承服出来兼ねる事だったのでございます。
「御上、恐れながらお考えをお聞きしてもよろしゅうございますか。何故、貴人の血が微塵も流れておらぬ者との間に生まれし、末の娘子むすめごを東宮さんの宮様に?」
「女御の為や」
「は?」
「女御たっての願いを受け入れたが為、女御の娘を居頼に嫁がせる、ただそれだけの事や」

尚も公卿の反発を買われた帝でございましたが、ゆう子様との親子関係を結び、帝の内親王として居頼様に嫁がせる事で、この一件は落着したかの様に見えました。

しかしその後、公卿達はご公儀の後にそれぞれ密談を交わし始め、数々の悪政に耐え兼ねた公卿達が、帝失脚の目論見を画策しているとは、まだ誰も知る由もありませんでした。


後宮・弘徽殿 ───────

居頼様は東宮となられてからは、次期帝となる為の勉学に励んでおいででした。しかし、學所は後宮や内裏では無く、内裏外に構える雅院がいんと呼ばれる庁舎で東宮教育を受けられておいでなのでした。

それ故、弘徽殿では、有子様と勾当内侍、雲井雁、梅が枝の四人しかおらず、寂しい正月を迎えておいででした。

「有子さん?お歌でも詠みましょうか?」
有子様は居頼様と離れられたのは、これが初めてであられた為、心ここにあらずの状態でございました。近頃、何にも興味を示さず、食事も喉が通らず、好きな縫い物も年が明けてからは一度もなされませんでした。

「東宮さんの事ならばご心配には及びませぬ。帝がご選出遊ばした、東宮官らが付いておりまする故」
勾当内侍が優しく言うと、有子様は微かに微笑みを見せられたのです。

その後、帝の使いから「御成りがある」との報せが届けられ、有子様は居頼様の姫宮様の候補についてだと思われました。

「有子」
帝が静かな御声で名を呼ばれると、有子様はただただ両手を付いて頭を御下げ遊ばされました。
「御上……私……」
「何も言うな……それよりこれをそちに渡す」
帝が徐に巻紙を差し出し、それを有子様が恭しく受け取られました。失礼しますと言いながら中身を読むと、一気に絡まった糸が解かれた様に身体の力が抜けたのでした。

巻紙の内容には、東宮様の御姫宮様の御相手は、帝の御猶子、ゆう子内親王と決まった由。と書かれてありました。

「御猶子……」
「わしの皇女として居頼に嫁がせる、そうでなければ大臣らの憤りを治められぬ。例えそちの娘であっても、呉服問屋の娘として嫁がせるのは許せぬ」
「……申し訳ございませぬ……もう二度と、御上にお願いし、政を動かす様な事は致しませぬ」
有子様は心の鼓動をうるさくさせながら、先だっての事について謝られておいででした。
「勾当から聞いた。そちはあれからずっと思い悩んでいたそうやな」
言葉が出ず、有子様は両手を付いたまま頷かれました。
「女御ならば女御らしゅう、御所で平穏に暮らし、わしに従っておれば良いのだ。……もうこの様な事を言わせるな……有子」
帝は徐々に厳しい口調から優しいいつもの声色に戻っておりました。帝の御手が有子様の頬に当てられました。
「はい……」
「では、わしは戻るぞ」
「御上……」
帝が弘徽殿から去ろうとされると、有子様は引き止められました。
「なんじゃ?」
帝が振り返られると、有子様は帝の目を見られながら、
「真に……ありがとうございました……」
そう仰せになると、何も申されぬまま帝はその場から去られました。しかしその御顔には優しい微笑を湛えられておいでなのでした。


京・六条 呉服問屋「ふよう」 ───────

「いま……なんと申されましたか?」
「末のお嬢様、ゆう子さんに、帝の皇子さんであらしゃる東宮さんに嫁いで頂きたく、それを申し伝えに罷り越しました」
ご公儀よりの決議があってすぐ、帝は呉服問屋「ふよう」へ遣いの使者を出し、ゆう子さまのご婚儀確定の内定を藤子様が受けておりました。
側には葉子様、芳隆よしたか様、湊仁様、浮舟様、そして、ゆう子さまと「ふよう」のご一行が揃って座しておりました。
「恐れ入りますが……それは…母・有子の考えでございましょうか」
「だとされたら、どうなされますのんか?」
「もちろん、受け入れるつもりはありません。私達家族を捨てた者に、妹を入内させる訳には参りませぬ!」
藤子様は家族の大黒柱として、威厳と強気な態度で使者に対し、抵抗の姿勢を見せておりました。

しかし、姉の強さとは裏腹に、葉子様と芳隆様は動揺を隠しきれないでおりました。
ゆう子様は顔も思い出せない母君の事を考えておいでなのでした。一体どんな人なのだろう、どんな顔なのだろう……さんとはどの様なお方なのだろう、と……。

「さりながら、すでにご公儀がお決めになられた事であり、御上も、ゆう子さんと親族関係となられるご準備を、着々と進めておいでにございます」
「その様な事、我が家族には関わりの無い事にございます」
「帝のお気持ちを蔑ろにするおつもりであらしゃいますか!」
「その覚悟です!」
「なんと不敬な!!」
「あの!!!」
藤子様と使者との論争が燃える中、しばらく黙っていたゆう子さまが大きい声を出し、皆の注目を得ておりました。
「ゆう子お嬢さん?」
浮舟が心配そうにゆう子さまの顔を覗き込みました。
「わたし……参ります!」
「ゆう子、参るとはどこへじゃ?」
葉子様が心配そうに聞きました。まだいとけない妹の今の境遇を心の底から哀れに思っていたのです。
「御所へ、母上さまの元へ、参ります」
「其方……これは遊びじゃないのや!子供は黙ってお──」
「遊びとは思ってません!!!子供でも、ちゃんと心はあります、姉上……」
藤子様がゆう子さまを言い含めようとするも強き態度で遮られてしまいました。
「私は……一度も姉上様達から愛された事はありませんでした。いつも仕事にかまけてばかり……仕事中は話しかけるなと頬を叩かれ、夜になっても眠いからと突き放されました……。私は……愛を……見つけたいのです」
「愛を……見つけたい…?」
藤子様は衝撃を受けておいででした。妹に愛を注いで来たつもりでしたが、そのお心はゆう子さまには届いてはおられなかったのでございます……。

「この浮舟では、ご不満でしたか?」
ゆう子さまの側に座っていた浮舟が顔を覗き込みながら、優しく問いました。
うきは良うやってくれた、ありがとう……。でも私は……血の通った家族から愛されたいのや。すまぬ……」
浮舟は悲しそうな顔をしたものの、どこか安心もしておりました。
一番大事なるは、家族からの愛であると、予てより危惧されていたのでした。

藤子様はゆう子さまの心の底からの正直な言葉により、気落ちしてしまい、使者の言葉が耳に入らなくなっておりました。藤子様の代わりに葉子様が使者からの言葉を受ける事になりました。

その後、ゆう子さまには翌朝、御所よりの迎えが来るという事になり、婚儀の確定が成されたのでございました。


翌朝 ───────

ゆう子さまは、葉子様のご自宅で、手ずから仕立てられた、あこめと呼ばれる貴族の童女が身に纏ううちきを短く仕立てた様な衣服と、その上に汗衫かざみという脇が縫われず三方に長く引きずる装束を身に纏っておいででした。どの柄も色もゆう子さま好みのもので誂えられ、葉子様からの心ばかりのはなむけでございました。

「おねいさん、ありがとうございます」
「ゆう子……」
葉子様は、これから後宮という伏魔殿とも言われる場所に向かう事になる。そのゆう子さまを慰めるが如く、優しく抱き寄せました。
「お、おねいさん……くるしゅうございます……」
「あ…すまぬ……」
葉子様が離れると、妹君の手を取りながら言葉を送られました、
「そなたの事を構っていられなかった我々を……許しておくれ……」
昨夜の妹君の発言を受けて、葉子様は反省されたのでした。”愛されなかった” という言葉に対して衝撃を隠せないでいたのです。
「いいえ……私は……おねいさんや姉上、おにいさんに決して愛されなかったという訳ではあらしゃいません。こうして大きく育てて頂いた事にはとても感謝しております」
ゆう子さまの大人びた話し方に驚きを隠せないでおられた、葉子様と湊仁様でございました。今までこうして面と向かって話をしたことなど一度も無かった事を思い知らされたのです。

ゆう子さまは店の方へと繋がる渡り廊下を通って、芳隆様と藤子様へ最後の挨拶をする為、母屋へと向かいました。
「おにいさん……この七年の間、お世話を頂き、ありがとう存じました」
「………」
芳隆様は昨夜の事で衝撃を受けられ、無視をする様になっておりました。

お二人は決して年が余程離れているという訳ではありませんでしたが、女人と殿方では話が合わない事も多くあられた為、無視されてもいままで通りの関係性は変わられませんでした。
しかしながら、最後という事もあり、ゆう子さまは勇気を振り絞って声を掛けられました。
「………」
しかし、しばらく経っても、芳隆様はひたすら一瞥もくれずにおりました。ゆう子さまは一礼してからその場を去り、今度は藤子様の部屋へと向かわれました。

藤子様の部屋の前に膝をつき、襖の外から姉君に声を掛けられましたが、一切返答がありませんでした。

とうとう御所よりの迎えが来てしまい、ゆう子さまはその場から去り、表口へと向かいました。

藤子様は昨夜から部屋に引きこもってしまっておりました。自分が母からされて嫌だと思っていた事を、思いがけず、末の妹にしてしまった事を知り、深く反省していたのでした。

すぐ下に葉子様が誕生してからは、遊び相手として共に過ごしておりました。
時には母からの愛を求めたくなるのが子供心、母に甘えようにも、すぐに頬を叩かれたり、仕事が終わっても相手にしてくれない事もしばしばでした。
しかし、それは幼齢であった頃の話であり、十を過ぎてからは叱られる事も少なくなり、母に対する気持ちが親愛から敬愛へと変わって行かれたのです。

店の前に止まった牛車は町民の注目の的を得ました。牛車は黒漆塗りで、菊の御紋が所々に施され、それはそれは立派な物でございました。
ゆう子さまは牛車に乗り込むと、見送りは葉子様と湊仁様、そして浮舟がしてくれました。
「すまぬのう……芳隆と姉上はほんまに頑固者じゃ」
「良いのです、おねいさん。義兄上様、浮舟……お世話になりました」
「お元気で……いらしてくださいませ…」
袖で涙を拭きながら浮舟が言いました。六年ばかり乳母としてお育てした幼子おさなごのこの様な雅びな晴れ姿を見る事が出来、寂しさと共に感動が溢れたのでございました。
「身体に気を付けるのじゃぞ」
義理の兄ながら、優しく気に掛けてくれていた湊仁様には、一方ならぬ憧れの念をゆう子さまは抱いておりました、まるで初恋にも似たような感覚でしたが、姉君の夫という事もあり、その気持ちをひた隠しにしていたのでした。

「では、参ります」
女官の一声と共に、三人は牛車から離れるとすぐさま出発しました。
それと同時に慌ただしく、店の方から声がしました。
「ゆう子!!」
「おねいさん……」
藤子様でした。葉子様が声を掛け、前へ誘導するにも牛車は出発してしまわれました。
間に合わなかった……寂しい思いをさせてしまった妹に、謝る事も抱き締める事も出来なかった……。
藤子様の心に、悔いが残ってしまう形になってしまったのでございました。

藤子様の後に続き、芳隆様も表に出られ、牛車が走り去るのを見送られました。
「芳隆、そなたは何故、見送りをせんかった……芳隆?」
葉子様が叱りつけようと顔を見やると言葉が詰まったのです。芳隆様の目に涙が溜まっていたのです。
「姉様……もっと阿奴と……遊んでやっていたら……阿奴は……あの様な思いをしなかったのでしょうか……」
芳隆様は芳隆様なりに、思い悩んでおられたのでした。
平安の世の慣習では男と女が話す事はありえない事でした。
しかしながらそれは、公家や皇族に限っての事だったので、民間の家族は別でございました。面と向かって会話をする事は制限されていなかったのです。それでも芳隆様は、ゆう子さまと家族として接する事を、照れ隠しと、書物で読み解いた慣習に思い違いをされ、避ける様になってしまったのです。


京・御所 ───────

牛車の中で、ご家族とお別れになったゆう子さまは涙を一粒も流す事はされませんでした。

向かう後宮には、顔も思い出せない産みの母君と、夫となられる東宮様、そして、義父となられる帝が待っておられると考えると、胸が高鳴る気持ちでした。
内親王が、帝もしくは東宮様に輿入れ遊ばす慣例として、大内裏の待賢門たいけんもんから内裏へと続く外郭を護る建礼門けんれいもん、そして内郭を護る承明門しょうめいもんを通り、内裏へとお入りになられました。

女官・夕霧の手を借りながら、ゆう子さまは初めて御所に足を踏み入れられ、紫宸殿の下段へと座らされました。
これより、帝の御猶子ごゆうしとなられるべく、親子固めの杯の儀が、参内した当日に執り行われる運びとなったのです。

両側には、束帯姿の大臣らが勢ぞろいしており、言葉も発さない為、初めは人形が置かれていると思っていたゆう子さまでございましたが、瞬きしているのを見ると、生きている人間であった事に気付き、恐怖の念を覚えられたのです。
太鼓としょうの音が鳴ると同時に、束帯姿の官人達が上段の方へ向き直り敬礼をし、ゆう子さまも頭を下げました。

御上が御簾の中の御座にお座りになられると、ゆっくりと御口をお開きになられました、
「ゆう子か」
「はい……」
「良う参られた。面を上げよ」
ゆう子さまが頭を上げると、御簾が上げられ、初めての対面を果たされました。

初めて拝する帝の御姿はとても美しく、神々しくもありました。この御方と母との間の東宮さんも、さぞ、素敵な御方なのであろうと考えると、緊張が解れて来たゆう子さまでございました。
「強張る必要など無い。これからは御所ここが其方の家と心得、宮として、居頼に心を捧げるが良い」
御言葉の後、ゆう子さまは微笑みながら、頭を下げました。

その後、粛々と盃の儀が執り行われ、帝とゆう子様は、正式に親子となられたのでございました。


後宮・弘徽殿  ───────


盃の儀の後、ゆう子様は有子様の待つ弘徽殿へと通されました。

ゆう子様にも、この弘徽殿を自室として帝より与えられ、親子水入らずで暮らせる事となるのです。

「ゆう子か……」
「はい……母上におかせられては、ご機嫌麗しゅう存じ奉りまする。このゆう子、先ほど、帝との親子固めの盃の儀を滞り無く執り終え、この大役仰せつかり、光栄至極に存じ奉りまする」
練習して来た挨拶の言葉が順調に言え、ゆう子様は安堵される気持ちだったのでした。
有子様は、まだ数えで八つになったばかりの娘がこの様に難しい挨拶が出来るとは思いもよらなかった為、驚きと感動を覚えられました。傍らに控える勾当内侍こうとうのないしも同様でした。
「丁寧な挨拶、真に痛み入る。御所に入ったばかり故、慣れぬ事も多いであろう。ゆっくりと私が教えて参る故、安心するが良い」
有子様が話すと、ゆう子様は両手を付いて、
「はい、母上」
「ゆう子、私の事は ”おたあさん” と呼んで良いぞ?堅苦しい挨拶は無用。変わらず母として接するが良い」
有子様なりの ”母” としての気遣いでございました。

初めて入る場所におり、顔も思い出せない母と、周りがひたすら長い装束と垂れた髪で、こちらを見る女房と面して、緊張している事を見抜いていたのでございました。
「はい……お、おたあさん」
ゆう子様は、子供らしい満面の笑みで答えられました。


京・藤原家の屋敷  ───────

その夜、関白・藤原家の御屋敷では、直衣姿の藤原兼親ふじわらのかねちか様と左大臣・九条忠香くじょうただか様、右大臣・近衛基泰このえもとやす様が、密談を交わしておいででした。

「首尾よく運びますかいな」
盃を持ちながら従兄である兼親様に聞かれる、基泰様。
「安心召されよ。御上を失脚させんのに、抜かりはあらぬ」
扇を口元に当てながら、二人に話された、兼親様。
「これで、御上とあの庶民も終わりよ」
高笑いする忠香様の声が響き渡ると、一人の壺装束の女性が「失礼します」と一言言って、部屋に入られました。
「これはこれは、典侍ないしのすけさん。わざわざこのむさ苦しい屋敷にお出ましなり、ありがとう存じます」
兼親様が頭を下げた相手は、藤壺中宮付きの女房、藤小路でございました。
「いいや、藤原さん、私は今ご機嫌なんですのんえ。日に日に、あの者が失脚する事を考えると、笑いが止まりませんわ」
「まっこと!任せておくんなされ」
「私のご機嫌を損なわん様に、あの女御さんを地の底に追い落とさなあきませんよ」

─────────────────────────────

その翌日、ゆう子様が入内されて間もなく、御所の中は不穏な空気が垂れ込み始めておりました。

帝が大極殿へご公務を開始されようとした折、関白、左大臣、右大臣やそれに連なる御所の官人らが参内していなかったのです。
「何事じゃ!!」
「御上!!藤原さんらと九条さん、近衛さんが参内しておらんのです!」
「……は……?」
「こちらが殿舎の中央に置かれておりました」

帝の御側近くに控える侍従が、殿の中央に置かれていたという書状を、焦った面持ちで手渡しました。
そこには……
帝の女御に対する度が過ぎる寵愛により、政を動かした事例の数々、表では国の事を切に思う帝という表の顔が、実際は各国が不平不満を感じれば、袖の下で解決をしていた悪政を実行していた……という事が書き記されており、紙末には、関白・藤原兼親、左大臣・九条忠香、右大臣・近衛基泰の他の内大臣、権大納言、権中納言ら官人の連名で出されていました。世に言う、兼親様からの建白書でございました。

「なんたること……今すぐこれらの者らを参内させよ!!」
「今、蔵人らに屋敷へ行かせているのですが、一行に帰って来ませぬ。よもや、懐柔されているのではありますまいか」
「なんなら、今すぐあの者らの職を解かせよ!!」
「御上、書かれている内容を良くお読み遊ばされませ!!」
侍従が言うと、帝が握りしめ、しわくちゃになってしまった建白書を読み返す、そこには……

「我々の首を切れば、即刻市中に事実を広め、評判高い帝の名声が崩れ落ちる事になる」
と、脅しを掛けていたのでした。

当時、都の民たちは御所に起こりうる出来事など、知る由も無かったのです。
確定した法に従うのみで、大事なるは日本国の事では無く、生きる為の明日の米を得る事のみだったのです。

帝は初めて大声を出され、落胆と怒りを露わにし、傍に控える侍従や内舎人うどねりも成す術も無い状態でした。

この後、有子様、ゆう子様、帝、居頼様のこれからが前途多難な人生となられるのは、時間の問題でございました。


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