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4つの点がそこにある。出来上がるのは三角形10

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 しっかりとアベルを目にとらえている。
 攻撃したり、キールにしたような制圧してくる様子はそこにはなかった。

 それはアベルも同じで、武器をインベントリに戻し、そっと仮面を外す。
 それは、本来ならただの自殺行為でしかない。

 単体戦闘力では一歩劣るし、激情に駆られていたとはいえキールというこのダンジョンではトップクラスのプレイヤーをものともしなかった、理性があるのかないのかもわからぬままの存在。

 そして、周りはなぜか攻撃されていないとはいえ、依然としてモンスターに囲まれているままなのだから。
 それでも、アベルはどこか和やかな表情を向けた。

「やぁ、由紀子ちゃん。会えなくて寂しかったよ。ご機嫌いかが?」
『ふふ、寂しがり屋さんね? でも、もう、アイテムは必要ないの』

 それは、アベルに合わせるように和やかさを持ったような落ち着いた声色だった。
 先ほどまでの不快感は確かにあるが、それでも柔らかな、友人や近しいものと話すような、そんな優しさがある声。

「お相手してもらえないのは悲しいねぇ。でも、お話しするくらいは許してほしいな」
『私、夢をかなえたわ、ねぇ、アベルさん。私、もう飛べるの、他の人に追い立てられることもない、他のものが私の前で私より高く飛ばれて踏みつぶされることもないの。ねぇ、アベルさん。お話しできるのは、嬉しいわ。でも、あなたには羽がない』
「そうだね。僕は、空を飛べない。君を飛ばしてあげたかったけれど、そんな広がりはなかったし、どうか僕に飛んでくれと願う勇気もなかった」
『今日も元気にぽえみーね、アベルさん。あぁ――どうして来てしまったの?』

 和やかながら、アベルは自分の体が浸食されていることを理解している。
 対面するまでは問題なかった、直視してから、会話を交わしてから、今までの浸食するような力が比べ物にならないほどに強くなったのだ。

 そして、なにより。
 アベルは、必要だと思われるそれを拒むような精神的な防壁と呼ぶべき思考を投げ出した状態にある。

『あなたは、あのような存在になる必要なんてない人でしょう? 私だって、たまたまだわ。執着することなんてなかったじゃない。だって、だって最後まであなたは私に声をかけて手を掴んでくれなかったし、あの時だってあれに襲われる私を助けてくれなかった……雨も降っていたけど
傘をくれた人もいなかったわ。背を押してくれたのは、慰めてくれたのは初めてできた友人で、大学生のあの人は裏切ったから人を信じるのをやめた私も少しだけ救われた気分になって?』

 アベルが、少しずつ肌が鳥のようになり、羽が生えているがこうして人であることができるのは、きっと由紀子自身がそれを抑えようとしているからだ。

 しかし、それがダメなのか、それとも今まで普通に話せていたようなことが奇跡だったのか、言っていることがおかしさを増している。

 由紀子が襲われたようなときに近くにいて助けたなかったことなどないし、このダンジョンに雨は降らない。
 大学生云々も知らない。友人は――おそらく如月だろうということだけだ。
 意識が混濁でもしているか、時間軸や記憶が混ざり合い出もしてしまっているのか。

「あぁ、ごめんよ。ごめんね。僕には確かに、君を助ける力がなかった。勇気もそう、今だって、君を困らせることしかできていないかもしれない」

 それでもかまわずアベルは続けた。
 それはキールと同じように、自分の感情を伝えるだけのようにも見えるが、それでも違いを言うとするならば、確かに相手を視界に収めていることだろうか。

『だって、あなたは私じゃなくてもいいじゃない? だから、私は、やっぱり鳥になろうって。期待は裏切られてしまうから。期待すると、その分深く地に沈んでしまうの。私は、空が飛びたいのに』
「そうだね。期待するのは、辛い。他人の事は、わからない。由紀子ちゃんは、私じゃなくてもいいっていうけど、僕は気付けば君じゃないとだめだって思うようになったんだ」
『気のせいだよ。だって、アベルさんはただの寂しがり屋の子供だもの。優しくしてほしくて、優しくしてくれるなら、それでいい。そうでしょ? 私も、そうだから、わかる。誰かに優しくしてほしいから、優しくしているふりをしているだけなんだ。もう、私は、寒くなるのは嫌なの。せっかく夢がかなったんだから、幸せにならないと嘘でしょう? あなたは、あなたで幸せになればいい。自覚すれば、手に入れられるわ。きっと、それは難しいけれど、あなたが思っているよりは簡単な話なの』

 アベルは帰ってほしそうな由紀子を無視するように、一歩近づく。
 指が1つぽとりと落ちる。

 どうやら、近づくとその変化する力は強まるらしい。最後にキールが相手のことなど知らないというある意味一番強い精神の強さを見せているのに浸食があったのは、そんなことは関係ないほどの影響力があったからなのかもしれない。

「僕は君が好きだよ。由紀子ちゃん、僕はね、我儘を言いに来たんだ」
『――――』

 アベルも、由紀子も。
 お互いがお互いに、似ている部分があった。

 アベルは、血のつながりも家族も、情も知らずに育った。
 由紀子は、血のつながりがあっても心も体も害されて信用などできないことを知って、他人は誰も助けてくれないこと知って、信じた人は裏切ることを、利用するためにそういうことをされるのだということを知った。そこから逃げ出せないままに、今ここに来た。

 お互い、ただ優しくしてくれる人が近くにいてほしかった。
 ただ、温かい何かを感じて見たかった。
 心が寒くなるような場所にいたくなかった。

『傷のなめあいよ、それは。わかるでしょう?』
「それの何が悪いんだい? なめて、傷が治るんならそれでいいじゃないか。誰にだって文句を言われることじゃない。誰も消毒してくれて、包帯を巻いてくれて、薬をくれたわけじゃないんだ。だったら、なめ合って治すのだって悪くないだろ?」
『私は、もう人ではない。あなたを温めてあげることはできないの。だって、私の羽は、もぎ取られたりしないようにとても硬いもの。1人でも、いつだって空を飛んでしまえるためのものだもの。あなたは、ついてこれないわ。
1人きりでも、きっと空は温かいもの。雲がなければ、お日様が温めてくれるの。だから、あなたはあなたの空を目指すべきなのよ。私の1番は、空になったの、あなたをもう1番にはしてあげられない』

 もう一歩近づく。
 足の指も落ちた事に気が付いた。少しバランスが崩れてしまう。

 それでも、歩けないほどではないと気にしない。
 ただアベルは力を入れて歩こうとする。

「違うんだよ。違うんだ。由紀子ちゃん。僕は、君に、君の1番にしてくれって、そういいに来たんじゃないんだ。
僕は求めてばかりだった。君に会うまではよくわからなかったけれど、ずっとずっとそうだったんだ。
誰も、僕を愛してくれないから。誰も僕を見てくれないから。僕には何1つ繋がりなんてなくて、スカスカのスポンジみたいな人生だったから、それしか知らなかった。どうかその隙間を埋めてくれっていうのにだけ必死だった。
君はいつか、僕の目が空みたいで好きだと言ってくれたね。
それは、きっとリップサービスのようなものだったかもしれない。けど、僕にはそれで十分だったんだ。それに気づくことができたんだよ。君のおかげで」
『私は、私は――あなたは、お互い利用していた人お客の、1人って、それだけよ。わかりきっているじゃない、ただの、事後の、気分を良くするための口だけの言葉だって。1人で満足してどこか冷めた男の人から殴られたりしないための、防衛術の1つだもん』
「うん。
きっかけはそれで、君にとって、本心が10割じゃなかったかもしれない。でも、僕は本当にうれしかった。
嬉しかったから、怖くなった。
君にとって、男ってだけで信用がないんだろうなっていうのも、本当は途中でわかってた。それでも、ずっと通っていたのは僕の醜い独占欲と消えない承認欲求の産物だね。君をそれで傷つけ続けたことは、本当にどうしようもないと思う。
だから、我儘なんだよ。
我儘だけをいいにきた。
それで、君は怒ってもいいし、殺してもいい。今はしないでいてくれているみたいだけど、鳥? にしてくれていいんだ。気に入らない奴は別のものになるのかな? でも、それだっていい。
ただ、言わないで、唯一手に入れられたものと、それをくれた人に伝えないで後悔はしたくなかったんだよ、僕は。
君が選んでいいんだ。君に選んで欲しいんだ。」

 由紀子の目が揺らぐ。
 その色は赤と青が混在しているような、どこかマーブルめいたものになっている。
 それはまるで、どちらか決めかねているようにも見えた。

 一歩進む。
 髪の毛が勝手にはらはらと落ちていく。

 眼球の色の割合が狂う。
 鳥のような羽が頭に生える。

 埒外から押し寄せてくる幸福感だけは、アベルは排除するために抗っている。

「僕はね、ずっと勘違いをしていたんだ。心を満たすのに、相手に好きになってもらう待ちだけをしていたって駄目だった。そうじゃなかったんだよ。1番にならなくたって、そうと決めたなら、きっと僕はいつだって満たされることができたんだ。それがわかったんだよ。
僕だ、僕なんだ。僕がそう思わなくちゃ、きっと1番になれてたって、ただ流れ続けていくだけだったんだ。
だから、僕は、君に『どうか君の事を僕の1番にさせてください』って、そうお願いにきたんだ。
いいよイエスにしてもだめノーにしても、それは君から直接聞きたいんだ。直接君が、自由に決めた結果であってほしい」
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