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あい すてる らぶ うー5

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 破裂。
 千都子がそうであったように、その瞬間は唐突に訪れた。
 きっかけがありさえすれば、いつだっておかしくはなかったことだ。
 何より多感になる時期だということも少なからず。
 積み重なって、積み重なって、やっとそれを下ろすことができるかもしれないという希望を持ってしまったからということもある。

 もし、千都子でなかったら、希望を抱かなければ、その重さも『いつものことだ』ともうしばらくは流せていたかもしれない。
 『この荷物をもう少し軽くすることができるかもしれない』『もしかしたら、半分以下にも』そんな希望を持ってしまってはもう駄目。
 ずっしりと、その瞬間に自分が背負い込んでしまっているものの重さを感じてしまって。
 『どうして自分がこんなもんを持ってなきゃいけないんだ』と。

「なんでだ!」

 部屋。
 いつも通りの。
 流れさえ、最近の定番の。
 少し冗談めかして、しかし本気で、不器用に口説くような誘うような、ねだるような。

 そんな会話で、海という少年は、若き日の千都子と同じく破裂した。
 感情に振り回されるように、どん、と千都子の肩を殴るように押す。
 やってしまったやってやったというその顔は、わかりやすいほどで千都子にもよく見て取れるほどのものだった。
 それはきっと、千都子にも覚えがあったから。

(私も、きっと同じような顔をしていたから、わかるんだろうな)

 すっきりした泣きたいような顔。
 一瞬唖然として、それでももう止められない。
 自分でも、どうしていいのかわからない。感情に振り回される。
 きっと、やったことがないのだ。
 千都子自身そうだったから、なんとなくわかるのだ。

 怒りとは。
 感じても、ずっとずっと、自らの内に押し込めて、表では笑うものだったから。
 それを表に出したとき、こんなにも手綱を握れなくなるものだなんて、知らないのだ。知らなかったのだ。この時に、初めてそれを知ったのだ。
 千都子には怒りはなかった。
 ただ、少しだけ、悲しい。

「あんたはあいつを知っても俺を見ただろうが。
なんだかんだ、突き放しもしねぇじゃんか! 
じゃあなんで受け入れたんだよ!」

 あいつ、とは誰だろうか。
 思い返す時間がいるほどに、千都子にとっては心当たりがない。
 きょとんとしてしまった千都子には構わぬまま、海は激情のままふるまう。

「見ろ! 俺を!
あいつは出ていったんだよ! 身の程を知って。家族なんかじゃないってわかって。
なのに、さんざっぱら鬱陶しいといって、そういう目で見ておいて、いなくなったとたんに『もっと優しくしていれば』? そんなにいい人間ぶりたいのかよ。俺を見るより、そんなことがよっぽど楽しいかよ……!」

 そこで、誰の事かがわかる。

(あぁ、家から出ていった兄らしいという存在の事か――あぁ、優秀であったらしい。なるほど)

 なんとも、むなしい話だと思う。

(類は友を呼ぶ、なんていうの。こんなことで体験させてくれなくっていいのに)

 どこもかしこも。
 問題ある家庭環境ばかりか、と千都子は思う。
 別れて少ししかたっていない人も、ある意味そうだったと思う。
 前時代的な、女に跡取りを作ることを望むような実家だったこと。迷ってはいたが、結局それに従うしかできなかった人の事を思い出す。

(どこにいっても、縛られるの? あぁ、踏み外したら――)
「父さんは、ふと俺の成績を見て『あいつならもっとやれていた』って顔をまだする! あんなに嫌っていたくせに!
母さんは、ふっと物憂げな顔して名前を呼んだりする! 自分から離れていたくせに! いなくなってから、もったいなく思ったみたいに!
親は、両親は、そんな汚いものだったか!?」

 もはや、千都子に向かってだけ怒っているわけではないことを、海自身わからぬまま叫んでいるのだろう。
 思ったことを、ずっとため込んでいたものが文字通り破裂してしまっただけだ。
 そこには、きっと甘えもあることを千都子は見抜いていて、だからまだ黙り込んでただ聞いていた。
 無意識に『聞いてくれる』と思っているからから、こんなにもすがるように、無防備に、子供らしいように叫んでいる。
 自らとダブる。

 子供だ、と思ってしまったからか、表情が隠されていく。
 ざぁっと、波が襲うように。
 苦しい顔を見なくて済むのは、幸運なのだろうか。それとも、不幸なのだろうか。
 千都子は、決して海という少年がどうでもいいわけでも、不幸せになってほしいわけでもない。
 だから、見えなくなることが悲しく思う。
 そうなる、思う、自分がどうしようもなく救えない人物に見える。

「家族は、俺は、どうしてあいつを恨んだんだ。
こんなはめになるなら、どうして俺はあいつを憎まなくちゃいけなかったんだ!」

 親は子供を選べないが、子供も親を選べない。
 その振る舞い1つとっても。

(親が憎んでいるようにふるまうものを、親と違って自分が受け入れられたのなら、それは確かに尊いものかもしれないけど――受け入れられないことが、だからといって汚いものであることなんてないはずなのに)

 絶対者。
 子供にとって、親という存在は。
 初めから切り離されていても、途中で捨てられても、すがってしまいたくなるものがいる。
 誰しもが、そう簡単に切り離せたりはしない。
 切り離せるものは強いかもしれないが、切り離せないものが悪いのだろうかと千都子は強く思う。
 それは違うと、思ってしまうのだ。

 だって、そんなの苦しいではないかと。救いがあまりにないではないかと。
 致命的に間違ってしまったと考えている自身はともかくにして、ただそうできなかっただけのものさえ取り返しのつかない間違いのように言われるのは、あまりにもと。
 推測でしかない。
 何の慰めにもならない。
 しかし、千都子は海を見て思うのだ。

(きっと、もっと優しい子供であれたんじゃないかな)

 他人にとって、言い訳に聞こえたとしても。
 海は、きっと親のためにその兄を憎んでいた。あしざまに扱っていた。
 自分にも不満に思う部分はあったろうし、やられた本人はたまったものじゃないのだろう。

 それでも、それは子供だけが悪いことなのだろうかと思う。
 言葉の通りなら、親はその兄の存在を疎んでいた。自らの子供の前でさえ。
 どうして仲良くできるだろうか。
 事情を知らない、千都子だから思えることかもしれない。
 しかし、もし、せめて、子供の前でくらいは隠せるくらいには大人で、親であることができたなら。
 喧嘩はするし、憎まれ口は叩くが、兄弟であることはできた可能性があったのではないかと、海の口ぶりは思わせた。
 
「そういう風にしたのだって、父さんと母さんなのに、どうして自分たちばかり可哀そうがって、まともですアピールなんかできるんだよ!!!
見てくれ。俺を見てくれよ。
俺だけでなくていいから、ちゃんと俺を見てくれよ。
誰かと比べたり、比べてがっかりしたりしないで。誰かの姿を俺に見ないでくれよ」

 子の叫びだった。本当は親に訴えたい、そんな叫びだった。
 完全に、顔が見えなくなる。
 それを、心から残念に思う。

「親に、そう望むことがいけなかったか?
俺は、どうすれば正解だったんだよ……
どうしたら正解になるんだ? 勉強したって答えがでないんだ。誰も教えてくれない。
もう嫌なんだ。
何をしたって、苦しいばかりなんだ。破裂しそうなんだよ。
そうしたら、全て終わっちゃう気がするんだ。
助けてくれよ」

 力が抜けてしまったように、すとんと膝から落ちる。
 きっと、泣いているのだろうかと、見えない顔に視線を向けた。
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