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あい すてる らぶ うー8

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 蟻の子は、明らかな成長をしている。急な速度で。

(人と違うから、それが急かどうかなんてわからないけど)

 逃げるようにダンジョンに来た千都子は、いつものように蟻を潰して進む。
 いつも以上に、楽に。
 蟻の子が生まれてきてから――ダンジョンにいる無数の蟻の化け物たちの反応というものが変わった。
 最初は、ただの戸惑いのようだった。
 千都子を見て、何かびくりとしたのだ。

(何か、初めて認識というものをされた気がする)

 今までの千都子は、ただそこにいる――こういってはおかしいが、人間にとって普段気にしない虫のような存在以下であったように思う。
 積極的に狙っては来るが、そこに個人を認めていないといえばいいだろうか。
 千都子にとっては驚異的な存在だが、蟻にとっては殺せる存在になってさえどうでもいい存在であったように思う。

(あの子が生まれてから、明らかにが違う)

 戸惑い、どうすればいいのかわからないといったような迷いのようなものを確かに感じ取ることができるのだ。
 千都子自身、この目の前の気持ち悪く恐怖の対象でしかない虫の姿をした化け物が、そんな知性があるような行動をとるとは思わずに逆に戸惑いもした。
 それでも、容赦というものをするつもりはない。
 止まっているのならば都合がいいと、いつも以上に潰していった。

(ただの蟻なら、こんなにもためらいなく潰してしまえるのに)

 もはや、殺す嫌悪感も何もない。
 ただの害虫駆除以下の感情で、千都子は蟻共を殺すことができる。
 とにかく、数が多い。このダンジョンの特徴といえば特徴ということになるのだろうか。どこにいってもうじゃうじゃといるのだ。

 それを殺すことに、いちいち感情は動かくなくなっていった。いや、動かないというと語弊がある。動かないように、できるように蓋をすることがうまくなった、というべきだろうか。
 冷静になれば恨みも怒りも底にずしりと沈んでいるが、殺すときにそれが浮上することがなくなったのだ。感情は揺れにくい。

(厄介だった耐性を持つようになるという機能さえなくなっている気がする)

 今まで散々苦しめられてきた、蟻の1体1体全てが持ち、そしてその見た目を持つグループ全てに共有されてしまうらしい厄介な能力。
 1度やったものは、次から通じにくくなり、最終的には無効化に近いものにされてしまう。
 そんな、やられては這い上がる主人公のようにも思える適応する力といっていい能力。
 これがあるから、容易にポイントを貯めることすら難しかったのだ。力加減を覚えたり、相反するもので耐性を混乱させる作戦に出たりで、なんとかやりくりしていたが、そんなことをしていれば、普通に殺すよりももちろんよほど時間がかかる。

 そして相手は、基本的に群れでくるのだ。必然、追い詰められる持久戦では押しつぶされる。
 逃げ道を確保しながら、というのも難しいほど埋め尽くされている場所もある。だから、先に進むのも難しかった。
 が。
 今はそれが嘘のように、簡単に殺せるし、簡単に進めてしまえるのだ。

(ポイント稼いどかないと……)

 この状況がいつまでも続くとは思えず、現実逃避と同時に現実的にそんなことを思いながら潰す。
 相手がこちらを、生物としてようやく認識しようが、そんなことはどうでもいい。
 これまで散々殺されてきたのだ。
 今更、こちらを感情があるような目で見てきたところでそれが揺らぐこともなし。

(あぁ――楽だ)

 とてもとても楽だった。
 辛かった。
 苦しかった。
 群がられて肉を食まれることも、戻るとはいえ、死ぬことも。
 死の体験は特に、今でも辛い事だ。
 それに比べれば、足から溶かされる事だって、千都子にはなんてことないように思えるほどに。

(死んだほうがましだ――! は、もう言えないな私には)

 自らの骨を見ても、じわじわそれすら食いつくされていく光景を生きたままみても。
 穴という穴から入られて内側から食われたり、寄生するようにしばらく体内に巣くわれ、爆発するように破裂しても。内側から腐敗して崩れ落ちても。

 それでも、今、千都子は死を経験するよりは良かった。
 それほどに、千都子にとって死というものは恐ろしい。

 全部なくして、食われ続けなければいけないような、溶けるようで溶けないような、温かみなどまるでない暗いところで、極光に照らされ続けなければならないような、矛盾とどうしようもなさに包まれるそれが。
 最終的には、元に戻るにして、それでも。

(本当の死があれの先にあるものなら、なおさら耐えられない)

 削られることがなんだ、と千都子は思う。
 性格が? 好きだったものが? 嫌いだったものが? 思い出が? スキルが? ポイントが? 今まで培ってきた自分というものすべてが?
 そんなもの、死ぬよりましだ。

(そんな私が、死ぬかもしれない場所に自分から進んできたがっちゃったわけだ。笑えてくるよ)

 ダンジョンというのは、その死というものに直結する空間で、今まではそれでもじり貧になるだけだからと来ていただけに過ぎない。
 嫌々でしかない。
 それが、今は部屋にいたくないからと率先してきている。
 まるで、死ぬことよりも部屋にいることの方が恐ろしいとでもいうように。

(掲示板を見て、書き込めるまで余裕があるなんて)

 その気持ちを復活しないように目をそらしながら、その道具として掲示板を覗く。
 覗きながら、蟻は潰している。どっちもできるほどの余裕があった。何せ、相手は攻撃してこない。

(シュージ君も大変そうだな……いや、クソゲの人はみんな大変そうなんだけどさ)

 苦笑しながら読み進める。
 潰しそこなった足元の蟻の首元を蹴る。硬質的な感触。元々の自分なら、間違いなく足のほうが痛い自爆になったろう硬いものを蹴った感触。

 それでも、耐性を得ることが止まり、強化された今なら問題ない。
 ぶちぶちと、千切れていくような音が足をもって伝わってくる。作業だ。
 作業でしかないが――今までない、どこか愉快さを感じだしていることも事実だ。
 自分を虐げてきたものを、一方的に殲滅できることに。

(――っ)

 何か、そこで映像がよぎってしまって――冷める。
 頭が切り離されてもびくびくと動いているそれに止めを刺す。今度は、感情に蓋をして。
 それでも、少しだけ苦々しい。

(――はぁ。堪らないね。嫌だよ、本当に……)

 またその気分を切り離すように、掲示板を見る。

(……そうか)

 その中で『クリアまで進むチャンスなのでは』という文言を見て、確かにと思う。
 これが長く続くわけないと思っていた部分もあるし、ポイントは稼げるときに稼げるだけ稼がなければという思考に埋め尽くされていたこともある。
 だからか、千都子にその発想はなかったのだ。

 それでも、これが前の千都子なら、今の状況でなければ、それでも千都子はクリアするために進もうとは思わなかっただろう。
 途中で、お盆をひっくり返すように元に戻されたり、より凶悪な罠である可能性を考えて躊躇ったろう。
 警戒心、恐怖心。
 それらが勝利してしまうくらい、このダンジョンという場所で千都子は痛み、苦しんできたから。

(進もう。クリアっていうのが、良いものとは限らないけれど、それでもきっと――そうできたらか、ここには戻らなくて済むと思うから)

 進もうと、足を踏み出したのは。
 きっと千都子にとって、逃げの気持ちであった。
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