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鬼の首33
しおりを挟む幸せな家庭。
何かが欠けている気が時折しても、それは確かに得難いもの。
決して、手放したくはなかったもの。
なくなって、終わって。
――帰らなければならない。
ただそれだけを思う。
それ以外は削って、削って、削って。
当初、ダンジョンにて殺し合いのスリルを楽しんでいるふりをしたような余裕などは当然、もはや微塵もない。
進むたび進むたび、そう思い込むよう作り上げていたガワは剥げてしまっていっていた。
啓一郎はもう、例え当初の戦闘狂ばかりの領域で戦ったとして、かけらも楽しめることはないだろう。そう再び思い込む余裕もない。
だからもう、やりたいことはそれだけだから。
妻と息子のいる場所を見守って、最後は同じように、同じ世界で。教え子の様子までたまに見れるのなら、さらに言う事もない。
他者から見て、それが前進していないだとか後退だとかはどうでもいいことなのだ。
ただ望んでいるのはそれだけなのだ。残ったものはとえば、それだけだったのだ。
帰るのだということ。
顔が思い浮かぶ。大切だと思うものたちの顔が。
消えたことなどないが、ことさら強く。
その頻度が最近増えてきたのはきっと――
(これは……終わりが近い……か?)
ぎし、と体が鳴る。
今までに聞いたことのない体の軋み。硬質的で、みちりと詰まったようなきしみ。
変形しかけているのだろう体が。それを理解せざるを得ない。
いまだ人間とは呼べる範囲に収まっている――と、啓一郎は思う。ぎりぎりでもとどまっているはずであると。
一歩。
もう一歩。
最後の一押し。
それを思うほど、実感するほどに――なぜか即座に手が届かないところに置く気になれない、呪いのアイテムじみた小瓶が存在を主張している気がしていた。
来た当初は、楽しんでいるふりをして目をそらした。
それから、だんだんとそれもひびが入ってしまって、ただただ目的のために自らの蓋を強固にして進んできた。
けれど。
鬼を殺した。殺してきた。思う所がなかったわけではない。
喜んで殺し合う鬼を殺した。思う所がなかったわけではない。
何かに怒っている鬼と殺し合って殺した。思う所がなかったわけではない。
悲しんでいる鬼を殺した。思う所がなかったわけではない。
無抵抗の鬼を殺した。思う所がなかったわけではない。
命乞いをする鬼を殺した。思う所がなかったわけではない。
こちらを罵倒する鬼を殺した。思う所がなかったわけではない。
鬼の子を殺した。思う所がなかったわけではない。
鬼の親を殺した。思う所がなかったわけではない。
食った。思う所がなかったわけではない。
飲んだ。思う所がなかったわけではない。
殺し合わせた。思う所がなかったわけではない。
頭を読まれて、姿かたちをまねたモノを潰した。思う所がなかったわけではない。
言葉が通じるものを殺した。思う所がなかったわけではない。
他人が見ていれば――無責任に、啓一郎を罵倒し、見下すだろう凄惨な光景をいくつも作り上げた。思う所がなかったわけではない。
そうしなければ――目的を達成できないから。
そう、思う所がなかったわけではけしてない。ないけれど。
そうして、だから、残っているのはもう『帰るのだ』という気持ちだけなのだ。
それだけを、動かぬように固定して、心の真ん中に置いている。置いてきた。今でも置けているからここにいる。
諦めないのも、心が折れないのも、行動に躊躇う事がないのも。ただそれだけがあるからだ。後悔も、思いも、全て流れ落ちる水のように。どれだけそれが苦くとも。もう自分をだませなくなろうが、全てが苦痛に思えようが。
それがなければ、人間性というものの暴走があるとしたのなら、どこかで折れていて諦めていてもおかしくはない。
この異常な環境は、当然のようにそれを敷いてきたのだから。
己におきた、起きている変化というのは、つまりその結果であると啓一郎は認識している。
進むたび、啓一郎は己の体への『進行』が深まった来たように気がしていた。
自己暗示によって楽しんでいたとはいえ――異形相手にその言葉を理解する『言語の理解』をとったのさえ、自らの意思といえたかどうか。
(躊躇わず人を、まして子を殺す鬼のようなやつを殺そうと思った。殺した。鬼の首はたしかにとってやったさ。いくつも、いくつも。だが、そんなことを誇れるわけもない。とったような顔を、できる気分ではなかった――
今の俺は、『アレ』と同じ場所にいるんだろうか? それともそれ以下でさえあるのだろうか)
鬼というものは人の形に似ている。角が生えようが、怪力が出せるほどの肉体をしていようが、そのシルエットは人に似ている。古来より伝わるものも、その多くは人に似ていて、人の言葉を喋る。
そして、昔からいわれるが時に人は負の感情をもって鬼にもなるという。
それは復讐に狂って、愛に狂って、嫉妬に狂って。いろいろなものに染まった結果に。
様々な感情に狂って人は鬼と呼ばれるような存在になるのだという。
人を止めて、人に似た、しかし超えてしまった何かになるのだという。
(――クソ。頭痛がする)
ノイズが走る。
どこかで、似たようなことを見た気がした。
が、瞬間ノイズで埋め尽くされる。真っ黒に塗りつぶされた文字のように取り出せない。思い出せない。
しかし、気にしすぎることはせずにただ一度頭を振って追い出す。
(それも、もうどうでもいいことか――ただの痛みなら、どれだけだろうが耐えられるさ。
俺は、それでも帰るのだ。
自身こそが、鬼であろうが何だろうが。そうなったとして。一番そうなったところを見られたくない人たちにそれを見せることはないのだから……ただ、帰って、その終わりまでそこにいるだけだ。それだけだ。それだけしかできないから、それだけはしたいのだ)
階層を登りきると、そこは――だだっ広い部屋のようだった。
何もない、綺麗に整えられた汚れ一つない白い石でできた壁に囲まれた、広い広い部屋のようだった。
いっそ、拍子抜けしてしまいそうなくらい何もない。それだけなら。部屋だけならば。
(――――)
立ち入って、何もない場所にいたそれを見た瞬間にその部屋の如く頭が真っ白になる。
中身がかき乱されてスープにでもなってしまったかのように、思考が走ってくれない。ぐちゃぐちゃであるとはこのことを言うのだろうといった具合に。
言葉をなくす、とはこのことだろうか。
きっと、他に何を見てもここまで棒立ちにはならなかっただろう、隙の塊といっていいほどに無防備。
そこには、一匹の『鬼』がいた。
だだっ広い部屋の真ん中あたりに、ようこそといわんばかりにただ一匹だけ鬼がいた。
ここまで、嫌というほどにみた鬼という存在であることはよく理解できていた。見間違いの仕様がない。だから、鬼であることに驚いたわけではない。異形のものがいること自体にかき乱されたわけではない。
人間にしては大きいが、それでも巨人とはいえないくらいの、真っ赤で血のような色をした皮膚に、更に赤黒いような二本角を生やした鬼。
筋骨隆々で、しかし見た目以上の力を持ってはいるのだろうが、それでも珍しくはないはずの鬼。
しかし、啓一郎は、ここまでにやりなれたような対応ができない――その相手の肌の色のように、ただ思考は赤くなっていくばかり。
激情。やりおえて枯れてしまったものが再びぐつぐつと沸き上がるように。
乾燥していた心に煮えたぎった何かが注がれるように。
噴火するように赤く赤く塗りつぶされていく。
まとまりのないぐちゃぐちゃが、鋭く尖りに尖っていく。
常人ならそれだけで震えあがってしまっておかしくないだろう空気が漏れ出していく。
噴出する、懐かしくもあるほどの煮え立ちながら凍り付くような、そこから生まれるただただ『殺してやる』というわかりやすい感情。
どうして、とか、こうして、とか、そういうものが細かく思い浮かばない。
それらを押しつぶして、煮潰して、ただ固めて残った殺してやるという感情を生成したような。
ただそれに生きることを許さないという気持ちが、空気を確かに重くしている。
そんな啓一郎を、その様を見て――その鬼が、笑った。確かに笑った。
それはそれは、楽しそうな笑顔で。
おもしろくて、おもしろくて、仕方がないという顔で。
「やぁ、久しぶりー」
何年来かの友人に会うように、どこか親し気な声。ただ聞くだけで苛立ちが走るような粘ついたもの。
それは鬼だ。
啓一郎はこれまで、ここに来るまでにもオカルトと呼ばれるような類に出会った事があっても、鬼というものに出会ったことはないはずだった。それは、ここに来てからの話のはずだった。
――そのはずだ。
その鬼は、間違いなく人間という種類の動物でないことはその姿から、気配から、存在自体から明らかだ。鬼以外の何物でもないし、知らない、というはずだった。知らないはずだったのだ。鬼の知り合いなどいたためしなどないのだから。当然そうだ。そうでなければいけない。
いていいはずがない。
しかし――啓一郎が何をどう思おうが、感じていようが……それは、長く忘れられない顔をもってそこに立っている。鬼になっても面影があるその顔で笑っている。
少しくらいかわってしまおうが、ベースが別の生物になろうが――決して間違えることはあり得ない。
啓一郎は、間違いなく、それであることがわかる。
いていいはずがないのに、それが確かにここいるとわかるのだ。
啓一郎にとって、それだけは間違うことができない。
「捨てる神あれば拾う神ありっていやぁ、文字通りこのことなのかねぇ? そうは思わない? 鬼の身でもって神なんておかしいと思うかい? わかんないかなぁ? 君、筋肉馬鹿っぽいしねぇ。脳筋ってやつ? 嫌だねぇー頭ももうちょっと鍛えようぜぇ? あ、それとも無神論タイプ? それか緊急時のトイレだけ祈る派だったりぃ?」
笑う鬼。
楽しげな鬼。
こちらに親し気に笑いかけてくる鬼。
かつて、それは『天秤』と呼ばれていた――そう呼んでいて、殺したはずの生き物であると、啓一郎は誰に言われるでもなく確信してしまっていたのだ。
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