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鬼の首44

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 ぐらぐらと体の底だけ煮え立っているような不思議な感覚の中、思考は巡る。
 天秤は何故己をやすやすと殺したくないのだろうか。
 それはなぜか。
 どうして回りくどい事をしているのか。
 それはなぜか。
 まるで情報を与えて誘導しているようだ。
 絶望していくように。

(諦めさせたい?)

 一緒にいられるようにとも言っていたと啓一郎は台詞を反芻する。
 最初の絶望から、更に進んだところでもしそんな誘惑をされたら――乗ってしまったかもしれない、と思った。
 では、目的はそれなのだろうか。どうして?
 どうやって?

 殺さない。という理由は、思いついた。
 ここでは、殺すことに意味がないからだ。殺したところで、諦めない限りは――いや、限界はあるはずだ、と思った。
 適正はあるが、啓一郎は死ぬたびにその代償を払ってきた。それにおかしなことに、先ほどの記憶の復帰に伴って削られた全ても戻ってきているのだ――そちらの方が都合がいいのだというように。

 だから冷静になったのだろうか。
 とふと思い立つ。
 何か、ちぐはぐになっていってる事を自覚している。戻されたことで、逆にだ。
 腹の底にあるものは、きっとずっとあった。戻されることで、形がはっきりしてしまって動いたのだとなんとなくわかってきていた。ためていたものがなくなったから、急いで戻しているような。いきなり空腹なってしまったから、急いで食べてでもいるような。

 ここに立つ前の、体が変わっていく感覚。
 鬼。
 鬼になるような。

 その存在をより知覚してしまったような――

「いやになる。あぁ、本当に嫌になる。私、こんなんだったんだ」
「はぁ? クソアマ、てめぇみてぇなのと一緒にするなよ低能メンヘラ雑魚迷惑製造機がよぉ。てめぇのそれは何の役にも立ってねぇどころの騒ぎじゃ無かったろうが?」

 吹き出しそうになった。ブーメランの投げ合いをこんなところで見せないでほしいと思った。
 ただでさえ、何か笑い出しそうな気分なのだから、と。

「切り捨ててやろうか、マジでよぉ」
「できもしないくせに……だから、こんな回りくどく利用して絶望させて優位に立とうとしているんでしょ。わかるよ。嫌だけど、似てるからわかる。支配下というよりさっきまでは一体化に近くなっていたんだからよりわかるよね、それは」
「てめぇ……」
「わかるのが自分だけだと思った? はは、不様だねぇ? 意地汚い真似は得意なんだよ! お前と同じでな!」
「黙れ」

 パン、と強く踏みつけすぎたからか圧縮された逃げ場が無くなったか。頭は叩きつけられた水風船のようにはじけ飛んだ。

「再生しなくすることはできんだぞ? あ? 苦しみにあえげよ」

 くるりと、天秤がこちらを向いている気がした。
 気がした、というのは、その時啓一郎は竹中の方を見ていたからだ。
 じっと、竹中がいつの間にか浅井ではなく啓一郎の方を見ている。襲い掛かるのも助けに行くのも堪え、できずにただ見ている。
 ゆっくりと余裕を見せるように浅井を放置して歩いてくる天秤を改めてみれば――家族もまた、啓一郎を見ている。
 じっと、見ている。

 どくり、と心臓が跳ねた気がした。
 それは、強い感情による作用。

 特大の餌に、体に染みついた鬼が反応した気がした。



 雨宮啓一郎という人間をその情報だけ第三者が見た時、劣っているとみることは難しい。
 まず、身体能力が極めて高い。
 その高さはどの分野のスポーツでも驚愕を通り越して冷めるほどの速度で習得し、頭角を現すことができるだろうというインチキさをもってさえいる。
 記憶力も悪くない。
 本人にそこまでやる気がなかっただけで、勉学に傾倒していればそこそこ以上の成果を出すことができただろう。
 超常現象においてもそうだ。
 時に理解を示し、時にそれに適合していき、時に一定以下なら無意識に干渉をはじくほどの強靭さを持っている。
 容姿も美的センスには個人差はあるだろうとはいえ、よろしい。
 身長は高く、手足のバランスも良い。顔に関してもおおよそほとんどの人に威圧的という印象はぬぐえないながらも優れていると評されるだろう。

 優秀。
 優秀である。
 特に身体能力については天才というより――化け物のそれである。人という枠を逸脱しているといっていいのだ。ここに来る前には天秤という存在のそれには届かないとはいえ、少々の油断か慢心さえさせていれば殺すチャンスが発生するくらいには迫っていた。

 ――では、そのあらゆる優秀さは、優れたる全ては、啓一郎という個人を救ってくれただろうか?

 情報以外をも知っているものがそう聞かれると、恐らく肯定しがたいものとなる。
 力を持っている。
 頭も宝の持ち腐れ状態とはいえ、そう悪いわけではない。
 容姿も良い。
 学生の頃は少ない時もあったが基本的には行動力もあって、相手に合わせることも苦手であったが改善する前向きさを持っていて――

 性格だって、特に目立って悪いところもない方だろう。少なくとも、優しさというものを知っているし、むやみやたらに暴力も暴言も他人に率先して振るうタイプでもない。目的のために切り捨てたといいつつ、慮ることをやめられない人間でもあった。情を捨てられないのは、嘲笑と短所どちらもともとれるが。
 子供好きであり、無駄に人と敵対することを嫌っていて、ただ、好きな人と平和に暮らせれば特に贅沢なども必要ない――

 力を持っている。
 力を持っていた。

 他人に羨まれてもおかしくない力を確かに持っていた。
 ただ情報だけ、外身だけを知っているなら『あぁ、それだけ色々と持っていればさぞかし輝かしい道を歩いてきたのだろう』と想像してなんらおかしいことはない。

 ――ただ、実際それらは、啓一郎自身を何一つ救ってはくれない人生だった。

 どれだけ優秀だろうが、自分のせいもあるが忌避され続け、孤独で。
 力があろうが、容姿が良かろうが、初めて深く友人だと思った人と出会うのは学生も終盤である。そしてそのものたちとの問題に深く介入することも、役立つこともできず。むしろ、本当は蚊帳の外気味で。
 それでも残った大事な人は、その力で守ることさえできず、幸せの結晶は全てが目の前で砕け散っていて。

 そうしたそれを、せめて始末すると決めた。そしてそれは達成はした、したが――そのころにできていた小さな友人で、子供のようにも感じていた存在を守ることもできなかった。
 それ以外も、いつだってそうだった。

 助けられない。辿り着けない。
 間に合わない。すり抜けていく。
 自分だけは生きている。大きな後遺症等残ることもなく。

 友達も、家族も、仲間も、助けを求めてきた子供も、行きずりの相棒だったりした人間だって、いつだって、誰だって。
 啓一郎は間に合わないことばかりの人生だった。
 大事なことには何一つ。
 ただ壊すことだけが得意なまま。

 力がある。
 力がある?

 それでなんだというのだろうか、啓一郎は思う。
 色々、トラブルというか、事件というか、そういったものに異常に関わってはきた。
 まるで、物語の主人公のように、吸い込まれるように関わってはきた。

 けれど、それだけだ。
 『関わってきた』だけなのだ。

 間に合わない、いつも。
 届かない、いつだって。
 中心にいるようで、ずれた場所にしかいられなかった。

 原因を殺しせしめることだけできたとして、何も残らなければ己一つ救うことができない。
 だから、後悔はいつだってこびりついて落とせない、増えるばかり。
 見ないふりをする事の優秀さえなければ、その瞬間身動きが取れなくなるくらいには重い、生きるたび重くなっていくくらいにはずっと。

 雨宮啓一郎という人間を見て、ほとんどの人が優秀であるとみてくる。
 本当に欲しいものは何一つ手に入らない、啓一郎という人間を見て。



 破裂した。
 啓一郎は、自分の体が内側から砕け散ったような空想をしてしまうほどの衝撃を受ける。
 強い強い熱が、凍えるような冷気が、矛盾したそれぞれが体を塗りつぶしていくような、不快でいてそれでいてそうでありたいような。
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