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鬼の首53

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 ころん、と小瓶が転がる。
 今まで勘違いしていた小瓶が。

(これは、鬼になるための後押しだと思っていた――)

 液体の入った小瓶。
 あからさまだと、そう思っていた。
 鬼になるのを加速するとか、強化するとか、そういうものだとばかり思っていた。
 帰るつもりだったから。
 だから、使うつもりもなく、ただただ持っていた。

(この、小瓶の中身は――そうか……逆、なのか……)

 鬼としての体が、その小瓶の中身を忌避している。だからだ。今まで不自然に気付けなかったのは、鬼という存在自体が影響していると思った。自分で考えているようで、回避するように誘導するような。
 力を感じる。
 自らの、力を発するものを見抜く能力が、その小瓶を
 奇妙な表現だが、そうとしか思えなかった。
 他の生物になれば消えてしまい、人になれば戻ってくる。そんな能力が、好物を目の前にした生き物のような反応をしているように思える。
 それは、つまり――

 その小瓶は、鬼に関わるものではないどころではなかった――逆だ。逆なのだ。
 それはこの場面を想定して作られたわけではきっとない――用意した側も、もしかしたら天秤に使う等の場面を想像していたのかもしれないと思った。
 鬼であるからわかる。これは、の気配が濃すぎるものだったのだ。

(それが短くとも……鬼に、ならない……鬼で居させないための、液体――?)

 つまり、人という性質を強く持つ液体。
 恐らく――飲めば、飲ませれば、人になるのだ。鬼を逆転できる。因子までは消せなくとも、人に戻る、戻すことができるという選択の液体だったのだ。
 例えばここに来た時、天秤に浴びせかけるなどすれば一気に弱体化させることができただろう。
 それが、どうしたって鬼の因子が充満しているこの場所では消滅させられるという訳ではなく、戻るのも一時的なものでしかなくとも。おそらく、そういう使い方をすれば――鬼と化した啓一郎なら、至極苦労することなくあっさり勝てただろうくらいには効果が出る強力な代物だ。人ならどうあれ終わるしかない存在に対して一時的にも逆らうことができるのだ、強力以外の何物でもないだろう。そしてそれを使用することで鬼という因子が強く反応して加速もしたかもしれない――自らの宿主を、鬼として更に完成させるために。
 だからきっと、実験する側はそういう使い方をこそ想定していたのかもしれない。
 それでも――取り込まなくてはいけない選択肢は、全く変わらないけれど。

 人に一時的にでも戻すことができるのだから、天秤には特攻であるし――家族や友人も、一時的にというか、支配のつながりが切れて排出される。そうなれば、もう後はやるだけだ。
 ここにたどり着くまでの事が困難な場所で、鬼になる決断するところまでが壁。
 それを選べば、思考が飛ぶ。殺意で充満するだろう。その時、人を忌避するだろう。鬼の因子が忌避したその感情に飲まれるだろう――そうすれば、排出された家族人間はどうなるか。
 受け入れることなく叩き潰すだろう。その時、真に別物となった啓一郎自身が。
 そういう選択を理解させ、迫るものだったかもしれない。

 他にも、それに比べれば啓一郎にとっては小さな事だろうが自らが鬼であることは変えられないのに、相手を一時的にはとはいえ人に戻すことをしなければならない事を選択できるか等々、色々と悩ましい決断があったのかもしれない。
 しかしそういう展開なら、もう終わっていただろう。使い方を事前に調べていれば――生物というものを食らって己に変えるともいえる鬼という因子が、それをさせないように誘導していたのかもしれないけれど――終わっていた。それを、啓一郎にとって、自分と呼びたくないものになるだろう結果が、本当にクリア望んだ出口と呼べるかは別であるが――

(人によるが、ここはクソゲの中では簡単な部類だったのかもな――)

 そんなことも思う。
 無論そんなことはないし、現実逃避に過ぎない。
 そもそも、適応能力と相応の精神強度、身体操作能力が高くなければ最初で詰む場所だ。精神がなければ途中の恨みをぶつけれられた時点でそちらが潰れる。
 わかっている。逃避だ。逃避でしかない。

 小瓶の中身とその利用法を導き出してしまった。だから逃避だ。
 それを理解できないほど掌握出来てなくはなく、頭が回らないわけでもなかったからこそ。
 選べる選択肢が増えたことをもう理解してしまったからこそ、逃避しているだけだ。

(あぁ、どうして――どうして、関われるようになったのに。中心で、俺は俺として選ぶことができるのに――こんなにも、苦しいんだろうか。関わることができるからこそ、なのだろうか……どっちが良かったんだろう。関われないで終わる事と、こうして関わってせめて選べる……こんな二択を選ばねばならないことと……)

 それは本来なら、別の2択。
 彼でなければ、鬼に耐えきり己のうちにすることはできなかった。

 だから、この2択は、鬼に染まりきり、己でなくなるか。
 鬼という人外に成り果てながらも打倒し、人の意識を持ち続けているが実際は歪み続けるままの支配者となるのか。
 同じように見えるが、その実大きく運用が変わる2択でもある。そうならず小瓶も使えず打倒もできず、ダンジョンで鬼の業に飲まれるままの一部で終わるなりのクリア以外の選択はもちろんあるが、自ら選べる支配者になり掌握する道としてはその2択だったのだ。

 そうなるはずだったのだろう。
 しかし、2択は変わった。

 もう、鬼になり切ることはできないのだから。そして、新しい選択肢を選べるともわかってしまったから。だから、選択肢は変わってしまったのだ。
 選ばねばならない。
 喚く天秤を外に追いやり、ただ目をつぶる。

 鬼として、支配者となるのか。
 小瓶を自分に使って――人になるのか。人になり、そのまま人として鬼を掌握することで終わらせるのか。

(人になるという事は)

 ここで人になるという選択は、鬼からの完全なる別離を意味しない。消し飛ばすことなどできない。
 ただそれは、力だけがそこに残るのだ、ということ。つまり――鬼になった素体は、そうではなくなる。
 鬼というエネルギーを、しるしのように持って。人でありながら鬼の因子を漂わせ、便利使いできる存在となるのだろう。虎視眈々と、鬼に落ちるのを力事態に狙われながらも。
 そして、素体がそうでなくなれば、鬼として棟梁のように座することはできない。
 力の全てを1つとして支配するのだから――そうなれば、全てのここにいる鬼はそうでなくなる。支配下にあるのは、鬼という力そのものだけになる。
 では、ここにいる鬼というものになっている生き物全ては?
 それ以外は――おそらく消えていくのだと啓一郎にはわかる。元々の死者として終わっていってしまうのだろうと。
 つまり、別離だ。鬼と、ではなく、そのほかの全てとの。

(共に、いられなくなるということ)

 鬼になる決断をすればどうだろうか。
 それは、天秤もろとも共にいることになる――いつか、終わる日まで。
 ――終わるだろうか? そう簡単に、終われるただ死ねるのだろうか。
 鬼となってしまったら。

 一部でしかない。もしかしたら、鬼になれば本体とも呼ばれる大きさの鬼に合流したがることもあるかもしれない。
 そうなればどうなるだろう。

(終わりは、いつ終わるのだろう。
いつの日にか終わるとして、それはきっと人のスケールではない)

 長きにわたる、闘争と破壊。
 感染と拡大の日々になるのだろう。
 天秤はもとより、人になったからこそ思う。

 ここにいるのは、被害者ばかりなのだ。啓一郎自身や、家族を含めて。

 思い出が巡る。
 喜びがあった。悲しみがあった。恋した日があった。愛した日があった。感動した日があった。絶望した日もあった。
 全てが消え失せて、1人になった。

 それを、取り戻せるチャンスがここにある。
 犠牲者たちの一部からも声がする。

 殺させろ。

 という声が。
 それに、そうしてやりたいと思う気持ちも否定できなかった。啓一郎自身、復讐を一応なり果たせた身だ。終わったからといってそれを否定しない。復讐はいい。それはいいのだ。己を納得させるために行うそれを、啓一郎は決して否定しない。

 だが、どうだろうか。
 鬼という性質上、その魂は解放されない。
 いつまでもいつまでも、己の支配下で回り続ける。
 それは、復讐に終わりがないことを意味するのだ。一度殺した、殺されたで解放されない。囚われ続ける。侵され続ける。
 己も、支配下の者も、いつかは一かけらの人間性さえ失ってしまって、ただの鬼という塊になり果ててしまう。
 解放されないのだ。
 それは1つの答えであって、確かに楽になれる瞬間で手段かもしれない。
 しかし、あまりにも救われなさすぎるとも考えてしまうのだ。
 そうすることで、復讐する相手それ自体の魂とさらに混ざり合ってしまう結果になるという皮肉もある。

 だから、偽善なのだとわかっていても。
 共に混ざるなどごめんだという思いも強くあって。それは支配下の多くも同じで。

「へへ、へへへへへ!」

 蹴り殺したくなる。
 へらへらとしたその勝ち誇った顔面を、打ち抜いて砕きたくなる。
 必死に耐えるしかなかった。決断できない己では、沸騰した頭を押さえつけるしかなかった。

「早く決断しろよぉ。なぁ、どうすんだ? っつって、どうしようもないよな。早くしろよ、一緒に楽しもうぜ、なぁ……またまた遊んでやっからよ、お前の奥さんとも、ガキとも、オトモダチともよぉ……」

 いたくないわけじゃない。そんなわけはないのだ。
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