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ビタミンZ

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第一章 「始まりの日」

医者

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フロイント孤児院から離れた場所にある、木々が生い茂る中に建てられた小さな建物。

一見すると物置にさえ見えるそれは、セドニアに唯一存在する診療所であった。

そんな診療所のドアが、コンコンと規則的にノックされる。


「入るぞ」


重い音を立てながらドアを開けるのは、リンクスだった。

診療所の中を進み、助手も患者もいない診察室に足を踏み入れたリンクスを、椅子にもたれたままマグカップを口に運び、穏やかに笑みを浮かべる一人の男が迎え入れた。


「暇そうだな、イライジャ」


「ご覧の通りですよ。まあ、患者がいないというのは、それだけ平和ということです」


眼鏡を掛け、黒く伸びた前髪を左右に分け、白衣に身を包むイライジャ・アルネルという名の男は、この診療所の主だった。

ははは、とまるで他人事のように笑い、換気の為に開けた窓から差し込む西日に照らされながら、ゆっくりとマグカップに淹れられたコーヒーを飲む姿は、知的で余裕と寛大さを感じさせる。

いつも暇な時は、こうしてコーヒーを飲んだり、また読書をしたり草木を観察したりと、自由奔放な立ち振る舞いをしているが、医者としての腕は確かであり、セドニアの人々は何かあれば必ずこの診療所を訪ねていた。

リンクスはイライジャの前に置かれた椅子に腰掛けるも、バネが弱っているのか、その椅子はキィッと悲鳴を上げる。

もう少し設備を整えた方が良いのではと思うのはいつものことで、特にリンクスは気にした様子を見せなかった。


「それで、今日はどうしたんですか?見たところ、患者という様子ではないようですが?」


まだ湯気が立つコーヒーを慎重に飲みながら、イライジャはリンクスの身体を一瞥する。

目立った外傷は見当たらず、また部屋に入ってくる際の足取りも特に変化は見受けられない。

誰も来なくて暇であり、そんな時にようやく医者らしい仕事ができるかもと少し期待したイライジャだったが、どうやら期待外れのようだった。


「実は、お前に聞きたいことがあってな」


「聞きたいこと、とは?」


コーヒーから沸き立つ湯気によって曇った眼鏡を、もう片方の手で外しながらイライジャは聞き返す。


「世界の情勢はどうなっている?」


その一言は、今までどちらかといえばコーヒーの方に向けられていたイライジャの視線を、リンクスにはっきりと向けさせる。

見ると、リンクスはまっすぐとイライジャを見据えていた。

そしてその表情は、いつものリンクスのそれとは違う、やや切羽詰ったかのような余裕が見受けられないものでもあった。

イライジャはゆっくりとマグカップを机の上に置き、足を組んでリンクスの話を聞き入れる姿勢を見せる。

この時もイライジャの椅子が小さく悲鳴を上げ、一瞬の静寂の中でその音が不穏さを醸し出していた。


「何故ですか?それは、半月程前に教えたと思いますが」


「確かに聞いた。だが、それから何か変化があったかと聞いているんだ」


「…貴方の嗅覚…いえ、直感といった方が正しいのか…。それとも、まさか「共鳴」しているとでも?」


「いや…それはまだ感じていない。だが、何となく胸騒ぎがしたものでな」


今までの穏やかなイライジャの表情は潜まり、神妙なものへと変わっていた。

リンクスの身体を上から下まで眺めた後、イライジャは小さく溜め息を吐く。


「最初に言っておきましょう。まず、「彼ら」の動向については、特に何か聞いているわけではありません」


「…だろうな。「奴ら」については、お前よりも俺の方が察知できることが重々承知している」


「いくら貴方の力が弱まっていると言えども、「共鳴」しないわけではありませんから、それは貴方が一番分かっているはずです。しかし…」


「しかし?」


リンクスは聞き返す。

イライジャはすぐに答えず、腕を組むと僅かな間沈黙したが、すぐに口を開いて話を続けた。


「…レギオンの中で、表立ってではありませんが動きがあるようです。レギオンが擁する「剣王」を含めた特務部隊が編成された、という噂を耳にしました」


「剣王…。まさか、その称号を継ぐ者が現れたと?」


剣王という称号は、一子相伝の剣術を極めた者に贈られる称号だった。

一時代ごとに現れ、世界が混沌に陥った時、その力を以って混沌を払い、制圧する者。

剣術に於いて右に出る者はいないとさえ言われ、最強を体現するその称号は役目を終えた時に新たな時代に生きる者へと継承される。

しかし、その称号を継ぐ者は今は既に存在しないと言われており、伝説に近いものとされ、半ば崇高や象徴に近い形として現在は受け継がれていた。


「歴代最年少の剣王という話もあります。それがレギオンの、ニブルヘイムにとってのプロパガンダなのかも知れませんが、今まで空位だったその称号を継ぐ者が現れたというのは少なくとも事実なようです。そして、このタイミングでその者を含めた特務部隊の編成…。何かニブルヘイムが掴んだと考えるのが妥当かも知れません。まあ、あくまで憶測ですが」


「…確かに、不自然ではあるな。何故、今なのか…」


動乱の世でない今、剣王のような称号を持つ者など必要ないはずである。

しかし、何故そのような動きをレギオンがするのかは、確かに不可解であり、不自然だった。


「まさか、レギオンの連中は「奴ら」の存在に気付いたのか?」


「先程も言った通り、表立った動向があるわけではありません。しかし、ニブルヘイムのことです。何か気付いたとしても不思議ではないかと思います」


「…そうだな」


それを聞いたリンクスは、溜め息を吐くと共に項垂れる。

絶望を抱いたわけではないが、やはり希望が生まれてくるものではない。

せめて杞憂であればとも思ったが、胸の中に渦巻く不安は消えるどころか、より濃いものへと変わっていた。

それを感じていたイライジャは、再びマグカップを手に取ると、すっかり冷めたコーヒーを再び口にした。


「…カイトは、何か言っていたのですか?」


「…いや、何も…。ただ、あいつの中に、確かにあいつの父親がいるんだと、改めて分かった…。それはあいつも気付いていないが、俺には確かに感じたんだ…」


「世の中には、知らない方が幸せなことがある。しかし、逆もまた然りです。彼にとって、それはどちらなのでしょうね」


「どちらにしても、全てを知れば、あいつは俺を恨むだろうさ。教えないことも簡単だが、しかし何かの拍子で知った時、それはきっと…」


「彼に伝える時は、きっとそれは、貴方が託されたものを託す時ですよ。貴方がそうであったように」


その一言が、リンクスの胸に突き刺さる。

項垂れたままのリンクスは、両手をもみ合わせる。

その行為は不安の表れだと言われているが、まさにそうであり、いつもの明るい笑顔は消え去っていた。

コーヒーを飲み終えたイライジャは、ゆっくりとマグカップを机の上に置き、窓の外を眺める。

リンクスが訪ねてきた時には明るかった空も、徐々に赤みを帯びており、また陽も傾きかけていた。


「…逃げているんだ、俺は…。ずっと、過去から…そして、現実から…」


「正当化したり庇うわけではありませんが、誰にだって逃げたくなる時はあります。特に、それが重いものを背負った私や貴方の場合はね。でも、その時が来たら、それはきっと、逃げ出してはならないのでしょう」


「……………」


「このまま、何も起きなければいいと思うのですが…それは、「神様」のみぞ知るってやつですかね。職業柄、それに縋っても悉く裏切られてきた存在ですから、信じたくはないですけど」


「…俺達、ヴァナヘイムには住めないな」


「それどころか、迫害されてしまいますよ」


そのやり取りをしたリンクスは、小さく笑う。

それが、この日この場所で、唯一リンクスが見せた力なき笑いだった。

それは、ただ自棄にならないよう自分が見せる最大限の抵抗か、それともイライジャに合わせたものだったのか。

イライジャには分からないまま、この日を終えることになった。


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