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第二章

29. 出会い

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 ずっと、不思議だった。

 容姿端麗で、お金持ちで、優しい、絵に描いたような理想の早川王子様
 漫画の仕事が不調だったとしても、こんな俺みたいな子供を恋人に選ぶのか。
 きっと、それは否だ。
 もしかしたら、ちょっと物珍しい出会いをしたから、漫画のネタとして優しくしてくれたのかもしれない。
 実際、彼が連載を始めるという作品を見せてくれないのが何よりの証拠だ。
 俺との生活を面白おかしくネタにして、漫画にして、それでー……

「そんな人、だった……?」

 違う、といつかの夕焼けに染まる自分が叫んでいる。
 あの日、あの瞬間の彼が発した言葉の一つ一つは、ただ真っ直ぐだった。
 だからこそ、俺は全てを彼に委ねてもいいと思えたんだ。

 でも……、ともう一人の自分が囁く。


 じゃあ、昨夜の彼は、何者?


 纏まらない思考がとりとめもなく、頭を支配してゆく。
 カラン……、とグラスの中で溶け出した氷が音を立てて崩れた。
 ハッとして視線を向ければ、席に座る前に注文した飲み物が、一口も飲まれないまま結露していた。
 いかにも甘ったるそうなアイスココア。
 いつもの癖で間違えて注文してしまったことに気がついても、もう遅い。
 彼は、ここにいないのだから。

 そっとストローに噛み付けば、見た目通りの甘ったるい風味が口いっぱいに広がった。

「…………あま」

 甘い。
 甘い筈なのに、どことなく後味の苦味を感じて思わず眉間に皺が寄る。


『頭を使うから万年糖分不足なんだよ』


 ……なんて、そんなことを言いながら微笑むミルクティー色は目の前にいない。
 その事実に、鼻の奥がツンとする。
(珈琲にすればよかった……)
 俺は、ストローを咥えていた唇をストローごと強く噛み締めた。
(好きにならなければ良かった……)
 そうして力を入れていないと、すぐに目頭に熱が溜まりそうだったのだ。
(出会わなければ……)
 こんなココアなんてすぐにでも片付けたいのに、潰れたストローでは上手く飲めない。
 とうとう焦れた俺はストローから口を離し、グラスを掴んで意気込む。

「こんなのっ、一気飲みしてやる!」

 ぎゅっと目を瞑り、その勢いのままグラスを煽った時だった。


 コンコン……


 突然、窓がノックされる音がした。
 驚いて目を開いた俺は、固まる。

 窓の向こうには、人が立っていた。

 その人も同じく目を丸くして、固まる俺を驚いたように見つめている。
 沈黙のまま、数秒後。
 その人は、突然ニッコリと微笑んだ。
 放心状態の俺を他所に、軽快なドアベル と共にカフェの中へと入ってくる。


 そして、とうとう俺の目の前までやって来た。


「やっぱり、噂のあおくんじゃない」 


 艶やかな黒髪が、さらりと靡く。
 白いブラウスの上からでも分かる豊満な胸に視線がいけば、大きな瞳を細めて笑う。


 それは、いま最も会いたくない人物。


 彼女から漂う薔薇の香りが、そう俺に告げていた。
 

「……芦名、さん?」


 その名を呼ぶと、赤い口紅がひかれた唇が綺麗な弧を描いたのだった。
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