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第二章

28. 想い

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 意を決して扉をくぐれば、本の香りに包まれる。
 胸いっぱいにその香りを吸い込めば、少し心が落ち着いた気がした。
 心地よさにほっと息をつきながら、本棚の間を適当に練り歩く。

 けれど、やっぱり辿り着いてしまうのはBL漫画のコーナーだった。

「いやいや! この前買った漫画の続きが読みたいだけだし……? あ、これ早川さんが気になるって言ってた新刊だ……じゃなくて! 俺が欲しいだけだし……!」

 空元気に自分で突っ込んでみても、どうしようもなく自分の行動が馬鹿らしい。
 頭の片隅でチラつくヘーゼル色を掻き消す。
 いつまでもうだうだと棚の前で悶絶している間に、奇遇にも以前BL漫画を紹介してくれた店員さんに再開した。
 そしてなぜか勢いのまま、再びオススメを聞く流れになってしまった。

「これ読みました? 最高におすすめです」
「じゃあ買ってみようかな。前にお薦めしてもらったのもめっちゃ面白かったっす!」

 そう答えると、店員の女の子は照れたように頬をかいたあと言った。

「あ、好きな作家さんとかいます?」
「それはもちろん、早川ゆう……っ」

 思わず自分の口を手で抑える。
 しかし、彼女には伝わってしまったようだった。

「あ! 早川悠介ですよね!? 新連載でBL初挑戦するって話題になってる!」
 その言葉に、頭が真っ白になる。
「今月の月刊誌で次号から連載が始まるって予告が載ってたから、今までの作品も売れ行きが良くって。ちょうど、昨日特設コーナー作ったんですよ」
 ほら……と連れてこられたコーナーでは、彼の今までの作品がズラリと並んでいた。
 その一番端に、懐かしい作品を見つけて一冊手に取る。

「あ、そのデビュー作も少し前にコミカライズ化されたんですよ。名前が違うから、私は知らなかったんですけど」
「……うん。俺も、知らない」

 何も知らない。
 その言葉は、俺の胸にストンと落ちた。

 何も知らされてない。
 何も教えてもらえない。

 彼の素性も、……仕事のことすら。

 俺はその本を手にしたまま、ただ立ちすくむことしかできなかった。


 隣接されたブックカフェの窓際の席に、一人座る。
 手元には、先程読み終えたばかりのデビュー作のコミックがあった。
 最後のページで、手が止まる。
 そこには拙いデビュー作を読んでくれた読者へのお礼が直筆で書いてあった。

 その中の一文を、もう一度読み返す。

【このペンネームは、自分と大切なパートナーの本名を合わせただけの安直なものです。でも、とても思い入れのある名前なので、そのまま使わせてもらいました。】

 そっと本を閉じて、表紙を見る。
 そこにはー……、


芦川あしかわ 悠月ゆづき


 小さくその名を呟けば、視界の端でもう一度着信を告げる音鳴り響く。
 とうとう観念して、俺は通話ボタンをタップした。

『ごめん』

 耳元に聞こえたのは、いつもの彼の声だった。

「ごめんって、何に対する謝罪?」

 俺の口から飛び出したのは、そんな台詞だった。電話の向こうの戸惑うような沈黙に、尚更胸が傷みだす。
 けれど、俺は止まれなかった。

「そもそも昨日の祭りで、俺をおいて帰ってこなかったのは早川さんだろ?」
『……っ、そうだね。でも……』
「俺は、もう早川さんがわからない」
『どうしてっ、昨日のことなら謝るから! だから……』
「俺が変なのは祥吾のせい? ふざけんなよ。変なのはアンタだろ。なんで……」

 違う。
 こんな聞き方をしたかった訳じゃない。
「なんで……っ!」
 理性はそう叫ぶのに、ずっと、胸の奥にあった想いが溢れるのを抑えられない。


「なんでっ……、俺のこと"好き"って言ってくれねぇの…………?」


 電話の向こうで息を呑む音がした。
「嫌い、もう……、嫌いだ。早川さんも、煙草も、みんな……」
 引き止めるような声が聞こえたが、返事なんてせずに通話を切る。
 そのまま、電源も落とした。
 購入した漫画を紙袋へ乱暴に戻し、その名前から視線を逸らした。
「芦川……芦川……」
 何度も、何度も、その名の咀嚼を繰り返しながら零れたのはー…………


「芦名と、早川……」


 大粒の涙と、後悔と、
 たった一つの真実だった。
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